第17譚 - 迷
今年も残り数日となった、穏やかな年の瀬の朝。
廉は、食卓で見慣れない料理の乗る洋食器を前に、戸惑っていた。
「……これは、何ですか?」
「オムレツにございます」
珍しく腰に白いレースのついたエプロンを纏ったひなが、しおらしく答える。
「それは知ってます。ではなくて、上の」
「ケチャップを少々、可愛らしく……! これはお花――」
「ライオンですか?」
きょとんと見合うひなと廉。
すん……と真顔でケチャップのライオンと見合いながら、ライオンさん……とオムレツをちまちまと食べるひな。
真顔になっているひなへ、廉は不思議そうな顔を向けた。
「お前ライオン描くの上手いな」
「廉様。僭越ながら、それはまるで慰めになっておりません」
「?」
向かいに座る清香がすかさず口を挟む。
よいのです…………おや、オムレツも何やら少々焦げ……? とひなは目を瞬いた。
ひなは、少々迷走していた。
社交倶楽部に年末の挨拶へ顔を出すという廉を追って、ぱたぱたと玄関前庭まで出てくるひな。
廉は門前まで来ると振り返り、鳥の雛のようにくっついてくるひなを目を細めて見下ろした。
「寒いですよ」
「今日は穏やかな小春日和でございますので、心地よいほどですわ」
「そうですか」
そう言いながら廉は、ひなが首にかけているシンプルなネックレスに視線を落とした。
白金の細い鎖に吊られたダイヤモンドと桜色のガーネットを施した幾何学ペンダントに、そっと手をかける。
どきー! とひなは大きく目を見開いた。
「……似合いますね」
「今朝、ツリーの木の下にそっと置いてあったのでございます」
「そうですか」
クリスマス翌日に大きなツリーを置いてからというもの、一昨日は色とりどりの小菓子が詰め合わされた缶、昨日はリボンの髪飾り、そして今日はネックレスと、毎日のように贈り物が置かれていた。
楽しそうに笑う廉を、ひなはじっと見上げる。
「サンタクロースさんは、クリスマスがいつなのかをお忘れのようです」
ははっ! と声を上げて笑う廉に、ぽっと見惚れた。
「では行って参ります。おやつどきには戻ります」
「ごゆっくりなさってきてくださいませ」
「可愛らしい妻が恋しいので、すぐ戻りますよ」
はわわわ……! と顔を真っ赤にして固まるひなに吹き出すと、廉は踵を返した。
ひなはぷるぷる震えると、ばっ! と真っ赤な頬に手を当てて振り返った。
「ききき聞きまして清香!!!」
「大変仲睦まじいですな」
「ああああんなにもかっこよい廉様の隣に立って恥じない女性とは、一体どうやったら……!?」
「……ひな様」
「でもめげません! 少々ご朝食はうまいこと参りませんでしたが、努力に努力を重ね――」
「ひな様、後ろ」
え? と振り返るとそこには家を出たはずの廉が立っていて、ひなは耳まで真っ赤にして静止した。
え、あらやだ聞かれてしまいました? と目で訴えるひなに、廉はふっと笑みを漏らす。
「忘れ物」
「えっ? ――!」
すっと流れるように頭を下げると、慣れたようにひなの唇に唇を合わせた。
んっ、とひなの口から声が漏れる。
その瞬間、清香は目を見開いた。
ゆっくりと顔を上げた廉は、ひなの背後に立つ清香に気づき、わずかに目線を向ける。
驚いたような顔の清香と目が合うと、にやあ、と悪そうな笑みを向けた。
「……――!」
「では、行ってきます」
そう言って柔らかくひなに微笑み、今度こそ廉は立ち去った。
またしてもぷるぷると震えながら動けず立ち尽くしていたひなが、ああ……! 廉様の色気がとどまるところを知りません……! と口を押えてうずくまる。
そして清香もまた、わなわなと肩を震わせながら、その背を睨むように目で追っていた。
(……鷹野廉…………許すまじ!!!)
