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ハンス 〜存在しなかったA.I.ストーリー〜  作者: わだだわ


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14 リョウコおばさん

《つまりミサキちゃんは暇なのね?》

 ようやく筋肉痛から回復した頃、リョウコおばさんからのメッセージが届いた。

 運動はハンスにしてもらってるのに筋肉痛?わたしだってそう思った。だけど実際に筋肉痛になった。それもかなり重度の。

 わたしはハンスのコントロールに身体の重心移動を使う。そしてもちろんバランスを取るのにも。つまり腰から上、主に腹筋と背筋を常に使い続けることになる。

 立って歩ける人は普通にやっていることだけど、わたしにとってはほとんど初体験だ。さらにいきなりあんな山道に挑んでしまったのだ。これで筋肉痛にならない方がおかしい。

 とはいえ、こんなにひどい筋肉痛にならなくてもいいんじゃないかな?動かないはずの足まで筋肉痛になってる気がした。

「ふっ、く……」

 ベッドから起き上がるのにも、いや、それどころか寝返りを打つのにさえ苦悶の声が漏れる。登山の翌日から数日間は、ハンスを身に着けるのは筋肉痛との戦いだった。ハンスがこれを正常な人間のふるまいだと学習してしまったらどうしよう。

 リョウコおばさんからのメッセージが届いたのは、ようやく筋肉痛が風邪の引き始めくらいの軽さになり、椅子に座ろうとするたびにお父さんの失笑を買わなくなった頃だった。

《暇ならさ、水族館来ない?平日の昼はお客さんいないからガラ空きよ》 

 それから一週間ほど経って、おばさんの車がうちにやって来た。

 リョウコおばさんは父さんの姉で、エネルギーの塊みたいな人だ。ポンポン跳ねまわっていつでもなにかやっている。いま勤めている水族館だって、有り余るエネルギーがもとで就職してしまったようなものだ。

 学生時代、サーフィンをしていたおばさんは「サーフィンのメッカだから」という理由だけでハワイ大学に留学し、暇潰しにワイキキの端っこにある水族館を訪れ、すっかり海洋生物のとりこになって、滞在中のほとんどをその水族館に入り浸って過ごした。

 毎日やって来るその学生をおもしろく思った職員がリョウコおばさんをアルバイトに採用し、帰国する頃にはおばさんはすっかり水族館運営のノウハウを身に着けていた。

 そして日本で獣医学部に入り直して水族館職員になってしまった。

「順番としては逆だよね」

 おばさんが教えてくれたことがある。

「帰って来る頃には水族館の仕事だいたい覚えてたからさ、資格取るために大学入り直したようなものなのよ。しかもさ、別に水族館の飼育員になるのに獣医の資格いらないって、就職活動始めてから知ったよね。笑ったわー」

 そんな大ごとを「笑ったわー」ですませてしまうあたり、まったくリョウコおばさんらしい。

 そのリョウコおばさんからメッセージがあり、あっという間にリョウコおばさんはやって来て、わたしはおばさんの車に乗せられて水族館に向かっているのだった。

「つまりそのハンスを着けてると、ミサキちゃんは自由に歩きまわれるわけなのね」

「おばさん、前見て」

 エネルギーの塊なのはいいけど、おばさんの運転はせわしない。ていうか、危ない。

「大丈夫、半分自動運転だし」

 そうかも知れないけど、助手席に乗ってる身としては心臓に悪い。

「ハンスは運転できないの?」

「え?」

「だって車の自動運転とAIって似たようなものでしょ?ハンスを着けたミサキちゃんが運転席に座れば、運転できるんじゃない?」

「ハンドルを握ったり、ウィンカーを操作したりといった指先の部分の動きはサポートできませんので、運転は不可能です」

 わたしの代わりにハンスが答えた。

「そっかぁ。残念」

「でもミサキちゃんが指さえ動かせば運転できちゃうんでしょ?」

「可能です」

「やってみちゃう?」

「みちゃわない!」

 リョウコおばさん、そういうとこある。本当にわたしにやらせかねない。

「道路交通法第八十四条第一項には、『自動車及び原動機付き自転車を運転しようとする者は、公安委員会の運転免許を受けなければならない』とあります。この法令は自動運転装置搭載車にも同様に適用され、全自動運転であってもミサキはまだ自動車の運転はできません」

「はいはい、わかりました。ミサキちゃんに運転させたりしません」

 おばさんは拗ねたように唇をとがらせた。

「それにしてもすごいよね。こんなに自然に会話できるAI作っちゃうんだもん。わが弟ながらあきれるわ」

 そこは感心してあげて。

 一緒に過ごした二週間ほどの間で、ハンスの受け答えはずいぶん人間らしくなってきていた。だけどこういうところはやっぱりお堅い。人工知能なんだから、ルールを遵守するのはあたりまえなんだろうけど。

 でももし、緊急事態になったらどうするんだろう?

