第34譚 - 温
無我夢中で駆けてきたひなたちは、一目散に宿へと駆け込んだ。
慌てて閉めた、ガラスの玄関扉がガタガタと大きく音を鳴らす。
荒れ狂う春の嵐が噓のような、深紅の絨毯に温かい白熱灯のシャンデリアが灯る玄関帳場前の空間が視界に映ると、誰からともなく、ふぅ……! と皆の口から安堵の息が漏れた。
び、びたびたにございます! となぜかびっくりしているひなに思わず皆吹き出していると、すっと横から人影が近づいてきた。
はたと顔をそちらへ向けるひな。
するとそこには、文子がタオルを持って目を細めて立っていた。
ひなと目が合うと、ふわっと柔らかく微笑む。
「おかえりなさい、ひなさん」
さ! と大判のタオルを広げると、ひなはうる……と瞳を潤ませた。
「……文子しゃん……!」
わああ!! と文子の広げたタオルに飛び込むひなを、えいっ! とタオルで巻くように嬉しそうに抱き締める文子。
(……文子しゃん……)
(噛んだ……?)
(久々に聞いたな……)
文子しゃん! と笑う宗一郎の横で、清香、廉、修吾はそっと心の中で突っ込んだのだった。
「まあまあ……! ほんに大変なことでありましたなあ……!」
さあ早ぅ早ぅ! と仲居にタオルを促す女将。
さっぶ! と叫ぶ宗一郎たちに、仲居は慌ててタオルをかける。
「こぅんな春の嵐の日に、外に出てはいけませんよ。一体どこへ行っていらっしゃったの?」
「ああ、少々あの丘の向こうの海沿いまで」
修吾がそう言うと、まあ! と女将も仲居も驚いたように目を丸くした。
「あぁんな危険なところに……! しかもこぅんな嵐の日に行かなくても!」
「ほんとだよ」
「……しゅみましぇん……」
うっかり突っ込んだ廉に、思わずちっちゃくなるひな。
その瞬間、宗一郎、修吾、清香が一斉に廉の後頭部を全力で叩く。
すると、女将が言いづらそうにやや視線を泳がせると、少し俯き眉を下げた。
「……あそこはねぇ……あまりお客様にもお薦めしない場所でして……」
「ああ、そのことでしたらもう大丈夫ですよ」
タオルで身体を拭きながら、しれっとそう言う修吾に、えっ? と女将は顔を上げた。
はい、と清香も頭を下げる。
「僭越ながら……ぼやが多い場所とお聞きいたしましたが……もう起こりませんゆえ、ご安心くださいませ」
驚きのあまり言葉が出ない女将に、くすっと文子が笑った。
「ほら、ひなさんが気を巡らせてくださったようですわ」
「…………ほんに……妖精さんはすごいのねぇ……!」
「はぁ?」
びっくり! と目を丸くする女将。
ひなさんが妖精っていうのは共通言語なんです? と宗一郎が思わず突っ込むと、皆思わず吹き出した。
その時、1人腕の中ですん……と動かないひなを、文子は不思議そうに見下ろした。
「…………ひなさん?」
するとひなは簀巻きのようになったまま、ぽふっ、と文子に顔を埋める。
「……………………のに」
「はい?」
皆も、不思議そうにひなを見た。
「……清香と……花桃の景色を……見とうございましたのに」
すんすん……と小さく鼻をすするひなに、清香は思わず目を瞬く。
まあ……! と文子は目を丸くすると、本当に仲良しねぇ……と柔らかく微笑んだ。
よしよし、とひなの頭を優しくなでる。
「大丈夫ですわ、ひなさん。明日、晴れたら行けばよいことですわ」
「…………」
ひなは、うまく働かない頭で一生懸命思考を巡らせた。
ぱちぱち、と目を瞬く。
「……………………明日?」
ああ、そうそう! と女将がぱちんと手を合わせた。
「この嵐で列車は止まっておりますの。この辺りの線路は雨風に弱うございますゆえ……特にこの時期は嵐が多くて、列車がよう止まります」
