第一章 6 『契約者と竜精霊』
草原の風は、成瀬卓斗の制服についた土の匂いを遠慮なく運んでいった。
日本の放課後なら、いまごろ住宅街の角を曲がり、自宅の玄関まであと少しという時間だったはずだ。けれど今、卓斗の足元にあるのは舗装された道ではなく、膝のあたりまで伸びる草と、ところどころに混じる固い土の盛り上がりだった。
背後の森からは、まだ低い唸り声の余韻が残っている。
振り返れば、濃い緑の奥で何かがこちらを見ているような気がした。姿は見えない。だが、葉の揺れ方と、時折折れる枝の音が、そこに生き物がいることを否応なく伝えてくる。
卓斗は鞄を肩にかけ直し、前を歩くティナの背中を睨んだ。
白銀の髪は草原の光を受けて淡く揺れている。赤のインナーカラーだけが、風に流れるたびに細く見えた。本人は小柄なのに、歩き方には迷いがない。どの草を踏み、どの場所を避けるべきか、最初から知っているような足取りだった。
「なあ、これ本当に安全な場所に向かってるんだよな?」
卓斗は、できるだけ怒鳴らない声で聞いた。
怒鳴る体力がもったいない、という判断もあった。だがそれ以上に、背後の森に余計な音を届けたくなかった。さっきまでなら考えもしなかった警戒を、自分が自然にしていることにも腹が立つ。
ティナは振り返らずに答えた。
「比較的安全な場所よ」
「比較的ってつけるな。不安になるだろ」
「完全に安全な場所は、この近くにはないわ」
「言い切るな。希望を残せ」
「根拠のない希望は判断を誤らせるわね」
「お前、ほんと会話で人を休ませる気ないよな」
卓斗は息を吐き、右手首を見た。
白銀の竜紋は、歩くたびに薄く光っている。消える気配はない。袖を下ろせば隠れるが、皮膚の奥に何かが残っている感覚までは隠せなかった。
足を進めるたび、心臓の奥に知らない冷たさが揺れる。
それがティナとの契約によるものなのか、この世界の空気によるものなのか、卓斗には判断できない。ただ一つ分かるのは、自分の体がもう昨日までと同じではないということだった。
「順番に答えろ」
卓斗はティナとの距離を詰めすぎないように歩きながら、指を一本立てた。
地面は平らに見えても、草の下に石や穴が隠れている。足元を見ながら会話する必要があるせいで、余計に頭を使う。日本の歩道がどれだけ優しかったか、今さら分かった。
「ここどこ。俺どうやって帰る。契約は外せる。あと、お前はどれくらい最悪」
「最後の質問は不要ね」
「必要だろ。今後の対応に関わる」
「ここは、あなたのいた日本ではない世界よ」
「そこはもう景色と圏外で理解した」
卓斗はスマホをポケットの上から押さえた。
圏外の二文字が、まだ頭の中に残っている。電波がないだけで、これほど心細くなるとは思わなかった。地図も電話も検索も使えない世界で、頼れる相手が自分を強制契約した竜精霊だけという状況は、控えめに言って詰んでいる。
ティナは草の流れを見ながら、少し左へ進路を変えた。
卓斗もその後に続こうとして、足元のぬかるみを見つけた。ティナが避けた場所だと気づき、慌てて同じように迂回する。草の下には黒っぽい泥があり、表面に小さな泡が浮いていた。
「今の踏んだら?」
「足を取られるわね。深く沈めば、抜けるまで時間がかかるわ」
「先に言え?」
「私の足跡を見ていれば避けられるわ」
「初心者に要求する観察レベルじゃないんだよ」
卓斗は足元を慎重に選びながら、もう一度周囲を見た。
草原は広い。広すぎる。空も、日本で見た時より距離感が掴めない。遠くの白い線は、少しずつ輪郭を持ち始めているようにも見えるが、まだ建物なのか壁なのか分からなかった。
「魔素って言ってたよな。さっき森のやつを遠ざけた力」
「そうね」
「魔素って何」
「この世界に流れる力よ」
「説明が雑。電気みたいなやつ?」
「近い部分もあるけれど、違うわ」
「じゃあ近いって言うな」
ティナは一度だけ卓斗を振り返った。
白銀の瞳に、苛立ちはない。むしろ、なぜこの程度で引っかかるのか分からない、という顔だった。その態度がまた、卓斗の神経を逆撫でする。
