童貞興亡記
「実は、春休みに初体験した」
「──はぁああああ!?」
麗らかな四月の陽気に包まれた二年三組の教室。その片隅で、田中の叫び声が上がった。
口の隅に泡を溜めて叫ぶ田中に、初体験したとほざいた水沢はにやりと笑っている。
「もっと早く教えろよ〜」
「いやぁ、童貞諸君には言い出しにくくて」
田中が叫んだせいでクラスの視線を感じる。そこに同席する俺、米月圭にも奇異の視線が刺さる。が、今は超緊急事態なのだ。
勢いづいた田中は、長めの髪に手櫛を通すスカした男子、水沢へ迫る。
しかし余裕の表れか、水沢は足を組んで椅子に座ったままだ。てか手櫛やめろ、なんかムカつく。
「まあ落ち着けよ、高二にもなって童貞の諸君」
何だよ童貞諸君って。田中と俺を一緒にするな。同じ童貞でもモノが違うんだよ。
田中は身長百八十でガリガリだ。脱けば意外に筋肉質でシルエットは悪くない、けど。
対する俺は……って、身長も筋肉量もスタイルも、全部田中に負けてるじゃねぇか。
てか水沢よ。
お前もこないだまで童貞だったじゃないか。仲間だったじゃないか。
ぼくたちずっとなかよしだよ、って一年四組の教室で夕陽の誓いを立てたじゃねぇかよっ。
──あれ?
そんな覚え無かったわ。水沢、春休み中ずっと連絡寄越さなかったし。
それで自分だけ初体験だぁ?
お前なんかもう友達じゃねえ。とっとと爆ぜろ。
俺たちの心中を知らぬ水沢の自慢気なツラは、更に田中をヒートアップさせる十分な燃料となる。
「ちゃんと説明しろよ。責任を果たせよ〜」
「何の責任だよ」
「童貞卒業の先輩としての責任だよ」
テンパった田中が責任だの何だのと言い始めるのを他所に、俺の脳内は童貞卒業という言葉で充満していた。
なんて魅惑的な言葉なのだろう。なんて力強い四文字熟語なのだろう。それに引きかえ、俺の中にある四文字熟語なんて、家庭菜園くらいしかない。
そういえばそろそろネギが食べ頃だなぁ。じゃなくてっ。
「いいなぁ、おれもやりてぇよ〜」
「ん? 何がしたいの?」
身悶える田中の背後から聞こえるのは、軽やかな鈴の音の様な声。
「あ、宮川すわぁぁん」
さっきまでとは正反対、軟弱でキモい猫撫で声で笑顔を作る田中の視線は、鈴の音の主に向けられていた。
宮川栞。
高校二年に進級して初めて同じクラスになった、俺の隣の席の女子。
人懐っこい性格は男女問わず人気で、ショートカットが似合う、控え目にいっても美少女だ。
密かに気になっていた女子の突然の登場に、俺の心は焦りまくる。まあ、席が隣だから当たり前なんだけど。
「聞いてよ〜宮川さぁん」
何を思ったか、田中は宮川さんに向けて嘆き出す。まさかこいつ、宮川さんに童貞卒業の話とかするつもりかよっ。
「おいっ」
今にも危ない発言をしそうな田中の背後から水沢が羽交い締めにし、俺は田中の汚い口を塞ぐ。
うげぇ、ちょっとヨダレが付いた。本当に汚い。
「え、なになに? わたしにも教えてよ〜」
水沢が田中を連れ去ったところで、昼休み終了の予鈴が鳴った。
五時限目は退屈さに定評のある世界史。窓際の席で春の陽射しを浴びていると、あっという間に眠気が襲ってくる。
ダメだダメだ。
最初の授業でも怒られているのだから、内申点を落とさない為にも何としても耐えなければ。
よし、遠くを見よう。些か本末転倒だけど、それしか手は無い。
先生の話を耳に通過させながら、ぼんやりと半開きの窓の外を眺める。
ああ、風が心地好いな。天気も良いし。
──やばい、また瞼が重くなってきましたよ。
「……ね、米月くん」
微睡みの中、隣の席から鈴の音が聞こえる。いい気持ちだ。まるで夢の中──痛っ。
後頭部に軽い衝撃を感じて振り返ると、少しだけ頬を膨らませた宮川さんがじっと見ていた。
やばい、可愛い。
普段は垂れ気味の目がちょっとだけ釣りあがっているのがまた良い。
「……やっとこっち向いた」
宮川さんの目尻が下がった途端、とくんと胸の中が波打つ。
実は俺は、宮川さんが気になっている。
高校二年になってこの教室で初めて宮川さんを見た時から、胸の鼓動は高鳴ったまま。そして幸運にも初の席決めで、その宮川さんの隣の席になれたのだ。
これだけお膳立てされて恋に落ちない男子がいるのなら、それはもう聖人か賢者、もしくは世捨て人だ。
「……先生、また変な話してるね」
教壇に耳を傾けてみれば、先生自身のラグビー部での体験を話していた。
世界史とラグビー。うん、全く関係ないね。
「──だから、早めの対応が必須なんだよ」
