第一章 8 『黄色い契約者』
結界杭の向こうで、黄色がかった光が揺れていた。
魔導灯の淡い明かりとは違う。草の先を撫でるように流れ、石柱の刻まれた模様へ細く入り込み、また空気中へほどけていく。白銀の魔素とは色も動きも違い、どこか水の流れに似た滑らかさがあった。
成瀬卓斗は、土の街道の上で足を止めた。
結界杭の少し向こうに、人影が二つある。一人は卓斗と同じくらいの年に見える少女。もう一人は、水色の髪をお下げにした小さな少女だった。小さな方の周囲に、黄色い瞳と同じ色の魔素が集まっている。
「なあ、あれ味方?」
卓斗は声を抑えた。
背後には弱った結界があり、外側には魔獣が近づくかもしれない草原が広がっている。目の前の二人が敵でない保証はない。ティナと同じ竜精霊らしき存在がいるというだけで、むしろ警戒理由は増えていた。
ティナは白銀の瞳で向こうを見たまま、短く答えた。
「ゲブなら、敵ではないわ」
「なら、隣の子は?」
「契約者でしょうね」
「でしょうね、で近づくの怖いんだけど」
卓斗は半歩だけ位置を変えた。
結界杭の内側から出すぎない場所を選び、足元の草や石の位置も確認する。さっき空を飛んでいた魔獣の影が頭に残っていて、ただ人影を見つけただけでは安心できなくなっていた。
ティナは卓斗の警戒を止めなかった。
「ゲブは白銅の竜精霊よ。魔素の流れを読むことに長けているわ」
「お前より話通じるタイプ?」
「丁寧ではあるわね」
「その言い方、希望持っていいのか不安なんだが」
卓斗は水色髪の小さな少女を見た。
ティナと同じくらいの背丈。だが、雰囲気はずいぶん違う。腰まで届く水色の髪は左右でお下げにされ、黄色い瞳は結界杭の模様をじっと見ている。表情の変化は少なく、ジト目気味で、何を考えているか少し読みづらい。
その隣の少女が、先にこちらへ気づいた。
茶色寄りの黒髪が夕暮れの光を受けて揺れる。髪型はきっちりしすぎていないが、身だしなみには気を使っていると分かる落ち着いた雰囲気があった。こちらを見た瞬間、少女は慌てず、ゲブと結界杭の両方を視界に入れられる位置へ半歩移動した。
逃げるわけではない。
攻撃するわけでもない。
相手との距離、足場、逃げ道を一度で確認するような動きだった。
「——そこで止まってください」
少女の声は、自然に理解できた。
ティナと話せている時点で、会話がなぜか日本語として通じることには薄々気づいている。だから卓斗が驚いたのは、言葉そのものではなかった。目の前の少女が持つ、現代日本の学校にいそうな真面目な空気の方だった。
「……その言い方、めちゃくちゃ日本の真面目な人っぽいな」
卓斗は素直にそう言った。
少女はわずかに眉を動かしたが、すぐに表情を戻した。感情を隠しているというより、今はそこへ反応する優先順位ではないと判断したように見えた。
「確認します。あなたも日本から来た方ですか」
「来たっていうか、連れて来られた側」
「……やはり、そうですか」
その一言で、卓斗の胸の奥が少しだけ変わった。
やはり。
そう言うということは、この少女も同じような状況を知っている。少なくとも、異世界側の人間が偶然それらしいことを言っているだけではない。卓斗はティナを一度横目で見てから、もう一度少女へ視線を戻した。
「そっちも日本から?」
「はい。流川恵依です。あなたも竜精霊と契約した方ですね」
「契約したっていうか、された」
卓斗が右手首を軽く持ち上げると、袖の下で白銀の契約紋が薄く光った。
流川恵依は、その光を見ても大きく驚かなかった。代わりに、どこに紋様があるか、光の強さはどうか、卓斗の体調に影響が出ていないかを確認するように視線を動かす。
「……その表現の方が正確かもしれません」
「そっちも?」
「私も、ゲブと契約してこちらへ来ました。納得していたとは言えません」
恵依の声は落ち着いていた。
だが、完全に平気なわけではないと分かる。言葉の端に、ほんの少し硬さがあった。混乱や怒りを表に出すより先に、必要な情報を集めることを選んでいるだけなのだろう。
水色髪の小さな少女が、結界杭から顔を上げた。
