第18譚 - 明
(――……はわわ……今日もなんとかっこよい寝顔……)
キュルキュル、とムクドリの鳴き声が微かに耳に届く穏やかな朝。
目の前に眠る廉の寝顔を、ひなはきらきらと見つめていた。
ひんやりと冷たい空気に身を震わせるように上掛けの中で小さく丸まっていたひなは、ま……と目を細めると、静かにすす……と廉に近づく。
まあなんと尊い寝顔なのでしょう……このままぽやっと見ながら、この幸せなお布団の中でぬくぬくと1日を過ごせそうですわ……と寝惚けた頭でそんなことを考えていた、その時――
ばっ!! と伸びてきたすらっと長い腕が、思いきりひなを引き寄せた。
「――!?」
「寒……」
目を伏せたままの廉が、小さくそう呟く。
暖を取るかのように、ぎゅっ! とくっついてくる廉に、ひなの口からは声にならない悲鳴しか漏れない。
廉はさらに、あったけー……と抱き枕のようにひなに足まで絡める。
起きているのか定かでない廉にどうしていいかわからず、真っ赤になった顔を必死に両手で覆うひな。
「……れれ……れれれ廉様いいけませ――」
「――ひな様廉様、明けましておめでとうございます!!!」
清香は寝室へ入った瞬間、念のため持ってきていた余っていた橙を、廉目掛けていいフォームで投げつけた。
ひなたちの新居の洋館に、唯一ある低い畳敷きの奥の間。
すっと心の洗われる閑静なその部屋に構えられた神棚の前に座る廉。
その向かいに正座をする、白地に華やかな花を多くあしらった上品な訪問着を身に纏ったひなが、畳に手をつき深々と頭を下げた。
「廉様。明けましておめでとうございます。本年も、どうぞよろしくお願い申し上げます」
「新年おめでとうございます。本年もつつがなく過ごせるよう、よろしくお願いします」
廉がそう声を返すと、すっとひなは顔を上げた。
視線が絡むと、ぽっ、と頬を染める。
「……何ですか?」
「かっ…………いえ、見慣れぬ廉様の羽織袴姿が……何とも……す、素敵……いえ、お似合いに……」
口に手を当てながら目を細め、てれてれとわずかに身をよじるひなに、廉は小さく笑みを漏らす。
静かにひなへ手を伸ばすと、口に添えられた手を引いた。
「わ」
「普段にも増して可愛らしく華やかな妻にそう言われると、我慢ならないのですが」
「ななななにがでしょうか!?」
さらっとひなの髪を撫でながら頬に触れる。
「髪、また断髪してくれたんですね」
「れ、廉様が、短い方がお好きと――」
「ありがとうございます」
「れれ……廉様……あの」
甘い笑みを向けながらも、倒れ込んだひなの帯の下に手を添え、その身体を引き寄せる廉。
対してひなは廉の胸に手をつき、顔を背けながら必死にぐいぐいとその身体を押し返した。
「ひな」
「いいい今から初詣――」
「少しだけ」
「そう言って、この間も書斎で何度――」
真っ赤な顔でわあわあと捲し立てていたひなが、ふわっと薫る香りに、はたと動きを止めた。
廉はすかさず顔を近づける。その首元にひなは、さっ! と顔を寄せた。
廉の息がわずかに止まる。
すんすん、と香りを嗅ぐひなが、目をぱちぱちと瞬いた。
「廉様、橙のよい香りがいたします」
「……清香さんは、俺に柑橘の呪いでもかけたいのか?」
この間のレモン紅茶が未だに思い返されて恐怖なんですが、と廉が苦笑いを浮かべると、ひなは楽しそうに笑い声を上げた。
かくして、ひなたちはいつも通りの可笑しくも甘い新年を迎えたのであった。
「…………あ――……」
砂利の隙間に薄く雪が覗く境内の参道を歩きながら、廉は低い唸り声を漏らした。
前を行く人すれ違う人皆、その声と、人を殺めてきたのかと見紛うほとの険しい表情に、びくっ! と肩を震わせ、慌てて立ち去る。
巫女から授かった札を抱えながら、廉のやや後ろを慎ましく歩くひなが、くすっと笑った。
「傍若無人形態の廉様の前に、人は無し、でございますね!」
「傍若無人形態って何だ……」
