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第33譚 - 陰

 幼い清香は川に1度身を投げてずぶ濡れになった身体で、全力で屋敷に駆け戻っていた。


(……一体……何が起こったのか……!? 私は一体何を見たのだ? こうも風もない、火の元もないあの場で一斉に炎が燃え上がるなんて、そんなことが本当に起こりえるのか!? ……いやいや何を言う清香! この目で見たではないか! 急ぎひな様を助け出さないと、私どころか一家の首が飛ぶ――)


 純で可憐なひなの驚いた、大きく見開かれた目が一瞬視界に入った直後に炎が上がり、思わず手を離してしまった部屋の前まで辿り着いて、清香ははたと立ち止まる。


「……――か! 清香!!! きよ……こほこほ! 清香!!! きよかぁ!!!!」


 泣きながら、声を枯らしながら自分の名を呼び続ける、美しく身体の芯に響く声に、身体が金縛りにあったかのように動かなくなった。

 

 消防組を呼ぶよう通りすがりの人に向け叫び、川へ飛び込みすぐさま引き返した。ここを離れていた時間はわずかだったかもしれない。

 それでも、きっと手を離してからずっと、昨日会ったばかりの、今日女中になったばかりの自分の名を呼び続けていたのだろうと想像できた。


(……なぜですひな様……私は……昨日会ったばかりの……どことも知れないその辺の子供であります…………なぜそんな……)


 その時、清香の目から涙が溢れた。

 理由はよくわからなかった。わからなかったが、その瞬間、金縛りが解けたように身体が動いた。

 もうもうと上がる煙の中から炎の隙間を見つけ、飛び込んだ。




「――ひな様!!!!」


 


 その聞いた瞬間に胸が温かくなる声と、同時に響いた重い打撃音に、花桃の木にもたれ目を伏せていたひなは、はっ! と目を見開いた。

 次の瞬間、ひなへ真っ直ぐ倒れかけていた木が、清香が叩いたことでわずかに軌道がずれ、ひなの足元に大きく倒れる。

 ひなは驚きのあまり動けず、火の粉を散らして倒れてきた木をただ目を真ん丸にして見つめていた。


「ひな様!!!」


 すると、大きく息を切らし焼印を短く持った清香が、ぐいっとひなの腕を引いた。


「……清香?」

「何をしておられますひな様!!!」

「まあ……大きくなって」

「しっかりしてください!!!」


 ぺちぺちぺち! とひなの頬を数回叩く清香。


「……どうして……泣いているの?」


 それは、15年前――助けに飛び込んだ時にもひなが告げた言葉だった。

 涙をあふれさせながらも不思議そうに目を丸くし、信頼感を滲ませじっと見上げるその瞳は、何一つ変わっていなかった。

 清香は1度、ぐいっと涙を拭う。


「ひな様が、私を呼ぶからでございます」

「……そう」


 あの時と全く同じようにそう返すと、ひなもまた、全く同じようにそう呟いて、安心したようににこっと笑った。


 また溢れそうになる涙をぐっと押し留めると、清香はもう一度力いっぱいひなの腕を引く。


「さあひな様! 逃げますよ!」

「でも……行く手にチョコレートの気が……」

「そんなものは清香には見えません! 私が手を引くのでひな様は目を瞑っていてくださいませ!」

「……でも……足が言うことを聞かないの」

「では私が担ぎます! とにかくここから――」


 

 その時。


 

「ひな!!!!」



 廉の呼び声が、ひなの耳に届いた。



 その瞬間――



 ひなの瞳に生気が戻ったように、はっと目が大きく見開く。



「――廉様来てはなりません!!!!!」

 

 

 清香は、今まで見た事もないほどのひなの大きく開かれた目と、今まで聞いた事もないほどに大きく叫ぶ声に、思わず息を呑んだ。

 その瞬間にも、ひなは弾かれたように廉の元へ駆け出していた。


 清香は驚きのあまり動けない。


(……あんなにも……力なく、足が言うことを聞かないとおっしゃっておられたのに……――)


 動けず視線のみをひなへ向けた、その時――


 風とは違う、何か、大きな空気が一斉に廉の元へ引き寄せられるような。一帯の炎、草木花全てがざわりと廉の方へ動いたような不気味な感覚に、息を止めた。

 ぞわ……と悪寒が背筋を伝う。


(今のは…………もしや、気――)


