六月七日
新橋翠。それが女の名前だった。その名前が忌々しいあまり俺は「あの女」と呼んでいる。
<ねえりゅうくん、今どこ?>
<まだ高速道路。俺の写真でも見てて待っててよ>
俺はそうメッセージを送ったあと、サービスエリアの駐車場でコーヒーを飲んでいる写真を送る。そこに写るのは水村琉一ではなく、実在しない韓国風のイケメン日本人だ。なぜ韓国風に指定したかといえば、あの女が生粋の韓国アイドルファンだからである。今の時代、存在しない写真を生成するなんてAIを使えば容易い。
サービスエリアの写真は事前に生成した画像だが、車であの女の家に向かっていることは事実だった。あの女が家に誘ってきたのだ。ちなみにあの女は既婚者だが、
<浮気なんて本能だよ笑>
と訊いてもいないのにほざいていた。根っから腐ったどうしようもない女なのがよく分かる。
あの女がメッセージで呼んでいた「りゅうくん」とは、無論、水村琉一のことではない。俺が名乗る偽名の緒方龍雅のことだ。アカウントを新たに創設したのだ。それから俺が創造した緒方龍雅像をアカウントに刷り込み、やがてあの女に近づいた。準備だけで約三ヶ月かかったが、あの女を殺せると思えば苦痛でもなかった。
アカウント偽造にAI。これらがたった一台のスマホでできる時代になってしまった。利便性を求めたがために犯罪の手口が増えてしまったのはどこか馬鹿馬鹿しく感じてしまう。
女の家は今降りたインターチェンジからすぐそこだった。しかし俺は女の家には直接行かず、その近くにある有料駐車場に駐車する。女の家にはもう一台入るほどのスペースがない。そして俺は最後の準備を進める。
まず、マスクとサングラスをつける。別に犯罪が警察に露見してもいいが、女に水村琉一だとできるだけ気づかれたくなかった。マスクとサングラスについて何か訊かれれば「日焼けしたくないし、眩しいじゃないか」とでも答えるつもりだ。
バッグには新品の包丁とライター、予備の服一式、市販の油を、頭には単純な放火殺人計画を入れて車を出る。殺すだけでも良かったが、俺は自分の手であの女の死体ごとこの世から消し去りたかった。だから放火するまでが俺の犯罪計画の一部として組み込まれている。
歩いて数分、俺は女の家に辿り着いた。何滴もの汗が体を伝わっている。緊張というよりもただ暑いだけだな、と頭で理解した。もしかしたらそう思い込みたかっただけかもしれない。
俺はインターホンを押す。ピーンポーンとこれから起こる犯罪とは真反対のような軽快な音が鳴る。
「はーい、新橋でーす」インターホンの奥から聞こえる。
俺はその声を聞いただけであの記憶を思い出した。だが、それらは今この家で散る。それを何度も唱えて気持ちを落ち着かせ、
「やあ、龍雅だよ」
と言う。
女は「ああ」とも「おお」とも書き表せないような甲高い声をあげ、部屋からバタバタと階段を降りる音が聞こえる。
そして、扉が開かれた。
新橋翠。俺を虐めてきた女は今、目の前にいる。女の顔はあれから変わっていなかった。身長が僅かに伸びている。
女は俺が水村琉一だとも知らず、怪しむどころか一刻も早く家に招き入れようとしている。
「りゅうくん、さあ早く入って。誰かに見られちゃまずいしね」
ああ、この女は愚かだ。
見るからに高価のような階段を、女の後に続いて一段一段じっくり上る。旦那のことをただのATMだとしか思っていないのだろうな。だから堂々と俺をリビングに連れてこれるのだ。
俺はソファに座ることを勧められた。それは牛革が使われたソファでやはり高価そうであった。女が不自由な生活をしていることは到底想像できない。
「コーヒー持ってきたよ」
目の前の机に二つのコップが置かれる。まさかとは思うが、女が俺の正体に気づいて毒殺しようとしている可能性も捨てきれないのでコーヒーには手をつけない。
「ねえりゅうくん、マスクとサングラス外したら?こんなときじゃ暑いでしょ」
良い機会だ。ここで正体を明かして殺すのが良い。俺はバッグを開けてからマスクとサングラスを外す。
俺は女の顔を見た。何も変装していない素顔で。
女の顔は引き攣っていた。俺は大きくにやけた。女はやっと気づいたのだ。俺が緒方龍雅ではないことに。水村琉一であることに。
「あんた...え、え...」
女は衝撃のあまり動いてない。動かれても困る俺は包丁を取り出した。
腹を刺した。
女は血を吐いた。その血が俺の服を汚す。女が前に倒れて机にぶつかり、コーヒーが血と混じる。女はうずくまる。
「じゃあな、新橋翠」俺は低い声で告げる。
女は口を開いた。その口は「う」「お」「あ」の三つの形をして、女は鬼の形相をしたまま死んだ。その言葉は「嘘だ」だったかもしれないし、「クソが」かもしれない。どっちにしろ俺には関係なかった。
殺せただけでも良かったが、まだ計画は終わっていない。俺は着ていた服と包丁を女の死体の上に置く。新品の服に着替えた俺は持参した油を死体に撒く。全ての油を撒いた後、ライターを取り出し、火を灯した。俺は数歩だけ後退り、油に火を近づける。燃え始めたことを確認した俺は、何食わぬ顔で玄関から家を出た。
捕まってもいい。実刑判決を食らってもいい。とにかく復讐が果たせたことに俺は大きな喜びを感じて、暑さなんて吹っ飛ぶほどだった。その日はずっと満面の笑みだったと思う。




