第19譚 - 心
『――よいですか、廉様』
正月膳を食べ終えたダイニングテーブルに、清香はばん! と勢いよく手をついた。
「森部呉服問屋が、古くからこの地に店を構える老舗問屋であることは、重々ご承知のことと存じますが」
「……はい」
食後の紅茶を嗜んでいた廉は、清香の剣幕に押され、思わず頷いた。
「古のものであればあるほどに、どうにも気は宿りやすいのではと、ひな様は考えておられるのです」
「……そうなんですか?」
驚いたように、廉は隣のひなを見た。
丁寧にクッキーへ洋酒黒豆を乗せていたひなが、ぱっと顔を上げる。
「そうなのです。新芽よりも多年草、苗木よりも御神木、新築よりも古建築であればあるほどに、気はよく宿っているように思います。もちろん、それが全てということではございませんが」
本当に、気というものは気まぐれですものね! と微笑みながら、黒豆が転がり落ちないようにクッキーをぱくっ! と頬張るひな。
うまいのかそれ……と若干気になっている廉に、清香は小さくわざとらしい咳ばらいを1つした。
「加えて、生糸や染料が植物や生き物由来であるがゆえなのか、渦巻く気が呉服にも宿りやすいのだとか」
「はい。ですので僭越ながら、私がお母様に気づかれぬようこっそりと、たまに呉服に宿る気を払っていた、という次第でございます」
えっ、と廉はわずかに目を見開いた。
「あの母親は、知らないのか?」
「知るわけありませんよ……」
ちっ、と小さく舌打ちする清香に、あらあら清香、よくありませんことよ、とひなはやんわりと窘める。
「奥様は、ひな様に宿る『陽』の気そのものを忌み嫌っておいでです」
「…………」
(『陽』の気そのものを?)
廉は、初詣で会った際のひなの母親の様子を思い返した。
冷たい笑みと、ひなをあえて見ないように振る舞う所作が脳裏によぎり、眉をしかめる。
(あれは……『陽』の気というより、ひなそのものを……避けているような)
「――ですから、よいです廉様!?」
「おお何だ!?」
再びばん! とテーブルに手をつく清香に、驚いたように廉は咄嗟に声を上げる。
「昔から女傑の一族である森部家を現在牛耳っておられる奥様……その言いなりであらせられる旦那様に、断じて心を許してはなりませんぞ!!!」
「あんた、何か変な本でも読んだだろ」
牛耳るって何だ!? と思わず声を荒げる廉。
すかさず、ささ……これで心を落ち着けてくださいませ、とひなは清香と廉にすっと黒豆を乗せたクッキーを差し出した。
(――……とか何とか色々言ってたけど――)
ひなが丁寧にささっ、ささっ、と呉服の気を払っていく様子を横目で眺めながら、廉は隣でわあわあと話す森部父に適当な相槌を打つ。
愛想笑いを浮かべるその眉が、ぴくぴくと震える。
(心底どーでもいい……!!!)
そんなことより頭いてぇ……!!! と廉は笑みを浮かべながら、ギリ……と思いきり拳を握っていた。
「すごいねぇ廉君。君たちが結婚してから……いやいや、結婚前からよく社交界で話題には上がっていたけどねぇ。とても君、評判がいいよ」
「そうでしょうか。前評判が悪すぎただけでは」
「ははは! いやいやそれはそうかもしれないけどね。随分と穏やかになって時世や異国の話題にも欠かない。文学や甘味華道茶道に至るまで多岐にわたる知識もある。そして愛妻家。令嬢もその奥方も皆あんな旦那、跡取りを見つけたいと躍起になっていると聞いたよ」
「はは、まさか――」
そう言いかけて、廉ははたと気付いた。
随分と穏やかになった→引き寄せる気をひなが払っているから
時世や異国の話題→ひなと新聞を読む日課
文学や甘味華道茶道→ひなの趣味(童話、お菓子、花、紅茶)
愛妻家→ひな
「――ああ、ひなさんのお陰ですよ」
「いやいや! またまた!」
「いえ本当に」
そう言って、痛みを堪えながらひなに視線を向ける。
色彩豊かな無数の布に囲まれるひなを、随分メルヘンな光景だな……と見つめていると、幾分か痛みが和らぐような気がした。
『ひなさんと関わりを持つようになってから、廉さんも変わりましたよ』
いつだったか、宗一郎が口にした言葉を、廉はふと思い出した。
そんなばかなとその時は内心鼻で笑い飛ばしたが、こうして身内外からもそう言われると、ああもしかしたらそうかもしれないと思うし、それは悪くないかもなと小さく笑みが漏れる。
