第一章 4 『拒否権、なし』
白銀の光が、住宅街の歩道を静かに塗り替えていく。
タイルの隙間に沿って細い紋様が走り、夕暮れの影を押しのけるように広がっていった。駅前へ向かう人の流れはすぐ近くにあるはずなのに、音も姿も薄い膜の向こうへ沈み、卓斗の周囲だけが別の場所に切り取られていく。
成瀬卓斗は、スマホを握ったまま足元を見た。
白銀の紋様は、ただ光っているだけではない。こちらが一歩でも動けば、その先へ先回りするように伸び、歩道の端や道路の白線まで細かく染めていく。逃げ道を塞いでいる、と理解するには十分だった。
「待て。マジで待て。今の流れで強行するやついる?」
卓斗は顔を上げた。
ティナは小柄な姿のまま、白銀の瞳で卓斗を見ていた。十歳前後にしか見えない少女の姿なのに、その目に迷いはない。怒りも焦りもない。ただ、必要な手順を進めるための冷静さだけがあった。
「ここにいるわ」
「自己申告すんな」
卓斗は声を荒げかけ、すぐに周囲を見た。
通行人の姿はある。コンビニの看板も見える。少し走れば駅前へ戻れる距離のはずだった。だが、そのどれもが妙に遠い。見えているのに届かない場所へ置かれているような感覚が、足の裏からじわじわ上がってくる。
会話で止まらない。
そう判断した瞬間、卓斗は駅前側へ身を翻した。
走るなら今しかない。人の多い方へ出る。コンビニに逃げ込む。交番まで行く。状況を説明できるかどうかは後で考える。まずは、この白銀の膜の中から出る方が先だった。
卓斗は一歩目を踏み出した。
足裏が、地面に吸いついた。
「っ、重っ……!」
走り出すはずだった体が、前へ出ない。
膝は動いた。上半身も前に傾いた。だが、足元だけが見えない鎖で縫い止められたように重く、踏み出したはずの距離が半分にも満たなかった。
卓斗は力任せに足を引き抜き、もう一度前へ出ようとした。
今度は空気が硬かった。
駅前へ続く道に向かって手を伸ばした瞬間、指先が透明な壁のようなものに触れた。見えないのに、そこには確かに抵抗がある。押しても沈まず、叩いても音はしない。ただ、空間そのものが竜の鱗みたいに固くなっている。
「おい、今なにした」
卓斗は壁から手を離し、ティナを振り返った。
怒りより先に、喉の奥が冷えた。自分の知っている逃げ方が、目の前で使えなくなっている。走る、叫ぶ、助けを求める。そういう普通の手段が、白銀の光に一つずつ潰されていた。
「あなたが逃げると効率が悪いから、距離を固定したわ」
「俺の効率を勝手に敵に回すな」
「落ち着きなさい」
「落ち着ける状況を先に用意しろ!」
卓斗はスマホを見た。
電波はまだある。画面も動く。通話ボタンを押せば、どこかにつながるかもしれない。だが、指を動かそうとした瞬間、画面の端に白銀の紋様が薄く走った。
スマホそのものが壊れたわけではない。
しかし、表示されている数字やアイコンが一瞬だけにじみ、画面の奥から何か別の模様が浮かびかける。卓斗は反射的にスマホを握り直し、白銀の光から画面を隠した。
「文明に干渉すんな。俺の最後の現代要素なんだよ」
「壊してはいないわ」
「壊してなければいいって話じゃない」
卓斗は駅前側を諦め、今度は住宅街の奥へ視線を走らせた。
家が並んでいる。細い路地もある。塀を越えるのは現実的ではないが、道を曲がれば一瞬でもティナの視界から外れられるかもしれない。そう考えて足を動かした瞬間、白銀の紋様が先に路地の入口へ回り込んだ。
距離が、おかしい。
目ではすぐそこに見えるのに、足を進めても近づかない。地面が伸びたのか、空間が折れたのか、卓斗には分からない。ただ、さっきまで知っていた住宅街の距離感が、ティナの白銀の光によって別のものに書き換えられている。
卓斗は立ち止まった。
無理に走れば転ぶ。
転べば終わる。
それくらいは分かった。
「タク。抵抗しても、あなたに怪我をさせるだけよ」
「誰のせいで抵抗してると思ってんだよ」
「あなたを傷つけるつもりはないわ」
「傷つける気がないやつは、普通、人の足止めて契約しようとしないんだわ」
卓斗の声が低くなった。
軽口でごまかせる段階は過ぎていた。目の前の少女は本気だ。しかも、自分のやっていることが理不尽だと分からないほど愚かでもない。分かった上で、進めている。
それが一番腹立たしかった。
「俺、断ったよな」
卓斗はティナを睨んだ。
白銀の光が足元から膝のあたりへ薄く反射している。逃げられないと分かっていても、体はまだ後ろへ重心を置いていた。いつでも動けるように、けれど下手に動けば捕まると分かったまま。
「聞こえてなかったとか言うなよ。ちゃんと断った」
「聞いたわ」