いつの間にか話は飛んで、集団感染を起こしかねない、主に男子の股間が痒くなる皮膚病、俗にいうインキンの話になっていた。
なんて教師だ。
クラスの半分は女子なのに。もうセクハラで訴えられて裁判で有罪になって去勢とかされればいいのに。だが女子も「やだぁ」とか笑いながら先生のインキン話を聞いていた。
案外逞しいな、女子って。
隣の宮川さんは静かだな。
当然か。宮川さんはそんな下品な話題で笑ったりしない。そう信じている。
ふと宮川さんと目が合う。条件反射の如く心臓が早鐘を打ち始める。
「米月くんがインキンになったら……わたしが薬、つけてあげるね」
……意味わかってるのか、宮川さんは。もうドキドキが止まりませんけどっ。
放課後、田中は俺を巻き込んで、近くのファミレスへと水沢を拉致した。
そして語気を強めてこう宣言したのだ。
「是非お話を聞かせてくださいっっ」
水沢の前には、貢物の山盛りポテトフライが献上されている。
テーブルに頭を擦り付ける田中を目の前に、水沢はポテトフライの山から一本ずつ取って優雅に食している。
これが童貞と非童貞の格差というものか。と思ったが、それだけではない。
非童貞ということはその行為の相手、つまり彼女がいるということだ。
従って目の前のポテトの山は、リア充と非リア充を隔てる分水嶺ともいえる。
ちくしょう、やっぱり羨ましい。
俺は彼女どころか、仲の良い女子もいなければ幼馴染もいない。二つ上の従姉がいるが数年は会っていない。そもそも親戚だ。そんな対象にはなり得ない。
結論を言おう。
女子方面に関して、俺はぼっちだ。
余りにも悲しい現実を再確認した俺は、ちらと田中を見遣る。が、隣に田中の姿は無い。
視線を走査させると、ドリンクバーのメロンソーダを持った田中が走ってくる。
満タンに注がれた液体を溢すまいと慎重に走る長身のその姿は、滑稽かつキモい。
「水沢、メロンソーダ」
「ん、なに?」
「あ、いや、メロンソーダでございます。お口に合えば幸いでごぜぇます」
田中よ、何故そこまで卑屈になれる。
「それで水沢さま、例のお話を──」
「まあ待て、まだポテトが残ってるじゃないか」
ポテトをぱくっ。
メロンソーダをちゅちゅちゅ。
非常に美味そうに食べては飲み、飲んでは食べている。
こいつ、焦らして遊んでるな。
──なんか、どうでも良くなってきた。
高校一年から良く話す仲とはいえ、所詮他人に起きた幸福だ。
気がつけば、俺はテーブルを叩いていた。
「いい加減にしろよ水沢。田中は興味津々かも知れないけど、正直俺はどうでもいいんだ。話すなら話せ。話す気が無いなら帰る」
「わ、わ、待って。オレが悪かった。だから聞いてくれ」
とうとう本音を出したな、水沢め。
昼休みに言い出した時から分かっていた。水沢は、誰かに話したいのだ。童貞卒業という一大事を、高らかに語りたいのだ。
「よし、じゃあ話せ」
童貞の俺が非童貞の水沢に許可を出す。高校のヒエラルキーには反するが、そういう立場が出来てしまったからには強気に出るしかない。
踏ん反り返っていた水沢は、いつしか背中を丸めていた。
「──という感じだった」
水沢の体験談は、要所々々にモザイク処理を施したような話だったが、それでも田中は目を爛々と輝かせて聞いていた。もう完全に尊敬の眼差しだ。
「やっぱ水沢すげぇなぁ。で、どうだったのよ?」
「気持ち良かったに決まってるだろ。おまえらも経験すれば分かるよ」
田中の態度に気を良くした水沢は、再び上から目線にシフトしている。
ただ、俺は幾つかの疑問を抱いていた。それをこれからぶつけてやろうとした時、背後から鈴の音の声が聞こえた。
「あれ、米月くん?」
通学用のバッグを肩に掛けた宮川さんだ。その後ろにはまだ名前を覚えていないクラスの女子の姿も見える。
店内が暑いのか、制服のブレザーを脱いだ姿がまた可愛い。
「ずいぶん楽しそうにしてたけど、何の話?」
突然の美少女登場に田中は舞い上がっている。内心は俺も同様だ。
けれど、何と答えればいいのか。
さすがに水沢の初体験の話とは言えない。田中ならキャラ的に言える様な気もするけど、言ったら最後、俺諸共キモがられて終わりだ。
「い、いや、ちょっと、ね」
「ふぅん、男の子どうしの内緒話、かぁ」
どうやら宮川さんは空気を察してくれた様だ。てか何を察したのかは恐くて聞けない。
いつもと同じ笑顔を見せる宮川さんは、じゃあねと手を上げて、立ち止まる。
そして、俺の耳に顔を近づけてきた。蠱惑的な甘い香りが鼻孔をくすぐる。
「米月くんの童貞は、わたしが守ってあげるからね」
──は?




