第22譚 - 幕間
清香の朝は早い。
ぱちっとベッドで目を覚ました清香は、カーテンから漏れる光に、あらまあいつの間に陽が昇るのがこんなにも早く……! と身体を起こした。
ピィピィと早口にさえずるメジロに、何やら春の気配が近づいてまいりましたな、と小さく口端を上げると1度、大きく伸びをする。
仕えるぽやぽやとした主人のおかげで、季節の移ろいやその四季折々の草花、野鳥に大層詳しくなった。
彼女の実家の呉服問屋にこっそり忍び込んでは気を払いながら、「この杜若、涼しげで暑い今の季節に纏うと途端にすっとひんやり爽やかな心地になると思いません?」「見て見て清香! この萌黄色の反物、ウグイスと梅のなんとも可愛らしい……お花見団子が食べたくなりますわね!」とこちらに顔を向け、色鮮やかな反物ですら霞むほどの可憐な笑みを浮かべていたことは、清香の記憶の中で少しも色褪せない。
(そういえば、今日にでも雛人形を飾るのだと息巻いておりましたな)
ふとそう回顧すると、着物箪笥から梅の小紋柄の着物を探し出し、今日のひな様の髪飾りもお揃いの梅にいたしましょう、とるんるんと着物を手に取った。
朝食の食器類を、清香は慣れた手つきでてきぱきと片す。
このひなこだわりの洋館で、ひなこだわりの洋食器を扱うのにも、もうすっかり慣れた。
さてお夕食の買いつけと、雛人形に添える季節の花を買いつけませんとね、とぱぱっと手を拭いたエプロンをさっと外し、居間にひょいと顔を覗かせる。
その視線の先――品のある紅茶とほのかに甘酸っぱいイチゴの香りの漂う居間の光景を見て、清香はむっ……と目を細めた。
ソファに座り、やや頬を染めて嬉しそうに雛人形の解説に息巻くひな。そのひなを脚の間におさめ、ひなの髪に揺れる梅の髪飾りをちょいちょいと弾きながら楽しそうにひなを見つめる廉に、睨むような視線を向けた。
ひなと想いが通じ合ってからというもの、廉のひな溺愛は目に余るものがあり、清香としては面白くない。
しかしながら、そのひなはあわあわと顔を真っ赤にしながらも何とも幸せそうであり、さらには色気と可憐さを同居させた美しさに拍車がかかり、それはそれで目の保養ではあった。
ああ今日も何とも可愛らしい……可愛らしい、けれども、廉様邪魔。と、じと……と念を送っていた。
それに先に気づいた廉が清香のもやっとした表情を見て、はっ、と勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
その瞬間、廉様のお夕食のスープに吐くほどのお塩を入れて差し上げますわよ、とギン……! と睨みつけると、廉はぞわっと1度身を震わせた。
「――この太鼓の子は、朝寝坊をしまして、朝食のイチゴを食べ損ねたのであります」
「……そうなんですか?」
ひなの世界観全開の、五人囃子の謎めいた設定に、廉は思わず笑いを堪える。
「はい! 大好きなイチゴが食べられなくて、むっとした顔をしているのでございます。それにほら、ぴょんと可愛らしく寝癖がついておりますでしょう?」
「僭越ながら、それはひな様が以前仕舞う際にうっかりつけた跡にございます」
「違います。この子は朝寝坊をしたのです」
むっと清香に口を尖らすひなに、背後の廉が可笑しそうに笑い声を上げる。
「では、この一番右の子は?」
「この謡さんは、ジャムサンドを食べようとしているのです」
口を開けていますでしょう? と得意げに言うひなに、思わず清香と廉同時に吹き出した。
「確かにこの子、地味令嬢時代のひなに似ていますねぇ」
笑いながらそう言う廉に、清香はぷっと思わず笑いながら顔を背ける。
えっ……、と固まってじっと雛人形と見つめ合うと、ひなはもやぁ……となんともつかない顔を廉に向けた。
言い得て妙ですな……と笑いを堪えながら清香はひなに向き直る。
「ひな様。今から諸々の買いつけに行って参ります」
「はい清香。よろしくお願いします」
「ごゆっくり」
「!」
ひなの腰に腕を回しながら、にや、と目を細める廉に、清香もすんと目を細める。
「……神速で戻って参りますので、くれぐれも居間で不埒なことをなさいませんように、廉様」
「どちらが早いでしょうかねぇ」
「雛人形の飾りつけを中断なさいますと、ひな様は大層お怒りになりますよ」
えっ、とひなを見下ろす廉。
中断? 中断とおっしゃいました? 廉様にイチゴあげませんわよ、と鋭い目線を向けるひなと廉がはたと見合う横で小さくため息をつくと、では行って参ります、と清香は踵を返す。