 たとえばリョウコおばさんが体調不良になって、車の運転ができなくなったら?そしてまわりに誰もいなかったりしたら?

 それが人里離れた場所だったとしても、「救急車を呼びましょう」とかいって、決してわたしに運転させないんだろうか?

「はい、到着」

 おばさんは職員用の駐車場に車を滑り込ませた。

「おやすみなのに、いいの?」

「職員の特権よ。なんなら社食も利用してっちゃう?」

 そう、おばさんは今日、仕事はおやすみなのだ。なのに片道一時間もかけて、わたしを隣町の自分の水族館まで連れて来てくれた。

 そして通用口から堂々とわたしを館内に入れてくれたのだった。

「いいの?」

「ミサキが水族館に入るには入場料を支払う必要があります」

 通用口をくぐりながら、ハンスとわたしは同時にいった。

「いいのいいの」

 手をひらひらさせながら、おばさんはまったく気にした様子もない。

 そんなおばさんだから、わたしがハンスのことをおそるおそる紹介したときも、「おもしろーい!」と目を輝かせるばかりだった。

「ミサキは職員ではなく高校生ですので、入場料を支払う必要があります」

 ふたたびハンスがいう。

「うるさいわね、ハンスは。わたしがいいっていってるんだからいいのよ」

「リョウコがいいといえばいいのですか?」

 うわ、なんだろう、この頭の悪い会話。小学生の、「先生がいいっていったらいいのかよ」的な。獣医師と人工知能の会話とは思えない。

「ハンスは融通が利かないなあ。じゃあわたしの招待客ってことならいいでしょ。実際、そのとおりなんだし」

「招待客は無料ですか?」

「あたりまえじゃない。招待しておいてお金取るバカがどこにいるのよ」

「ミサキは招待客なので、無料で水族館に入ることができます」

 ハンスはまるで自分にいいきかせるようにいった。

「ほら、これに履きかえて」

 更衣室に案内されたわたしは、白い長靴を渡された。

「これは?」

「バックヤードツアー用の長靴。バックヤードはけっこう滑るからね」

「裏から見るの?」

「そうだよ、表よりおもしろいし。ハンスにもいろんな経験させた方がいいんでしょ?」

「わたしは水族館に来るのは初めてなので、どんな経験も高い学習効果が期待されます」

「すっごく丁寧にいってるけど、どっちでもいいってことよね。なんかムカつくわ」

 おばさんはハンスのカメラを指でつついた。

 更衣室を出るとすぐに狭い通路が続いていて、壁には何本ものパイプが走っていた。通路は暗く、冷たい湿気に包まれていて、どこからか機械の作動音が低く響いていた。

「魚臭い……」

「あたりまえでしょ、水族館なんだから」

 リョウコおばさんには悪いけど、わたしはこのにおいがちょっと苦手だった。

「水族館は魚臭い」

 ハンスが独り言のようにいった。

「確認するな」

 おばさんの笑い声が通路に響いた。

 しばらく行くとホールのようになっている場所に出た。でも決して広いという感じはしない。なぜならそこには所狭しと大きな水槽が並んでいるからだ。

 水槽といってもお客さんに見せるためのものではないから、とても地味。文字どおりの水の槽だ。

「ここはね、まだこの水族館に来たばかりで環境に馴染んでいない子とか、病気の子、食欲がない子なんかが入れられてるの」

「魚の病院ってこと?」

「うーん、病院っていうか、保養所かな」

 そういわれてみると、水槽内の魚たちはみんな元気がないように見えた。

 だけど一匹だけ、小さな黄色いフグだけはやけに元気で、水槽の前を通り過ぎるわたしたちの後を泳いで追いかけてきた。

「この子は?」

 先を歩くおばさんは振り向いた。

「ああ、その子はね、いじめられてるのよ」

 ドキッとした。

 でもおばさんは、学校でなにがあったかなんて知らないはずだ。

「ミナミハコフグっていってね、本来は南の海にいるんだけど、ちっちゃいうちはわりとどこにでもいるのよ。他の子たちと同じ水槽に入れておいたんだけど、なんでか仲間に入れなくてね。ちょっとこっちに避難してるわけ」

「魚の世界にもイジメなんてあるの?」

「あるわよ、わりと普通。一匹が突っついたりすると、おもしろがって他の魚も一緒になって突っつき始めたりして。海の中なら逃げちゃえばいいんだけど、水槽の中じゃそうもいかないのよね」