それが、巡り巡ってはひなのためになるのだとしたら。
じ……と見つめていると、もじもじそわそわと挙動不審に動き出す。
むっと唇を尖らせてやや頬を染めたひなが、おずおずと廉を見た。
「れれ……廉様。そうじっと見られては……恥ずかしいのです」
「ああ、すみません。可愛らしくて、つい」
「ま!!!」
ひゃん! と顔を覆ってしまったひなにふっと笑って目を細めた瞬間、隣でわなわなと赤い顔で廉を見上げている森部父に気がついた。
「……あ」
「ああああ……ああいやあ……ここ、これはまいったな……!!」
「ああ……すみません」
「あああ、あいいやいやいやいや」
いやいやいや……これはこれはこれは……と視線を泳がせ、わざとらしく汗を拭うような仕草をする森部父に、やっぱりひなに似てんな……と廉はしみじみと感じていたという。
その一方で、ひなはというと――
(……はわ……はわわわ……廉様……)
両手で覆った指の隙間から、ちらっと廉を覗き見る。
父親と何やら会話をしながら愛想笑いを浮かべる廉に、きゅん……! と胸が締めつけられた。
(…………可愛らしくて、つい…………かわいらしくて……かわいらしい――)
ぽー……と廉に見惚れながら、先ほどの廉の台詞が頭から離れない。
すると、ふとひなの視線に気づいたのか、廉は指の隙間から覗く瞳を見て、ぷっと吹き出す。
(ああもう廉様!!!)
しゃっ! とひなは慌てて指の隙間を閉じた。
ひなは、気を払うどころではなかった。
(ななな……何でしょう、今のかっこよくもお茶目な笑いは……!!! お父様との会話がそんなに楽しいわけがありませんものね……! もしや、私が可愛らしいという言葉に舞い上がっていることに気づいて……!? はっ! それとも……可愛らしいというのは、私のことではなくて、この気を払っていた反物のことだったのでは……!?)
確かに、うさぎさんが描かれていて可愛らしい文様ですものね――!? と手に持っていた反物をわなわなと見下ろすひな。
はたとそこでひなは目を見開いて固まった。
(……といいますか……子供を愛でるような『可愛い』であったのでは……)
ずーん……と気分の落ちた表情で、じ……と手に持つ反物へ無意識に視線を落とす。
(何やら……ここのところ、心が忙しいです……)
反物から微かに渦巻く気を、さわさわ……と静かに撫でるひな。
(一体どこが可愛らしいのです、と……聞けばよいのでしょうが……なぜでしょう……それがとても難しいのです、清香)
無意識に顔を上げ、廉の横顔をどきどきと見つめる。
(私が廉様をかっこよいと……こうも思ってしまうことを……そっと心に止めて、廉様には秘密にしておきたいと……思っていましたのに……――)
目が合うたびに柔らかく笑う廉に、ひなはきゅっと唇を結び、滲みそうになる涙をぐっと堪えた。
(――今は、すぐにでも溢れてしまいそうなのであります……!)
そのひなの表情を見た廉が、驚いたように目を見開く。
「ひな――」
廉がそう言いかけた瞬間。
ぐら……とひなの背後の棚が小さく揺れた。
廉は一瞬わずかに息を止めると、考えるより先に駆け出していた。
まさか倒れるはずは、と頭で分かってはいながらも、咄嗟に駆けつけた勢いのまま、木組みの棚を壁へ押し付けた。
初めの小さな揺れでするっと微かに動いていた正絹の反物がその勢いで、一気に棚から零れ落ちる。
廉は避けようとして、真下に正座したひなをはっと見ると、慌ててひなの頭を庇うようにしゃがみ込んだ。
天幕を支える柱のように、廉に引っかかった反物がするすると四方へ開けていく。
突然四方を色とりどりの布に囲まれ、口に手を当てたまま動けず固まっていたひなはその目を瞬いた。
「……廉様……」
「これも、気の悪戯ですか……?」
そう言いながらわずかに汗を滲ませ顔を顰める廉に、きゅっ……! とひなの胸が苦しくなる。
泣きそうな顔で、廉の顔へ、両手を伸ばした。
廉は息を止めると、大きく目を見開く。
一瞬視線を合わせると、ひなはその顔を抱き抱えるように、ふわっと抱きついた。
「だめですよ……こんな……気の渦巻く中心に来ては……」
そう言って、抱えている頭をそっと撫でた。
吐くほどに痛かった廉の頭が、すーっと軽くなっていく。
と同時に、どきどきどき……と速まる鼓動が頭に響いた。
はあ……と小さく息を吐くと、廉はひなを優しく抱き締め返す。