 そう思う清香の先で、まるでスローモーションのように、倒れていく廉、それを受け止めようと必死に走るひなが視界に映る。

 それはなぜだか、こんな事態の中でも美しいとすら感じる、思わず見入ってしまうような光景であったという。




 ふええ……うっうっ……と随分と愛おしく可愛らしい泣き声と、雨のようにぽたぽたと顔に落ちる水に、廉ははっと目を開いた。


「……っ廉様!!!」


 瞳からぼろぼろと大粒の涙を流すひなの顔が廉の視界に映った瞬間、廉の頭を膝に乗せていたひなが、安心のあまりがばっと前のめりに倒れ込んだ。

 突然顔が覆われ、うぐぅ……と廉は小さく呻き声を漏らす。


「廉様のばかあああぁぁぁ……!!!」

「…………?」


 はあ? と廉は眉を寄せる。

 廉様のばか、廉様はおばかです……ばかばか……とすんすん鼻をすすりながら泣くひなに、苦しいんだけど、と呟く廉。

 ゆっくり顔を上げるひなの酷い顔を見てふっと小さく吹き出すと、また大きな瞳からぽたぽたぽた! と涙が滴った。


「あ……っ……頭は……痛くありませんか」

「……痛くない」

「身体は……動かせますか」

「重くもないし……腹は何か痛いけど」

「それは……廉様が倒れられた際に、受け止めようとした私の膝が当たったからでございます」

「どういう状況だそれ………………倒れた?」


 そこで廉は不思議そうに目を瞬く。

 すると、ひながぽたぽたと再び溢れ出た涙を滴らせながら、こくんと頷いた。

 

「廉様は……覚えておられないのでございますか? 大量の気を引き寄せ、気を失われたことを」


 はたと廉は固まった。


 炎の中に目立つ水色のワンピースを身に纏うひなを見つけ、咄嗟に叫んだことまでは覚えていた。


(……ああ……そういえば……あの時、何か……()()()()()()()()()()ような感覚になったような……? あれは、大量の気を一気に引き寄せたから……?)


 静かに考え込む廉を見つめながら、ひなはすんすんと鼻をすすった。


「気の渦巻く中心へ来てはなりませんと……以前も申しましたのに……ばか……」

「俺が全て引き寄せれば早いでしょうと言いませんでしたか? ……ばかって何だ」

「お身体に障ります!!! 本当に……こわ……怖かったです……廉様が…………大炎上してしまうのではと――」

「どういう想像?」


 思わず突っ込む廉に、わあわあと泣きながら廉の頬をぺちぺちと叩くひな。


「笑い事ではございません!!! 廉様は火の悪気の気まぐれさを知らないから――」

「痛い痛いいてぇな! 今まで引寄せた悪気が身体で悪さするとかそんなことは一度もなかったよ」

「それが今日初めて起こるやもしれません!!!」

「怖いこと言うな!?」


 未だ泣き止まずぺちぺちと頬を叩くひなの手をぱしっ! と掴む廉。

 どきっ! とひなは動きを止めた。

 

「……つーか……ひなは大丈夫なのか」

「……何がでございますか。大丈夫も何も、私は気を払っていただけでございます」

「気を払ってただけで、普通火に囲まれません」

「そんな事もあるのです」

「ありません」


 むすっと泣きながら口を尖らすひなに目を細めると、廉は真上のひなの顔へ手を伸ばした。


「よかった」

「……廉様」


 小さく呟くひなに、廉は頬に当てていた手を頭の後ろへと回す。

 ぐいっと力を入れ引き寄せると、まままま……! とひなの顔がみるみる赤く染まった。


 どす!!!


 と次の瞬間、焼印が廉の腹へ振り下ろされた。


「廉様お元気そうで何よりで……!」

「便利だなその焼印……!!」


 いっってぇ……! と身をよじりながらひなの腰へ腕を回す廉に、れれれ廉様いけません! とひなは顔を両手で覆う。


 するとその時。

 隣にすっと影が落ちたかと思うと、手についた黒い煤を優しく拭う手に、ひなははっと顔を上げた。


「無事だったんだな、よかった」


 隣で穏やかに微笑む修吾に、ぽっと頬を染めるひな。

 その瞬間、ギロ……と廉は修吾を睨んだ。


「何お前人の女に普通に触れてんの?」

「ひとのおんな!!!!」


 ま!!! と再び顔を覆ってしまったひなに思わず笑うと、修吾は清香に顔を向けた。


「間に合ったみたいだな」

「神速で走りましたゆえ。修吾様も、消防への通達ありがとうございました」

「近くに人を見つけ連絡を頼んできた……が、何か随分と終息してないか?」


 修吾は斜面の花桃の木を見て、目を瞬いた。


 木の何本かは焼け倒れてはいるものの、上から水の塊でも落としたかのように濡れてほとんどの炎は消え、(みき)の内側や根本に小さく火が燻るのみとなっていた。


 ふむ、と清香も腕を組み首をかしげる。


「ついさきほど、ひな様が廉様の引き寄せた気を払っておられる時、海からの高波が1度大きくここまで到達したのであります」

「………………いや…………そんなことあるか?」


 海……結構遠いが? と動揺を滲ませる修吾に、私も未だに自分の目を疑っているのであります、と清香には珍しく歯切れの悪い返事をする。


 その時、おーい、とのんびりとした声が遠くから聞こえ、海沿いの斜面下に皆顔を向けた。

 ははっ! と聞き慣れた笑い声が、枝葉が風で大きく擦れる音の合間から緊張感なく響く。

 