居間を出たところでひなの声が不自然に途切れ、ああもうどんだけべた惚れですか廉様……! と清香は頭を抱えた。
「清香さん!」
食材の買いつけを終え、最後に馴染みの植木屋へ顔を出した清香。
花の好きなひなが新居の庭の手入れを申し出てからというもの、苗や苗木の調達や手入れの相談、もみの木や門松の仕入れに至るまで大層お世話になり、気づけばこの杉本植木屋とはすっかり馴染みとなっていた。
清香が顔を覗かせると、いつも担当してくれる次男坊の伸夫が大きな鉢を抱えながら顔を出した。
「来る頃だと思ってましたよ! ……あれっ? 今日はひなさんはご一緒でない?」
「……残念ながら、雛人形と睨み合い中でして」
「絵になるなぁ!」
「睨み合うのが?」
雛人形と睨み合ってるひなさん絶対かわいいですって! 見たいなあ! と鉢を置きながら楽しそうに話す伸夫。
多分今は旦那に奉仕中ですがね、と清香は内心そっと付け足した。
この人懐っこい青年は、初めてひながぽやっと顔を出してからというもの、すっかりひなに夢中らしい。
顔を合わせるたびにひなが可愛いだの美しいだのと捲し立てては、そうでしょうとも、と清香は得意げに相槌を打っていた。
「そろそろ暖かくなってきますし、可憐なひなさんにぴったりの百日草や金魚草、千日紅なんかを植えてみてはどうですか?」
「ああ、それは近々お願いするとしまして」
「では明日にでも!」
「いや、今日は雛人形に添える季節の花をと」
ああ、季節の花……、と伸夫は目を丸くした。
「ちょっと待ってくださいね、今あったかな……ていうか清香さん、いつも切花もうちで買いつけてくれますよね」
「はい」
「花屋へ行かないんで?」
花屋のが格段に種類ありますし早いですよ、と言う伸夫に、清香は思わず目を瞬いた。
はたと固まる清香に、伸夫も思わず驚いたような顔を向ける。
その手がありましたか、とぽん、と手を打つ清香に、伸夫は思わず笑い声をあげた。
「うっそ! ほんとに清香さん!」
「失念しておりましたな……」
「ええー! 清香さんも抜けてるとこあるんだ!」
「失礼な……つい、杉本植木屋が馴染みなもので、足が向いてしまっていただけで」
「ええー嬉しいなあ! いやいや……可愛らしいですね清香さん」
にこ、と頬を染める伸夫に、清香は思わず目を見開き固まる。
「ちょっと待っててくださいね」
さっと店の奥へ駆けて行く伸夫を、口を小さく開いたままぽかんと目で追う清香。
パチンパチン、と剪定鋏の小気味よい音を聞いていると、暫くしてさっと再び伸夫が顔を出す。
次の瞬間、ばさっ! と大きな花の束を清香の手に乗せた。
「桃、梅、菜の花。これはひなさんの可憐な印象を模したスイートピーで、このラナンキュラスはー……清香さん」
「!」
「俺からの、贈りも――」
ぱし!!! とその瞬間、清香はいい音を立てて伸夫の手にお代を叩きつけた。
「いつもありがとうございます、伸さん」
そう言うと、はっ、と小さく笑って伸夫へ顔を向ける。
「しかと、ひな様へお渡しいたしますゆえ」
清香は色恋の予兆を一瞬で叩き折ると、にやと笑い、颯爽と踵を返した。
驚いたように目を丸くしたまま、颯爽と去って行った清香の背を目で追っていた伸夫。
少しして、ははっ! と笑いながら目を細めた。
「かっこいいなー清香さん……!」
(……私の方でありましたか……)
すん、と目を細めながら、帰路を足早で進む清香。
(いやいや、随分と懐かれているなとは思っておりましたが……てっきりひな様に傾倒しておられるからかと……いやいや、懐っこい系年下男子恐るべし……)
しかと適切な距離を保とう、と心に誓う清香。
ふと受け取った花に視線を落とした。
(私は……ひな様のお傍におられれば、それでよいというのに)
『このラナンキュラスはー……清香さん』
ふわっと浮かべた人懐っこい笑顔が、ひなのぽやっとした笑顔と重なった。
丸みのある綺麗な花にじっと目を凝らす。
(……今度は……くまとかに見立てそうでありますな)
正月花の洋菊を全て雪だるまにしたひなを思い出し、ぷっと思わず笑みが漏れる。
らなん……何だっけ……と首をかしげながら、清香はひなの待つ家へと歩みを進めた。
「清香清香清香!」
玄関ホールへ足を踏み入れた瞬間、ひながめいっぱい花を散らした満面の笑みで駆けてくる。
