水面の色
買い物の帰り道だろうか。夕焼けを前に片手に手提げ袋を提げた母親と少女が、仲良さげに手を繋いで歩いている。
「ねえお母さん。あれは何色?」
少女が夕焼けを無邪気に指さす。そして隣にいる母親に向けて首を傾げた。
「え?ただの赤色よ」
母親は夕焼けを仰ぎ見て、さも当然といった声を出す。
「違うの。赤じゃなくって」
少女はそれが気に食わなかった。何せ彼女の言う色は、赤とはてんで違う色なのだから。
「そうねえ、確かにちょっと赤よりも橙色って言ったほうがいいかしら」
母親は少女をみて、微笑みながらそう告げる。少女は一切納得できなかったが、それでももう何も言わなかった。頬をリスのように膨れさせて、ぷいっと横を向く。
しかし彼女は理解した。あの色は母親にとって橙色に見えていて、自分の見えている色は名もついていない色なのだと。
「夕美!起きなさい。学校に遅れるわよ」
「はーい」
夕美は目をこすりながら起き上がる。そしてベッドのすぐわきにあるカーテンを、思いっきり開けた。
窓の外では小鳥たちが電線の上で楽しそうに歌い、青空に雲が浮かんでいる。
「ふふふん」
機嫌よさげに夕美は笑うと、すぐに制服にそでを通す。そして踊るように部屋を出ていった。
顔を洗い、自分の映った鏡を、しげしげと見つめる。一般的に長い黒い髪と黒い目と言われるその顔は、所謂日本人らしい顔だ。可もなく不可もなく、実に平平凡凡の顔。しかしそんな顔が、夕美は結構好きだった。
彼女には自分の髪や目が黒に見えていないのだ。
「夕美―、早くご飯食べちゃいなさい」
「はーい」
リビングから再度聞こえた母親の声にこたえると、急いで台所へとかけていった。
台所にあるテーブルには、おいしそうな朝食がのっている。お味噌汁に白米に納豆と卵焼き。どれも夕美の好物だ。
「姉ちゃん、遅い」
「えへへ」
夕美が頭を掻くと、向かいに座っている少年はむすっとした顔をする。髪の長さ以外、まったく同じ顔をした二人は、他愛もない口げんかをしながら次々と朝食を食べる。
「だいたいさ、もっと早く起きられないの?今日試験でしょ」
「知ってるよー。勉強は昨日までにしたからいいんですー。もう、恭介はうるさいなあ」
「うるさいって、姉ちゃんのために言ってんだろ!」
「はいはい、私よりいい点とれるようになったら受け取ってあげますよー」
「はあ!?いいか、俺だってな」
「はい、終了!いいから食べちゃいなさい!ほんとに遅刻するわよ」
母親の声によって終了のゴングが鳴る。
台所にある時計を見れば、もう7時50分。急いで出なければ、遅刻してしまう時間だ。
「やっべ」
「ごちそうさま!」
二人ともすぐにご飯を掻っ込むと、ばたばたと家を出ていった。
キーンコーンカーンコーンと何とも間の抜けた鐘がなる。夕美はぐだっとそのまま机に突っ伏した。
「終わった!やっとお昼だ……」
「そうだね、やっとお昼だね」
「ほらほら、その手どけて」
夕美の声に賛同したのは、友人の千恵。隣の席の椅子を持ってきて、夕美の隣を陣取る。肩よりも短く切った黒い髪に、少し垂れている黒い目。ふんわりとした笑顔がチャームポイントの、かわいらしい少女だ。
そして文句を言いながら夕美の前の席の椅子に座るのも、彼女の友人の涼子。長く黒い髪を一つに結い上げた少女は、長い足を組んで夕美の手をどかす。すると少し吊り上がった黒い目をさらに吊り上げながら、夕美の頬をつねった。
「だいたい、夕美さっきの試験ほとんど寝てたじゃん!何あれ!?何をどうしたら国語の試験で寝られるわけ!?夕美より後ろの席の子は皆不思議そうに見てたよ」
「ここ日当たり良くって」
窓際の席の特権を活かして昼寝をしていたのがまずかったらしい。だいぶお冠のようだと、夕美は首をすくめる。
「夕美はさあ、そうやって寝てばっかりだから」
「まあまあ、夕美ちゃんも反省してるだろうし、そこまでにしてご飯食べよ。ね?」
千恵が涼子をなだめると、毒気を抜かれたようにため息をつく。そして持ってきたパンの袋を開けると、それにかぶりついた。
「ねえ、二人とも聞いた?」
「何を?」
弁当箱の蓋をあけながら言う千恵に、夕美が首をかしげる。
「陽菜ちゃんの話!」
「ああ」
少し興奮気味な千恵とは裏腹に、涼子は心底興味なさそうな声を出す。それが少し気に入らなかったようで、千恵はぷっくりと頬を膨らませた。
「それで、陽菜ちゃんって誰?」
見かねた夕美が水を向けると、千恵は嬉しそうに目を輝かせる。まるで水を得た魚のように、饒舌に語りだす。
「隣のクラスに転校してきた子!高校なのに転校生なんて珍しいよね!それでね、その子が桜木陽菜ちゃんって言うんだけど、変わった子らしいの」