「魔素は生物、土地、術式、精霊、魔獣、この世界のあらゆるものに関わる力よ。空気や水のように存在し、血のように巡り、火のように形を変える」
「今度は詩みたいになった」
「あなたの理解に寄せたつもりだけれど」
「どこをどう寄せたんだよ」
卓斗は右手首を軽く振った。
契約紋の奥で、細い光が揺れる。見ているだけで落ち着かない。自分の身体に知らない規格のものが組み込まれたようで、どうにも気持ちが悪かった。
「じゃあ、契約者って何」
「竜精霊と魔素のつながりを持つ人間よ」
「俺は持ちたくなかった」
「知っているわ」
「知ってるなら毎回そこから反省しろ」
ティナは少しだけ歩みを緩めた。
卓斗が追いつきすぎない距離で、彼女は草原の先を見ている。風向き、地面、森の音。会話しながらも、その全部を拾っているようだった。
「竜精霊は、人間と契約することで力を安定して扱える。契約者には、竜精霊の魔素とつながる証として契約紋が刻まれるわ」
「つまり俺、強制タトゥー入れられたってこと?」
「表現が軽いわね」
「事態が重すぎるから軽く言ってんだよ」
卓斗は袖を少しまくり、白銀の竜紋を睨んだ。
手首から前腕へ絡む線は、ただの模様ではない。光の薄い場所でも見える。皮膚の表面を擦っても消えない。何より、意識すると胸の奥でティナの存在が遠くに引っかかるような感覚があった。
「これ、マジで消えないの?」
「契約が切れない限りは消えないわ」
「じゃあ切れ」
「今は無理よ」
「今日の会話、そればっかだな。今は無理、必要だった、歩きなさい」
「事実だからよ」
「事実で殴るな」
卓斗は右腕を下ろし、鞄の肩紐を握った。
契約を切れない。帰れない。スマホも使えない。安全な場所もまだ遠い。自分の状況を一つずつ並べるほど、腹が立つより先に疲れてくる。
だが、疲れたからといって止まるわけにもいかない。
背後の森の音は遠くなったが、完全に消えたわけではなかった。
「さっき、俺の周りの小石とかレシートが変な動きしただろ。あれ何」
「あなたの魔素反応よ」
「俺の?」
「引く力と、押す力の反応があるわ」
「俺の性格みたいに言うな」
「魔素の性質よ」
「それが何に使えるわけ」
「まだ分からないわ」
卓斗は足を止めかけた。
だが、ティナが歩き続けているのを見て、仕方なく動く。立ち止まって怒るより、歩きながら怒った方がまだ安全だという判断が働いた。
「分からない状態で契約したの?」
「必要だったもの」
「その言葉、禁止カードにしろ」
「禁止されても使うわ」
「最悪の返答やめろ」
ティナは周囲を見ながら、低い草の多い場所へ進路を取った。
卓斗はその後ろをついていく。森からは少し離れたが、完全に安心できるわけではない。遠くを飛んでいた巨大な影のことも、まだ頭に残っている。
「あなたの反応は、この世界の一般的な魔素とは違うわ」
「一般的なやつも知らないんだけど」
「この世界の人間は、生まれた土地や血筋、環境に応じて魔素の性質を持つことが多い。けれど、あなたはこの世界の外から来た」
「外から来たというか、連れて来られた」
「その通りね」
「認め方が腹立つ」
卓斗は苦い顔で草を踏んだ。
足元の草が柔らかく沈む。日本の公園の芝生とは違う。一本一本が少し太く、踏むと青い匂いが強く上がる。靴の底に土が絡み、歩くたびに重くなっていく。
「つまり、日本人だから変な反応が出たってことか」
「可能性は高いわ」
「また可能性」
「断言できるほど、まだ情報がないもの」
「情報ないのに契約したのお前だからな」
ティナは否定しなかった。
否定しないことに、卓斗はもう驚かなくなっていた。ティナは自分のしたことを、悪くないとは言わない。ただ、必要だったと言って進む。その姿勢が、卓斗には一番厄介だった。
「その情報って、フィオラとか分霊石の話にも関係あるんだよな」
「ええ」
「じゃあ、歩きながら説明しろ。俺が処理できる量で」
「注文が多いわね」
「誘拐被害者への最低限の配慮だろ」
