第21譚 - 初
窓の外では、朝から降り続いていた雨が、霙になり始めていた。
『折角今日は、廉さんの生まれの日なのですから』
宗一郎がさらっと告げた言葉に、ひなはあわあわと高速で思考を巡らせていた。
(お母様の命日=廉様の生誕の日!? お母様が亡くなられた日に廉様がお生まれに!? ということは、お母様は廉様を産み、命を落とされた――!?)
目を真ん丸に見開いたまま、ひなは納得したように小さくこくこくと頷く。
「……ということなのですね!?」
「どういうことだ?」
声に出してくれ、と廉は呆れたように突っ込んだ。
ひなと廉の様子を眺めながら、宗一郎は、ああー……、と何ともつかない表情を浮かべていた。
「やっぱり廉さん、言ってなかったんですね?」
「……うるせぇな……」
廉は気まずそうに視線を泳がせると、畳に座ったまま、すっとひなへ向き直る。
戸惑いの滲む廉の目と視線が合うと、ひなの胸がどきっと小さく音を立てた。
はぁ……、と廉は1度、息を吐いた。
「……雪の日に生まれて『雪』という名がつけられた母親が、雪の降る日に俺を産んで命を落とした。ということです」
はっ、とひなは息を呑んだ。
ああ、と、ひなの後ろで静かに座っていた清香は視線を落とすと、1度ゆっくりと目を伏せるように瞬きをした。
(廉様は……それで……――)
廉の言動やひなへの態度、ひなを好いていながらも一線を越えようとしない理由、その全てが腑に落ち、内心小さくため息をつく。
(幼少時代から……家族からどういう目で見られ、過ごしていたか……想像に難くないですな。ひな様にあえて告げていなかったことからしても、廉様の中で、未だ消化しきれていないのであろうと推測できますが……)
ちら……と清香は目の前のひなへ視線を向ける。
まあ……! 雪の日に……! と目を丸くしているひなに、ひな様、その反応は合っておりますでしょうか……!? とはらはらとした顔を向けた。
廉も、想像の斜め上をいくひなの反応に、若干戸惑っていた。
「……伝わりました?」
「えっ? はい……! あ、あの……何から申したらいいか…………あの」
もじもじとなぜか恥じらうように身をよじると、ひなは嬉しそうに微笑み、廉をじっと見つめた。
「話してくださり、ありがとうございます……!」
「はい?」
思わぬひなの言葉に、廉は間の抜けた声を漏らす。
するとひなは、ふふっ! と嬉しそうに笑った。
「お母様の命日を私へお伝えになられておられなかったのは、そういった理由であったのですね。私ったら……教えて下さらないと1人拗ねて……恥ずかしいですわ」
まっ……! と顔を覆うひなに、拗ねてたの? と廉は目を瞬く。
「ですが、こうして廉様がお話しくださったことの、何と喜ばしいことでしょう! また1つ、いえ2つと廉様に近づいたような気がいたします! 廉様の生まれの日も、お母様の名前も、雪がお好きでなかった理由も、ご家族と折り合いの悪かった理由も……こんなにも一度に廉様のことがたくさん知れるなんて!」
お母様と廉様のお生まれの日の天候まで! と息巻くひなに、廉は思わず目を見開いた。
存外理解してた、とひなを見て驚き固まる清香と宗一郎。
ひなは優しく廉を見つめた。
「ご家族にとって、悲しい出来事でございましたね。ですが、廉様がお生まれになったことが、私は喜ばしくて仕方がないのでございます。命を削りながらも廉様を産み落としてくださった、廉様を連れていかれなかったお母様に、私は感謝しかありませんわ……!」
そう言ってそっと手を合わせ目を伏せるひなに、廉は息を呑む。
宗一郎は目を細めると、ははっと声を漏らした。
「祝詞は、祖霊への感謝の意が込められていますからね」
「まあ……だからでしょうか……! 宗様の祝詞を聞いておりました際、すっと心が温かい心地になりましたのは」