「ティナ、合流を確認しました」
「遅いわね、ゲブ」
「確認できた範囲では、こちらの結界杭に魔素流の乱れがあります」
「相変わらず説明から入るのね」
「必要な情報です」
ゲブと呼ばれた竜精霊の声は丁寧だった。
ティナのように切り捨てる鋭さはない。けれど、表情の変化が少ないせいで、別の意味で感情が読みづらかった。淡々としているが、言葉の選び方は慎重で、事実と推測を分けようとしている。
ゲブは恵依へ向き直り、黄色い瞳を結界の外側へ向けた。
「流川様、警戒は継続した方がよいと思われます」
「分かっています」
恵依は短く返した。
そのやり取りだけで、二人の役割が少し見えた。恵依が周囲を確認し、ゲブが魔素の流れを読む。卓斗とティナのような押し合いではなく、情報を共有しながら動く組み合わせに見えた。
卓斗は小声でティナに言った。
「ゲブの方がだいぶ話通じそうなんだけど」
「丁寧と言ったでしょう」
「お前も見習って?」
「必要ないわ」
「あるんだよ、めちゃくちゃ」
恵依が卓斗の方へ視線を戻した。
近づきすぎず、離れすぎない距離を保っている。街道の内側、結界杭から二歩ほど離れた位置。背後にゲブ、横に退避できる道、前に卓斗とティナ。全部を考えた立ち位置だった。
「お名前を確認してもいいですか」
「成瀬卓斗。高校生。今日の放課後に誘拐されました」
「流川恵依です。同じく高校生です。状況としては、私も近いです」
「近いって言い方、だいぶ控えめじゃない?」
「正確な経緯が完全に同じとは限らないので」
「真面目に返すタイプか」
卓斗は思わずそう呟いた。
恵依は軽く目を伏せ、すぐに卓斗の顔色を見た。話を流すのではなく、確認する。冗談に乗るより、まず状況を整理する。そういう反応だった。
「成瀬くん、確認します。転移直後に強く頭を打ちましたか」
「え、何この問診。異世界転移って健康診断から始まるの?」
「状態確認は必要です」
「いや、必要なのは分かるけど、落ち着きすぎじゃない?」
「落ち着いているわけではありません。優先順位を決めているだけです」
「優先順位で感情を押し込めるタイプか……」
卓斗は少しだけ言葉を失った。
恵依が平気なわけではないことは分かる。だが、自分よりずっと冷静に見える。卓斗はずっと怒って、ツッコんで、圏外のスマホを見て絶望していた。一方で恵依は、同じように巻き込まれたはずなのに、すでに状況を分類し始めている。
負けた気がする。
何に負けたのかは分からないが、少しだけ悔しかった。
「負傷は?」
「擦り傷と打撲くらい。たぶん骨は折れてない」
「契約紋は右手首ですね。痛みや熱はありますか」
「熱っぽい感じはある。あと、たまに変な光が寄ってくる」
「魔素反応が出ている可能性があります。ゲブ、確認できますか」
恵依が振り返ると、ゲブは卓斗の右腕へ黄色い瞳を向けた。
水色の髪が少し揺れ、彼女の周囲に白銅の魔素が細く流れる。黄色がかった光は、卓斗の腕へ直接触れるのではなく、その周囲の空気をなぞるように広がった。
「確認できた範囲では、白銀契約に伴う接続反応があります。ただ、契約者本人の魔素波形は安定していません」
「つまり?」
卓斗が聞くと、ゲブは瞬きを一度した。
「推測になりますが、成瀬様の魔素反応は、引き寄せる力と押し返す力の双方を含んでいる可能性があります」
「様いらない。あと内容が重い」
「失礼しました、成瀬様」
「そこ直らないタイプ?」
ゲブは首を少し傾けた。
本人は真面目に対応しているのだろう。だが、卓斗には、その丁寧さが妙にズレて見えた。ティナより話しやすそうだと思った矢先に、別方向の癖が出てきた気がする。
恵依は小さく息を整え、卓斗の右腕から結界杭へ視線を移した。
「成瀬くん、スマホは使えますか」
「圏外。完全に板」
「私も同じです。時計や保存済みの情報は使えますが、通信はできません」
「そこも同じか。最悪の共通点だな」
「はい。ですので、現時点で外部連絡は不可能です」
「その言い方、現実突きつけるの上手いな」
卓斗はポケットの中のスマホを意識した。
