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第三章 20 『白耀の城塞』



 ハイゼン城塞領へ向かう西部街道では、朝霧の向こうから白い外壁が少しずつ姿を現していた。


 山と山の間を塞ぐように築かれた城塞は、三重の城壁と六本の監視塔を持ち、その背後には避難民を収容できる広い市街区画が続いている。


 エルザヴェート陣営の本隊は、城塞から三キロほど離れた候補戦管理局の中立野営地へ残された。


 共同調査へ参加するのは、エルザヴェート、ローデリヒ、ミレーネ、ナーヴァ、卓斗、恵依、絵麻と三人の竜精霊に絞られている。


「入場許可は地下共同調査区画までです」


 ローデリヒはジークヴァルトから届いた返書を読み上げ、同行者へ改めて条件を確認した。


「城塞防衛設備、兵舎、領地核管理室への無断接近は禁止。候補戦上の偵察と判断される行動も認められません」


「見るなと言われると、見たくなるね」


 エルザヴェートは腕を組んだまま、霧の向こうの監視塔を見上げた。


「エルザヴェート様」


 ローデリヒが低く名を呼ぶと、エルザヴェートは楽しげに笑った。


「冗談だよ。今日は調査へ来た。敵陣の弱点探しは、候補戦が始まってからにしよう」


「今日の移動中に城壁の厚さを数えていた人の言葉とは思えないけど」


 ミレーネは手元の記録紙を閉じた。


「数えていただけさ。記録してはいない」


「私が記録したから同じだよ」


「実に優秀な参謀だね」


「勝手に共犯にしないで」


 卓斗は二人のやり取りを聞きながら、街道脇へ続く仮設住宅へ目を向けた。


 木と白布で組まれた住居の間には炊き出し用の竈が並び、白い外套の兵士と、別の紋章を残した兵士が同じ鍋を運んでいる。


「昨日まで敵だった兵士もいるんだよな?」


 卓斗が尋ねると、ミレーネは仮設住宅の入口に立つ兵士を見た。


「ハイゼンの旧守備隊だね。降伏した後、武器だけ管理局へ預けて、住民支援と城壁修復へ戻されたみたい」


「捕虜扱いじゃないの?」


「候補戦の降伏兵は、本人が戦闘継続を選ばない限り拘束しない。ジークヴァルトは特に、現地の兵を統治から外さない方針だよ」


「普通に統治うまくない?」


 卓斗の率直な感想に、ミレーネは苦笑した。


「それが『白耀の騎士』って呼ばれる理由の一つ。勝つだけじゃなくて、勝った後が速いんだ」


 南側の修復区画では、崩れた外門の石材が種類ごとに分けられていた。


 鏡面のように薄い透明板が空中へ浮かび、荷車の進路と作業員の動線を分離している。


「透明な板があります」


 ラールが指を差すと、絵麻は目を細めて空間の歪みを確かめた。


「壁じゃない。光と視線の向きだけ変えてる感じ」


「鏡界の魔素です」


 恵依は魔素を展開せず、透明板へ反射する光だけを観察した。


「攻撃を反射するだけではなく、人や物資の流れを整理する用途にも使っているようです」


「副官のヘレナって人の能力だっけ」


 絵麻は右脇腹へ負担がかからない範囲で、透明板の端を視線だけで追った。


「城塞全部に置けるなら、攻める時かなり面倒そう」


「絵麻。今日は攻めない」


 ナーヴァが前を向いたまま告げた。


「分かってる。見えた感想を言っただけ」


「空間は広げてない?」


「広げてない」


「痛みは?」


「ない」


「ならいい」


 ラールは絵麻の横顔を見上げ、念を押すように頷いた。


「私も見ています!」


「何で誇らしげなの」


「絵麻ちゃんが約束を守っているからです!」


「子供扱いされてる気がする」


 街道の先で白い外門が開いた。


 門前には候補戦管理局の立会官二名と、鏡片を肩の周囲へ浮かべた女性、その隣に灰色の礼装を纏った中年の男が立っている。