 少しして、花桃の木の間から、ひょこっと宗一郎が顔を出した。


「何で全員集合しているんです?」

「お前もな」

「――って!? 何こんな状況で戯れているんですかそこの2人は!!?」


 羨ましいのですが……!!! と宗一郎の後ろから顔を出した右京が、ふるふると震える。

 ひなの膝を枕にし、楽しそうにひなの頬の煤を拭うふりをしてむにむにと頬を触っていた廉が、はあ? と右京に視線のみ向けた。


「……宗、お前何その変態連れて来てんだ」

「そうだぞ宗。その神職、元いた場所に返してこい」

「いやこう見えてこの長髪、案外と役立ちまして」

「呼び名は統一して貰っても?」


 お前そんな感じの奴だっけ? とややすっきりしたような態度の右京に不思議そうな顔の廉。

 すると宗一郎がにやっと笑った。


「この人が、波をここまで到達させたんですよ? 驚きませんでした?」


 皆、目を丸くした。

 ああいや、と右京がさっと手を掲げて補足をする。


「到達させたというか……ひなちゃんを案ずるあまり勝手にというか…………僕は水の気を宿していますから、僕の感情が高ぶると水の気が呼応することが希に。海に、水の気がたまたま留まっていたのかもしれませんね」

「右京様……! なんとお礼を言ったら――」

「――いえ!」


 ひなの言葉を慌てて遮ると、気まずそうに右京はひなの横に膝をついた。


「……本当に……ごめん、ひなちゃん……」


 えっ? とひなは驚く。


「僕は、気づいてたんだよ……ここに気がずっと留まっていること……気づいてて、ひなちゃんにわざとここを教えて。足が向くように――」

「まあ……! でしたら、私は右京様にお礼を言わなければなりませんね!」


 えっ? と今度は右京が戸惑ったような顔でひなを見た。


「先ほどまでは、チョコレートのお化けのように黒く大きな気で覆い尽くされていて……ここの景色の全貌が全く見えなかったのでございますが」


 チョコレートのお化け? と皆目を瞬く。

 何となく想像のつく廉だけが、ははっ! と笑うと、ひなは頭を持ち上げて廉の上体を起こした。

 

 正面で廉と見つめ合うとひなは、ふわっと微笑んだ。


「廉様が、気を全て引き寄せてくださったお陰で、こんなにも美しい景色だということがわかりました! 廉様のお陰で気も全て払うことができました。きっとここではもう、火の悪気が悪さをすることはありませんわ」


 ひなは廉の手を取ると、そっと自分の頬に当てる。

 どきっ、と廉の胸が1度跳ねた。


「……昔……同じようなことがあった時は…………母屋は全て焼け、宿っていた悪気たちもどこかへ消えてしまい……もやもやと悲しい思いばかりを残したことがありましたが……――」


 そう言うとひなは、ぱっと顔を上げる。

 瞳を潤ませ艶やかな笑みを浮かべると、がばっと廉の首に抱きついた。


 廉は大きく目を見開く。


「――今日は花桃もわずかしか焼けず、悪気たちも皆払うことができ、なんと胸のすく想いなのでしょう……!」


 嬉しい……! と心底嬉しそうな表情で廉にしがみつくひなを見つめると、清香はそっと涙を滲ませ、微笑んだ。

 

 思いも寄らないひなの返答に呆気にとられていた右京は、困ったように眉を下げて、ははっ、と小さく笑う。


「……いやほんとに、陰の気の旦那あってのひなちゃんなんだねぇ……」

「だから言ったじゃん」


 宗一郎が笑いながら突っ込んだ。


 一方廉は、嬉しそうにひなを抱き締め返していた。


「……じっくり……景色を堪能しては?」

「はい……! そうしたいので……廉様? 少し離して…………廉様、あ、あの……そう抱き締められては、景色が見え――」


 その瞬間、背後から修吾がすぱーん! と廉の後頭部を(はた)いた。


「後でやれ」

「お前かよ」


 絶対清香さんだと思ったよ……と呟く廉に、笑う皆。

 腕が緩まると、わくわくそわそわとひなは振り返った。

 

 強風で大きく枝をしならせながらも、たくさんの薄桃色や濃桃色の花が彩る見事な一面花桃の景色に、ひなの口から、はあああ……! と感嘆の息が漏れる。

 

「まあ――」


 

 その時。

 

 

 ド――ン!!! と地を震わすほどの雷とともに、ざあああ!!! と滝のような雨が突如降り注ぎ、全員はたと固まった。


「…………まあああぁぁ……」


 無意識にひなから漏れた声に、皆笑うしかなかったという。

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