恵依の言い方は冷静だが、内容は絶望的だった。二人とも日本と連絡できない。通信できない。現在地も分からない。しかも、異世界の結界が弱っている場所にいる。
同じ日本人に会えた安心はある。
だが、状況そのものは何も軽くなっていない。
「ところで、これ何て書いてあるんだ?」
卓斗は近くの結界杭を指差した。
石柱には細かな文字のようなものが刻まれている。曲線と角ばった線が混ざり、見たことのない記号が連なっていた。会話は通じるのに、文字はまるで読めない。
恵依も石柱へ目を向けた。
「私は読めません。術式の構造と魔素の流れを見ています」
「会話は都合よく通じるのに、文字は勉強しろってこと?」
「おそらく、そうなります」
「異世界、変なところで現実的だな」
卓斗は結界杭を睨んだ。
読めない文字がずらりと並んでいるだけで、自分が異世界にいる実感がまた強まる。話せるからといって生活できるわけではない。看板も書類も本も、全部読めないなら、結局は勉強が必要になる。
「俺、異世界来て最初にやることが語学勉強とか嫌なんだけど」
「文字を読めないまま行動する方が危険です」
「正論で追い詰めるのやめてくれ、流川」
「必要なことです」
「真面目だ……」
ゲブが結界杭に手を近づけた。
直接触れる直前で止め、黄色がかった光を模様の上へ流す。白銅の魔素は、弱った結界の線をなぞるように進んだが、途中でふっと薄くなった。石柱と石柱の間で、流れが途切れている。
ゲブは目を細め、ゆっくり説明した。
「確認できた範囲では、この結界杭の魔素流は一部で途切れています」
「自然に壊れた感じじゃないのか?」
「断言はできません。ただ、流れの途切れ方が不自然です。経年劣化であれば全体が薄くなるはずですが、この箇所は局所的に流れが削られています」
「不自然って言葉、異世界で聞きたくないな」
ティナも結界杭へ近づき、白銀の瞳で光の途切れを見た。
白銅の魔素と白銀の魔素が、石柱の周りでわずかに重なる。二つの光はぶつからず、互いの位置を確認するように揺れた。卓斗には細かい違いは分からないが、ティナの表情が少しだけ険しくなったことは分かった。
「ゲブ。外部干渉の可能性は?」
「推測になりますが、否定はできません」
「また嫌な単語増えたんだけど」
卓斗が言うと、恵依が結界の外側へ視線を向けた。
彼女は卓斗の軽口にすぐ反応せず、結界杭の途切れた方向と魔導灯の位置を確認した。次に、街道の先、人の明かりがある方向を見る。自分たちだけで完結させてはいけないと判断したようだった。
「成瀬くん、この結界が弱いなら、私たちだけの問題ではありません」
「到着してすぐインフラ不具合見つけるの、イベント進行早すぎない?」
「ですが、放置はできません」
「真面目だ……いや、まあ、それはそうだけど」
卓斗は結界杭の外側を見た。
草が暗く沈んでいる。魔導灯の光は内側の街道を照らしているが、外側までは届きにくい。もしそこから魔獣が近づけば、結界の薄い場所を抜けてくる可能性があるのだろう。
自分たちは帰る方法を探したい。
だが、この結界を使う人がいるなら、弱っていることを知らせる必要がある。
それは卓斗にも分かった。
「俺だけじゃないの、安心していいのか分かんないな」
卓斗は小さく呟いた。
恵依は前を見たまま答えた。
「少なくとも、情報共有はできます」
「前向きだな」
「前向きというより、必要だからです」
「やっぱ真面目だ」
その時、結界の外側で草が揺れた。
卓斗の背中がすぐに硬くなる。さっきの空の魔獣とは違う。今度は低い。草の高さと同じくらいの位置を、何かがゆっくり動いている。暗がりの中で、葉が一列だけ不自然に倒れていった。
ゲブの黄色い瞳が、その方向へ向いた。
「流川様、外側から魔素反応が近づいています」
「位置は?」
「結界杭の途切れた箇所の外側です。距離はおよそ二十歩。大きな反応ではありませんが、こちらへ向かっています」
恵依はすぐに足元と結界を見た。
卓斗の位置は、結界杭の途切れに近い側だった。本人は内側にいるつもりでも、薄い場所の正面に立っている。恵依は迷わず卓斗へ指示を出した。