清香の顔から、無意識に笑みがこぼれた。
「ただいま戻りました、ひな様」
「おかえり清香! 待っていたのよ! ……あら?」
ひなは、はたと清香の抱える大量の花に視線を向けた。
ひと回り大きくまるっと美しく咲くラナンキュラスに目を留めると、ぱちぱちと瞳を瞬く。
気になってる気になってる……! と内心くすっと笑うと、持ちますか? と大きな花束をひなへ手渡した。
まあ……! と色とりどりの花に埋もれながらきらきらとめいっぱい瞳を輝かせるひなに、伸さんが見たら昇天しそうですな、と笑いながら、清香は真っ直ぐ居間へ向かう。
「雛人形は飾りつけられましたか?」
「はい! 自信たっぷりでありますわ!」
「廉様となされたのですか?」
「…………」
顔をささ……と花束で隠しながら、そそそうなのであります……と小声で呟くひな。
「…………何を、なされていたのです?」
「…………」
何かを思い出したのか、ひゃわ! と奇声を上げると、ぽぽぽぽ……と耳まで真っ赤に染めた顔を、かさっと花束の裏から覗かせた。
「……『秘密』……なのです」
「あらまあ」
あらかた廉に「清香さんには秘密ですよ」とでも言われたのだろうと推測すると、畜生鷹野廉め……と社交倶楽部へ顔を出しているであろう廉に内心舌打ちする。
ふと、はわ……とうっすらと憂いを帯びた瞳を伏せ、色香を漂わせるひなに、清香の目が無意識に引き寄せられた。
もじもじと恥じらうひなをしばし見惚れると、はぁあ……! と頭を抱えて居間のソファに雪崩れ込む。
(畜生、可愛らしすぎますな……!!!)
いい仕事するではないか鷹野廉め……! と若干の敗北感を噛み締める清香であった。
「まあ、清香どうしたの!?」
花束をテーブルに置いて慌てて駆け寄るひなが、死なないで清香!!! と清香の頭をがばっと抱える。
その大げさな反応に、清香は思わず笑い声をあげた。
ほっ、と安心したように目を細めると、そうだ! とひなは目を大きく見開く。
「清香! 来て来て!」
ひなにぐいっと無邪気に手を引かれ、清香は目を丸くした。
食堂のダイニングテーブルで、見て見て! とひなが笑みを弾けさせながら、砂糖のまぶされたイチゴたちが乗る皿を掲げた。
ぱちぱち、と清香は目を瞬く。
「……ひな様、これは?」
「『いちご砂糖』、なのです! 料理本とにらめっこしておりましたら見つけまして、なんと! 私1人で作ったのでございます!!!」
イチゴを切って砂糖をまぶすだけの簡単手料理をどや顔で掲げるひなに、清香は堪らず口に手を当てわなわなと震えた。
「……素晴らしすぎますな……!」
「すばらしすぎます!!?」
「甘くて可愛らしくて、ひな様にぴったりですこと」
「はい、清香!」
にこ! とひときわ可憐な笑みでイチゴをつまむと、ひなは嬉しそうに清香の口の前に運ぶ。
ぱくっとイチゴをくわえると、清香はぽっとわずかに頬を染めた。
「どうですか?」
「幸せでございます……」
「そうでございましょう!? これは何を隠そう、清香と幸せのお昼を過ごすために作ったのでございますから!」
ささ、これをパンに乗せて幸せのお昼といたしましょう! と息巻くひな。
すると、はっ! と突然目を丸くしたひなが、すすす……と清香の目の前に歩み寄る。
しっ、と人差し指を立てると、清香をじっと見つめた。
「少ぅししか作れませんでしたので……これは、私と清香の秘密にございますよ」
よいですか? と目を瞬くひなに、清香は1度、息を呑むように大きく目を見開く。
ははっと無意識に笑みが漏れると、愛おしそうにひなを見つめ返した。
「はい、ひな様……!」
そう言って、清香は嬉しそうに頬を染めたのだった。
「染み出たイチゴシロップに牛乳と、レモンも少々垂らしてみます?」
「まあ清香! 清香は天才ね!!!」
「もちろんでございます」
ひな様を喜ばせるためならこの清香、やってやれないことはございません、とひなに得意げな笑みを向ける清香。
なんと……愛しているわ清香!!! と気持ちが高揚するあまり思わずそう叫んだひなに、がっ!!! と清香は食器棚に思いきり指を挟んだという。
新芽が小さく顔を出し始め、また1つ、季節が移ろい始めた冬の終わり。
家族の形は変わろうともまるで変わらないひなと、そんなひなと過ごせば過ごすほどに愛しさが増す清香の大きな笑い声が、暖かみが増してきた午後の柔らかな陽の差し込む洋館全体に絶え間なく響いていた。