「……れっしゃが……とまって……」
「もう1泊、ごゆっくりしていってくださいませ」
「もういっぱく…………――!」
簀巻きから顔を覗かせたひなの顔が、ぱああああ……! とみるみる輝く。
「……災難を喜ぶな」
「しゅみましぇん」
すかさず口を挟む廉に、再び簀巻きの中へ戻っていくひな。
すると、ひなの背後に宗一郎がすすす……と近づく。
「……もう1泊」
「まあああぁぁ……!!!」
笑顔を弾けさせ再び顔を出したひなに、全員の笑い声が宿全体を温かく大きく包み込んだ。
大きな窓と行灯の明かりに湯気が立つ、広く趣のある檜造りの湯殿で、廉は深い湯船に胸まで浸かり、はぁ……と息を吐いていた。
掲げた手からぽたっと滴る湯が湯船に落ちて波紋を作る度に、今日、目を開いた瞬間の涙を溢れさせるひなの表情が鮮明に浮かんだ。
もう一度はあぁぁ……と深いため息をついて顔を思わず手で覆う。
(…………やばいな……)
そのとき、ひた、ひたと石張りの浴室内をゆっくり近づいてくる足音に、どきっと廉は動きを止めた。
「……お……おおおおまたせいたしました……」
湯が湯船に流れ込む音でかき消えそうなほど小さくそう呟くひなに、いや、と廉は何とか言葉を返す。
ひなは手拭いを湯船の縁に置くと、するっと湯船に足を入れた。
廉はその艶めかしい白い肌を湯気越しにぼんやりと横目で見ていた。
しししつれいいたしますです……と再び消え入りそうな声を震わせながら、ひなは廉の肩にわずかに触れない程の場所にすっと腰を落とす。
小さく手酌で肩に湯をかけ、はわ……と心地の良さそうな声がひなの口から漏れると、はあああぁぁ……! と廉は何度目かの深い息を吐いた。
えっ!? とひなは真っ赤な顔で廉を見上げる。
「何で……2人揃って拒否したのに、一緒に入ることになってんだ……」
「ほ、本当にございますね……」
あはは……とひなからも失笑が漏れる。
それは少し前の夕食時であった。
「そういえば、今日も温泉を貸し切りにできますよ。今日こそ新婚ご夫婦でごゆるりとした時間を作られては?」
食後の茶を湯呑みに注ぎながら女将が、おっとりとした口調で文子へ告げた。
えっ、私? と文子は目を丸くする。
「ああ女将さん、新婚さんは私ではなくて」
「え?」
「そこの2人ですよ」
宗一郎が締めの水菓子である水羊羹と甘夏の乗るガラス皿を片手に、すっと隣の廉とひなへ手を向ける。
ぱち、とひなと目が合うと、女将はまあ……! と頬を染めて口に手を当てた。
「新婚の妖精さんでありましたの!」
「しんこんのようせいさん……」
ひなは目をぱちぱちと瞬く。
「こぅんな可愛らしい奥さんなんて、旦那さん幸せねえ!」
「かわいらしいおくさん……」
「おい……」
「ほぅら奥さん今日寒い思いをいたしましたし、優しい旦那さんに身も心も温泉でほぐしてもらってくださいな」
「いや……」
「やさしいだんなさん……!」
「ね!」
「はい!!!」
きゃわ!!! とひなは身をよじった。
「――……あの女将は、清香さんの回し者か何かか?」
あはは……! と大きく笑い声をあげるひなをすん……と細い目で見る廉。
お前は乗せられすぎ、と言うと、しゅみましぇん、と小さく呟くひなに、廉は呆れたようにふっと笑った。
そうなのですね……あれが乗せられるということなのですね……と呟きながら、ぱしゃぱしゃとゆったり湯を腕に駆けながらさらっと自身の腕に触れている様子を廉はちらっと見ながら、ふとその腕に視線を向ける。
「……お前……大丈夫だったの?」
火、と小さく口にした。
えっ? と目を瞬くと、はい! とぱっと廉の目の前に両手を掲げた。
