第三章 9 『鉄色の領地へ』
ヴァルネ補給領を発った馬車が帝都東門へ戻った頃には、空が茜色へ染まり始めていた。
群青の旗を掲げた二台の馬車は、門前で簡単な帰還確認を受けた後、候補者用の仮宿舎へ向かう。卓斗たちは揺れの少ない後方車両へ乗せられたが、右手首と左肩を固定された卓斗も、右脇腹を庇う絵麻も、窓の外へ流れる帝都の街並みを静かに見ていた。
「帰ってきた感じ、あんまりしないな」
卓斗は左手で窓枠へ触れ、石造りの街路を見た。
「またすぐ出るからでしょ」
絵麻は背もたれへ身体を預けたまま、視線だけを向けた。
「ガルド鉱石領へ行くって、もう決まってるようなものだし」
「まだ交渉からです」
恵依は膝の上へ置いた記録箱を両手で支えていた。
「調査許可が得られれば、候補戦として攻める必要はありません」
「得られなかったら?」
「その場合は、領地制圧戦へ移る可能性があります」
「最初から重い二択だな」
卓斗が息を吐くと、出入口側に座るナーヴァが短く答えた。
「だから、先に条件を決める」
「また増える?」
「必要なら増える」
「団長、条件好きだよな」
「守るために必要」
ティナは卓斗の右手首へ一度だけ視線を落とし、固定布が緩んでいないことを確かめた。
「タク。あなたは条件以前に、今日は休みなさい」
「会議くらいは出るけど」
「座って聞くだけよ」
「それなら普段と変わらなくない?」
「普段から余計なことをするでしょう」
「信用ないな」
「実績があるもの」
仮宿舎へ戻ると、卓斗たちはそのまま治療役の確認を受けた。
卓斗の右腕は引き続き使用禁止。左肩は大出力を避ければ日常動作に支障はないが、戦闘へ入れば悪化する可能性が高い。絵麻も空間操作の連続使用は禁止され、恵依は長時間の解析を避けるよう言い渡された。
「全員、次の行動まで回復優先」
ナーヴァは治療役の記録を受け取り、三人へ示した。
「明日の会議には出る。でも、能力は使わない」
「会議で能力使う場面ある?」
卓斗が尋ねる。
「地図を見て、試したくなるかもしれない」
「俺、そこまで何でも引っ張らないって」
「前にやった」
「一回だけじゃん」
「一回あれば止める理由になる」
その夜、エルザヴェート側ではヴァルネから持ち帰った記録の整理が続けられた。
ミレーネは領地核の欠損時刻、地下導線の分岐、斥候隊の出現記録を一枚ずつ比較し、ガルド鉱石領へ提示できる形へまとめていく。ローデリヒは交渉に同行する人数と護衛配置を確認し、エルザヴェートは候補戦の領地図を前に、南門から管理所までの距離を見ていた。
「正面から入れば、管理塔までは近い」
ミレーネはガルド鉱石領の地図へ指を置いた。
「でも、南門前の岩道が狭い。相手が拒否して戦闘になったら、最初の防衛線だけで足止めされる」
「北側の旧採掘路は?」
エルザヴェートは地図の上端を見た。
「閉鎖後の崩落記録が多いよ。通れる保証がないし、交渉前に使えば侵入と判断される」
「なら、南門から正面だね」
「エルザヴェート様」
ローデリヒは地図から顔を上げた。
「交渉が決裂しても、その場で戦闘へ移るべきではありません。一度下がり、候補戦の規則に従って正式な宣言を出す必要があります」
「分かっているよ」
エルザヴェートは群青の旗札を南門前で止めた。
「話し合いに来た相手を、そのまま攻めるつもりはない。断られたなら、改めて旗を持ってくる」
「その言葉も記録しておくね」
ミレーネが紙へ書き足す。
「ボク、何を言っても記録されるな」
「候補者だからね」
「幼なじみとしては?」
「もっと記録しておきたい」
「信用が増える気配がない」
翌朝、卓斗たちは仮宿舎の会議室へ集められた。
長卓の中央には、ヴァルネ補給領からガルド鉱石領へ続く街道と地下導線を重ねた地図が広げられている。群青の旗札は帝都東側、鉄色の旗札は南東の山地へ置かれ、その間には補給拠点と旧鉱山の記号が並んでいた。
