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ハンス 〜存在しなかったA.I.ストーリー〜  作者: わだだわ


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15/22

15 嘴打ち

「おー!」とうれしそうな声をあげるリョウコおばさんの肩越しに覗き込むと、一部が割れかかった卵が見えた。大きさはニワトリの卵より少し大きいくらい。おばさんは手袋をはめた手で、その卵を愛おしそうに包んでいた。

「おばさん、それは?」

「これはね、ひと月ほど前に産まれたフンボルトペンギンの卵。さっきヨウちゃんがいってたでしょ。いま孵化しかかってるのよ」

「フンボルトの(はし)……、なんとかってやつ?」

「そう、嘴打(はしう)ちね。雛が卵から(かえ)ろうとして、内側から(くちばし)で殻をつついてるの」

 そういわれて見てみると、卵の殻の割れた部分からなにやら黒く濡れた毛糸玉のようなものが覗いている。

「ペンギンの卵って、みんなこうやって人が孵化させるの?」

「親鳥によるかな。抱卵に慣れてる親鳥だとある程度ほっといても大丈夫なんだけど、今回は不慣れな上に不器用なペアでね。そういう子たちは卵を潰しちゃったり、孵化しても上手に育てられなかったりするのよ。だから人間がある程度の大きさになるまで雛を育てて、そのあと親に返すわけ」

 おばさんは卵をそっとケースに戻すと、立ち上がって伸びをした。

「で、みんな、こちらはミサキちゃん。わたしの姪にして、高校生で引き籠も……」

「おばさん!」

 ほんとに、その紹介の仕方はやめてほしい。

 部屋にいる職員さんたちにあらためて挨拶をして見まわすと、机の上にはペンギンのかぶり物があった。

 ペンギンのかぶり物?

「おばさん、あれ……」

 わたしはペンギンのかぶり物を指さした。

 おばさんは海洋生物全般が好きだ。サメも好きなら、ウミウシも好き。中でもペンギンは大好きだ。以前、理由を聞いたら「常に中腰な姿勢」といっていた。

 わたしが、わけがわからないという顔をしていたら、あとから写真ではなく本物の骨格標本を持って来て見せてくれた。

 その姿はあまりに衝撃的で、いまでもはっきり覚えてる。確かにペンギンの骨格は中腰の姿勢をしていて、「飛ぶのをやめただけならまだしも、どうしてこんな姿勢に進化してしまったのだろう」と不思議に思ったものだった。

 でもそれ以上に衝撃的だったのは、おばさんがその標本を「私物」といっていたことだった。ギョッとするわたしにおばさんは、「骨格標本持ってるのくらい、普通じゃない?」といっていたけれど、もちろん普通じゃない。普通の家のリビングには花瓶の横にペンギンの骨格標本なんて飾られていない。

 そんなおばさんだから、とうとう自らがペンギンになろうとしているのではないかと思った。これをかぶればわたしもペンギンに……、なんて思っているのではなかろうかと。

「これはね、初期飼育用のダミーヘッドよ」

 かぶり物を手に取りながら、おばさんはいった。

「ダミーヘッド?」

「うん。鳥ってね、生まれて初めて見た動くものを親だと思う習性があるの。だから最初に人間を見せちゃうと、人間を親だと思い込んじゃうのよ」

 聞いたことがある。アヒルとか、カモとかの雛が親だと思い込んだ人間のあとをずっとついて歩いていく映像も見たことがある。ペンギンもそうだったんだ。

「だから親に返すまでのあいだ、人間の顔を隠して世話をするわけ。そのための手袋もあるのよ」

 おばさんは机の上から一対の手袋を取り上げた。その手袋は指の部分が嘴の柄になっていて、親指と人さし指のあいだには目も描いてあった。

「刷り込みと呼ばれる現象です」

 唐突にハンスがいった。

「イギリスの生物学者、ダグラス・スポルティングが発見したものです」

 室内にいる職員さんたちみんなが、不思議そうな顔をしていた。

 それはそうだ。わたしのいる方から、あきらかにわたしではない声が聞こえたのだから。

「驚かせてすみません。わたしはハンスです」

 みんなが怪訝な目でわたしを見る。

「ああ、ごめん、紹介してなかった。この子はハンス。ミサキと一緒に行動してるアシスタントAIみたいな感じ?まあ、ソメンヤドカリとベニヒモイソギンチャクみたいな」

 最後のたとえで、みんな「ああ」と納得していたけど、わたしにはさっぱりわからなかった。ていうか、そのたとえでわかる人いるの?