「大層な気をお纏いになられておりますね」
「!」
周囲の悪気を引き寄せてしまう「陰」の気を宿す廉は、人の多い場所が苦手であった。
特に気の多く集まる神社で、人々の様々な念の渦巻く初詣ともなると、瞬く間に悪気を引き寄せ、途端に頭やら身体やらが鉛のような重さとなった。
「……そんなになのか?」
そう言って、廉は割れるように痛む頭に手を添えながら、ふとひなを見る。
どんなに……? とひなは、じと……と廉が纏う気へ目を凝らした。
(とろけたチョコレート程=とても纏っていらっしゃる、金平糖が乗りそうな程=ほどほどに纏っていらっしゃる、綿菓子が浮きそうな程=やや纏っていらっしゃる……――)
「金平糖程度にございます」
「すみません、常人にもわかる程度でお願いできますか」
廉は思わず突っ込んだ。
「宗様、お忙しそうでございましたね」
「あいつ、ああ見えて禰宜(神主を補佐する神職)だからな。毎年この時期は怒涛の忙しさっつってた」
「まあ! お身体は大丈夫でしょうか!?」
「大丈夫だろ。参拝ん時、神職とは思えないでたらめな顔向けてきたしな……」
「あら! 私にはお忙しさを感じさせない爽やかな笑みを向けてくださいましたわ」
「あいつはお前に甘いんだよ。修吾も」
「ま……それは私が廉様の……妻、であるからではないでしょうか」
「言い慣れませんね、それ」
「はわ……」
参拝を終えた廉とひなは、早朝の神社の清んだ空気の中、言葉とともに白い息を吐きながら鳥居へと向かっていた。
その2人の横をすれ違う熟年の夫婦の夫が、廉の険しい顔に、ひいっ……! と小さく声を漏らしながらそそくさと足を速める。
その瞬間、ん? と廉、ひな、そしてその熟年夫婦が歩みを止めた。
ばっ! とひなとその夫が振り返る。
「ひな……!?」
「お父様!?」
(森部家……!)
わずかに目を見開き固まる廉。
廉は、若干この夫婦が苦手だった。
柔らかな笑みを湛えながら、すすすっと廉の前に歩み出る森部母。
「これはこれは廉さん……まあ、何と奇遇でございましょう……!」
「森部様。新年おめでとうございます」
「明けましておめでとうございます。昨年は何かとご面倒をお掛けいたしまして……大変にお世話になり、ありがとうございました」
「いえ、こちらこそ昨年はありがとうございました。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます」
「はい。こちらこそ……どうぞよろしくお願いいたしますわ」
廉もすっと森部母の前に立ち、すらすらとにこやかに新年のあいさつを交わす。
しかし、ひなに似た大層端正で優美な顔つきで穏やかに笑みを浮かべながらも、どこか冷たい印象と、決してひなを見ようとしないその様子に、廉の胸はわずかにもや……とざわついていた。
(はわわ……道徳紳士形態の廉様……!)
一方、(至って普段通りの光景のため)まるで意に介していないひなは、廉の少し後ろで、ぽぽぽぽ……とうっとり廉を見つめていた。
そうこうしているうちに、森部母は、それでは失礼を致します、と踵を返す。
隣に立ってやや視線を泳がせていた森部父が、ええもう!? といった表情でわずかにその姿を目で追うと、ぱっと廉に顔を向けた。
「明けましておめでとう、廉君。旧年は本当にありがとう」
「こちらこそ。ご健勝のことと存じます」
「いやあ……それがね……」
森部父がそう言い淀み頭を掻くと、さっ! とひなの元へ駆けていく。
「……ひな!」
「お父様。新年おめでとうございます」
「明けましておめでとう、ひな」
「皆様、お変わりありませんか?」
「そ、それが、ひなが出ていってから大変で!」
まあ! とひなは口に手を当てて目を丸くする。
「急に商売が上手く行かなくなってしまって」
「なんと! それは大変!」
「そそ……そうなんだよ……!」
「なぜでしょう……!」
(ひなは……中身は父親似か?)