宗様の声がとてもよい声だからかと思っておりました、と楽しそうに話すひなを見ながら、廉は呆気にとられていた。
今まで、こうも楽観的に、しかもここまで自分中心な反応をされたことがあっただろうか。
それが――その言葉だけで、こうも、心の奥底に膿のように暗く影を落としていた出来事が、ふわっと軽く澄んでいくなんて。
廉は思わず、ひなの手を引いた。
「な、ななな!!?」
腕の中に膝立ちでおさまったのひなの口から、ひゃわ……! といつもの奇声が漏れる。
「……単純だな……」
「い……いけませんか……」
「いや――」
廉はひなの顔を見上げると、ふっと目を細め、微笑んだ。
「――すごいな、お前」
「すごい……?」
褒められています……? と不思議そうに首をかしげるひなに、思わず可笑しそうな笑い声をあげる廉であった。
次の瞬間、はっ! とひなは目を見開いた。
「それはそうと!」
瞳を輝かせ、廉の首にしゅっと軽く腕を添える。
「なんとなんと、今日は廉様がお生まれになった日であったのですね!」
なんとおめでたいのでしょう……! と花を散らすような艶やかな笑みを弾けさせるひな。
「折角宗様もいらっしゃってくださっておりますし、ささやかに盛大に今日はお祝いするのはいかがでしょう? ああ、宗様は夜までいらっしゃいますか!?」
ささやかに盛大に? と目を丸くしていた宗一郎が、あはは……! と思わず吹き出した。
「ええ、おりますとも」
「なんと素敵な! では廉様のお好きな『偶然の産物でこしらえた奇跡の洋酒黒豆』を、僭越ながらまたお作りいたしましょうか!?」
「なんです、それ……!」
気になりすぎますが……! と腹を抱えて笑う宗一郎。では急ぎ用意をいたします、と清香が頭を下げる。
急な展開に目を丸くして言葉が出ない廉の表情を見て、ひなははたと不安そうに表情を曇らせる。
「……だめでしたでしょうか……」
すると廉は、眉を下げ困ったような笑みを浮かべる。
「好きにしてください」
そう言うと、ひなが愛おしそうに目を細めた。
その表情に、廉は堪らずひなに抱きついた。
なななな!!? とひなの顔が真っ赤に染まる。
あらあら……とわざとらしく顔を背ける清香と宗一郎。
「……何で、そんな嬉しそうなんだ……」
「そそ、それはもちろん、私の愛する夫がお生まれになった日でございますから!! 何よりも喜ばしい日にございます!!!」
恥ずかし紛れにひながそう捲し立てると、ぴた、と空気が止まる。
おや? とひなはぱちぱちと目を瞬いた。
いや想いをお伝えになられてはと申しましたが、そう唐突に……と何ともつかない表情を浮かべる清香。
ひなさんは随分と情熱的ですねぇ、と楽しそうに様子を窺っている宗一郎。
「今言うか……?」
「えっ……」
ふと見下ろし、耳を赤く染める廉に気づいたひなは、はたと固まる。
あれ……私……今何言って……!?!? と見たこともないほどにあわあわと慌て始めた。
そのあからさまな様子のひなに、ぷっと小さく吹き出す廉。
ああ笑われ……!!? と固まるひなの頬にそっと手を触れると、その愛おしい顔を引き寄せ、呟いた。
「可愛らしいですねえ、俺の愛する妻は」
「……――!」
はっ、とひなは息を止めた。
小さくため息を漏らす清香と、見てません……断じて見てませんからね? とにやにやと覗き見る宗一郎。
そんな2人の目もはばからず、廉は堪らずといった様子で嬉しそうに、真っ赤に艶めくひなに唇を合わせたのだった。
ゆっくりと顔を離すと、眉を下げ困った顔のひなと目が合う。
もう……! と恥じらうようにふくれるひなに、可愛いなと無意識に廉の口から笑みが漏れた。
すかさずもう一度顔を近づける。
その時、身構えるひなの視線の端に、にや、と笑みを浮かべる宗一郎が留まり、はわわわ……! と咄嗟に顔を背けた。
「いけません廉様!!!」