「——ヘレナ・ヴォルフェンと、オスカー・ベルトラムです」


 ローデリヒは二人の顔を確認し、エルザヴェートの半歩前へ出た。


 透明な鏡片を従えたヘレナは、白い髪を後ろで束ねた長身の女性だった。


 腰には細身の剣を帯びているが、右手は柄ではなく胸元へ添えられている。


「エルザヴェート・グリュンデューテ様と、フィリスティア王国第六騎士団の皆様ですね」


 ヘレナは一行へ礼をした。


「ハイゼン城塞領へようこそ。共同調査中の案内と警護は、私が担当いたします」


「歓迎に感謝するよ」


 エルザヴェートは腕を組んだまま笑みを返した。


「君の鏡界は、城壁より働いているようだね」


「城壁は昨日まで敵のものでしたが、民の動線は今日からでも守れます」


 ヘレナはエルザヴェートの視線が透明板へ向いていたことを理解していた。


 褒め言葉として受け取るだけでなく、観察されていることも隠さず返す。


「候補戦上の情報収集は、互いに避けられません」


 隣に立つオスカーは、群青陣営の人数と携行品を一度見渡した。


「しかし本日は共同調査です。許可区域内で確認された情報については、白耀陣営と群青陣営、候補戦管理局の三者で同じ記録を保有します」


「ガルドと同じ形だね」


 ミレーネは管理局の立会官へ視線を向けた。


「記録の複写担当は?」


「当局から二名、双方の陣営から一名ずつです」


 立会官が答えた。


「地下へ持ち込む記録紙には同一の時刻印を付与します。原本の持ち出しは禁止です」


「異論はないよ」


 エルザヴェートが答えた直後、外門の奥から白い外套を纏った青年が歩いてきた。


 淡い金髪は朝の光を受けても眩しすぎず、腰の長剣も豪奢な装飾より実用性を優先した形をしている。


 道の両側にいた兵士たちは号令を受けていない。


 それでも青年が通ると自然に背筋を伸ばし、作業員や避難民まで穏やかな信頼を向けていた。


「お待たせしました」


 ジークヴァルト・オルタシアは一行の前で足を止め、最初にエルザヴェートへ一礼した。


「候補者選定式以来ですね、エルザヴェート」


「やあ、ジークヴァルト。白い旗が随分増えたようだね」


「群青の旗も、ガルドで一つ増えたと聞いています」


「君ほど速くはなかったけれどね」


「守備隊と住民を残したまま制圧したのでしょう。時間だけで優劣は決まりません」


 穏やかな応酬に敵意はなかった。


 それでも互いに相手の勝ち方を理解し、譲るつもりがないことだけは、言葉の間へ明確に残っている。


 ジークヴァルトは次にローデリヒとミレーネへ挨拶し、ナーヴァの前では僅かに姿勢を低くした。


「フィリスティア王国第六騎士団団長、ナーヴァ・オスティン殿ですね」


「そう」


「帝国の候補戦へ協力いただいていることに感謝します」


「候補戦のためだけじゃない」


 ナーヴァはジークヴァルトを見上げた。


「地下と分霊石を調べる。危ないなら止める」


「承知しています。本日は、そのために招きました」


 ジークヴァルトは卓斗たち三人と竜精霊へ視線を移した。


 値踏みするような無遠慮さはなく、名前と顔を一致させるために一人ずつ確認している。


「成瀬卓斗殿、流川恵依殿、西野絵麻殿。そして、ティナ殿、ゲブ殿、ラール殿ですね」


「俺らのことも知ってるんだ」


 卓斗が少し驚くと、ジークヴァルトは穏やかに頷いた。


「ガルドと岩峡の報告を読みました。帝国の候補者だけでは解決できない異常に関わっている方々ですから」


「危険人物の資料みたいに書かれてなかった?」


「危険性の記載はありました」


「あるんだ」


「同時に、住民と敵兵を区別せず救助した記録もありました」


