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第一章 7 『魔素のある世界』



 草原を歩くという行為が、ここまで面倒なものだとは思っていなかった。


 成瀬卓斗は、制服の裾についた土を気にする余裕もなく、ティナの数歩後ろを進んでいた。足元には背の低い草が密集し、その下には石やぬかるみが隠れている。少し油断すると靴底が沈み、草の葉が足首に絡み、鞄の重さが肩へ食い込んだ。


 日本の通学路なら、歩道は平らだった。


 信号もあった。街灯もあった。コンビニもあった。何より、足元の花が毒霧を吐く可能性など考えなくてよかった。卓斗は数分前に踏みかけた青い花を思い出し、自然と歩幅を小さくした。


「なあ、異世界ってもうちょい初心者に優しくできないの?」


 卓斗は草を避けながら、前を歩くティナに声を投げた。


 ティナは白銀髪を風に揺らしながら、ほとんど歩調を乱さない。小柄な体で草原を進む姿は、道を知っているというより、危険な場所だけが最初から見えているようだった。


「あなたが弱いだけよ」


「初期装備が制服と教科書なんだよ。優しさを求める権利はあるだろ」


「教科書は武器には向かないわね」


「そこ真面目に評価するな」


 卓斗は鞄を肩にかけ直した。


 中身は教科書とノートと筆箱、それからほとんど役に立たない現代の小物だけだ。武器どころか、キャンプ道具すらない。異世界転移に必要なものを何一つ持っていないという事実が、歩くたびに重さとしてのしかかってくる。


 右手首の契約紋は、袖の下でまだ薄く熱を持っていた。


 卓斗は無意識にその部分を押さえた。皮膚の奥に白銀の線が残っている感覚は消えない。動くたびに、ティナとどこかでつながっているような不快な感覚が胸の奥に引っかかった。


「触っても消えないわよ」


「分かってる。分かってるけど気になるんだよ」


「慣れなさい」


「慣れる前提で話すな」


 卓斗は言い返しながら、ふと視線を空気中へ向けた。


 最初は、夕暮れの光が草に反射しているのだと思った。だが、草の先や石の周りに漂う細かな光は、風の向きとは違う動きをしている。ゆっくり流れ、集まり、またほどける。その動きは花粉でも虫でもなかった。


 卓斗は足を止めかけ、すぐに背後の森を思い出して歩き直した。


「今、空気に変な光みたいなの飛んでない?」


 ティナがわずかに振り返った。


 その白銀の瞳が、卓斗の視線の先を確認する。草の上を流れる淡い光の粒は、まるで見えない川に乗っているように、丘の方へ細く伸びていた。


「見えるのね」


「見えるのね、じゃなくて。あれ何。虫?」


「魔素よ」


「虫よりだいぶ面倒な答え来た」


 卓斗は顔をしかめた。


 魔素という言葉は先程聞いた。聞いたが、まだ実感はなかった。この世界に流れる力と言われても、空気や電気や血のような例えを並べられても、卓斗の中では設定説明の枠を出ていなかった。


 だが今、その魔素らしい光が、目の前で草の先を撫でている。


 見えてしまうと、逃げ場がなくなる。


「この世界の力の流れよ。土地、生き物、術式、結界、魔獣、すべてに関わるわ」


「説明範囲が広すぎる。要するに何でも魔素じゃん」


「大きく外れてはいないわね」


「外れてないのが怖いんだよ」


 卓斗は光の粒を避けようとして、避けられないことに気づいた。


 魔素は空気中にある。草にも、石にも、土にもある。避けるという発想自体が無理だった。日本で空気を避けて歩けないのと同じだと考え、卓斗はさらに嫌な顔になった。


 その時、袖の下の契約紋が淡く光った。


 卓斗の右手首のあたりへ、周囲の魔素がほんの少し寄る。光の粒が水面の波のように流れを変え、卓斗の腕の周りで小さく渦を作った。引き寄せられているのか、反応しているのか、本人には分からない。


「おい、なんか寄ってきてない?」


 卓斗は慌てて袖を押さえた。


 隠したところで、魔素の光は布をすり抜けるように腕の周囲を揺れている。痛みはない。だが、知らないものに体を覗き込まれているような感覚があった。


「契約者だから、魔素の流れに触れやすくなっているのよ」


「触れたくないんだけど」


「この世界にいる以上、避けられないわ」


「異世界、拒否権なさすぎだろ」


 ティナは足元の草を見て、進路を少し右へ変えた。


 卓斗もそれに合わせる。さっきまでまっすぐ進んでいた場所には、青い花とは別の赤紫の苔が石に張りついていた。ティナが何も言わず避けたことで、逆に危険なものに見える。


「今の苔も危ないやつ?」


「触ると痒みが残る程度よ」


「程度の基準が信用できない」


「死にはしないわ」


「異世界の安心ライン、だいぶ低いな」


 卓斗は苔から距離を取り、魔素の流れへもう一度目を向けた。


 淡い光は、草原全体に均等にあるわけではない。丘へ向かうほど細い線のように集まり、場所によっては途切れている。卓斗には理由が分からないが、流れの濃い場所と薄い場所があることだけは見えてきた。