がっ!!! とひなのリボンの髪飾りが勢いよく目に当たり、いっ……!!! と廉は思いきり顔を押さえて頭を垂れる。
あああ廉様すみません……! と慌てるひなに、宗一郎と清香が同時に吹き出した。
冷たい雨が、気づけばふんわりと綿菓子のような牡丹雪に変わっていたこの日、ささやかな祝宴の準備から終宴に至るまで、笑いの絶えない1日になったという。
そして、その夜。
いつものように今日の楽しかった出来事を饒舌に語るひなの口を、この日は早々に塞ぐと、廉はなだれ込むようにベッドへと上がった。
その、今までとまるで違う求められるような深い口づけに、ひなはうっとりととろけるように、しばし成すがまま身を委ねていた。
しばらくして、ゆっくりと顔を離した、珍しく余裕のない表情の廉。その視線が絡むと、廉はしゅっ、とひなの浴衣の帯を解いた。
どきー! とひなに一気に緊張が走る。
突然強張った身体に、廉は小さく苦笑いを浮かべた。
「……ひなが、嫌というならしませんが」
はっ! とひなは目を見開いた。
「嫌ではありません!!!」
赤い顔で食い気味にそう言うと、は……恥ずかしいのでございます……と呟くひな。
そんなひなの様子に、思わず笑みを浮かべると、廉は堪らずキスを落とした。
長い口づけの後、唇が離れ熱い息がひなの口から溢れると、廉は思わず、はぁ……と吐息のような息を漏らす。
「……ひな」
「は、はい……!」
「本当は……俺が怖いんです」
はた、と息を止めるひな。
「……そ……それは…………廉様は……本当はしたくはないと――」
「ああいや、違います」
非常にものすごくしたいですが、と困ったように言う廉に、ままままあ……非常にものすごく……と顔を真っ赤に染めるひな。
微かに震える手でぎゅっ、と絡めたひなの手を握ると、廉は小さく呟いた。
「……子を成して……万一にも…………ひなが命を落とすことになったらと思うと」
「――!」
『……雪の日に生まれて「雪」という名がつけられた母親が、雪の降る日に俺を産んで命を落とした。ということです』
今朝、廉の口から告げられた廉出生時の事柄が、ひなの脳裏に甦った。
それは、このご時世特に珍しい事案ではなかった。
それだけ、子を生むということが命懸けであろうということは、さすがのひなも想像がついた。
もちろん、自分に起こり得ることであるということも。
ひなは不安の色が滲み戸惑いに揺れる廉の瞳を見つめると、きゅっと口を結び眉を寄せた。
次の瞬間――
ぱち! とひなは廉の両頬を挟むように手を当てた。
廉は思わず目を丸くする。
「れれれ廉様!!!」
「…………はい」
ひなの剣幕に、思わずそう声を漏らした。
「わわわ……私は!!! い、未だ頼りなく、廉様をしかと支えられない妻であるかもしれませんが!!!」
そう声を上げるひなの大きな瞳に、じわ、と涙が滲み、廉は大きく目を見開く。
「そのような廉様の葛藤を、う、受け止め、和らげ、共にできる妻になりたいのでございます! そそ、それが、夫婦というものではないでしょうか!?」
驚き目を見張る廉。
ひなは頬に添えていた手を首に回すと、下からぎゅっ! と抱きついた。
「わわ……私は! 廉様と、正真正銘夫婦となりたいのでございます……!!!」
誰よりも異性に触れることを恐れ、夫婦の営みを何よりも恐れていたひなから告げられたその言葉に、廉は思わず息を呑んだ。
声を震わせながらも必死に言葉を紡ぐひなの嘘偽りない想いが、廉の心にじんわりと響く。
「……ひな」
「それに」
首に腕を回したままわずかに顔を離し廉の目を見つめると、ひなは瞳を潤ませながら、ふふっ! と花を散らすように微笑んだ。
「悪気を引き寄せてくださる廉様といると、なぜでしょう、そのような事柄が起こり得ない気がするのは、私だけでありましょうか?」
廉は大きく目を見開いた。
(……俺のこの『陰』の気があることで?)