めき!! とブリキのジョウロを歪ませたという。
「――さて清香」
応接室に置かれた、花や飾り物の入った複数の箱を前に、向かい合うひなと清香。
「心を落ち着かせますのに、随分と時間を要してしまいましたが、気を取り直して参りましょう!」
「全くですな……」
「清香? 元気がありませんわ!」
「ひな様こそ、未だ顔が真っ赤にございますよ」
「はわわ……」
図らずも先ほどのやりとりがひなの脳裏に蘇り、ぽぽぽ、と無意識に唇に指を当て恥じらうひな。
くっ……なんて可愛らしい……! と清香はわなわなとジョウロを震わせる。
はっ! とひなは我に返る。
「惚けていてはいけません! 廉様が不在の間に、りょ……良妻……として、きちきちっと新年を健やかに迎える準備を完璧にこなしておかなければなりませんわ!」
「はい、ひな様」
「では清香! ……私は一体何からしたら?」
息巻くひなと、えっと虚を食らったような顔の清香が、きょとんと見合った。
柔らかな日差しがレースのカーテンから淡い線となって差し込む静かな居間に、パチン、パチン、と剪定鋏の小気味よい音が響く。
清香は飾り棚に白いレースのクロスを敷きながらふと顔を上げると、テーブルに向かい、淑やかな所作で花を活けるひなが目に留まる。
(……こうしていると……本当に、何とお美しい)
ふっ、と清香は小さく笑みを漏らした。
「……ひな様」
「はい清香」
「なぜ……白の丸い洋菊が綺麗に縦に2つ並んでいるのです?」
「えっ? 雪だるまさんのようで可愛らしいかと!」
きゃわ! と楽しそうなひなに、それは想像の範疇を軽く越えてきましたな、と目を丸くする清香。
「なるほど……そうきましたか……」
「……だめでしょうか? 良妻は花を雪だるまに見立てませんか?」
「(絶対に見立てませんが)ひな様のお好きなようになされては」
「まあ、ありがとう清香!」
雪だるまさん1人では寂しいかしら? と考え込むひなに、増やすおつもりです? と気になって仕方がない清香。
「……ひな様。正月花を活ける部屋はまだありますゆえ。そう手が止まっては、廉様がご帰宅なされてしまいますよ」
「それはいけません! 1部屋1人ずつといたしましょう!」
全部雪だるまにするおつもりです? と清香は目を瞬くと、わずかに動揺を顔に滲ませた。
ひなの活けた正月花とじっと見合っている清香。
草花の生い茂った茂みに雪だるまが佇んでいるようにしか見えなくなってきた清香は、あらおかしいですわね、と目を細める。
その横では、あら? こう? と声を漏らしながら、ひなが真剣に鏡餅へ水引を結んでいた。
ひなに視線を向けた清香は、小さくため息をつく。
「どういう風の吹き回しでしょうか」
「何がです? 清香」
「お料理にしましても新年をお迎えになる準備にしましても……これも、廉様の隣で恥じない女性となるためですか?」
「もちろんでございます! 努力に努力を重ねなければ、あのようにかっこよい廉様に、とても見合いませんわ……。 私は名実ともに廉様の、よき妻となりたいのでございます」
ふふっと微笑むひなに、清香は困ったように眉を下げると、小さく笑みを漏らした。
少しして、ふう……! と達成感に満ち溢れた顔をぱっと上げるひな。
「――何とか! できまし……た……?」
「…………」
ぱっ! とひなが手を離した先の水引を見て、清香は思わず固まった。
おや? と、ひなも不思議そうに目を瞬く。
「…………ライオン?」