 ティナはその流れを読むように進んでいる。


 つまり、この光はただ綺麗なだけではない。道を選ぶ情報にもなる。そう考えたところで、卓斗は自分が少しずつこの世界の危険に合わせて考え始めていることに気づき、軽く舌打ちした。


「適応したら負けな気がする」


「何の話かしら」


「こっちの話」


 草原の先に、低い石柱が見えてきた。


 最初は自然の岩かと思った。だが近づくにつれて、石柱が一定の間隔で並んでいることが分かる。高さは卓斗の腰ほどで、表面には細かい模様が刻まれていた。古びているが、人の手が入ったものだと分かる形だった。


 石柱の間には、薄い光の線が残っている。


 地面すれすれを走るその光は、草原を横切る境界線のように見えた。魔素の流れとは少し違い、人工的に引かれた線という印象がある。卓斗は一歩手前で足を止めた。


「これ、道しるべ?」


「魔物除けの結界杭よ」


「魔物除けって言葉、聞きたくなかったな」


「聞いた方が生存率は上がるわ」


「怖い情報ほど必要なの、異世界の欠陥だろ」


 ティナは結界杭の一つに近づき、表面の模様を指先でなぞった。


 白銀の光が指先から少しだけ流れ、石柱に刻まれた線へ触れる。すると、石柱の内側に残っていた淡い光が一度だけ明るくなり、すぐに弱々しく揺れた。


 ティナの眉が、ほんのわずかに動いた。


「……光が薄いわね」


 卓斗はその反応を見逃さなかった。


 ティナは基本的に感情を大きく動かさない。だからこそ、わずかな変化でも嫌な予感に直結する。卓斗は結界杭から半歩離れ、周囲の草を確認した。


「それ、嫌な言い方だな」


「本来なら、もう少し安定しているはずよ」


「本来って、六百年前基準?」


「それもあるわ。けれど、劣化だけでは説明しにくい揺れがある」


「つまり?」


「今は断定できないわ」


「その返事、だいたい悪い前振りなんだよ」


 卓斗は結界杭の列を見た。


 石柱は草原の奥へ続いている。いくつかは傾き、いくつかは半分ほど土に埋まっていた。光の線も途切れがちで、場所によっては完全に消えている。


 もしこれが魔物除けなら、弱っているのは相当まずい。


 卓斗は背後の森を見た。森の暗がりは少し遠くなっているが、さっきの気配がまだ追ってきていないとは言い切れない。結界杭の弱さと森の気配が、頭の中で嫌な形につながりそうになる。


 ティナは石柱から指を離し、結界杭の列に沿って歩き始めた。


「この線をたどるわ。人の生活圏に近づける可能性が高い」


「可能性ばっかだな」


「この時代の情報が足りないもの」


「六百年ギャップ持ちの案内役、普通に怖い」


「文句があるなら別の案を出しなさい」


「スマホが圏外なんで、案も圏外です」


 卓斗は結界杭の内側を歩いた。


 内側に入ると、空気が少し変わる。森からの湿った匂いが薄くなり、代わりに乾いた土と草の匂いが強くなった。安全だと断言はできないが、線の外と内で何かが違うことは感じ取れた。


