第32譚 - 火
温かい白熱灯のシャンデリアが灯る玄関帳場前。
そこに置かれた布張りの心地よいソファに、文子はゆっくりと腰を下ろした。
大きく開放感のある窓からは、中庭や宿泊室への渡り廊下が望める。
木枠が幾何学模様を模したモダンなガラスの玄関扉からは、宿の名「さくら屋」にちなんだであろう大きな桜の木が堂々と佇んでいるのが見えた。
そのいずれの木々も今は無秩序に大きく揺れ、文子の心をざわりとさせた。
(……ひなさん……ご無事かしら……)
「こんな寒うところにおりませんと、談話室でゆるりとなされてはいかがですか」
その時、おっとりとした調子の声に、文子ははっと振り向く。
気づけば、宿の女将が穏やかな笑みを湛えながら、文子の足元にしゃがんでいた。
「あ……いえ。大丈夫にございます」
「今日は春の嵐のように強い風で、ここは冷えますゆえ」
「人を、待っておりますので」
「あらまあ……こぅんな妊婦さんを待たせるなんて、いけませんことですわ」
えっ? と文子はぱちぱちと目を瞬いた。
「なぜ……ご存じで?」
「こうたくさんのお客様を見ておりますとねぇ……すぅぐ気づいてしまうんでございます。仕草であったり、表情であったり、どことなぁく」
「まあ……!」
ふふ、と優しく笑う女将に驚いたように口に手を当てると、文子はそっと腹に手を添えた。
「この子を、連れて来てくれた子なのでございます」
「ほんに……? 魔法使いさんでございましょうか?」
「そのような……妖精さんのような?」
「ああ、もしかして……肩の上まで断髪しておられた、ワンピースの、ふわふわとした」
「そう! そうでございます」
何でわかったのかしら……! とくすくす笑う文子。
その時、すすす……と別の仲居が女将の後ろへ近づいて来た。
ありがとう、と言いながら仲居が持っていた湯呑みを受けとった女将は、文子の前のテーブルへそっと置いた。
「妊婦さんが身体を冷やして一番悲しむのはきっと、その妖精さんでありましょう」
甘酒にございます、とぅっても身体が温まりますよ、と女将はにっこりと微笑んだ。
まあ……と文子は目を丸くすると、ありがとうございます、とすっと桜柄の湯呑みを手に取る。
ゆっくりと1口口に含むと、その温かさが身体にすうっと染み渡った。
『文子さんに、よい気が巡りますように』
そう言ってふわっと文子に微笑むひなが、甘酒の湯気とともにぽわっと脳裏に浮かぶ。
「……そうですわね。あんなにもよい気をずっと巡らせてくれていたひなさんですもの……きっと、よい気が巡るはずですわ」
妖精さんは、ほんにそんなすごい力をお持ちで? と興味津々の女将に、思わず文子は笑い声を上げた。
文子がほっこりとしながらも身を案じていた、そのひなはというと――
じと……と小さな火種と睨み合いながら、ささっ! ささっ! と気を払っていた。
先ほど火の悪気の散らした火花が、1本の木の根元に小さな火種となって燻っていた。
それが海風が吹くたびに大きくなったり、逆にしぼんだりと落ち着きがなく、ひなははらはらと目が離せない。
(ど……どうしましょう……あの子が大きくなりでもしたら……この美しい花桃が皆業火に焼かれ……!!?)
震える手を食い込むほどにぎゅっと強く握ると、ひなはきりっと火種に鋭い目線を向けた。
それ以上大きくなったら、その火で餅を焼いてやるわよ……!!! とふるふる震えながら牽制する。
びゅうびゅうと徐々に強くなる風、そして至る所でたまに鳴るパチッ! という火花の弾ける音に、ひなの胸にもやもやと焦燥感が募り、呼吸が苦しくなる。
はあ……! と息を吐くと、恐る恐る上空を見上げた。
(チョコレートのお化けのような気も一向に減る気配がありませんわ……このままだと、あの時と同じ――)
その時、ひと際風が大きく吹き、ちょうど大きく膨らんでいた火種を押し上げた。
「――いけない!!!」
その瞬間、周囲で一斉に火花が散り、ひなはぎゅっと目を伏せた。
「清香さん!!!」
調達したうさぎの焼印を手にるんるんとひなの元へ歩みを進めていた清香は、背後から呼ぶ声にはたと立ち止まった。
「廉様?」
清香の横まで駆けてくると、遠いなくそ……! と膝に手を当て荒く息を吐いた。
「やべ……まだあんのか……!」
「おお廉様、さっそく体力を鍛えておられるのですか」
「暢気だなあんた」
「は?」
「先行くぞ。ひなが危ない。……かもしれない」
「…………は?」
何のご冗談を、と言おうとした清香は、廉の表情を見てその言葉を飲み込んだ。
ばっ! と再び駆け出した廉の背を、困惑した表情で見つめる。
「あの丘の先で、ぼやが多いという仲居の話を聞いただけだ」
廉を追って駆けてきた修吾が、はあ……! と清香の隣で息を整える。
「昔からぼやが多い場所で……気がつけば皆行かなくなったと言っていた」
その修吾の言葉に、清香ははっと息を呑んだ。
「杞憂だとは思うがな。別にひなさんが危ないとか、気が絡んでいるとかいないとか、そんなのは憶測の域で――」