「刷り込み発見したのって、ローレンツじゃないの?」と職員さんの一人がいった。

「ダグラス・スポルティングが最初に発見し、ドイツの生物学者オスカル・ハインロートが再発見しました。オーストリアの動物行動学者、コンラート・ツァハリアス・ローレンツはハインロートの教え子で、彼は刷り込み現象を詳細に研究し、一般に向けて本を出版しました。このことから、ローレンツが刷り込み現象の発見者とよく誤解されます」

 職員さんたちからいっせいに「ほおお」という声があがった。

「オレ、小学生の頃にニワトリの雛に刷り込みしようとして失敗したなあ。孵化した瞬間から見てたのに」

 部屋にいる中でもとりわけ若そうな職員さんがいった。

 するとハンスは躊躇することもなく応じた。

「ニワトリの雛は孵化してから目が見えるようになるまで三時間かかります。その後四十時間ほどで刷り込みが完成します。それまでのあいだに継続的な接触をしていなかったのではないでしょうか」

「ああ、それだ。すぐに飽きて遊びに行っちゃったもんな」

「わたし、それウズラでやったわ。スーパーで買ってきた卵あっためてさ。あれってけっこう有精卵混じってるのよね」

 また別の若い職員さんがいった。他の職員さんも、「やった、やった」とうなずいている。え、そんなにみんなやるものなの?

「で、刷り込みは成功したんだけど、何日かしたら妹にくっついて行くようになっちゃったのよ。幼心にショックだったわ」

「それは、あなたと妹さんが何才のときですか?」

「えっと、わたしが小学校の低学年のときだったから、妹は幼稚園に行くか行かないかの頃じゃないかな。四才とか?」

「鳥類の刷り込みは上書き可能です。最初の刷り込み直後であれば、より積極的なコミュニケーションを取る相手を新たに親として認識します」

「なにあの子!わたしなんにもしてない、鳥さんが勝手についてきた、とかいってたくせに!」

 ハンスがこんな調子でしゃべるものだから、わたしはあっという間に職員さんたちに取り囲まれてしまった。しかも声はハンスのスピーカーから、つまりわたしの身体から出てるから、みんながみんなこっちを見てる。

 自分の方を向いた人たちが、自分でない存在と会話しているというのは、どうにも居心地が悪かった。

 だけどちょっとだけ、誇らしくもあった。

 だっていまのハンスは、うちに来たばかりの頃とはあきらかに違う。こんなに自然にたくさんの人と会話できるようになっている。

 ハンスは成長してるんだ。

 そしてここでの会話や経験も、ハンスをさらに成長させるのだろう。

「あんたたちさ」とおばさんが苦笑いしながらいった。「大学でなに学んできたわけ?」

 危険を察知した職員さんたちは、次々と仕事を思い出し、部屋から消えていった。

「まったくもう」

 おばさんは腰に手を当て、鼻を鳴らした。

「飼育員さんて、いろんなことやってるんだね」

 わたしはペンギンのかぶり物をもてあそびながらいった。

「そうよ。ミサキちゃんもかぶりたい?」

 いや、そういうことじゃないです。

「ううん、遠慮しとく。それよりさっきのヤドカリとイソギンチャクの話ってなに?」

 断っても無理矢理かぶせられそうだったので、わたしは慌てて話題を変えた。

「ソメンヤドカリとベニヒモイソギンチャクの話?ヤドカリの中にはね、自分の貝殻にイソギンチャクを乗っけてるのがいるのよ」

「なんでそんなことするの?重くない?」

「イソギンチャクはね、敵に襲われると槍糸(そうし)っていう糸を出して身を守るの。ヤドカリはイソギンチャクを背中に乗せて、自分も守ってもらってるのね。イソギンチャクはお返しにヤドカリのご飯のおこぼれをもらうの。共生関係っていうのよ、相利共生」

「へえぇ、糸なんかで身を守れるんだ」

「まあ、その糸からは無数の毒針が出て絡みついた相手に突き刺さるんだけどね」

 おばさん、ニヤッとしていうことじゃないと思うんだけど。

 わたしとハンスも相利共生か。

 わたしはハンスに人間の行動や反応を学習する機会を提供し、ハンスはわたしに行動の自由を提供する。そう考えると、ハンスがヤドカリで、わたしがイソギンチャクかな。

 でも、と思った。ハンスがわたしにくれたのは行動の自由だけじゃない。

 閉じ籠もっていたわたしを、ふたたび外の世界に連れ出してくれた。その意味では、新しい世界をくれたといってもいい。

 わたしはハンスに、同じくらい広い世界を見せてあげられているだろうか。体験や情報という広い世界を。

「ねえ、おばさん」

「なあに?ヤドカリとイソギンチャクのこと、もっと知りたい?キンカライソギンチャクはもっとおもしろいよ」

「そうじゃなくて、さっきのペンギンの卵、あれだけ雛が見えてるんだったらもう残りの殻を割ってあげてもいいんじゃないの?」

「ああ、あれね」

 さっき卵を戻したケースの方を振り向きながら、おばさんはいった。

「できるだけ自分で殻を割らせないとダメなのよ」

「どうして?」

「鳥の雛はね、殻を割り始めてもまだ卵の中の栄養を吸収してるの。だから慌てて殻から出したりすると、栄養を吸収しきらずに、身体が十分に発育しないまま生まれてきちゃったりするのよ。そうなると大人になれずに死んでしまうことも多いわ。だからできるだけ、殻は自分で割らせないといけないのよ」

 そういうおばさんの横顔がやけに神妙に見えて、いつまでもわたしの心に残り続けた。

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