第20譚 - 覚
それは、床に就く少し前――
深く絡めていた唇をゆっくりと離す廉。
ひなは、その廉の熱の籠る瞳を、ぼんやりとした頭でとろんと見つめていた。
その廉の視線が、やや着崩れたひなの胸元にすっと落ちる。
ひなは、どきー! と一気に我に返った。
(れれれれ廉様――!?)
はわわわわ……! とひなはわずかに息の上がった廉を見つめながら、どきどきどき……と心臓の音が耳の奥で煩いほどに響く。
ひなと指を絡めていた廉の手が、その胸元の襟にすっとかけられる。
びくっ! とひなの身体が一気に強ばった。
(れれ……廉様そそそれは――)
次の瞬間――
ぎゅ! と着崩れていたひなの胸元の襟を閉める廉。
ひなは思わず固まった。
ささっと丁寧にひなに上掛けを被せると、もう一度軽く指を絡め、ちゅ、と触れる程度のキスを落とす。
顔を上げると、きょとんと目を丸くしているひなと視線を合わせ、ふっと甘く微笑んだ。
「お休みなさい、ひな」
そう言って自身も上掛けに潜り込み、ひなに背を向けて床に就いた廉を、横目で目線を向けながら、ひなはぱちぱちと目を瞬いた。
――そうして。
おやすみなさいませ……と呟いた後、真っ白な頭で、そうですわね……寝なければね……、と目を伏せていたひなは、しばらくして、ぱちっ! と大きく目を見開いた。
(……わ…………私……! き、期待をして……――!?)
かああああ……! とみるみる顔を耳まで真っ赤に染めると、ひゃわ!!! と顔を両手で覆う。
なんとあばずれな……! とひなは右へ左へごろごろと転げ回った。
(なんと……なんとはしたないのでしょう……! 廉様にその気はありませんのに……ずっと怖くて拒否していたのは私ですのに…………あわわ……なんと恥ずかしい!!!)
穴に入りたいですわ!!! と上掛けの中で転げ回っていると――
がばっ! と背後から抱きつかれ、ひなの息が止まる。
「……寒い」
そう言って、そのまま寝息を立てていった廉に、再び真っ赤な顔を覆いながら、廉様それはいけません……、と消え入りそうな声で何とか呟くひなであったという。
「それはそれは、おめでとうございます、ひな様」
「ちっともおめでたくないわ、清香」
私の話を聞いていたの? とちゃかちゃかとふるいを軽快にふるいながら、ひなは清香にむすっとした赤い顔を向けた。
悶々とした日々を送っていたひなはこの日、ようやく清香に事の顛末を説明した。
「もちろん聞いていましたよ。あの、結婚前は廉様の服を素手でつまんだ程度で真っ赤になっておられたひな様が、ここへ来てようやく廉様とまぐわう心づもり――」
「きききき清香清香!! そそそのその表現はそぐわないような気がすると内なる私が言っているわ!!!」
「では、なんと申せば?」
「…………」
ぽぽぽ、と恥じらうように顔を真っ赤に染めるひなに、あらあら純であらせられるのは変わらずですなぁ、と内心くすっと微笑んだ。
ぽー……、っとほんのり頬を染めながら伏し目がちな表情でゆったりとジャムを瓶から小皿へよそうひな。
トレーを用意していた清香は、ふとそのひなの表情に気づき、あら、何やら色気が……? とその変化にわずかに目を瞬く。
すると、ぽつりとひなが呟いた。
「廉様は……とてもお優しくて……お優しすぎて、胸が痛むのです。こんな想いを……毎晩毎晩募らせているなどと知れたら……ふ……触れてすらくれなくなるのではと――」
「それはぜっったいにありませんよね?」
わなわなと震えるひなに、間髪入れずに突っ込む清香。
えっ? とひなは思わず顔を上げた。
「なぜそう言い切れるのです!?」
「言い切れますよ!!! ……待って待って……待ってください、ひな様?」
「はい、清香」
「ひな様は……ひな様が一方的に想っておられる夫婦関係であるとお考えで?」
「はい。もちろんでございます」
「…………」
清香は、開いた口が塞がらない。
(え? 待って? ほんとに? あれだけ口づけだの抱擁だの堂々とされておいて?? 廉様不憫すぎ――いやいやひな様それはあまりにもあまりにもでは???)