ティナは少しだけ沈黙した。
その間に、風が草原を渡る。遠くで鳥のような声がしたが、卓斗は反射的に空を見上げた。さっきの巨大な影とは違い、今度は小さな黒点がいくつか流れているだけだった。
「フィオラは、私たち竜精霊と契約していた人間よ」
ティナの声が、風の中で静かに続いた。
「彼女は大きな危機を止めるため、自分ごと封印を選んだ。その封印を解き、フィオラを復活させるには、九つの分霊石が必要になる」
「そこまでは聞いた。九個の石集めとか普通に無理なやつ」
「分霊石は、フィオラの力と魂の欠片に近いものよ。竜精霊だけでは集められない」
「だから俺を契約者にしたと」
「そうよ」
「話が戻っただけなんだが」
卓斗は額に手を当てた。
分霊石。フィオラ。竜精霊。契約者。魔素。異世界。言葉だけは増えていくのに、納得できる部分がほとんどない。
ティナは淡々と続けた。
「私たちは、フィオラが封印された時代から転移魔法であなたの世界へ渡った」
「ちょっと待て」
卓斗はすぐに止めた。
地面の危険を考え、完全には足を止めず、歩幅だけを小さくする。ティナも速度を落としたが、振り返らない。説明を止められることには慣れているようだった。
「フィオラが封印された時代って、いつだよ」
「今から600年前よ」
「で、お前たちはそこから日本へ行った」
「ええ」
「でも俺がいたのは現代日本だぞ」
「そうね」
「そうね、じゃない。時間どうなってんだよ」
ティナは空を一度見上げた。
その白銀の瞳に、ほんの少しだけ複雑な色が混じった。卓斗に対する観察とは違う。自分でも完全には割り切れていないものを、もう一度言葉にするような間だった。
「日本とこの世界では、時間の接続がずれているわ。私たちが転移魔法であなたの世界へ渡った時、そこには今のあなたたちがいた。そして契約し、この世界へ戻った時には、こちらでは六百年が経過していた」
卓斗は数秒、返せなかった。
理解しようとした。
六百年前の異世界から、日本へ行く。日本では現代の卓斗がいる。契約して戻る。すると異世界側では六百年後。言葉として並べることはできる。だが、理解できたとは言えない。
「待て待て。日本行って戻ったら六百年? 浦島太郎システム?」
「例えとしては近い部分もあるわ」
「俺の放課後に六百年の時差乗せるな」
「あなたの放課後に合わせたわけではないわ」
「そこ真面目に返す?」
卓斗は頭を抱えたくなったが、歩きながらでは危ないのでやめた。
つまり、ティナたちは日本で長い時間をかけて卓斗を探していたわけではない。異世界側の六百年前から転移した先に、たまたま、あるいは何らかの理由で、現代日本の卓斗たちがいた。そして戻れば異世界は六百年後になっていた。
情報量が多い。
多すぎる。
「お前らからすると、ちょっと日本行って戻ったら、こっちで六百年経ってたってことか」
「感覚としては、そうね」
「それ、だいぶ大事故じゃない?」
「想定はしていたわ。正確な差は戻るまで分からなかったけれど」
「想定してたなら俺に先に言え?」
「言っても、あなたは理解しなかったでしょう」
「理解できない話でも、言う義務はあるんだよ」
ティナは黙った。
その沈黙は、今までのような無視ではなかった。卓斗の言葉を聞いた上で、返す言葉を選んでいるように見えた。だが、選んだところで謝罪は出てこない。
「時間が経っている以上、私の知っているこの世界とは違っている可能性が高いわ」
「今さら怖いこと言うな」
「だから、まず確認が必要なの」
「確認のために俺を連れてきたわけだ」
「あなたは契約者よ」
「本人の許可なく作った契約者な」
卓斗は遠くの白い線を見た。
少しだけ大きく見えてきた気がする。白い城壁か、壁のような岩か、まだはっきりしない。ただ、ティナはそこを目指している。日本へ帰る手がかりも、契約を切る手がかりも、今はその先にしかないのだろう。
納得はしていない。
けれど、行き先を持たないよりはマシだった。