おろおろする父親と、まあまあ! と目を丸くするひなを、廉は小動物系親子……と眺めていた。
「――……で、午後に新年の挨拶へ赴いた際、卸す前の呉服の気を払ってほしいと言われたと」
「その通りでございます、清香」
色とりどりの正月膳が並ぶダイニングテーブルを囲みながら、清香は小さくため息を吐いた。
ひなは黒豆をつまみながら、まあ! と口に手を当てる。
「新年からため息などいけませんわ、清香! 幸が逃げませんように、清香の口いっぱいに昆布巻きを詰め込みませんとね!」
「……ひな様。誰しもひな様のようにぽやぽやと生きてゆけるほど、世の中は甘くないのです」
「世の中は甘くなくとも、この黒豆はとっても甘くてお菓子のようですのよ。知っていました?」
「存じております。それは、ひな様がリンゴジャムの鍋と間違えて、黒豆の鍋に洋酒と砂糖を大量に投入したからでございます」
「怪我の功名でございましたわね!」
「大怪我寸前で、清香が何とか味を調えたのです」
「あら」
さすが清香ね! とまた黒豆をつまんでは、ほう……! ととろけるように目を細めるひな。
隣で雑煮を食べながら、廉は呆れたような顔をひなへ向けていた。
「……何の話だ?」
話逸れてねーか? と呟く廉に、清香は小さく頭を抱える。
「ひな様は……幼少の頃より変な空気の読み方をなされるといいますか……『気』に敏感だからでありましょうか。空気の悪い話……とりわけ折り合いの悪いご家族の話となると、ぽやぽやっとものの見事に話をすり替えてしまうのです。無意識に」
「何か……わかる気がするな……」
そう言うと、廉は困ったようにひなを見た。
「でもお前、本当にあの父親が話してたこと――」
「廉様も、この幸せな黒豆をぜひご賞味くださいませ!」
はい! と黒豆の乗った小鉢を向けられ、えっと固まる。
きらきらとした期待の眼差しに負けて、1つをひょいと箸でつまみ、口に放った。
「――!」
すると、瞬時に口いっぱいに広がった洋菓子のような甘さに、廉は思わず目を丸くする。
「……菓子肴?」
「とっても美味しくありませんか!?」
うまいなこれ……ともう1つをつまむ廉に、こりゃだめだ、と清香は諦めて昆布巻きを口に含んだ。
切妻瓦屋根の2階建て土蔵造り、外装に黒漆喰をあしらった、歴史を感じさせる呉服問屋の店口の前に立つひなと廉。
「廉様」
「何でしょう」
「その……あまりお身体に障るようでしたら、こちらでお待ちいただいても」
「俺は、そこまで頼りにならない夫ですかね」
「まま……! そのような……私には……す、素敵すぎる夫にございます……!」
「……――!」
きゃわ!!! と恥じらい身をよじるひなに、廉ははたと動きを止める。
「……いや、不意打ち……!」
そうきたか……、と廉は思わず口に手を当てた。
午後になり、親族への挨拶回りに出掛けたひなたちは、最後に森部家へ訪れた。
門前で軽く新年のあいさつを交わした後、家を後にしたと見せかけて店口へと回っていた。
少しして、からからと小さく引き戸が開き、森部父が顔を出した。
「あ、ありがとうひな……ささ、中へ中へ」
「はい」
招き入れに応じて、2人は店内へ足を踏み入れた。
すると、まあ、とひなが小さく声を漏らす。
次の瞬間、はっ! と廉は目を見開いた。ぎり……と奥歯を噛み、顔を歪める。
まあ廉様……! とひなは慌てて廉に駆け寄った。
「ここの小上がりに出した呉服と、奥の棚にも行商でお得意様へご覧いただきたい呉服が――」
大丈夫にございますか……? と廉にくっついているひなを見て、きょとん、と目を丸くする父。
「……ひな? 何してるんだい?」
ひゃ! と慌てて廉から離れるひな。
「い、いえ、なな、何でもありません」
じゃあ奥に……と先に奥へ向かう父に、2人は無言で目線を送る。
「…………」
「…………あらまあ……」
「どんな程度なんだ……」
どんな……と、ひなは、店内に渦巻く気を一瞥した。
「チョコレート程度にございます」
「最悪だな……」
廉は割れるように痛む頭を、思いきり抱えたのだった。