 ジークヴァルトは卓斗の固定布が巻かれた右手首へ一瞬だけ目を向けたが、怪我の詳細を尋ねることはしなかった。


「本日は戦闘を求めていません。負傷が残る方へ、能力の使用を要求することもありません」


「話通じる人で助かる」


 卓斗は小さく息を吐いた。


「もっと、国家のために全部見せてくださいって来るかと思ってた」


「必要な情報は求めます。しかし、強制して得た情報は、信頼できる記録にはなりません」


「普通にまともだな」


「何か問題が?」


「いや、敵としてやりづらそうだなって」


 卓斗が正直に答えると、ジークヴァルトは僅かに笑った。


「私も同じことを考えています」


 城塞内へ入ると、外から見た以上に復旧が進んでいた。


 外門周辺には戦闘の傷が残っているが、通路は負傷者用、資材用、一般住民用に分けられ、鏡界の透明板が交差を防いでいる。


 昨日までのハイゼン守備隊は武装を解かれたまま、城壁の崩落箇所を白耀陣営の技師へ説明していた。


 白耀側の兵士も命令を押しつけず、地元兵の判断を記録しながら補修順を決めている。


「降伏した側を、ずっと監視しなくていいの?」


 絵麻が小声で尋ねると、オスカーが聞き取って振り返った。


「監視はしています」


 オスカーは市街区画の四隅に浮かぶ小さな鏡片を示した。


「ただし、疑うことと役割を奪うことは同じではありません。ハイゼンの構造を最も知るのは、旧守備隊と住民です」


「ガルドでボクたちが選んだ形と似ているね」


 エルザヴェートが言うと、オスカーは淡々と答えた。


「合理的な統治方法が一致しただけです」


「競争相手へ似ていると言われるのは嫌いかい?」


「政治上、余計な解釈を生む言葉を避けているだけです」


「君も面白いね」


「褒め言葉としては受け取りません」


 ジークヴァルトは二人の会話を止めず、前方の分岐で地下階段へ進路を変えた。


 共同調査区域は城塞中央塔の直下にあり、現行の領地核管理室より二層深い場所に設けられている。


「領地核そのものは見せないんですね」


 恵依が確認すると、ヘレナが振り返った。


「候補戦中ですので、管理室への立ち入りは認められません。ただし、領地核から旧導線へ流れる戻り値は、下層の点検室でも確認できます」


「十分です」


 地下へ降りるほど、石壁の色が新しい白灰色から暗い青黒へ変わっていった。


 三層目の踊り場から先は階段の幅も不揃いになり、現在の城塞より古い構造がそのまま残されている。


「ここから先は、帝国建国初期の基礎部です」


 ヘレナは壁へ鏡片を一枚浮かべ、光を屈折させて足元を照らした。


「昨日の制圧後、点検班が微弱な魔素欠損を確認しました。領地核の通常出力へ影響する量ではありませんが、ガルドから届いた記録と周期が似ています」


「先に調べてたんだ」


 ミレーネが尋ねると、ジークヴァルトは頷いた。


「城塞を得た以上、異常を放置する理由はありません」


「候補戦の敵から連絡が来る前に?」


「エルザヴェートの報告がなくても、同じ調査は行っていました」


「いいね。そうでなくては面白くない」


「調査対象を面白さで評価するのは、あなたらしいですね」


 最下層の点検室には、現在使われている計測盤と、壁へ埋め込まれた古い環状石板が並んでいた。


 石板は直径三メートルほどあり、ガルド管理塔の壁で見た三重円より複雑な刻印が内側へ折り重なっている。


 恵依とゲブは石板から三メートル離れた位置で足を止めた。


 卓上へガルド、ヴァルネ、岩峡の複写記録を並べ、現地の計測値と時刻を照合する。


「流川様。石板の表面に、三系統の戻りがあります」


 ゲブは白銅を掌の内側だけへ留め、広域へ共鳴させず流れの方向を読んだ。