 その変化が、また卓斗を黙らせた。


 魔素は本当にある。


 結界も本当にある。


 この世界には、この世界なりの仕組みがある。


 そう分かるほど、自分がそこへ放り込まれた異物であることもはっきりしていった。


「……変な世界だな」


「あなたの世界とは違うだけよ」


「それを変って言うんだよ、俺の中では」


 結界杭の列を進むうち、夕暮れの色が濃くなってきた。


 空の端が赤く染まり、草原の影が長く伸びる。森の輪郭は黒く沈み、遠くの白い線は逆に少し明るく浮かんで見えた。そこが壁なのか、建物なのか、まだ分からない。


 その手前に、小さな光がいくつか並んでいた。


 最初は星かと思った。だが、位置が低い。草原の向こう、道のように続く場所に、淡い黄色や白の光が点々と灯っている。電灯とは違い、揺らぎ方が柔らかかった。


「あれ、街の明かり?」


 卓斗は思わず声を少し明るくした。


 人のいる場所。


 それだけで、足の疲れが少しだけ軽くなる。現代のコンビニの明かりとはまるで違うが、暗くなり始めた草原の中で光があるという事実は、思った以上に安心材料になった。


「魔導灯ね。人のいる場所に近い証拠よ」


「電気じゃないんだよな」


「魔素で灯しているわ」


「文明はあるんだな。そこは助かる」


「あなたの世界とは違う文明よ」


「違っても明かりがあるだけでだいぶマシ」


 卓斗はその光を目標に歩いた。


 ただし、足元への警戒は緩めない。青い花も、赤紫の苔も、ぬかるみも、この世界には普通に存在している。明かりが見えたからといって、そこまでの道が安全になるわけではなかった。


 ティナは魔導灯の方角を確認しながら、結界杭の途切れた場所を避けた。


 その動きには焦りがない。だが、結界の薄さを見た後だからか、卓斗には彼女が少しだけ周囲への警戒を強めているように見えた。


「その魔導灯って、フィリスティアのやつ?」


「可能性はあるわ。街道か、監視用の小さな灯りかもしれない」


「街道あるなら最初からそこ歩きたかったんだけど」


「転移の着地点を正確に選べる状況ではなかったわ」


「誘拐の着地精度まで悪いのかよ」


「落下で済んだだけ良かったわね」


「良かった判定が終わってる」


 卓斗が返した瞬間、ティナが急に足を止めた。


 白銀髪が風で揺れ、彼女の視線が空へ向かう。卓斗も反射的に見上げた。最初は何も見えない。だが、少し遅れて、夕暮れの雲の下に大きな黒い影が現れた。


 さっき遠くで見たものより、近い。


 翼を広げた影が、結界杭の外側をゆっくり旋回している。鳥のような形だが、翼の先が裂けたように長く、尾が二本に分かれていた。羽ばたくたび、空気が低く鳴る。


「しゃがみなさい」


 ティナの声は短かった。


 卓斗は文句を言いかけ、影の大きさを見てすぐに草の中へ身を低くした。鞄が邪魔になる。制服の膝に土がつく。だが、今はどうでもよかった。


「急に命令するな……いや、何あれ」


「空を巡る魔獣よ。こちらに気づかれない方がいいわ」


「気づかれたら?」


「この距離なら、逃げるのは難しいわね」


「聞きたくなかった」


 卓斗は息を殺した。


 魔獣の影は、結界杭の列を横切るように飛んでいる。結界の内側には入ってこないが、完全に避けているとも言い切れない。翼が傾くたび、地上の草がざわりと揺れた。


 ティナは卓斗の前で片膝をつき、白銀の光を薄く広げた。


 光は盾のように強く輝くわけではない。草の色と影の境目を少しだけ曖昧にし、二人の姿を周囲へ溶かすように流れていく。卓斗はその白銀の膜の中で、息の音が大きくならないよう口を閉じた。


 魔獣が一度、こちらの上空を通った。


 影が草原を覆う。


 卓斗の背中に冷たい汗が流れた。日本の帰り道で、空を飛ぶ何かに見つかったら終わるなど考えたこともない。だがここでは、それが現実だった。


 やがて、魔獣は魔導灯の方角とは逆へ流れていった。


 翼の音が遠ざかる。


 ティナが白銀の膜を解くまで、卓斗は身動きしなかった。解かれた瞬間、肺に溜まっていた息をまとめて吐き出した。


「異世界、景色だけなら綺麗なのに治安が終わってる」


「自然とはそういうものよ」


「日本の帰り道に鳥で死ぬ可能性はなかったんだよ」


「こちらでは鳥とは呼ばないわね」


「名称の問題じゃない」


 卓斗は膝についた土を払いながら立ち上がった。


 魔獣はもう遠い。だが、空を見上げる癖がついてしまった。地面だけでも面倒なのに、空まで警戒する必要がある。異世界の初心者難易度は完全に間違っている。


 ティナは何事もなかったように歩き出した。


 卓斗は一瞬だけその背中を睨み、すぐについていく。置いていかれる方が怖い。腹立たしいが、今はそれが事実だった。


「そのフィリスティアって国、俺を見て普通に受け入れるのか?」


 魔導灯の光が近づくにつれ、卓斗の中で別の不安が出てきた。


 人のいる場所はありがたい。だが、人がいるから安全とは限らない。卓斗は異世界人で、竜精霊と契約していて、本人の意思とは関係なく妙な魔素反応まで出ている。歓迎される理由の方が少ない。