「今日決めるのは三つ」
ナーヴァは卓の端へ立ち、全員を見渡した。
「交渉の目的。拒否された場合の対応。同行者の役割」
「目的は地下導線の調査許可だね」
エルザヴェートは腕を組み、鉄色の旗札へ視線を落とした。
「ガルドの領地核を見せろとは言わない。旧導線の運用記録と、管理所の接続状態を確認したい」
「ネックレスとの共鳴も調べます」
恵依は専用ケースの横へヴァルネの記録紙を置いた。
「ただし、エルザヴェートさんの身体へ影響する可能性があります。現地で強い反応が出た場合は、調査を中断します」
「ボクの意思も含めて?」
「はい。ご本人が続行を望んでも、危険が高い場合は止めます」
「随分とはっきり言うね」
「分霊石である可能性が高い以上、無理に反応させるべきではありません」
「そこはボクも同意するよ」
ローデリヒは恵依の返答を聞き、僅かに肩の力を抜いた。
「管理所へ入れる人数は絞るべきです」
「候補戦の相手領地へ大人数で入れば、調査より占拠に見える」
ナーヴァは地図上の南門へ指を置いた。
「交渉班は、エルザヴェート、ローデリヒ、ミレーネ。私、卓斗、恵依、絵麻。竜精霊三柱」
「成瀬殿たちは負傷中です」
ローデリヒがすぐに指摘する。
「戦闘へ入らない前提なら同行させる」
ナーヴァは三人へ視線を向けた。
「でも、能力は原則使わない。危険が出たら私が決める」
「その条件でいい」
卓斗は右手首を膝へ置いたまま頷いた。
「見ないで待つ方が、後で面倒になりそうだし」
「卓斗くんの場合は、見ても面倒になる可能性があります」
恵依が淡々と返す。
「そこまで信用ない?」
「昨日、地下へ入りたがっていました」
「行けるなら行った方が早かったじゃん」
「だから止められたんでしょ」
絵麻が横から言うと、卓斗は口を閉じた。
「拒否された場合は?」
ミレーネは新しい記録紙を開いた。
「その場では退く」
ナーヴァが先に答えた。
「追撃されない限り戦わない。帝都か外部宿営地へ戻り、候補戦として正式に宣言する」
「宣言後の目標は、ガルド鉱石領の制圧」
エルザヴェートは群青の旗札を鉄色の札へ近づけた。
「領地核を掌握して、調査権限を得る。ただし、精錬施設、住民区画、採掘場は壊さない」
「領地核だけ取れば済むほど、相手も甘くありません」
ローデリヒは南門から管理塔までの経路を指でなぞった。
「南門、精錬区画、管理塔前の三段階で防衛線があるでしょう」
「兵站は?」
卓斗が尋ねる。
「ガルドは資源領だから、守備側の物資は多い」
ミレーネは領地内の倉庫と軌道を示した。
「短期戦なら有利。逆に、精錬炉と運搬軌道を止めれば相手の動きは鈍るけど、住民の生活も止まる」
「それは使わない」
エルザヴェートの返答は速かった。
「設備を壊して勝っても、取った後に守れないからね」
「なら、補給路の切断ではなく管理が必要です」
恵依は南側街道と東側荷場を見た。
「兵站を完全に止めず、守備兵へ届く量だけを制限する。住民向けの食料と燃料は通す形です」
「そんな細かく分けられる?」
絵麻が地図へ顔を近づけた。
「荷札と運搬経路を確認できれば、可能性はあります。ただ、現地での情報が必要です」
「斥候はボクの騎士に任せる」
エルザヴェートはミレーネへ視線を向けた。
「卓斗たちは最初から前へ出さない。負傷が戻ったら、調査も戦闘も続かないからね」
「候補者本人に言われると、ちょっと納得しにくいんだけど」
卓斗がぼやく。
「ボクは負傷していないからね」
「そういう問題?」
「そういう問題だよ」
ティナは卓斗へ冷たい視線を向けた。
「タク。負傷している者と、していない者の扱いが同じなわけがないでしょう」
「分かってるって」
「分かっている者は、毎回不満そうな顔をしないわ」
「顔は自由でいいだろ」