「いっそ、呉服に宿った気が全部俺に引き寄せられれば早いと思いませんか?」
「そんな……! いけません! 廉様のお身体に障ります……!」
「そうすれば、ひなは俺に触れるだけでいいじゃないですか」
「ま……ままま……!」
はわ……と恥じらうひなを見て笑みを漏らすと、廉は耳元で小さく呟いた。
「……今日は、なかなかひなの視線が向かなくてやきもきしたので……それでひなの視線を俺に向けられるなら、それも一興かなと」
「……――!」
にや、と目を細める廉。
あわわわ……と口を開いたまま、信じられないくらい耳まで真っ赤に顔を染めると、ひなは困ったように眉を下げる。
次の瞬間――艶のある瞳を廉へ向けた。
その色の含んだ表情に、どき、と廉の胸が大きく鳴る。
「……ひな」
「廉様……――」
がたがた! ごっ! あああ!!! ガシャーン! と突然響く賑やかな音に、2人ははっと垂れ下がった布の隙間から顔を覗かせた。
すると、その視線の先では森部父が真っ赤な顔でおろおろと視線を泳がせていた。
はた、と目が合うと、気まずい空気が流れる。
「いい……いやいやいや……ほんとほんと、何と睦まじい……い、いいねぇ若いって……! はは……ああ、私は存在感が薄いことで有名だから、気にしないで」
いやいやでもこう見えて、お得意様には、行商の圧を感じずじっくりと吟味できるって好評なんだよ、はは! と笑う森部父。
あー……すみません、忘れてました、と正直に答える廉に、はわわわ……とひなはまた反物の中に顔を隠すと、真っ赤な顔を膝に埋めて丸くなったのだった。
そしてその日の夕食。
「……??」
清香はおせちのローストビーフを丁寧にフォークで口に運びながら、向かいに座る廉とひなにちらっと目線を向ける。
帰宅してから、何やらずっと赤い顔でいつも以上にぽやっとしていたひなは、黒豆をちまちまと口に運びながら、ちらっ、ちらっ、と隣の廉へ視線を向けていた。
ワインを口に含んだ廉がその視線に気づくと、にや、と甘く目を細める。
ままま……とみるみる頬を真っ赤に染めると、黒豆を小皿の上でちまちまと並べ出したひなに、何事? と清香は戸惑いを隠せない。
(親族への新年の挨拶の後、森部呉服問屋へ気を払いに行った……のは間違いない……はず? それがどうなってこうなるのか……)
どこに頬を染める場面が……? と首をかしげると、清香はふむ……と思案した。
「ひな様」
「……は、はい!?」
「久々の森部家は如何でしたか。問題なく気を払えましたか?」
「ま……」
もじもじと恥じらうと、ひなは無意識に廉の顔を見る。
すると、にやにやとした表情の廉の目が合い、まま……、と頬を染めるひな。
はい? と不思議そうな清香の視線に気づき顔を向けると、ま! と頬に手を当てた。
(『ま』しかわからない……)
素直に聞いたのは失敗でしたな、と清香は刺身をぱくっと口に含んだ。
「……っ」
夫婦の夜の寝室。
寝る前に交わす口づけは、クリスマスの夜以降、少しずつ少しずつ長く、深く甘くなっていた。
ゆっくりと重ねていた唇を、廉は名残惜しそうに離す。
ひなの口から艶のある吐息が漏れると、絡めていた指をきゅっとわずかに強く握った。
「ひな」
「は……はい、廉様……」
「もう一度」
「……はい……!」
「――!」
今までそう言うたびに、戸惑いの色ばかりを滲ませていたひなの瞳が初めてわずかに嬉しそうに煌めき、廉は思わず息を呑んだ。
熱を帯びた身体を押さえ込むようにぐっと奥歯を噛み締めると、廉に身を委ねるようにうっとりと目を細めているひなにもう一度、顔を近づける。
「……やばいな……」
「!? ――んっ」
思わず廉の口から小さく漏れた言葉に驚いた瞬間、ひなの口が再び塞がれた。
(可愛いすぎだろ……)
(やばいってななな何がですか!?)
顔ですか!? そんなにおかしな顔をしていましたか――!!? と脳内パニックに陥るひな。
しかし徐々に力が抜けていくと、結局は廉の成すがまま身を委ねてしまうひなであった。
未だわずかにすれ違いながらも、ゆっくりと心を通わせるひなと廉。
そんな中――
甘くとろけるような時間を終え、床に就いたひなは、暗闇の中、ぱちっ! と目を見開いた。
(……わ…………私……! 私……――!!?)
わなわなと震えると、ばっ! と顔を勢いよく覆う。
ひなは、大変なことに気がついたのだった。