清香は混乱して語彙力がどっかへ行った頭で内心突っ込むと、はぁ……とため息をついた。
「……お二方の問題は、そこでございますね……」
「ど、どこでございますか……!?」
や、やはり私のこの想いが重すぎることが問題なのでは――!? と青ざめるひなに、清香は頭を抱える。
「……その想いとやらを、一度、廉様に伝えてみては?」
「つ! つつつたえ……!?」
「廉様がお優しいお方であれば、受け止めてくれるはずではございませんか?」
「…………はわ……」
廉のことを考えているのか、ほわ……と熱を帯びた頬に無意識に手を添えるひなに、清香は思わず目を細める。
(本当に……あの、小さく無邪気な少女であられたひな様がねぇ……)
しみじみとひなを見つめる清香。
ささっと慣れた手つきでトレーに皿を盛りつけると、はい、とその白の洒落た洋風トレーをひなの手に乗せた。
「これを持って、一度、少し心を落ち着かせてきてくださいませ」
あははは! と客室内に宗一郎の楽しそうな笑い声が響いた。
「なんですか、『幸せのワッフル』って」
「このワッフルの名前にございます。この幸せのワッフルに、この『紆余曲折を経てこしらえたリンゴジャム』をぜひとも挟んでご賞味くださいませ」
「長いな名前が……!」
いつも通り可笑しそうに笑う宗一郎を見て、ひなの心はすっと穏やかになった。
ひなは、なぜか宗一郎と修吾に妙に懐いていた。
特に宗一郎は同じ男爵家であり、廉と修吾よりやや若く一番年が近く、食の趣味が合う(甘味・果物好き)、といったところから、ひなにとっては友人のように心許せる相手であった。
「ひなさんが作ったんですか?」
「はい! 私、粉をふるうのが得意なんですのよ!」
「そこ?」
どや顔でそう告げるひなに、ほんとひなさんおかし……! と笑う宗一郎。その疲れを感じさせない表情を見て、ひなは小さくほっと胸をなでおろした。
宗一郎が倒れ込むように家に転がり込んできたのは、昨日の夕食後であった。
神職である宗一郎は、一年の内で最も忙しい年末の準備から焚き上げまでの期間、一切の休む暇もなく働き詰めであったという。
ビールを一気にあおるとテーブルへ突っ伏す宗一郎に、一緒に酒を酌み交わしながら呆れたような顔を向ける廉。
『そのまま家で寝た方が早ぇじゃねーか……』
『いやいや疲れすぎましてねぇ。廉さんのふてぶてしい顔とひなさんのぽやっとした顔が見たくなったんですよ』
『何だそれ』
それに何か無駄にくだらない話で笑いたいとか気を遣わずだべりたいとかあるじゃないですか、と疲れた表情で笑う宗一郎に、それこそ家でいいだろ……と呆れながらも、廉は宗一郎のグラスにビールを注ぐ。
その旧知の仲の良さが垣間見える2人のやりとりを見ながら、ひなはちょこっと果実酒を口に含むと、素敵ですわね……とほっこりしていた。
そうして、疲れ果てて起床が朝食に間に合わなかった宗一郎のために、ひなは別途朝食を用意していたのだった。
「とても美味しいですよ」
「まあ……!」
ワッフルを口に含みながらにっこりと微笑む宗一郎に、きゅん……! とひなは瞳を輝かせる。
「それはもちろん清香がほぼ作っておりますゆえ」と脳内清香の声を、ひなは聞かなかったことにした。
「ひなさんが料理をするとは意外でした。もしや廉さんのためです?」
「そそそ……そうなのです……」
もじもじと恥じらうように答えるひなに、宗一郎は小さく笑みを漏らす。
「健気じゃないですか。ひなさんは良妻ですねぇ」
「……りょうさい……」
「いい奥さんになりますね」
「いいおくさん!!!」
きゃわ!!! と嬉しそうに顔を両手で覆うひなに、今日も最高に単純だなぁ……とひなをいじるのが好きな宗一郎は、楽しそうに滴れそうな甘いジャムをぺろっと舐めた。
そこではたと顔を上げると、ちらっと廊下へ視線を送る。ふうん……? と意地悪そうな笑みを浮かべた。
「では奥さん」
「おくさん!?」
「折角奥さんが単身部屋へ赴いてくれたわけですし、僕と楽しいことでもしますか?」
「まあ! 何でしょう?」
宗一郎はにこっと目を細めると、ひなの顔を覗き込むように、わずかに顔を近づける。
「廉さんを焦らせてみません?」
「……廉様を?」
ひなはぱちぱちと瞳を瞬いた。
「廉さんが焦るところ、見たことあります?」
「……焦る……? そう言われますと……あまり……」
「ほら! ひなさんばっかり焦って、悔しくありません?」
「なぜ私が常日頃焦っていることを、宗様はご存知なのですか?」
「そんなのはお見通しですよ」
「まあ、お見通し!!!」
なんてすごいのでしょう……! と目を輝かせるひな。
その反応に宗一郎はくすっと笑うと、ひなの後ろの背もたれに手をつく。顔を近づけてひなの瞳をじっと見つめると、やや小さな声で囁いた。
「例えば……もっと構ってくれないと他の男の所へ行ってしまいますよと思わせ――」
ばし!!!