そう言いかけて修吾は、目を見開いたまま、荒く小さく息を吐く清香に思わず言葉を詰まらせた。
「――……清香さん?」
修吾が声をかけると、清香は震える手を何とか止めるように、焼印をぎゅっと握りしめる。
「……昔…………本当に、ひな様が小さい頃…………あったのでございます」
清香のそのか細く震える、絞り出したような声に、修吾は驚いて息を止めた。
「人のあまり近寄らなかった旧屋敷に……そこも、ぼやの多い場所で、そこで黒い塊を見たと……気を払いに行くと言って…………ひな様が、業火に巻き込まれたことが」
「――!」
修吾ははっと目を見開いた。
はっ……はっ……、とひなは細かく息をしながら、少し先で大きく揺れる炎を現実味なくぼんやりと見つめていた。
綺麗、怖い、楽しそう、神秘的――頭が混乱しているのか、逆に冷静なのか。その揺らめく炎を瞳に写すひなは、不思議な感覚にとらわれていた。
(……1度の強風で一気に火の壁が…………あの時と同じ……まるで、留まり続けていた気が、私に気づいて貰えて喜ぶように、払えば払うほどパチッパチッと火花を散らし……あっという間に業火に……――)
逃げなければ、と思えば思うほど、チョコレートのような気がそれを拒むかのように炎の隙間を埋める。
ひなは踏み出そうとした足ががくっと折れ、その場にぺたんと座り込んだ。
パチパチと木を焼く音に、たまに吹く強風で巻き上がる火の粉、肌を焼くような熱さに、忘れかけていた記憶の断片が蘇ってくる。
(……ああ…………何だか……とても懐かしい…………そういえばあの時、どうして私はあの場にいたのだったかしら……)
じわりじわりと炎が近づく中、その眩しいほどの炎を見つめながら、昔、幼い頃身に起こった出来事を回顧した。
(……清香が……私の女中になると言ってくれて……気を宿していることを信じてくれて……手放しで喜んで…………そうして、どうしたのだったかしら……――)
丘を駆けながら、清香は誰に聞かれたわけでもなく、気がつけば話していた。
「――ひな様と出会い一目惚れをし、ひな様の女中にしてくださいと申しました後、ひな様がこっそりと打ち明けてくれたのでございます。自身が『陽』の気を宿して生まれたということを」
前を行く廉と後に続く修吾は、先を急ぎながらじっと清香の話に耳を傾けていた。
「嬉しかったのでございましょうな。眩しいほどの笑みを弾けさせぴょんぴょん飛び跳ねながら、丁度もやもやと黒い気を見た場所がある、払いに行きましょう! と息巻いたのでございます」
ひなは、弱々しくくすっと笑みを漏らした。
(そんなことができるのですか!? と驚く幼い清香の顔は何とも可愛らしかったですわね……! ……そうだわ……私は意気揚々と気を払いに……旧武家屋敷へ忍び込んだのでありました…………それが、あんなことになるなんて)
「……川向かいの旧武家屋敷の火災……」
修吾が記憶の断片を思い起こすかのように呟いた。
「昔……確かにあったような気もするな」
「ご存知でありましたか」
「子供が火を放ったという話だった気がしたが――」
「それが、正にひな様のことであります。勿論! ひな様は一切そのようなことはしておりません! 私はこの目でしかと見ておりましたから! ……その時の出来事は…………何とも……子供ながらに恐ろしく、美しく、思わず目が奪われる……引き寄せられるような、不思議な光景でありました」
「……美しく……不思議な光景?」
そこで初めて、前を駆けていた廉が口を挟んだ。
はい、と清香は頷いた。
「お二方は想像できましょうか。ひな様が屋敷の壁に触れる度に、まるで火花が、喜んでいる――いえ、遊んで欲しそうに、パチッパチッと四方で散る光景が」
廉と修吾は、はっとわずかに目を見開いた。
「ああひな様はここにいてはいけないと、子供ながらにそう感じた私が、ひな様の手を引いて屋敷を出ようとした瞬間……――まるでそれを拒むかのように火の手が上がり、ひな様を炎が囲んだのでございます」
けほ! けほ! とひなは息苦しそうに咳をした。
「……私と遊びたいのであれば……この辺りにしておいてくださいませ…………私は……この花桃の美しい景色を…………けほ…………清香と、見たいのであります……これ以上……焼き尽くさないでくださいませ……」
言いながらも、ひなは知っていた。
業火となった炎に、火の悪気の意思はないことを。
火の悪気は、気まぐれに火花を散らしただけであるということを。
ひなの瞳に、じわり、と涙が滲んだ。
「その時――ひな様は……女中になったばかりの私の名を、ずっと泣き叫んでおられて……私はその時に心に誓ったのでございます。このお方の傍で、このお方を一生守ると」
目を伏せ、ちょんと木にその身を預けると、ひなはそっと、呟いた。
「………………清香……」
それは、初めの火種が燃えていた木の根本が焼け、バキバキ……と大きくその木が傾くのとほぼ同時であった。