「ああ……」

 魚にもそんなことがあるのか。

 水槽の中では逃げられない。閉じこめられたその空間にいる限り、どこにも逃げ場なんてない。逃げたければ、水槽の外に出るしかないんだ。

 それがどんなにこれまでとは違う環境であろうと。それがどんなに孤独であろうと。

「でもたいていはしばらく別にしておくと、なにもなかったように戻れたりするんだけどね」

「そうなんだ……」

 ミナミハコフグは小さなヒレを忙しく動かして、水槽のガラスをなぞるわたしの指を追いかけた。その様子はエサを欲しがっているようでもあり、遊び仲間を欲しがっているようでもあった。

「ミサキちゃん、こっちこっち」

 リョウコおばさんはいつの間にか細い階段を上がって、狭い足場からわたしを呼んでいた。

 階段と呼ぶにはあまりにも華奢で、金属製の梯子のようなステップをおっかなびっくり上ると、足もとには海が広がっていた。

「じゃじゃん、これがうちの水族館自慢の大水槽」

 わたしたちが乗る細い足場の下には膨大な量の水をたたえた水槽があって、その中をイワシや、エイや、ジンベイザメや、その他名前も知らない魚たちが悠々と泳いでいた。

 海だ、と直感したのは、そこを見下ろしていたからだろう。

 おばさんの勤めるこの水族館には、わたしも何度か来たことがある。だけどいつも観覧通路から見るばかりで、バックヤードに来るのは初めてだった。

 当然、この大水槽もいつも下から見上げるばかりだった。ダイビングをやっている人ならいざ知らず、海は見上げるものではなくて見下ろすものだ。だからいつもはその大水槽を海とは感じずにいたけれど、いま足もとに広がる風景は間違いなく海そのものだった。

 これは、作り物の海。

 海の一部を切り取ったものですらない。

 いかに大水槽といっても、海の大きさに比べたら、ひとすくいにもならない。

 だけどおばさんたちが、心をこめて創り上げた本物の、作り物の海だ。

 ハンスも、同じなのかな?

 ハンスも、父さんたちが必死に創り上げた人工知能だ。少なくとも、創り上げようとしている。

 まだ知性とはいえないのかも知れない。それでもハンスは、なにかになろうとしているように、わたしには思えた。

 ゆらゆらと揺れる水面を漂っていたわたしの思いは、バシャッという大きな音で現実に引き戻された。

 音のした方に目をやると、わたしたちの乗っている細い足場の向こうの方で、若い男の人がバケツから柄杓でエサを撒いているところだった。

「ヨウちゃん、おつかれさまー」

 おばさんが手を振って挨拶すると、その男の人はヒョイと頭を下げて応えた。

「ヨウちゃんはね、この大水槽の管理責任者をやってるの。若いのに優秀なのよ」

 おばさんはその人にも聞こえるように大きな声でいった。

「責任者とか、名前だけですよ。要するに雑用ですよ、雑用」

 ヨウちゃんと紹介された男の人は苦笑いしながらいった。その声は大水槽の上でよく響いた。

「ヨウちゃん、この子はわたしの姪のミサキちゃん。高校生、引き籠もり」

「ちょ……、引き籠もってないし!」

 おばさん、そういうとこ!

 実際わたしはこうして出かけてきてるし、ハンスと一緒にザビエル神社にも行ったし、家のまわりならわりと出歩いてるし!

「引き籠もりかあ、オレも高校時代、半引き籠もり状態だったなあ」

「引き籠もってません!」

 確かに引き籠もりかけたから気持ちはすごくわかるんだけど、あらためてそういわれると反論したくなってしまう。ていうか、本当に引き籠もってないし。

「あ、チーフ。フンボルトの嘴打(はしう)ち、だいぶ進んだみたいですよ」

「えっ、ほんと?見に行かなくちゃ」

 おばさんは滑るような足取りで階段を下り、通路の奥へと消えていった。

 置いてけぼりを食ったわたしはわけがわからない。

「ハンス、追いかけて」

 声をかけると、ハンスは「はい」と返事をして細い階段を下り始めた。「誰を」ともいっていないのに、追いかける相手はリョウコおばさんだとちゃんとわかってる。

 人間であればあたりまえのことだけど、人工知能がそれをするのは驚異的なことのはずだ。しかも長靴を履いているとはいえ、よく滑る通路の上。それをものともせずに早足でおばさんを追いかける。更衣室を出たばかりの頃よりも、足取りがしっかりしているんじゃないかな。

 ハンスはこれまでの経験によって、賢くなってるだけじゃない。学習する速度そのものが上がってる。

 漠然と、そんな気がした。

 ようやく追いついた部屋の中では、おばさんがすでに数人の職員さんと一緒になにかのケースの前でしゃがみ込んでいた。

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