「北東、東、南東です。ガルド、ヴァルネ、岩峡の方角と、おおよそ一致します」


「現在の地上距離ではなく、古い導線の方位と一致しています」


 恵依は古図を床へ広げ、石板の刻印と照合した。


「ハイゼンは終点ではありません。ここは複数の導線を束ねる中央環です」


「欠損量は?」


 ジークヴァルトが尋ねると、恵依は現行計測盤の数値を確認した。


「平常時は微量です。ただし、昨日の領地核制圧時刻に大きく増えています」


「私が外門を斬った時刻と一致しますか?」


「完全一致ではありません。極光の使用から十二秒後です」


 恵依は白耀陣営の戦闘記録へ指を置いた。


「その後、領地核の旗印が切り替わった時に二度目の欠損があります。最初は高出力魔法、二度目は領地核の所属変更へ反応した可能性があります」


「両方が地下網を動かしている」


 ミレーネは候補戦の時系列を横へ書き加えた。


「候補者が大きな力を使っても動く。領地を取っても動く。制度を普通に進めるだけで、地下へ流れが増えるってことだね」


「まだ、地下側が何をしているかは分かりません」


 恵依は中央環の内側にある黒い窪みを見た。


「吸収、蓄積、転送、循環維持。どれも可能性として残ります」


「触って確かめるのは?」


 ジークヴァルトが静かに問いかけた。


「勧めません」


 恵依は即答した。


「接続先が不明です。こちらから魔素を流せば、地下側へ私たちの波形を渡すことになります」


「同意します」


 ジークヴァルトは迷わず頷いた。


「ヘレナ。点検班にも、石板への直接接触を禁じてください」


「承知しました」


 ヘレナは鏡片の一つへ指を触れ、上層の警備班へ命令を送った。


 ティナは卓斗の右隣へ立ち、白銀を展開せず石板周辺の空間密度を見ていた。


 円環の中心だけが、周囲より僅かに遠く感じられる。


「タク。中心を見すぎないで」


「引かれてる?」


「視線の距離が伸ばされている。近いのに、意識だけ奥へ進ませる構造ね」


 卓斗は石板から目を外し、自分の左手へ視線を落とした。


 指先に黒は集まっておらず、右手首の竜紋も熱を持っていない。


「俺の引力とは違う?」


「似ている部分はある。でも、物を寄せるより、経路を一つへまとめる方が近いわ」


「アシェラと同じ?」


「決めないことね」


 ティナは前回と同じように結論を急がなかった。


「六百年前の存在と似た構造があるだけで、本人の術式とは限らない」


「了解」


 絵麻とラールは点検室の左右へ分かれ、空洞の位置だけを確認していた。


 絵麻は空間を広げず、壁越しに返る距離の違いを一歩ごとに比べる。


「右の壁の向こう、もう一つ部屋がある」


 絵麻は石板から五メートル離れた場所で足を止めた。


「でも、今いる部屋と平行じゃない。少し下へ傾いてる」


「左側にも空間があります!」


 ラールは壁へ触れず、白鋼の位相感覚だけで厚みを測った。


「左右が奥で繋がって、大きな輪になっています!」


「中央環の名前どおりだね」


 ミレーネは古図へ描かれた二重の円を見た。


「この部屋は輪の一部だけ。全体は城塞の地下を囲んでる」


「領地核管理室も、その輪の内側にあるのですか?」


 ローデリヒが尋ねると、ヘレナは現行図面を開いた。


「真上ではありませんが、内周に位置します。現行の供給線は、古い中央環を横切って領地核へ接続されています」


「古い設備を避けず、上から使っている」


 恵依は六百年前の設置記録と現行図面を重ねた。


「ガルドと同じです。領地核を作った側は、この地下網を封鎖するのではなく、防衛結界の補助経路として組み込んでいます」


「なら、これは帝国の設備だ」