まるでそんなこと考えたこともなかった。
この宿した気のせいで母親が亡くなったのだと散々忌み嫌われてきた、この「陰」の気が、救いになるなんて。
そんな気がいたしません?? と目の前できらきらと輝かせている瞳を見ると、不思議とそうかもしれないという気になった。
驚くほど単純で、底抜けに前向きな妻を見つめると、ふと肩の力が抜けたように廉の口から息が漏れる。
無意識に目を細めると、ふっと口端を上げた。
「……俺の妻は……大層できた妻ですね」
「そそ……そのような…………未だ、至らないところばかりで……」
「いや――」
そう言うと、廉は頬を染め、大層嬉しそうにひなを見つめた。
「これ以上ない、俺にはもったいないほどの妻ですよ」
はっ、とひなは息を呑む。
みるみる瞳に涙が溜まると、口をきゅっと紡ぎ眉を下げた。
「…………わ……私は…………廉様の横に立って……恥じない妻になろうと……」
「恥じないどころか、見せびらかしたいほどに可愛らしい妻ですがね」
思わぬ言葉に、ひなは、はわ……! と思わず両手で口を覆う。
その可愛らしい反応に、廉は困ったように眉を下げると、笑ってひなを見つめた。
「愛しています、ひな。俺も、ひなと正真正銘夫婦となりたいです」
「……――!」
つ――……、と頬を伝う涙をぱぱっ! と慌てて拭うと、ひなも嬉しそうに艶やかな笑みを浮かべた。
「私も……廉様を、ずっとお慕い申しあげております……!」
堪らず廉はその唇を塞ぐ。ひなも、愛おしそうに廉の首に再び腕を絡めた。
しばらくして熱い吐息とともに離れた廉の唇が、次に首元に触れると、わわ……とひなの口から小さく声が漏れる。
廉はふっと笑うと、ひなを見下ろした。
「俺の帯、解いてみます?」
「まま……ままままま……!」
みるみる顔を真っ赤に染めて固まるひなに、これはこれは長そうだなと、廉は可笑しそうに笑ったという。
この日。
ひなと廉の、長らくすれ違い続けていた想いが交わり、ようやく夫婦としての夜を過ごしたのだった。
そして――
「おは…………おはようございます、ひな様廉様。昨晩は大層よい夜をお過ごしに――」
「ききき清香清香……!!!」
翌朝。
くったりと眠りにふけっていたひなが清香の声で目を覚ますと、慌てて、ばっ!!! と上掛けを大きく引き上げその中に丸まった。
「はいひな様」
「そっ……そこは、噛まないでほしかったわ清香……!!!」
「申し訳ありません。ひな様のお美しいあられもないお姿に、つい昨晩のお戯れの様子を想像してうっかり動揺――」
「そそれはみなまで言わなくてもよいと内なる私が言っているわ!!!」
きゃわきゃわと大声で捲し立てるひなに、あ……? とようやく目を覚ます廉。
「……うるせぇな……」
「……――!?!?」
一糸もまとわないままひなの背後から腕を回して引き寄せる廉に、ひなの口から声にならない声が漏れる。
廉もそこで、普段とは違う直接温かさが肌に触れる感覚に、あれ、と目を開いた。
あわわわわ……と耳まで真っ赤に染まったひなと目が合うと、寝ぼけたような顔でにや、と笑みを漏らす。
「……清香さん」
「はい廉様」
「後で参ります」
「!」
ちら、と横目で清香を軽く窺う廉。はたとわずかに目を見開くと、清香はすっと頭を下げた。
「……かしこまりました。では失礼をいたします」
あら廉様、まだお眠りに? と目を瞬かせているひなをちらっと見て、それは違いますぞひな様、と内心突っ込みながら清香は踵を返した。
ぱたん、と閉じた扉の奥から、ひなの驚いたような声が一瞬聞こえたかと思うと、すぐにその声が途切れる。
やれやれ、と清香はため息をつくと寝室を後にした。
(ひな様への執拗なまでの想いをぐっと抑えられていた廉様のタガが、ようやく外れたご様子……我慢なされていた時ですら随分とあからさまだったひな様への態度は、一体どうなってしまうのやら……)
ひな様のお身体は持ちますのやら、と清香は敬愛なるひなの身をそっと案じた。
そーおだ! と清香はぱあっと目を見開くと、ぽん! と手を合わせる。
(ひな様にはとびっきり甘いワッフルを、廉様には、吐くほどに甘ぁいお紅茶を用意してあげませんとね……!)
ふふふふ……! と悪そうな笑みを浮かべると、清香はるんるんと階段を下りていった。
昨日から降り続いた雪が大いに積もり、スズメやムクドリの鳴き声が吸い込まれるような、静かに澄んだ空気の朝。
ピンと冷たい外の空気とは裏腹に、ひなたちの洋館は、それは甘く温かい空気が包んでいたという。