「ライオンですな……」
「なぜ淡路結びがライオン結びに……?」
廉様のことを想っていたからかしら……? と不思議そうに水引と睨み合うひなに、清香は珍しく大きく笑い声を上げた。
冬の陽が高く昇り始めたころ。
ひなたちの洋館も随分と正月の装いとなってきていた。
「今日のお昼食は、ぱぱっと簡単かつ幸福を得られるジャムサンドにいたしましょう!」とひなの一声で軽食をつまんだ後、清香は洋館の外へと出ていた。
門前で植木屋と門松の配置を協議しながら、ふむ、と腕を組む。
(これが済みましたらおせち料理の買いつけ、黒豆も煮てしまいたいですな……しかし、ひな様と買いつけに参ると必ずや寄り道に次ぐ寄り道が発生して帰宅が遅く……というか、ひな様は今――)
その時、きゃ――――!!! どすん! とひなの叫び声と謎の鈍い音が洋館から響き、植木屋がびくっ! と大きく肩を震わせる。
(――……一体、何をしておられるのやら)
空回るまま陽も心も暮れにけり、と呟くと、急にどうしました清香さん、と植木屋が思わず口を挟んだ。
廉は、門前ではたと立ち止まっていた。
控え目な大きさながら和洋折衷な様子の門松に、異様な清香の(ひなっぽさという意味での)こだわりを感じ、小さく苦笑いする。
ああ正月準備、とそこで初めて廉は今朝、社交倶楽部へ顔を出しに行きますと告げた際、妙にきょどきょどそわそわとしていたひなを思い出した。
気合い入れて空回ってそうだな、と無意識に笑みを漏らすと、玄関の扉を開いた。
「戻りました」
すると食堂の方から、まあ! と花を散らすかのように華やいだ声が聞こえ、ははっと笑う。
きらきらとした顔で走ってくるんだろうな、と思っている傍からぱたぱたと足音が聞こえ、ひょこ! と瞳を輝かせたひなが顔を出した。
「お帰りなさいませ廉様! 社交倶楽部は如何でしたか!?」
「普通です」
「まあ普通!」
謎の受け答えをするひなに思わず笑うと、廊下の端まで駆けてきたひなの腰に手を添えた。
ぴく、とわずかに身体を強ばらせたひなに唇を合わせようと顔を寄せる。
その瞬間、ふわっと香る甘みと爽やかな酸味を彷彿とさせる香りに、廉はぴたっと動きを止めた。
「……この甘い香りは?」
咄嗟に目を伏せていたひなは、えっ、と目を開く。
「まあ廉様! よくお気づきで! これはお昼にジャムサンドをいただきましたところ大変美味でしたので、清香に教わり、リンゴジャムを作っていたところにございます!」
おやつにビスケットに乗せていただきませんか? とてれてれと話すひなに、ええもちろん、と答えながら、そっとひなの頬に指を当てる。
目を丸くしているひなを見つめながら頬についたジャムを拭うと、ペロッと指についたジャムを舐めた。
「随分と……美味しそうですねぇ」
「…………え…………は、はい……」
とってもとっても甘いのです、と答えながら、廉の妙な色気を纏う表情にぽー……っと見惚れるひな。
気づけば、目の前に廉が脱いだ外套が掲げられており、はっ! と我に返ると慌てて手に取った。
ちらっと正月飾りに視線を向けながらも真っ直ぐ階段へと向かう廉を、ひなはぱたぱたと追う。
書斎の前で、廉に外套を手渡した。
「着替えたら下へ参ります」
「はい廉様」
ぱたん、と閉まる扉を前に、ぽー……っと立ち尽くすひな。
(…………な……)
ばっ! と勢いよく振り返ると、ばっ!! と顔を両手で思いきり覆う。
(何やら色気が……!!!)