 ジークヴァルトは環状石板を見た。


「管理責任も、帝国にあります」


「そういう考えになるんだね」


 エルザヴェートの声が点検室へ響いた。


 彼女は腕を組んだまま、ジークヴァルトの横へ並ぶ。


「作った時代も目的も分からない。今の帝国が上から使っているだけでも?」


「現在の民を守る仕組みへ接続されている以上、放置はできません」


 ジークヴァルトは穏やかな声音を変えなかった。


「誰が作ったか分からなくても、今の被害へ責任を持つ者は必要です」


「その責任を国家へ集める?」


「はい。複数の領地と候補者へ影響するなら、一個人の判断へ任せるべきではありません」


 ジークヴァルトの視線が、エルザヴェートの胸元へ一瞬だけ向いた。


 ネックレスの石を奪おうとする圧力はないが、地下網と反応する可能性を見過ごしてもいない。


「その石が分霊石であり、帝国の防衛機構へ影響するなら、国家が管理する必要があると考えます」


「ボクの意思よりも?」


 エルザヴェートは笑みを保ったまま尋ねた。


「あなたの意思を聞いた上で、です」


「拒否したら?」


「理由を聞きます」


「それでも拒否したら?」


「帝国へ預ける必要を説明し続けます」


「接収はしない?」


「本人の意思を抜いた接収には反対です」


 ジークヴァルトは一度言葉を切った。


「ただし、危険が現実に民へ及び、他に止める方法がない場合は、候補者ではなく帝国の判断が必要になります」


「その判断をする席に、持ち主は残るのかい?」


 エルザヴェートの問いに、ジークヴァルトはすぐに答えた。


「残すべきです」


「『べき』なんだね」


「制度として、まだ保証されていないからです」


 ジークヴァルトは不備を隠さなかった。


「私は剣聖になれば、本人を除外した国防判断を認めない仕組みを作ります。その上で、国家が責任を引き受ける」


「ボクは、先に本人が選ぶ方を残したい」


 エルザヴェートは胸元のネックレスへ触れず、青白い石を見下ろした。


「国が責任を持つと言っても、国は痛みを一つの身体で受けない。形見を手放すのも、力を使われるのも、その人自身だ」


「個人の痛みを軽視するつもりはありません」


「でも、帝国全体と一人を比べる時、君は帝国を選ぶ」


「はい」


 ジークヴァルトは否定しなかった。


「私は帝国全体を守るために剣聖を目指しています」


「ボクは、目の前で守ると決めた相手を、帝国という言葉で消さないために剣聖を目指す」


 二人の声はどちらも穏やかだった。


 敵意も怒りもないまま、守る順番だけが明確に違っている。


 卓斗は二人の間へ視線を動かし、頭の後ろを左手で掻いた。


「どっちも言ってること分かるの、普通に面倒なんだが」


 オスカーが僅かに眉を上げたが、ジークヴァルトは卓斗へ向き直った。


「成瀬殿は、どちらを選びますか?」


「俺に振る?」


「あなた方は分霊石を集めています。避けられない問いでしょう」


 卓斗はすぐには答えず、エルザヴェートのネックレスではなく、自分の右手首へ視線を落とした。


 強制契約の竜紋は今も消えず、帰還方法も見つかっていない。


「本人が嫌って言ってるのに、国のためだからで決めるのは嫌だ」


 卓斗はゆっくり顔を上げた。


「でも、そのままで誰かが死ぬって分かってて、本人の自由だから何もしないってのも違うと思う」


「では、どうしますか?」


「本人が決められる材料と、戻れる道を増やす」


 卓斗は点検室の出口へ視線を向けた。


「手放すしかないとか、国に従うしかないとか、選択肢一個にしてから本人に決めろって言うのは違うだろ。別の止め方を探して、それでも必要なら、本人もいるところで決める」


