第一章 5 『普通に誘拐だろ、これ』
白銀の光が弾けた瞬間、成瀬卓斗は上下の感覚を失った。
足元にあったはずの住宅街のタイルが消え、耳の奥で低い竜の唸りのような音が反響する。手にはスマホの感触が残っている。右手首には、契約紋と呼ばれた白銀の竜紋が焼きついたように脈打っていた。
次に来たのは、浮遊感だった。
胃が一気に持ち上がり、体の向きが分からなくなる。上も下も、前も後ろもない。視界には白銀の線が何本も走り、そこに一瞬だけ、見たことのない草原と白い城壁のようなものが重なった。
「——っ、うわ――!」
叫びは途中で風に潰された。
卓斗の背中に、硬い衝撃が来た。
土と草の匂いが鼻に入り、体が地面を転がる。肩、背中、肘の順に鈍い痛みが走り、制服の袖に土がこすれた。最後に草の上で仰向けに止まった時、肺から勝手に息が漏れた。
「……っ、痛……」
卓斗は数秒、動けなかった。
空が見える。
夕方の住宅街ではない。電線も、マンションの窓も、コンビニの看板もない。代わりに、やけに広い空と、見たことのない形の雲が視界いっぱいに広がっていた。
風が草を撫でる音がする。
近くで虫のような鳴き声も聞こえるが、日本で聞いたことのある音とは少し違った。高く、細く、金属を震わせたような響きが混じっている。
卓斗はゆっくり上体を起こした。
「……生きてる?」
まず両手を見た。
指は動く。手のひらに擦り傷はあるが、折れてはいない。右手首から前腕にかけて、白銀の竜紋が薄く光っている。住宅街で起きたことも、契約紋を刻まれた瞬間も、悪い夢ではなかった。
卓斗は顔をしかめ、次に足を確認した。
膝は痛むが動く。制服のズボンには草の汁と土がつき、靴の横には細かい砂が入り込んでいた。鞄は少し離れた草むらに落ちていて、コンビニ袋はさらに向こうで破れている。
白い液体が、草の上へ流れていた。
「牛乳……」
卓斗は思わず呟いた。
紙パックは無惨に潰れ、中身はほとんど地面に吸われている。今それどころではない。分かっている。分かっているが、さっきまで自分が買って帰るはずだった現代の日常が、草原の上で牛乳として終わっている光景は、妙に心へ刺さった。
「いや、まず生存確認から入る放課後って何」
卓斗は土のついた手でスマホを探した。
スマホは右手に握られていた。転がった拍子に落とさなかったらしい。画面には細かな土がついているが、ヒビは入っていない。卓斗はほっとしかけ、すぐに電源ボタンを押した。
画面はついた。
時刻も表示されている。
だが、右上の表示は圏外だった。
「圏外。はい終わり」
卓斗は乾いた声で言った。
地図アプリを開く。
現在地は表示されない。読み込みの丸い記号がしばらく回ったあと、通信できないという表示に変わる。電話も駄目。メッセージアプリも更新されない。ニュースも、検索も、天気も、何一つつながらない。
卓斗はスマホを見つめたまま、口元を引きつらせた。
「異世界でもスマホ使えるみたいなご都合、ないタイプかよ」
画面は明るい。
けれど、それだけだった。
卓斗の文明は、手のひらの中でただの板になっていた。写真は見られる。メモも開ける。時計も動いている。だが、誰かに助けを求める道具としては、もう機能していない。
「マップ現在地なし。検索不可。通話不可。詰みです」
卓斗はスマホを握りしめ、ゆっくり周囲を見回した。
そこは草原と森の境目だった。
足元には背の低い草が広がり、少し先から濃い緑の森が始まっている。木々は日本で見るものより幹が太く、枝の広がり方も妙にねじれていた。葉の色は普通の緑に見えるが、陽の当たり方によって青みが強く光る。
遠くには、なだらかな丘が続いていた。
そのさらに向こうに、白いものがかすかに見える。山肌か、霧か、建物か、卓斗には判別できない。ただ、自然物にしては線がまっすぐで、巨大な壁のようにも見えた。
空を見上げた瞬間、大きな影が雲の下を横切った。
鳥にしては大きすぎる。
翼を広げた影は、電柱よりも、車よりも、下手をすれば小型の飛行機よりも大きく見えた。遠くを飛んでいるはずなのに、その羽ばたきが空気を押すような圧を残していく。
卓斗は口を開けたまま固まった。
「……鳥、デカくない?」
影は森の向こうへ消えた。
そのあとに残った空は、何事もなかったように青く広がっている。だが卓斗の頭の中では、現代日本という言葉が音を立てて崩れていた。