「行動へ出るから駄目なのよ」
会議は午前中いっぱい続き、交渉条件と撤退基準が文書へ落とし込まれた。
ガルド側へ渡す書状には、ヴァルネ補給領で確認された欠損、地下導線の分岐、斥候隊が異常を目撃した事実が記される。調査範囲は旧導線の運用記録と管理所の外部確認に限定し、領地核本体へ触れないことも明記された。
「これなら、少なくとも調査を口実にした占拠とは言われにくい」
ミレーネは完成した書状へ記録の魔素を流し、改変できない層を作った。
「でも、相手が疑う理由は残るよ」
「残って当然だ」
ローデリヒは書状を封筒へ収めた。
「候補戦の相手へ、防衛設備を見せろと求めるのですから」
「だから、断られた時の次も決めた」
エルザヴェートは群青の封蝋を押した。
「先に話す。無理なら、ルールの中で道を取る」
午後には、ガルド鉱石領へ向けた先触れが帝都を出発した。
交渉書状を運ぶのは、群青陣営の騎士二名と帝国候補戦管理局の立会人一名。相手側が書状を受け取った事実と、返答期限を正式に残すためだった。
「返答は最短で明日の夕方」
ミレーネは出発を見届け、宿舎前で指を折った。
「受け入れなら、そのまま交渉班が出発。拒否なら、候補戦管理局へ制圧宣言を提出する」
「返事待ちか」
卓斗は石段へ腰を下ろさず、壁へ背を預けた。
「待つの苦手そうだね」
エルザヴェートが笑う。
「結果分からない時間が一番だるい」
「ボクは好きだよ。相手がどんな答えを選ぶか考えられる」
「それ、好奇心でしょ」
「もちろん」
「否定しないんだな」
その日の夕方、エルザヴェートは仮宿舎の中庭へ兵を集めた。
交渉が成立した場合と、決裂した場合の双方へ備えるため、群青陣営は移動準備だけを先に整える。戦闘部隊を大規模に動かせば相手を刺激するため、最初に出るのは交渉班と護衛十名、記録係、治療役だけに絞られた。
「行き先はガルド鉱石領」
エルザヴェートは群青の旗の前で腕を組んだ。
「今は攻めに行くわけじゃない。ヴァルネを削っている地下導線を調べるため、まず鉄色側へ話をしに行く」
騎士たちは声を挟まず、候補者の言葉を聞いている。
「ただし、拒否された場合は一度戻る。その場で剣を抜かない。相手が攻撃しない限り、こちらから候補戦を始めない」
「領地を取らないのですか?」
前列の若い騎士が問いを投げた。
「必要なら取るよ」
エルザヴェートは穏やかな笑みを崩さなかった。
「でも、話す前から奪うと決めれば、ボクたちの目的まで剣に決めさせることになる」
中庭へ吹いた風が、群青の旗を大きく揺らした。
「ボクが決める。調べるために話す。守るために必要なら戦う。順番を変えない」
その言葉に、ローデリヒはエルザヴェートの右後方で静かに頷いた。
卓斗は隊列の外側から彼女を見ていた。腕を組み、剣を抜かず、周囲の刃に任せて戦う少女が、今は戦う前の順番まで自分で選ぼうとしている。
「前より候補者っぽくなった?」
絵麻が小声で尋ねる。
「最初から候補者ではあっただろ」
「そうじゃなくて」
「分かってる」
卓斗は群青の旗から視線を外さなかった。
「勝手に動く剣に合わせるんじゃなくて、自分で先を決め始めたってことだろ」
「珍しくちゃんと見てるじゃない」
「俺を何だと思ってる?」
「面倒を呼ぶ人」
「それ、絵麻もだろ」
「私は処理する側」
「自称な」
「二人とも静かにしてください」
恵依の一言で、卓斗と絵麻はまた同時に黙った。
翌日の夕刻、先触れの騎士が帝都へ戻った。
ガルド鉱石領は書状を受理していた。返答は完全な拒否ではなく、南門外の検問所で記録を確認するというものだった。
「領内へ入れるとは書いてないね」
ミレーネは返書を読み、卓上へ広げた。
「旧導線の記録も、その場で見せるとは約束してない。まずこちらの証拠を確認するだけ」
「十分だよ」
エルザヴェートは返書の署名を見た。
