第85話 おいしいパンケーキの作り方
翌朝。
一度睡眠を挟めば大概の物事は整理がつくもので、それはヌリさんから聞いた話や自他の感情についても例外ではない。
昨日、カフェに帰った私たちは何事もなく夕飯を迎えた。けれど、サジ達に詳細な話をすることは出来なかった。私も、葵さんも、メロも、話したいことをまとめる時間が欲しかったからだ。
半美さんとシドウさんが私たちに何も聞かなかったのは、ただ単純に気を遣ってくれたからなのかもしれない。
そして今――
「……メロ、こんな感じ?」
「出来た? ……うん、見た目もいい感じ! ちょっと味見するね」
「ありがと。材料あるし、もういっこ作ってみる」
メレンゲを作るためボウルに卵白、砂糖を落としてかき混ぜる。日も高い午後のひと時、厨房に漂うバニラエッセンスの香りはひたすら甘く、鼻を撫でていく。
メロのパンケーキの作り方、教えてあげる――どういう風の吹き回しか、メロが意気揚々と持ち掛けたのは朝ご飯を食べている時だった。
幸いにも今日は午前中のみの営業だったため、午後はまるまるメロのために使うことが出来る。お客さんのいなくなったホールでは葵さんが綺麗な字の書き方をサジに教え、半美さんとシドウさんはカード遊びに興じている。
「やっぱ細いね、サジの字」葵さんが笑みをこぼしつつ、「でも原因分かった。筆圧が弱いんだ、サジ。あと持ち方」
「……小さいころ、クレヨンを何本か折ったことがあって。それが嫌でこうなったのかも」
「ふっ……なにそれ。結構わんぱくだったんだね」
葵さんがペンの持ち方から書き方までを教えるその傍らで、
「――っしゃあ!」
テーブルにカードを二枚叩きつけ、誇らしげに歓声を上げたのはシドウさんだった。
「ようやく一勝だ……! ハンミ、お前普段からこういうので遊んでんのか? さっきから俺が相手になってねぇんだが……」
「まあ生活ヤバいなって時だけやってますね。んへへ……あたし、元の世界じゃ半分働いてないんで」
「……俺にゃあマネ出来そうにねえな、そういう生き方は。次はどうする? ビスケットとクッキーでも賭けるか?」
「お、賭けっすか? いっすよぉ~、んじゃちょっと真面目にやりますかねぇ」
カードをシャッフルする小気味よい音が談笑する声に混ざり込む。その声を聞きながら泡立て器を動かすと、かき混ぜる手が少しだけ軽くなった気がした。
ほどなくしてメロからもらえた味の感想は、見た目と同じで”いい感じ”だった。
メロも食器棚からボウルを取り出して材料を入れ始める。泡立て器を動かすたび、後ろでふたつに結ばれたアッシュブロンドの髪が小さく揺れていた。
「メロ」
私は熱を通したフライパンに生地をこんもりと乗せる。柔らかな厚みが出るように、慎重に――すると熱と一緒に、バニラエッセンスの香ばしい匂いが立ち上ってきた。
「急に『パンケーキの作り方教えてあげる』って言われた時はびっくりしたけど、結構楽しいね。私はオーダーとるか、飲み物作って出すだけだから」
「えへへっ♪ でも、いつもありがと。パンケーキって作るのにちょっと時間かかっちゃうから、どうしてもその間は目が離せないんだ」
「……まあね。そこは私の頑張りどころだし」
頷きながら、私は高めの位置で結い上げた髪をもう一度結び直す。手を洗って布で拭き、いつもの癖で横髪を耳にかけ直すと、厨房に響く泡立て器を動かす音が耳を揺さぶった。
「昨日ね、寝る前にいろいろ考えてたんだ」
振り返ると同時に、手際よくメレンゲをかき混ぜるメロの姿が目に入る。
「メロもサジと一緒で、離れ離れになるのは寂しいと思う。けど……それでもやっぱり、見送りたいって思ったの」
「……メロ」
「こうやってパンケーキの作り方を教えてるのは、少しでもメロの事を覚えていて欲しかったから、なんだ。そしたらお腹が空くたび、メロの事思い出せるでしょ?」
