シュガーハート・ソルティバレット
信じていた。
天罰は下ると。必ずや。
だが、それがあるべき形で現れるなどと──いったい、どうして思えたのだろう?
少女はひとり、白い町並みの中を行く。
雪ではない。南の、海に近いこの町は一年を通して雪が降ることはなかった。
少女の小さな足音はさくりと柔らかな積雪を抉る音ではなく、ピアノの鍵盤を叩くような軽やかにして硬質な音だ。
見渡せば壁も路地もガラスの窓さえも、漂白されたような或いは紙で作られた模型のような白さ。白い曇り空も相まって、切り取られた景色はまるで張りたてのカンバスのよう。
目を焼くような眩しい白の中で、少女は唯一の黒点だった。小さな、しかし軽んじることのできない染みだった。
無地のカンバスに炭で描いたような少女は何もかもが黒かった。
瞳は摘みたてのオリーブのように輝き、ヴェールから覗く前髪が見せるのは烏羽の艶。
生来のものであろう、異国の雰囲気を漂わす褐色の肌は瑞々しく、未成熟さを強く残す顔立ちも遠くない未来に辿り着く秀麗な美を約束している。それは同時に微笑みひとつ浮かべることなき人形のようだ。
何よりも。目を引くのは夜闇よりも尚深く沈む、長裾の修道服。
少女の齢では考え難いほどに高い位を示す装いでありながら、まるでこの幼い娘のためだけに誂えたかのような一品。
それが彼女の纏う異質さとなっているのか、はたまた彼女そのものが異質であるのか。
もしも人が彼女を目にしたのならば。
そこが泥に塗れた雨上がりの路地であったとしても迷いなく跪いてしまうだろう。
この、幼い少女の前で何を懺悔すべきかもわからないまま許しを請いたいという衝動に抗える者はいないだろう。
ただ、鼠一匹姿を見せない空っぽの町ではそれを証明するすべはない。
少女の歩みは止まらない。
その歩みは寒々しい無人の町すら、静謐に満ちた礼拝堂であるかのように錯覚させる。
どこかへ向かおうとする足取りではなく、何か、見つかるべくもないものを探す足取りで『何もない』ことを確かめ続ける。
突然、空に鈍い光が瞬いた。
白い空はいつの間にかうっすらと黒ずみ、紫電を孕んでいた。
少女は眉をひそめる。雨が降り出すまでまだ猶予はあるだろうか。
一拍をおいて轟いたのは雷鳴、ではなく乱雑な破壊音だった。
少女は音のした方へ機械的に首を回す。
上がるのは白い土煙。どこかの屋根が崩れたか。
考え込む間も置かず少女の厚底のブーツは地を蹴った。
音の発生源にあるのはなんてことはないただの民家だった。
勿論、この場においてただの民家とは白に染まった無人の箱を指すのだが。
ノックもなしに扉を開け、少女は中へと滑り込む。
あるのは瓦礫ばかりだった。
屋根には大穴が空き、淀んだ空を覗かせてなお光の足りない部屋は、燻んだ灰色。
──異物がひとつ。
無彩色の瓦礫の中かろうじて色を失わない姿形。
人間の男だった。
瓦礫の中、倒れ伏した青年がふらりと力無く上半身を起こす。
「ぅ……あぁ、クソッ」
頭を抱え、呻く。じっと眺める少女に気がついた様子はない。
随分と頑丈な身体をしているようだ。打ち所が良かったのか、何かがうまいこと緩衝材となったのか。
だがそんなことはどうだっていい。
「動かないで」
雨垂れのような一声を上げる。そして少女は、その手に握った拳銃を突きつけた。
やっとのことで焦点を合わせた青年は満面に驚きを浮かべたまま、停止した。
少女は目を細める。
青年もまたある意味では異質だった。
擦り切れ薄汚れた服装、埃っぽい臭い、落下の衝撃か肌は細かな擦過傷だらけでどこもかしこも赤く血が滲んでいる。
ぼさぼさの髪と切れ長の目は小鍋で砂糖を煮詰めたような香ばしい飴色で、それは少女の褐色肌と同じくらいにここいらでは目にすることがないものだった。
しかしその珍しさは直接的に不可解さを引き起こすには足りない。
何の変哲もない不運な流れ者、或いはこの町の噂を聞きつけ足を運んだ愚かな盗人。所詮そのどちらかでしかないのだ。
少女は冷めた視線を向け続ける。今すぐにでも引き金を引くことを躊躇わない目だと、幼子ですらも理解できる。
奇怪なことに青年の目に怯えや恐れは浮かんではいなかった。
見開いた目は拳銃を突きつける少女の右手に釘付けになったまま、動きはしなかった。
当然だ。
目を背けることなどできまい。
何故なら焼き菓子のような肌を持つはずの少女の右腕は、煤けた回転式拳銃リボルバーを握りしめる右手は、大理石のように雪を押し固めたように黴に塗れた腐ったバターケーキのように──白かったのだから。
「この町に何が起こったのか。知っておいででしょう」