「守備責任者、ドレイク・ハルトマン。バルタザール本人ではないけれど、門前で話す意思はある」
「罠の可能性は?」
ローデリヒが尋ねる。
「候補戦管理局の立会いを認めています」
ミレーネは返書の末尾を示した。
「交渉中の攻撃は禁止。拘束や武装解除も、双方の合意がない限りできない」
「なら、予定どおり出る」
ナーヴァは三人の状態確認票を手元へ置いた。
「卓斗たちも同行。でも、戦闘になったら即時撤退を優先する」
「まだ言う?」
「出発前だから言う」
「了解」
翌朝、東門前には二台の馬車と十名の護衛騎士が整列した。
先頭車両にはエルザヴェート、卓斗、恵依、絵麻、ナーヴァ、三竜精霊。後続車両にはローデリヒ、ミレーネ、治療役、候補戦管理局の立会人が乗る。群青の旗と交渉用の白旗が、それぞれの馬車へ掲げられていた。
「今日は話すだけ」
ナーヴァは乗車前に全員へ確認した。
「攻撃されない限り、能力も剣も使わない。拒否されたら戻る」
「分かってる」
「タクは、分かっていると返事をした後が危ないのよ」
「ティナまで確認役に回らなくていいって」
「必要だから回っているの」
ラールは絵麻の隣で命綱の代わりに荷物帯を確認し、元気よく手を挙げた。
「私は何もしません!」
「言い方だけだと役に立たない宣言みたいね」
「必要な時だけします!」
「それでいい」
ゲブは恵依の記録箱を持ち、馬車の踏み台へ先に上がった。
「流川様。段差があります」
「ありがとうございます」
「私には?」
絵麻が尋ねると、ラールがすぐに振り返った。
「絵麻ちゃんもどうぞ!」
「そこまで弱ってないけど、ありがとう」
馬車は帝都東門を出て、南東へ続く街道へ入った。
平野を抜けるにつれ、地形は乾いた岩場へ変わっていく。道の両側には黒鉄色の鉱脈が露出し、遠くでは採掘用の煙が山肌から細く上がっていた。
「資源領って感じするな」
卓斗は窓の外を見た。
「見たままですね」
恵依は記録箱を開かず、街道標だけを確認している。
「ガルド鉱石領は、帝国南東部の精錬と結界石供給を支える主要領地です。候補戦で制圧されても、操業を止めないことが重視されています」
「取った側が、そのまま面倒見る?」
「そういうことです」
「領地核だけ取って終わりじゃないんだな」
「だから候補戦なんでしょ」
絵麻は岩山へ続く運搬軌道を見た。
「壊して勝つだけなら、次の剣聖を決める意味ないし」
「その通りね」
ティナは窓の外へ目を向けたまま答えた。
「守れない者が、奪う技術だけを競っても意味はないわ」
夕方前、一行はガルド鉱石領から一キロほど離れた丘へ到着した。
灰色の岩壁に挟まれた南側街道の先で、黒鉄の大門が閉じている。門上には鉄色の旗が翻り、その内側から複数の煙突と鉱石運搬塔が見えていた。
南門へ続く道幅は狭く、荷車二台が並べる程度しかない。左右の岩棚には守備兵の影があり、群青の馬車が丘へ現れた時点でこちらを確認していた。
「交渉場所は、あの門前」
ミレーネは後続車両から降り、地図と実際の地形を見比べた。
「正面から行くしかないね」
「最初からそのつもりだよ」
エルザヴェートは馬車の前へ立ち、遠くの鉄色の旗を見た。
ネックレスの青白い石が胸元で弱く明滅する。恵依の腰にある九色の石も同じ方向へ反応したが、その光は門ではなく、さらに奥の地面の下へ向いていた。
「反応、あります」
恵依は専用ケースへ手を添えた。
「ガルド鉱石領の内部。それと、北西側へ分かれています」
「ヴァルネで見た二本と同じだね」
エルザヴェートは腕を組み、鉄色の旗から視線を外さなかった。
「なら、まずは門を開けてもらおうか」
群青の旗と白旗が、夕方の風を受けて並んで揺れた。
鉄色の旗が掲げられた資源領を前に、エルザヴェート陣営にとって最初の領地制圧へつながる交渉が、静かに始まろうとしていた。