それも昨日の夜、寝る前に考えたのだろうか。耳を傾けているだけで胸があたたかくなり、お礼を伝えたいという気持ちが心の奥底からあふれ出す。
メロ、私の為にそこまで考えてくれてありがとう。口にしようとして、ふとメロはボウルを置き、私の隣まで歩いてきた。そうしてフライ返しを手に取り、
「よっ、と」フライパンの上で焼かれていた生地を手早くひっくり返した。「えへへ。ルキ、忘れてたでしょ?」
「……ごめん。目を離しちゃダメ、だったよね?」
若干濃い焼き色がついてしまったパンケーキを見て、私とメロは笑い合う。たとえお腹が空いていない時だって、今この瞬間だけは忘れない。
互いの腕に触れるぬくもりと、熱を帯びたバニラエッセンスの香りはきっと、いつまでもずっと――
焼きあがったパンケーキにベリーソースをかけ、生クリーム、ミックスベリー、そしてカットしたイチゴを見映えよく添えれば、このカフェの人気メニューであるメロ特製のパンケーキが完成する。
人数分作り上げたそれらをみんなの前に出すと、口々にお礼の言葉と笑顔を向けられた。時刻を確認すれば、おやつにはちょうどいい時間帯。そして甘味でいっそう朗らかになった空気は、昨日できなかった話をするのに最適だった。
メロの記憶に関する事。メロと一緒に王都へ行けば、元の世界に戻る大きな手掛かりが手に入るであろう事――そして、私と葵さんが元の世界に戻ると決めた話。
シドウさんは天井を見上げ、静かに開口する。
「……寂しくなるな、そうなると。別れなんてのは、何度経験しても慣れねえもんだ」
「けど」と続けて椅子の背もたれから背を離し、
「世話んなった礼だ。見届けてやるよ、最後までな」
透き通った灰色の瞳が私と葵さんを交互に見やる。対等なまなざしだった。大人だからでも、その立場や責任からくるものでもない。一人の人間として私たちを見てくれている、まっすぐな視線だった。
「あたしは見届けるっていうか、まあついてっちゃうんだけど」
シドウさんにお礼を言うと、頬杖をついたまま半美さんが呟く。同時に半美さんにまつわる、一つの事柄が脳裏をよぎった。
「半美さんは……」
「っひひ。気にしないで、瑠稀ちゃん」カップに注いでいたカフェオレを飲み干し、「このままでいいんだ、あたしは。元の世界もこっちの世界も、両方楽しんでやるって決めたもんだからさ」
半美さんはこの中で唯一、元の世界と異世界とを不自由に行き来できる人間だ。最近は唐突な転移が起こらないから忘れかけていたものの、決して軽視できる事実ではない。
半美さんの友人がその身を犠牲にし、元の世界まで半美さんを転移させた――その経緯を鑑みればなおさら、けれど、
「いちばん近いところで見守るよ。そんで、手が届くうちは必ず守り抜く。言っちゃえばあたしは、この中で唯一の”経験者”なワケだしね! っはは!」
けれど、その瞳に曇りはない。
頼もしい言葉が、吹き抜ける春風のようにからりとした笑みが。前へ進もうとする私たちを勇気づけてくれる。随分と前にお墓で見たものと変わらない、芯の強さを感じさせる笑顔だった。みんなの気持ちが、これで固まった。
「決まったね。これからどうするのか、何をするべきなのかも」
「……そうですね」
髪を結い上げていたシュシュをほどくと、なめらかに滑り落ちた黒髪が肩と背中を撫でていく。同時に感じた、腕に抱き着かれるあたたかな感触。視界の端に映った鮮やかな金髪が、その主がメロである事を教えてくれる。
「メロもルキみたいにしてみよっかな?」水色の瞳が上目遣いに私の顔を覗き込んで、「ツヤツヤサラサラの、ロングの髪に!」
「……ふふっ。そしたらお揃いだね、私たち。きっとシオンさんもびっくりする」
こんな他愛ない会話をあと何回出来るんだろう。胸に去来した寂しさが、普段なら考えないような事まで運んでくる。
それでも私の、私たちの道はまっすぐに伸びている。
窓から注ぐ木漏れ日のような陽射しが、ただこの瞬間を照らし続けていた。