「変わった子?」
「うん、なんかよく色を間違えるらしいの」
「色を間違える?」
大好物の唐揚げを口に運びながら、夕美は千恵を見つめる。
「そうなの!ほら、よく川田先生が答えを黄色のチョークで書けって言うでしょ?その時に、彼女よく間違えてたらしいのよ。それを不思議に思った子が聞いてみたんだって。そしたら、色が皆と違って見えるって言ったらしいの」
「くっだらねー」
不機嫌そうにパンを咀嚼する涼子は、夕美の机に頬杖をついて千恵を見る。
「あのさあ、そういうのってそんな風に大きな声で言うことじゃないんじゃないの?私が本人だったらあんまり気持ちよくは思わないよ」
「あ、えっと。ごめんなさい」
しゅんと肩を落とす千恵の頭を、夕美はまるで母親のようにやさしくなでてあげる。
「まあまあ。千恵だって悪気があったわけじゃないんだよ?そんなに怒らないの」
「でも、」
「わかってる。涼子の言っていることは正しい。でもね、言い方って結構大事なの。ほら、私の卵焼き二人にあげるから、仲直りして」
千恵は表情に明かりを戻すと、おずおずと涼子の顔を窺いみる。そして項垂れた格好で上目遣いのまま、じっと見つめる。
しばらくの間何とも珍妙な睨めっこが続いた後、ついに涼子のほうが折れた。
深く溜息をつき、怯えた目をする千恵の額にデコピンを一発いれると、頭をガシガシと撫でた。手つきはまるで犬を撫でるそれだ。
「いったあい」
「違うだろ」
「うー。ごめんなさい」
二人が無事に仲直りしたのを見ると、夕美は二人の弁当に自分の卵焼きを置いた。
「それにしても、確かにその子変ね。まるで気づいてほしいみたい」
「え?」
夕美の言葉に二人は素っ頓狂な声を上げる。
「だから、さっきの陽菜って子。だっておかしいじゃない?色が違く見えても、黄色は変わらないもの」
「……どういうこと?」
涼子はパンを咀嚼しながら、夕美に尋ねる。夕美は買ってきたパックのお茶を飲み込むと、音を立ててそれを置いた。
「えっとさあ、二人は黄色って言ったら何を思い浮かべる?」
「ひまわり」
「ひよこ」
「うん、じゃあそれがもし他の人とは見方が違っていたとしたら?」
「え、どういうこと?」
千恵が眉間にしわを寄せて不思議そうに首をかしげる。
「えーっとね、『ひまわりとひよこの色は黄色です』って言われたら、もしそれが赤だったとしても、二人は黄色だと認識しない?ってこと」
器用に紙パックをつぶしながらそういうが、千恵は尚も首を傾げたまま。見かねた涼子が助け舟を出す。
「だからさあ、夕美の髪の色は黒でしょ?」
「うん」
「それが千恵には茶色に見えていたとしても、他の人はそれを黒というとするでしょ。そうしたら千恵は、『千恵の茶色』は『皆の黒』だって認識するでしょって話」
「ああ!なるほど!」
やっと納得したのか、千恵は何度もうなずく。そしてすぐに何か考え込むような顔をした。
「確かに、何で間違えちゃったんだろう」
素直に考え込む千恵を横目に、夕美は食べ終わった弁当をしまい始める。そして千恵の頭を保護者のようになでると、徐に立ち上がった。
「さあ、なんでだろうね。まあ偶然だったのかもしれないし。それは本人しかわかんないんじゃない。じゃ、私ちょっと先生に呼ばれてるから。行ってくるね」
「いってらっしゃい」
「途中で寝こけるなよ」
「わかってるわよ」
夕美が職員室まで行けば、職員室の前には入室禁止の看板が立っている。試験当日なのだから当然なのだが、夕美は面倒くさそうに顔を歪めた。こうなるとたまたま通った先生に声をかけるか、目当ての先生まで聞こえる声を出すしかない。
深々と溜息をつくと、夕美は目当ての先生を探した。するとちょうどその時、長い髪を揺らした少女が隣に立つ。
「すみません。吉田先生はいらっしゃいませんか」
可愛らしい少し高いソプラノの声は、よく職員室に響いた。すぐに吉田と呼ばれた先生が立ち上がり、近くに歩み寄る。
「ああ、桜木。これを持っていってほしいんだ」
吉田先生がプリントを手渡すのを見て、夕美はああと納得した。『桜木』と呼ばれた少女の髪は、自身の髪と同様、名もない色をしていたのだ。光が当たってチカチカと眩しい。まるで水面を見ているような感覚に陥り、夕美はその髪から急いで目をそらした。
「お、澤田じゃないか」
「え、あ、はい」
吉田先生の声で我に返ると、伏せた顔を上げた。桜木は用が済んだのだろう。その場で簡単に礼をすると、踵を返して教室へと戻っていく。それを少し名残惜しく感じながら、夕美は吉田先生に頼んで篠田先生を呼んでもらうことにした。