「国家の判断を否定するわけではないのですね」


「国が責任持つのは必要だと思う。でも、責任持つって言葉で、本人から決める場所まで取るなって話」


 ジークヴァルトは卓斗の答えを急いで評価せず、しばらく考えた。


「理想的ですが、時間がない場合もあります」


「分かってる」


「全ての選択肢を探す間に、被害が広がるかもしれません」


「それも分かってる」


 卓斗は低い声で続けた。


「だから、普段から戻れる道を作る。ギリギリになってから二択にしない。それが俺らのやり方」


 ナーヴァは卓斗の横で小さく頷いた。


 ガルドから続く三本の帰還路も、追い詰められてから作ったのではなく、次の危険へ備えて先に分けた道だった。


「興味深い考えです」


 ジークヴァルトは穏やかに言った。


「しかし候補戦では、いつか互いの答えを結果で示すことになります」


「だろうね」


 エルザヴェートが言葉を引き取った。


「だから、今日は調査。次は戦場で話そう」


「望むところです」


 静かな対話が終わった直後、エルザヴェートの胸元で青白い光が脈打った。


 点検室の環状石板も同じ間隔で淡く光り、床下から低い振動が立ち上がる。


「全員、石板から離れる」


 ナーヴァの命令に、卓斗たちは即座に三歩ずつ後退した。


 ヘレナは鏡界を石板の前へ展開したが、完全な壁にはせず、飛散物だけを逸らす角度へ留める。


「流川様。流れが変わりました」


 ゲブは白銅を広げず、掌の感知点だけを見た。


「北東、東、南東から来ていた戻りが止まります」


「欠損ではありません」


 恵依は計測盤の針を追った。


「中央環へ集まっていた魔素が、別方向へ押し出されています」


「どちらへ?」


 ミレーネが古図を押さえる。


「西です。少し南寄り」


 恵依は石板の内周へ現れた新しい光の筋を見た。


 これまで沈黙していた刻印が一本ずつ点灯し、中央環から西南へ伸びる古い導線を示している。


「ティナ」


 卓斗が呼ぶと、ティナは白銀の瞳を細めた。


「来るのではなく、移っている」


「何が?」


「空間の密度よ。ここへ集まっていた重さが、別の場所へ引かれている」


 ティナは卓斗の前へ手を出し、無意識に左手を上げないよう制した。


「追わないで」


「上げてないって」


「上げようとした」


「……ちょっとだけ」


「駄目よ」


 絵麻は右脇腹へ力を入れず、部屋の形が変わっていないことだけを確認した。


「壁の向こうの輪も動いてる。西側だけ、距離が伸びた」


「位相も変化しています!」


 ラールは左壁の厚みを感じ取り、驚いたように声を上げた。


「壊れてはいません。でも、繋がる先が変わりました!」


「接続先の切り替えです」


 恵依は古図の西南側を探した。


 中央環から伸びる線は二つの山地を越え、現在の候補領区分では未制圧となっている小さな城塞領へ続いている。


「ヴァイス峡門領」


 ミレーネが現行地図の地名を読み上げた。


「ジークヴァルト陣営と群青陣営の間にある未制圧候補領だね」


「旧西部防衛線の中継城塞です」


 オスカーはすぐに地上の勢力図を思い出した。


「現在は候補戦管理局の中立守備隊が管理しています。双方の陣営が制圧可能な領地です」


「次の接続先が、候補戦の争奪地」


 ローデリヒの表情が硬くなる。


「偶然にしては都合が良すぎます」


「誰かが動かしている可能性があります」


 恵依は点灯した刻印の時刻を記録した。


「ただし、こちらの会話や調査に反応したのか、別の場所で何かが起きたのかは分かりません」


「ヴァイス峡門領の現在値を確認します」


 ヘレナは鏡片へ指を触れ、上層の伝令室へ緊急照会を送った。


 数十秒後、鏡面へ白い文字が浮かんだ。


 ヴァイス峡門領の領地核に異常はなく、守備隊から戦闘報告も出ていない。


 ただし、地下点検値だけが同時刻に一度大きく低下している。


「完全に繋がっています」


 恵依はハイゼンの計測値と照合した。


「ガルド、ヴァルネ、岩峡、ハイゼン。そして今、ヴァイス峡門領へ流れが移りました」


「帝国全体の地下網が動いている」


 ジークヴァルトは光を失い始めた石板を見た。


「候補戦の次の争点を選ぶように」


「選ばされるのは趣味じゃないね」


 エルザヴェートは腕を組んだまま、古図のヴァイス峡門領を見下ろした。


「でも、放っておけば中立守備隊と住民が危険になる」


「私も調査隊を送ります」


 ジークヴァルトは即座に決めた。


「共同で?」


 エルザヴェートが尋ねると、ジークヴァルトは穏やかに首を横へ振った。


「候補戦管理局の立会いは求めます。しかしヴァイス峡門領は制圧可能な候補領です。そこへ向かう以上、私たちは競争相手になります」