何てかっこよいのでしょう!!! と内心全力で叫んでいた。
一方廉は、思わず口に手を当てると、はぁ……と小さくため息を漏らしていた。
(無防備……)
何でおせちじゃなくてジャムなんだよ……可愛すぎか、と呟きながら顔を上げると、はたと固まる。
部屋のとある箇所を見て、大きく目を見開いた。
「ひな」
階段を下りてきた廉の声に、せっせとおやつの準備をしていたひなはぱあっと表情を輝かせ、ぱたぱたと廉に駆け寄る。
廉は腕を組み、階段の手すりに寄りかかっていた。
「はい! 何でございましょう? 廉様」
ひなを見つめると、にこ、と笑みを浮かべた。
「俺の書斎の本棚を虹のようにしたのは、ひなですか?」
ぱちぱち、と目を瞬くひな。
まあ! と口に手を添えると、ひなは照れたように頬を染める。
「そうなのです……! 鏡餅をしつらえておりました際に、机の上の本を仕舞おうとしましたところ、なんと! 反対に本が雨のように落ちてきまして! 並んでいた順番がわからなくなってしまいましたので……僭越ながら、色合いの順とさせていただきました」
よく私がしたと気がつきましたね……! ときらきらと目を輝かせるひなの両頬を、廉は、ぎゅっ! とつまんだ。
「ぎゃ!」
「それはそれは……大層モダンな美的感覚をお持ちで……!」
「はい!」
「褒めてません」
「なんと!?」
やはり厚さの順であった方がよろしかったですか……! とぷるぷる震えるひなに、やはりって何だ! どっちもおかしいだろ!? と廉はぎゅうう……! とひなの頬をさらにつまむ。
ひょいと居間から顔を出した清香は、あの昼間の悲鳴はそれでありましたか、と合点がいったように頷いていた。
いい……痛いです廉様……! と涙目になって廉を見上げるひな。
「な……なぜ……お、お掃除も新年をお迎えする準備も……うまくできておりませんでしたか……」
「…………」
うる……と瞳を潤ませるひなに、わずかに固まった廉は、さっと目を逸らす。
その反応に、あ、呆れ……? とひなはしゅんと俯いた。
「……驚きましたよ」
「えっ?」
思いがけない言葉に、ひなは顔を上げる。
「随分と、前衛的な正月花で」
「……あれは……雪だるまさんなのでございます……」
「ああ……なるほど」
「居間の鏡餅の水引は……ライオンさんですわ……」
「メルヘンな新年を迎えられそうですねぇ」
ははっ、と可笑しそうに笑うと、廉は目を細めてひなを見た。
「大変だったでしょう。ありがとうございます」
「――!」
ひなは小さく息を止めた。
「…………いえ……そんな……」
そう言葉を詰まらせながら、眉を下げ、きゅっと口を結ぶ。
慌てて俯き、目元に滲んだ涙をぱぱっ! と払うと、満面の笑みで廉を見上げた。
その花舞う艶やかな笑顔に、廉の胸が大きく鳴った。
「……ああ、そうですね」
ふと廉はそう小さく、幾分か甘い声を漏らす。
えっ? とひなは不思議そうに顔を覗き込んだ。
「俺の妻なのですから、本の並びを教えておかなければいけませんでしたね」
「……お……」
おれのつま……!!! と感極まりふるふると震えるひなの腰に、廉はすっと手を添えた。
「教えますので、一緒に整えましょうか? 虹も可愛らしいんですが、俺には少々合わない気がして」
「は、はい……! 是非……!」
よいのでしょうか……!? と頬を染めるひなの腰に手を添えたまま、廉は階段を上っていく。
清香はぽかんと口を開いたまま、2人の背を目で追っていた。
ばたん、と書斎の扉の閉まる音がホール全体に響くと、しん……と静寂が部屋を包む。
しばし動けず、その場に立ち尽くす清香。
(…………お戯れに……参りましたな……)
しばらく降りてこられないやも……? とすんと目を細めると、鷹野廉め……と舌打ちする。
(未だ夜の夫婦生活はなされていないご様子ゆえ、仲睦まじくお戯れになるのは何よりなのでございますが……何やらもやもやっといたしますな……)
純なままのひな様でおられてほしいと、どこかで思う清香なのであります、と内心複雑な心境を説く清香。
次の瞬間、はっ! と思いついたように目を丸くする。
廉様のお紅茶に丸々1個のレモンをたっぷりと入れておいてさしあげましょう……! と悪そうに口端を上げる。
颯爽と踵を返すと、うきうきとサンルームへレモンを採りに向かう清香であった。