「見ての通り、私は何といいますか……さっと焙られた程度でございまして……こんがりと焼かれてしまったのはむしろ清香の方なのではと……」
「例え」
炎上していた木を思いきり叩いたと後で聞いたのです……清香はなんとすごいのでしょう……! とわなわなと震えるひなに、いやあの人なら上手く躱してるだろ……とほっと胸をなでおろす。
ふと廉の頭に、ひなを見つけた瞬間の光景がよみがえった。
無秩序に風に煽られ大きく揺れる赤い炎。
その隙間から、そこに居るなよと祈り続けた、見覚えのある水色のワンピースが微かにちらついたあの瞬間――。
廉は、無意識のうちに目の前の手を掴もうとぱっと手を出した。
その瞬間、びくっ! と身体を強張らせるひな。
その廉の困惑の表情に、どきっと胸が鳴った。
どきどきと見合うひなと廉。
「……お前を……炎の中に見つけた瞬間…………生きた心地がしなかったよ」
「私も……廉様が全ての気を一瞬にして引き寄せた瞬間……血の気が引きました」
「お願いだから……俺がいないところで…………危険な真似しないでくれ」
「廉様こそ……もう二度と気の渦巻く中心へ来てはなりません」
「じゃあお前が気の渦巻く中心へ行かなければいいだろ」
「私は行かねば気が払えません」
「俺がいる時なら」
「それでは廉様がまた引き寄せてしまいます」
「わがまま」
「廉様こそ――」
静かに言い合いながら、じわりじわりと近づけていた顔をどちらからともなくぴたっと止めると、じっと見つめ合う。
ひなの頬を伝う湯が顎から、ぽた、と滴った瞬間、互いにふっと口づけた。
どこに触れるでもなく、ゆっくり確かめ合うように唇を重ねていると、廉がするっと深く絡めた。
んっ、とひなから吐息が漏れた瞬間、はっ! と廉は目を見開き、ばっ!! と顔を背けた。
「……っだめだめだめだってちがうちがう温泉! 温泉に浸かりに来たんだろうが……!!!」
「そそそそうそうそうでございます!!! ままままったりと!!! こ、心をおおお落ち着かせ……!!!」
やべぇ……あっぶねぇ……!!! と頭を抱える廉の横で、まっ……と耳まで真っ赤な顔を覆い、もうのぼせました……? と呟くひなであった。
ふう……!!! と何とか再び仕切り直して、触れない程度にちょんと並んで湯船に浸かるひなと廉。
風が落ちついてきたのか、ガタガタと音を立てていた窓が気づけばすんと息をひそめていた。
雨も気づけば止み、たまに雲の切れ間から月明かりが大きな窓からやんわりと差し込む。
「何と、楽しい旅行であったのでしょう……!」
「それは何よりで」
「はい……! 以前も申しました通り、私は家族との折り合いが良くありませんでしたので……こう、家族のように皆でわいわいと食事をしたり花見をしたりという初めての経験が、何とも幸せでありました……!」
「……俺も入っています?」
「当たり前でございます!!! 廉様がいてこそなのです! 廉様がいなければ、皆でわいわいと楽しくとも、胸にぽっかりと穴が開いたように寂しいのでございます」
「…………」
廉はぐいっとひなの腕を引いた。
「なな…………ななななな!?」
次の瞬間、ひなはいつものように、すっぽりと廉の脚の間におさまっていた。
「やっぱり……ここだよな、ひなは」
「ままままままま……」
「いつもより『ま』が多いですねえ」
「さささきほど、おお温泉に浸かりに来たと――」
「もちろん。あわあわと可愛らしいひなをゆったりと堪能しながら、まったりと浸かりますが?」
「……――――!?!?」
にや、と背後で悪そうに笑う廉に、開き直りました廉様は大変危険にございます清香……!!! とひなは声にならない声を漏らした。