「正直だね」


「共同調査の名目で、領地制圧の機会を曖昧にするつもりはありません」


「なら、ボクたちも向かう」


 エルザヴェートの笑みが深くなった。


「地下異常を調べる。住民を守る。そして、取れるなら旗も取る」


「エルザヴェート様」


 ローデリヒが覚悟を確認するように名を呼んだ。


「分かっているよ。今度の相手は、昨日までの守備隊だけじゃない」


 エルザヴェートはジークヴァルトへ視線を向けた。


「白耀の騎士も同じ場所へ来る」


「ええ」


 ジークヴァルトは腰の剣へ触れず、真正面からエルザヴェートを見返した。


「次は、候補戦としてお会いしましょう」


 環状石板の光が完全に消えると、点検室には現行計測盤の淡い灯りだけが残った。


 共同調査で得た記録は四部に複写され、白耀陣営、群青陣営、候補戦管理局、帝都記録院へ同時に送られることになった。


 地上へ戻る階段では、来た時より全員の足取りが速かった。


 城塞の外で待つ本隊へ連絡を送り、ヴァイス峡門領へ向かうための補給と偵察を整えなければならない。


「話し合った直後に戦うことになるんだな」


 卓斗は階段を上りながら、前を行くエルザヴェートとジークヴァルトを見た。


「候補戦だからね」


 ミレーネは記録箱を抱え直した。


「しかも、どっちも地下異常を放っておけない。行かない選択肢がないんだよ」


「誰かに動かされてる感じ、普通に嫌だな」


「だから、行った先で何を選ぶかは自分たちで決める」


 ナーヴァが卓斗の隣で言った。


「地下を追うだけにしない。旗を取るだけにもしない」


「両方やる?」


「住民も守る」


「増えた」


「必要」


 城塞外門へ戻ると、朝から続いていた復旧作業は止まっていなかった。


 白耀陣営と旧守備隊、避難民が同じ区画で動き、誰も地下で次の争点が示されたことを知らない。


 ジークヴァルトは外門前で足を止め、エルザヴェートへ右手を差し出した。


「本日の記録共有に感謝します」


 エルザヴェートは腕を解かず、差し出された手を見て笑った。


「握手をすると、仲間だと誤解されないかい?」


「共同調査の終了確認です。候補戦上の立場とは分けています」


「実に君らしい」


 エルザヴェートはようやく片腕を解き、ジークヴァルトの手を握った。


「次は、敵としてよろしく」


「こちらこそ」


 二人の手が離れた直後、白耀陣営の伝令が西門へ走り、群青陣営の伝令は東の中立野営地へ向かった。


 同じ地下異常を追いながら、二つの旗は別々の道からヴァイス峡門領を目指し始める。


 城壁の上で白い旗が翻り、その遠く東側では群青の旗が朝霧の名残を抜けていく。


 共同調査で重なった二つの陣営は、互いの守り方を知った上で、次の領地を巡る競争へ踏み出した。



***************



 その日の夕刻、ヴァイス峡門領から北へ離れた山中では、崩れた監視塔の上に小さな影が立っていた。


 ヴィヴィは眼下の街道へ白い伝令と群青の伝令が別方向から近づくのを見て、紅い瞳を細める。


「——動いた」


 監視塔の下では、セルケトが岩へ背を預け、両拳を布で巻き直していた。


「次はどこだよ」


 セルケトが苛立たしげに尋ねると、ヴィヴィは西南の峡門を指した。


「ヴァイス。白い騎士も、剣姫も来るよ」


「今度は止めんなよ」


「まだ壊しすぎたら駄目」


「またそれか」


 少し離れた木陰では、イグニールが街道を通る中立守備隊の伝令を眺めていた。


 胸元の心臓紋が鈍く脈打つたび、血赤の瞳が一人ずつの顔と装備を選別している。


「中へ入る顔が要る」


 イグニールが呟くと、ヴィヴィは監視塔から軽く飛び降りた。


「今度は、使えるのを選んでね」


「候補戦管理局の奴なら、どこへでも入れる」


「でも、すぐ消えたら怪しまれるよ」


「なら、戻っても不自然じゃねえ奴を喰う」


 セルケトは二人の会話に舌打ちし、拳を強く打ち合わせた。


「ウチは正面から行く。白耀でも剣姫でも、先に来た方を殴る」


「うん」


 ヴィヴィは遠くに見えるヴァイス峡門領の城壁へ顔を向けた。


「白い騎士は、国を選ぶ。剣姫は、目の前の人を選ぶ」


 幼い声には、どちらが正しいかを決める響きはなかった。


 守る順番の違う二人が、同じ領地で何を捨てずに戦うのか、その変化だけを待ち望んでいる。


「ちゃんと動き始めた」


 三人の影が山道を下り、ヴァイス峡門領へ続く別の旧道へ消えていった。


 地下網が示した次の接続先で、白耀と群青の二つの旗、そして候補戦の外から来た三人が、同じ城塞へ集まり始めていた。




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