「悪いけど、俺はフィオラ復活のために頑張ります、とはならないからな」
「でしょうね」
「でしょうね、じゃない。お前のせいだからな」
「理解しているわ」
「理解してるなら、まず帰す方法を探せ」
「帰る方法を探すにも、契約を調べるにも、安全な場所と記録が必要よ」
ティナは草原の先を指した。
その方向には、遠くの白い線がある。夕暮れの光を受け、かすかに光っているようにも見えた。卓斗は目を細めたが、まだ詳細までは分からない。
「あちらに、フィリスティア王国があるはずよ」
「はず、って言ったな?」
「六百年が経っているもの。地形や国境が変わっている可能性はあるわ」
「安全保証ゼロじゃん」
「少なくとも、野宿よりは安全よ」
「比較対象が底辺なんよ」
卓斗は深く息を吐いた。
フィリスティア王国。
知らない国名だ。
日本の地理には当然存在しない。けれど、ティナの話ではフィオラと関係がある国らしい。そこに記録があるなら、帰る方法や契約解除の手がかりもあるかもしれない。
「その国、信用できるのか?」
「フィオラが建てた国よ」
「それはお前目線の信用材料だろ。俺からしたら知らん国」
「それでも、分霊石や竜精霊に関する記録は残っている可能性が高いわ」
「可能性で進むの怖いんだけど」
「今のあなたに、他の選択肢は少ないわね」
「それを作ったのがお前なんだよ」
卓斗は返しながら、足元の青い花を踏みかけた。
花は草の間に隠れるように咲いていた。小さく、丸い花弁がいくつも重なっている。日本の園芸店にあってもおかしくない見た目だが、中心部分が妙に黒く、近づくと甘い匂いがした。
ティナがすぐに卓斗の袖を引いた。
「踏まない方がいいわ」
「うわっ、何」
卓斗は慌てて足を引いた。
引いた直後、花の中心がわずかに膨らんだ。薄い青い粉のようなものが、花弁の隙間から少しだけ漏れる。風に流れた粉は、近くの草の先へ触れ、そこだけがじわりと黒ずんだ。
卓斗の顔から血の気が引いた。
「毒霧を吐く花よ」
「道端の花まで殺意あるの?」
「刺激しなければ問題ないわ」
「刺激条件が足で踏むなの、初心者に厳しすぎる」
卓斗は青い花から大きく距離を取った。
さっきまでなら、見たことのない花として少しは興味を持ったかもしれない。だが、今はもうそんな余裕はない。草原の見た目は綺麗でも、踏み間違えれば危険が出てくる。異世界は観光地ではなかった。
ティナは周囲の花の位置を確認し、少し右へ迂回した。
卓斗もその後に続く。さっきより足元を見る頻度が増えた。森の気配、空の影、地面の泥、毒の花。気にしなければいけないものが多すぎる。
「こんな場所を制服で歩く予定、一生なかったんだけど」
「動きにくいなら、どこかで着替えを用意する必要があるわね」
「さらっと長期滞在前提みたいなこと言うな」
「すぐ戻れるとは言っていないわ」
「そこも先に言え」
卓斗はスマホを取り出しかけ、やめた。
見ても圏外なのは分かっている。何度確認しても、電波は戻らない。それでも触りたくなるのは、現代側のものがそれしか残っていないからだった。
代わりに、卓斗は鞄の肩紐を握った。
重い。
だが、その重さが今は少しだけ支えになっている。
「俺はフィオラのためじゃなくて、帰る方法を探すために行くからな」
「それでいいわ。今は歩けばいいもの」
「よくない。全然よくない。でも、ここにいるよりはマシってだけ」
「判断としては悪くないわね」
「褒められても嬉しくないんよ」
ティナは前を向いたまま、淡々と進んだ。
卓斗はその後ろを歩く。
二人の目的は違う。
ティナはフィオラを復活させるために進んでいる。卓斗は帰る方法と契約解除の手がかりを探すために歩いている。目的は噛み合っていない。けれど、今向かう場所だけは同じだった。
草原の向こう、夕暮れの薄い光の中に、白い城壁のような線が浮かんでいた。
それが安全な場所なのか、新しい面倒の入口なのか、卓斗にはまだ分からない。
ただ一つ分かるのは、帰り道を探すためには、まずそこへ向かうしかないということだった。