知らないとは言わせない、と言外に言う。
青年は返答を促され、冷や汗ひとつ流して頷いた。
町は、呪われた。
前触れらしい前触れもなく、町は塩に変わる呪いに侵された。生き物も、それ以外も。
人は嘆く。
何か罪を犯した覚えはない。何か罪を犯したはずがない。
なればこそこれは呪いだった。
あるいはもっとどうしようもなく理由もない病か。
天罰などであっていいはずがなかった。
病のような呪いはゆっくりと進行し、人知れず臨界を迎えた。
一夜にして雪景色に塗り替えられるように、ある日突然加速した。
そうして人は悟る。
救うすべはないらしい、と。
見つからなかった、そして見つけることを諦めた。
諦めさせられ、町は死んでいった。
人のまま死ねたのはほんの一握りだった。最後まで呪いにとり残された少女が、手を下せたのは。
呪いごと何もかもを葬る。
それが教会の下した選択だった。
同時に、この町以外の総意だった。
必然として最後まで生き残ってしまった少女の役目だった。
当然逃げ出そうとする者はいなかったわけではない。何人かは逃れただろう。その者たちの数も末路も少女は知らないし、知る気もなかった。
それは少女に課せられた義務ではなかったから。
呪いが少女自身に至るのもまた、時間の問題でしかなかった。
じゃり、と塩まみれの地面を踏みしめる。
既に銃を手から離すことも儘ならない。が、まだ引き金を引くことはできる。
力を込めた。
指からぱらりと、小さな欠片が溢れた。
この青年はどうやら、見えるところに塩化の兆しはない。だが隠し方など幾らでもある。
町が形の上では封鎖されて何日も経った。もう人は、人と言えるモノは町には残っていないはずだった。残っていてはいけないのだ。この青年も例外ではない。
「何か。言い残すことはありますか」
少女に叶えられる遺言なぞさしてなく、命乞いも無意味、少女が促したのは恨み言だ。それだけが彼女に背負える何もかもだ。
脳裏には少女の拾い上げた濁った怨嗟の声たちが幾重にも渦巻いている。
せめて。この青年の言葉が最後のひとつであればいい。少女は冀こいねがうように吐息を漏らす。
青年の反応に抵抗の意思は見られない。粛々と己の運命を受け入れているようだ。
だが彼の口から出たのは遺言などではなかった。
「引き金を引けば、きみの手は……」
「ええ、砕けるでしょう」
小さな銃はしかし少女にとっては十分に大きすぎ、その反動は塩化の進む腕に容易に罅をいれるだろう。
「ですがご安心を」
修道服の裾のスリットに褐色の左手を入れ、少女は大振りなナイフを取り出し自らの喉元に向けた。
葬るべき何もかもの中には当然、少女自身も含まれている。
「この通り、銃の代わりは用意しておりますので」
それにしても。今際にそんなつまらないことを気にするなんて不思議だった。
だが最後の言葉にそれを選んだことを、何も言うまいと少女は思う。
最期の時に『何も言わない』という選択をするであろう己を肯定するためにも。
「……ああ、よくわかった」
彼は首を垂れた。
少女は気持ち、胸を撫で下ろす。抵抗がないことに、照準が狂わずに済むと。
あとはいやに硬い引き金を引くだけだ。
そのはず、だったのに。
強い衝撃が左手を襲った。
握ったままのナイフは弾き飛ばされ瓦礫の上で乾いた音を立てる。
蹴り飛ばされたのだと気付いたのは少し、遅かった。
「っ何を……!」
ぐい、と右腕に力をかけられる。
いつの間にか青年の顔が目と鼻の先にある。
彼は銃身を掌で包み込むように掴んでいた。
……このまま撃つことはできる。たがそれでできるのは彼の掌に風穴を空けることのみ。
最後の一発としては割りに合わない、そんな場違いな躊躇が胸を占めた。
少女は動きを止める。
気付いたのだ。
青年の纏う空気が先とは全く違うものになっていることに。
ぼんやりと心あらずな目に、鋭い光が映し出されていることに。
「わたしを殺すんじゃないのですか」
「いや」
「ならばどうして」
青年は言い淀む。
「あー、っと……なんていうか。きみの最後の一発の使いどころはここじゃないってわけだ。きみの死に場所も、ね。よし。今そういうことにした」
何を、言っているのか。
わからない。
困惑に顔を硬ばらせる少女に、彼は薄っぺらく微笑んだ。
「大丈夫。おれを殺す必要はないさ。おれが『柱』になることはない」
二人の視線が近づき交差する。
雷鳴の中そぐわない浮かれた春の陽気を纏い、キリギリスのような男はそして嘯いた。
とびっきりの秘密を明かそう、と。
「おれの心臓は、砂糖菓子でできてるんだ」