とその瞬間、いい音を立てて、宗一郎の頭に分厚い蔵書が勢いよく叩き落された。
「雨ん中放り出すぞ、宗……!!」
「……っ……つあ――……!!!」
涙目になりながら頭を押さえる宗一郎。その背後で、イラついた表情で立つ廉に、ひなは目を丸くする。
「廉様!」
廉はぱっとひなの手を取ると、向かいのソファに引っ張っていく。
がっ! と腰を下ろすと、ひなを隣に座らせた。
「宗と、何やってる」
「何……」
はて、とひなは宗一郎を見た。
「『楽しいこと』にございます」
「お前、追放」
「ひどい廉さん……」
むすっとした顔でひなを見る廉に、ひなはどきどき……と落ち着いていた胸がまた煩く打ち始める。
一方で口を可愛らしくきゅっと閉め、可憐な瞳をぱちぱちと瞬かせるひなに、廉もまたわずかに頬を染めた。
「……何?」
「あ、あの……廉様も……ご、ご一緒にどうですか?」
「何してたんだ?」
「えと……廉様を、焦らせようとしておりました」
「それに誘うなよ、俺を」
あははは! と向かいの宗一郎が笑い声を上げる。
はっ!? とあわあわと焦り出すひなに、お前が焦ってんじゃねーか、と廉の口からも失笑が漏れた。
ひなに呆れた視線を向けながらも腰に腕を回し、しかと引き寄せて離そうとしない廉に、宗一郎はおやまあ小細工なんて必要なさそうですなぁと、内心くすっと笑みを漏らす。
いやいや比翼連理、夫婦円満は良きかな、と幸せのワッフルをぱくっと口に運んだ。
「ご馳走さまでございました」
宗一郎は丁寧に手を合わせ頭を下げると、さて、と立ち上がった。
「そろそろ参りましょうか」
「…………」
やや怪訝な顔のまま宗一郎とわずかに顔を見合わせる廉の横で、ひなはきょとんと目を瞬いた。
奥の間に、宗一郎の祝詞を奏上する声が大きく響く。
宗一郎のやや低く澄んだ曇りのない声が、心が洗われるかのようにすーっとひなに染み渡る。
神棚の下にちょんと控え目に置かれた、可愛らしい木箱のような桧の祖霊舎(故人の御霊を祀る社)の前に座る宗一郎。
その少し後ろで軽く頭を下げ目を伏せている廉を、ひなはそっと横目で窺った。
(今日が……廉様のお母様の命日でありましたのね)
月命日のみを教わり、毎月その日になると花を供えていたひな。
(廉様は、なぜ命日を私に教えてくださらなかったのでしょう)
表情の読み取れない廉の横顔を見つめながら、とくん、とひなの胸が小さく鳴った。
(……どうしたら……廉様に寄り添えるのでしょう……! 私ったら惚けてばかりいて……これでは、ちっとも廉様の妻として、廉様を支えられていない気がいたします)
宗一郎の声がじんわりと、ひなの心に温かみと、わずかな憂いを落としたのだった。
廉が玉串を奉納し拝礼を終えると、はい、と普段の柔らかいトーンで、宗一郎がひなたちの方へ向き直った。
「霊祭の儀、お疲れ様でございました」
さっと頭を下げるひな。
すると宗一郎が、ははっ、と笑う。
「とまぁ、改まるのはこの辺にして……」
にや、と廉に笑みを向ける宗一郎に、えっ? と目を丸くするひなと清香。
廉が、気まずそうに視線を泳がせた。
「楽しくいきましょう、ねぇ、廉さん? 折角今日は、廉さんの生まれの日なのですから」
「おい、宗……」
言うなよ……と頭を抱える廉。
わずかに、え……、と固まっていたひなと清香が、えっ!? と同時に思いきり廉へ顔を向けた。
「えええっ!?」
ひなは驚きのあまり、大きく声を上げたのだった。