ここは日本ではない。
少なくとも、卓斗が知っている日本ではない。
「おい」
卓斗は低い声を出した。
少し離れた場所で、ティナが平然と立っていた。
白銀髪は乱れていない。赤のインナーカラーも、白銀の瞳も、住宅街で見た時と変わらない。服にも土はついていない。まるで転移ではなく、家の隣の部屋へ移動しただけのような顔で、周囲を確認している。
「何かしら」
「何かしら、じゃねえよ。どこだよここ」
「異世界よ」
「そこまでは聞いた! 聞いたけど、聞きたくなかった!」
卓斗は立ち上がろうとして、膝の痛みに顔をしかめた。
それでも座ったままでは怒りが収まらない。草を掴んで体を起こし、土まみれの制服を払いながらティナを睨んだ。右手首の契約紋が視界に入るたび、怒りが上乗せされていく。
「普通に誘拐だろ、これ!」
声が草原に響いた。
日本の住宅街なら誰かが振り返ったかもしれない。だが、ここには通行人も店員も警察もいない。声を受け止めるのは、草と森と、平然とした竜精霊だけだった。
ティナは表情を変えなかった。
「必要だったわ」
「その必要で法律と倫理を粉砕すんな!」
卓斗はスマホを突き出した。
圏外の表示を見せても、ティナに意味があるかは分からない。それでも、これが今の卓斗に残った現代側の証拠だった。帰れない。連絡できない。家族にも学校にも、何一つ伝えられない。
「俺、断ったよな? 契約も異世界も断ったよな?」
「聞いたわ」
「聞いた上で契約されて、知らん場所に飛ばされて、スマホ圏外。これを誘拐以外で説明してみろ」
「召喚に近いわね」
「言い換えで罪を軽くするな」
ティナは少しだけ目を細めた。
怒鳴られていることに不快感を示しているのではない。卓斗がどの程度動けるか、どの程度冷静さを残しているかを測っているようだった。その視線もまた、卓斗の怒りを煽った。
「人を観察対象みたいに見るな」
「今のあなたは、観察が必要な状態よ」
「原因作った本人が言うな」
「原因は私だけではないわ」
「今ここに俺を落としたのはお前だろ」
卓斗は自分の鞄を拾いに行った。
肩にかけようとして、中身が少し飛び出していることに気づく。教科書、筆箱、ノート。どれも土がついている。異世界の草原の上で、数学の教科書を拾うことになるとは思わなかった。
卓斗は教科書を鞄に押し込み、破れたコンビニ袋の方を見た。
牛乳は終わっている。
レシートだけが風に揺れていた。
「母親に何て説明すんだよ。牛乳も俺も帰ってこないんだけど」
「戻る方法はあるわ」
卓斗の動きが止まった。
怒りの中に、一瞬だけ別の感情が差し込んだ。帰れる。今の言い方は、帰る方法が存在するという意味だ。卓斗は振り返り、ティナを睨んだまま距離を詰めかけた。
「あるなら今すぐ戻せ」
「今は無理よ」
「はい終わり」
「この世界で、先に確認しなければならないことがあるわ」
「その確認ってやつ、全部お前の都合だろ」
ティナは否定しなかった。
否定しないまま、森の方へ視線を向けた。
その動きで、卓斗も少しだけ黙った。ティナの白銀の瞳は、さっきまで卓斗を見ていた時とは違っている。口論を続けるためではなく、何かを警戒する目だった。
森の奥から、低い音がした。
風ではない。
草が揺れた。
卓斗は反射的にそちらを見た。
森の境目、幹の太い木々の間で、下草がゆっくり動いている。何かがいる。姿は見えないが、草の揺れ方が風とは違う。低く喉を鳴らすような音が、木の影の奥からこちらへ届いた。
「……何、今の」
「文句は後よ。タク、立ちなさい」
「立ちなさいじゃねえよ。説明しろ」
「死にたくないなら足を動かすことね」
「脅し方が最悪!」
卓斗は怒鳴ったが、足は一歩下がっていた。
森の奥の気配が、また動いた。
今度は枝が折れる音がした。乾いた音ではなく、太めの枝が重いものに踏まれて折れたような鈍い音だった。日本の住宅街では聞かない音。学校帰りの高校生が聞く必要のない音。
ティナが右手を軽く動かした。
白銀の光が、卓斗の前方の空気に薄く走る。壁というほどはっきり見えない。だが、次の瞬間、森の入口付近の空気が硬くなったように歪み、草むらの奥の気配が一歩退いた。
低い唸り声が遠ざかる。
卓斗はその一連を見て、喉を鳴らした。
「今のも、お前の力か」
「白銀の魔素よ。今は近づかせない程度に抑えたわ」