「分からないわ」


「分からないで向かってるの?」


「他に記録のある場所が少ないもの」


「選択肢が全部悪い」


 ティナは足を止めず、結界杭の列を見ながら答えた。


「フィリスティアは、フィオラが建てた国よ。竜精霊や分霊石に関する記録が残っている可能性があるわ」


「六百年経ってるんだよな」


「ええ」


「国の中身、全然変わってる可能性あるじゃん」


「あるわ」


「あるわ、じゃないんだよ。そこ不安になれ」


 ティナは少しだけ沈黙した。


 風が白銀髪を流し、赤のインナーカラーが夕暮れに細く光る。彼女の表情は大きく変わらないが、今の時代のフィリスティアを完全には知らないことを、本人も分かっているようだった。


「不安になっても、確認する必要があるわ」


「その確認に俺を巻き込むな」


「もう巻き込まれているわね」


「お前が巻き込んだんだよ」


 卓斗は魔導灯の光へ目を向けた。


 近づくほど、そこに人の手が入っていることが分かった。低い杭の上に透明な球体のようなものが乗り、その中で淡い光が揺れている。電球ではない。火でもない。魔素の光が、一定の形を保って灯っている。


 魔導灯の近くには、踏み固められた道があった。


 草原の中に細く伸びる土の道。車道ではないが、人や馬車のようなものが通った跡に見える。卓斗はその道を見て、ようやく足元から少し力が抜けた。


「道だ」


「ええ。街道の外れね」


「道ってだけでこんな安心するとは思わなかった」


「油断はしない方がいいわ。結界が弱っている」


「安心させてから落とすな」


 卓斗は土の道へ足を乗せた。


 草原より歩きやすい。石はあるが、足を取られるほどではない。道の脇には結界杭が続き、魔導灯がぽつぽつと間隔を空けて立っている。現代の街灯とは違っても、人が使うための道だと分かるだけで、気持ちは少し変わった。


 その時、ティナが急に足を止めた。


 今度は空ではない。


 彼女の白銀の瞳が、街道の先ではなく、結界杭の少し外側へ向けられている。卓斗もそちらを見るが、最初は何も分からなかった。草が揺れ、魔導灯の光が薄く届き、石柱の影が伸びているだけだ。


 だが、空気中の魔素の流れが変わった。


 卓斗にも分かるほど、淡い光の粒が一方向へ寄っている。白銀ではない。青でもない。草の上を、黄色がかった柔らかい光が細く流れ、結界杭の近くで揺れていた。


「止まるなって言ったのお前だろ。今度は何」


 卓斗は声を抑えた。


 さっきの魔獣のせいで、ティナが止まるたびに嫌な予感がする。だが今回は、ティナの表情に警戒とは違う色が混じっていた。驚きに近い。けれど、完全な予想外ではないような顔だった。


「……白銅の気配があるわ」


「はくどう?」


「ゲブの魔素よ」


「誰?」


「私と同じ竜精霊の一人よ」


 卓斗は数秒、言葉を失った。


 同じ竜精霊。


 つまり、ティナのような存在が他にもいるということだ。さっき竜精霊たちと言っていたのだから、冷静に考えれば不思議ではない。だが実際にその気配が近くにあると言われると、話は別だった。


「お前以外にもいるのかよ」


「三人いるわ」


「それ先に言え?」


「説明する前に、あなたが怒るか危険に反応するかのどちらかだったもの」


「原因の大半お前だろ」


 黄色がかった光が、結界杭の向こうで揺れた。


 それは魔導灯とは違う。もっと柔らかく、流れるような光だった。草の先から石柱の模様へ移り、そこから空気中へ細い線を伸ばしている。まるで、弱った結界の流れを確かめているように見えた。


 卓斗は目を凝らした。


 魔導灯の淡い明かりの向こうに、人影が二つある。


 一人は、卓斗と同じくらいの年に見える少女だった。茶色寄りの黒髪が夕暮れの光を受け、落ち着いた雰囲気で結界杭の前に立っている。もう一人は、腰まで届く水色の髪をお下げにした小さな少女で、黄色い瞳を結界の光へ向けていた。


 水色髪の少女の周囲に、白銅の気配と呼ばれた黄色がかった光が集まっている。


 卓斗の胸の奥に、別の種類の嫌な予感が生まれた。


 自分だけではない。


 もしあれがティナと同じ竜精霊なら、その隣にいる少女も、自分と同じように巻き込まれた可能性がある。


「タク。どうやら、私たちだけではないようね」


 ティナは静かに言った。


 卓斗は結界杭の向こうの二つの影を見たまま、思わず呟いた。


「……俺だけじゃないのかよ」


 黄色い魔素の光が、夕暮れの街道で細く揺れた。




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