「成瀬くん、その位置は結界の薄い側です。二歩こちらへ」
「指示が的確すぎて怖い」
「怖がる前に動いてください」
「はい」
卓斗は素直に動いた。
文句を言う余裕はあっても、危険な場所に立ち続ける理由はない。二歩下がり、恵依の指示した位置へ移ると、確かに結界杭の光が少し濃い場所に入った気がした。
ティナが卓斗の前へ半歩出た。
白銀の光が彼女の指先から伸び、結界の薄い箇所の空気を硬くする。壁のように見えるほどではないが、草の向こうから押してくる気配が、その手前で止まった。
ゲブは白銅の魔素を結界杭へ流した。
黄色い光が途切れかけた線を一時的につなぎ、弱った流れを補助する。恵依はその変化を目で追い、どこが薄く、どこがまだ保っているかを確認している。
草の向こうで、低い唸り声がした。
卓斗は息を詰めた。
姿は見えない。だが、そこにいる。白銀の硬化した空気へ何かが触れ、草が横へ大きく揺れた。結界の内側まで入れずにいるのか、何度か気配が行き来したあと、やがて外側へ離れていく。
ゲブが魔素の流れを弱めた。
「反応、後退しました」
「追ってこない?」
「現時点では、その可能性が高いと思われます」
「断定しないの、逆に怖いな」
卓斗はようやく息を吐いた。
何もしていない。戦ってもいない。ただ言われた位置へ動いただけだ。それでも、立っていた場所が少し違えば、危険に近かったのだと分かる。恵依の指示がなければ、卓斗は自分の立ち位置の危うさにも気づかなかった。
ティナは白銀の光を収め、ゲブへ視線を向けた。
「一時的な補助では長く持たないわね」
「はい。人里へ報告する必要があると思われます」
恵依は魔導灯の方角を見た。
街道の先には、人の明かりがある。そこが小さな集落なのか、監視所なのか、フィリスティア王国へ続く中継地なのかは分からない。だが、結界の異常を伝えるなら、まずそこへ向かうしかない。
「成瀬くん、一人で動くよりは合流した方が安全です」
恵依は卓斗へ向き直った。
冷静な声だったが、そこには押しつけではなく判断があった。卓斗が納得していないことも、ティナに怒っていることも、彼女は見ている。その上で、今は合流した方が生存率が高いと言っている。
「いや、俺そもそも一人じゃなくて、最悪な精霊がいるんだけど」
「ティナだけでは不安ですか」
「かなり」
「聞こえているわよ」
ティナの声が冷たく挟まった。
卓斗はわざと視線を逸らさず、肩をすくめた。
「聞こえるように言った」
「減点ね」
「採点システム勝手に始めるな」
恵依は二人のやり取りを見て、少しだけ困ったような顔をした。
だが、すぐに結界杭の方へ視線を戻す。今は言い合いを止めるより、移動を優先すべきだと判断したのだろう。
「ゲブ、結界の薄い方向は避けられますか」
「確認できた範囲では、街道の内側を進めば危険度は下がると思われます。ただし、魔素流は完全には安定していません」
「分かりました。成瀬くん、結界杭から離れすぎないでください。外側には出ない方がいいです」
「了解。なんかもう、流川の指示は聞いた方が生き残れそう」
「必要な場合だけで構いません」
「必要な場合が多そうなんだよな」
四人は魔導灯の光へ向かって歩き出した。
先頭にティナ、その少し横にゲブ。恵依は結界杭と卓斗の位置を見ながら進み、卓斗は鞄を肩にかけ直してその隣を歩く。さっきまで一人で放り込まれたようだった草原に、別の足音が増えた。
卓斗は隣を歩く流川恵依を横目で見た。
同じ日本人。
同じ高校生。
同じように竜精霊と契約させられた少女。
けれど、彼女は卓斗よりずっと早く、この状況を整理しようとしている。怒っていないわけではない。怖くないわけでもない。それでも、今できることを探して動いている。
「……俺だけじゃないのか」
卓斗の呟きに、恵依は前を見たまま答えた。
「はい。ですが、それで状況が軽くなるわけではありません」
「真面目だな、流川」
「必要なことです」
魔導灯の光が、四人の足元を淡く照らした。
その背後で、弱った結界杭の光が一度だけ黄色く揺れた。