「近づかせない程度ってことは、近づくやつがいるってことだよな」
「いるわ」
「だろうな! いるんだろうな!」
卓斗は自分の足元を見た。
草の上には、人間のものではない足跡があった。大きさは卓斗の靴よりもずっと大きい。指のような跡が三つあり、その先に爪で地面を引っかいたような線が残っている。
いつからそこにあったのか分からない。
卓斗が落ちてくる前からあったのか、それとも今さっき森の中の何かが残したのか。どちらにしても、ここが安全な場所ではないことだけは分かった。
怒っている場合ではない。
そう分かったことが、さらに腹立たしかった。
「タク。ここに座り込んでいても、状況は良くならないわ」
「お前が悪くした状況だけどな」
「それでも、移動する必要がある」
「どこへ」
「まずは安全な場所よ」
「安全って言葉、今日一番信用できない」
卓斗は大きく息を吐いた。
帰りたい。
今すぐ日本へ戻りたい。
家に帰って、破れた牛乳の言い訳をして、風呂に入って、寝たい。明日の授業がどうとか、友人の誘いがどうとか、そういう面倒くさい日常に戻りたい。
けれど、目の前には森がある。
森の中には何かがいる。
スマホは圏外。
ティナを信用していないが、ティナの白銀の魔素がなければ、さっきの気配を遠ざけられたかも分からない。
つまり、嫌でも動くしかない。
「……分かった。歩く」
卓斗は鞄を肩にかけた。
肩に重さが乗った瞬間、少しだけ現実感が戻った。鞄の中には教科書がある。筆箱もある。何の役にも立たないが、卓斗が高校生だった証拠だけはそこに詰まっている。
卓斗はティナを睨みつけた。
「歩くけど、納得したわけじゃないからな」
「知っているわ」
「知っててやってるのが一番終わってる」
ティナは否定しなかった。
森とは反対側、草原の向こうへ視線を向ける。遠くに見える白い線のようなものが、目的地なのかもしれない。卓斗にはまだ分からないが、少なくともこの場から離れる方向ではある。
「まずはあちらへ向かうわ」
「遠くない?」
「歩ける距離よ」
「お前の歩ける距離と俺の歩ける距離、絶対違うだろ」
「弱音を吐くには早いわね」
「異世界転移直後の高校生に求める強度じゃないんよ」
卓斗はスマホをポケットに入れようとして、もう一度画面を見た。
圏外。
その二文字が、さっきより重く見えた。
今の卓斗は、現代側へつながる道を何も持っていない。手元にある板は、時間を示すだけの道具になった。家にも、学校にも、拓海にも、母親にも、連絡できない。
卓斗は奥歯を噛み、スマホをポケットへ押し込んだ。
「帰る方法、絶対に説明しろよ」
「安全な場所へ着いたら話すわ」
「今話せ」
「歩きながら最低限は話すわ」
「最低限じゃ足りないんだけど」
「今のあなたに処理できる量に限るわね」
「最初から失礼だな、お前」
ティナは草原の方へ歩き出した。
小柄な体なのに、足取りは迷いがない。草の上を歩いているのに、服も靴もほとんど汚れない。卓斗はそれを見てまた腹が立ったが、立ち止まる選択肢はもうなかった。
森の奥で、もう一度草が揺れた。
卓斗は反射的に振り返った。
木々の影の間で、何かの目が光ったように見えた。黄色とも緑ともつかない小さな光。それはすぐに葉の奥へ消えたが、気のせいだと思えるほど都合のいい状況ではなかった。
「タク。止まらないで」
「言われなくても止まりたくないわ」
卓斗は小走りにならない程度に歩幅を広げた。
ティナの後ろを歩く形になるのが気に食わない。だが、どちらがこの世界を知っているかは明らかだった。今だけは、従うしかない。
草原の風が制服の裾を揺らした。
日本の放課後とは違う匂いがする。
土の匂い。草の匂い。知らない花の甘い匂い。森の奥から漂う、湿った獣のような匂い。
卓斗はその全部を受け取りながら、低く呟いた。
「普通に、無理なんだが……」
ティナは振り返らなかった。
白銀の髪だけが風に揺れ、赤のインナーカラーが草原の光を受けて一瞬だけ淡く光る。
「無理でも歩きなさい。死にたくないならね」
「この精霊、マジで終わってる」
卓斗は悪態をつきながら、それでも足を前へ出した。
納得はしていない。
許してもいない。
信用もしていない。
それでも、背後の森から聞こえる低い唸り声と、ポケットの中で沈黙するスマホが、今は歩くしかないと告げていた。
その背後で、森の奥の草がもう一度大きく揺れた。