「なら終われよ」
「終われないわ」
「契約って言葉の意味知ってる? 普通、同意がいるんよ」
卓斗は右手を胸の前に引き、スマホを握ったまま言葉を続けた。
ここで黙れば、すべてが流される。相手の事情がどれだけ重くても、それは卓斗の意思を消していい理由にはならない。知らない世界の知らない誰かのために、自分の人生を勝手に使われる筋合いはなかった。
「それを無視したら契約じゃなくて強制だろ」
ティナはすぐには返さなかった。
表情は変わらない。けれど、白銀の瞳の奥に、ほんの少しだけ硬いものが沈んだように見えた。怒りではない。躊躇でもない。もっと古く、もっと遠いものを抱え直すような沈黙だった。
「あなたの言い分は正しいわ」
「じゃあやめろよ」
「できないわ」
「なんで」
卓斗が問い詰めると、ティナはわずかに視線を落とした。
その一瞬だけ、彼女の小さな姿が年相応に見えた。十歳前後の少女が、何かを失くした場所を見つめるように、白銀の光の中で黙っている。だが、次に顔を上げた時には、また竜精霊の目に戻っていた。
「フィオラを、あのままにはしておけない」
「知らない人のために、俺の人生使うな」
卓斗の言葉は、白銀の膜の中で鋭く響いた。
ティナは否定しない。
否定しないまま、手を上げた。
その指先から、白銀の光が糸のように伸びる。細い光は空中でほどけ、卓斗の足元に広がっていた紋様とつながった。歩道のタイルに浮かぶ線が一斉に明るくなり、卓斗の影を円の内側へ閉じ込める。
卓斗は反射的に右足を引いた。
だが、紋様はすでに足首の周りに回り込んでいた。触れている感覚はない。なのに、そこから冷たい熱のようなものが皮膚の内側へ染み込んでくる。
「おい、やめろ」
「契約術式を始めるわ」
「始めるなって言ってんだよ!」
卓斗は足元の光を蹴り払おうとした。
靴底が白銀の線を踏む。だが、光は散らない。水面を踏んだように揺れただけで、すぐに形を戻し、今度は卓斗の右足から膝へ、さらに右腕へと細い線を伸ばしてきた。
心臓が、一度大きく鳴った。
胸の奥に、冷たいものが入ってくる。
氷ではない。熱でもない。けれど、体の中心を通る血の流れとは違う何かが、外側から無理やり一本の道を作っていく感覚だった。
「っ、気持ち悪……!」
卓斗は右腕を押さえた。
制服の袖の下で、皮膚が熱を持ったように疼く。慌てて袖をまくると、右手首から前腕にかけて、白銀の細い竜紋が浮かび上がっていた。
鱗のような線。
爪痕のような曲線。
手首を一周し、前腕へ絡みつく白銀の紋様。
それは刺青のように見えるのに、皮膚の表面だけではなく、もっと深い場所から光っているようだった。
「消えろ、これ。普通に消えろ」
卓斗は左手で竜紋をこすった。
消えない。
制服の袖で拭っても、手のひらで押さえても、白銀の光は皮膚の奥で脈打ち続けている。スマホのライトを当てるまでもなく、薄暗い夕方の中で紋様だけがはっきり見えた。
「無理よ。契約紋は刻まれたわ」
「言い方が怖いんだよ!」
「痛みは最小限に抑えているわ」
「痛みの問題じゃない!」
卓斗の声が荒れた瞬間、周囲の小石がかすかに震えた。
足元の砂粒が卓斗の靴先へ引き寄せられる。コンビニ袋の中に残っていたレシートが、袋の口から浮き上がりかけ、卓斗の右手の方へ傾いた。近くに落ちていた空き缶も、ほんの数ミリだけこちらへ滑る。
卓斗はその変化に気づき、息を呑んだ。
「今度は何だよ……」
「反応はあるわね」
ティナの白銀の瞳が、卓斗の右腕を見た。
その視線は冷静すぎた。怯えるでも、喜ぶでもない。まるで、結果を確認する研究者のように、卓斗の身体に起きた異常を見ている。
卓斗の怒りが、そこでさらに跳ね上がった。
「人を実験結果みたいに見るな」
「あなたは、やはり適合する」
「俺は適合したくないんだよ」
胸の奥で、もう一度鼓動が鳴った。
今度は鼓動に合わせて、見えない力が外へ押し出された。卓斗の足元の落ち葉が外側へ散り、次の瞬間には逆に右手の方へ引き戻される。押したのか、引いたのか、自分でも分からない。
制御できない。
分からないものが、自分の体の中で動き始めている。
その事実が、ティナの術式よりも怖かった。
「止めろ。今すぐ止めろ」
「契約はもう進んでいるわ」
「進めたのお前だろ!」
「あなたの魔素反応が術式を受け入れている」
「俺は受け入れてない!」
卓斗は白銀の円から出ようとした。
右足を前へ出す。地面が重い。左足を動かす。空間が硬い。それでも、体をねじってティナから距離を取ろうとする。
その瞬間、ティナの背後に白銀の竜影が浮かんだ。
先程見たものより、輪郭が濃い。
翼を広げた竜の影が、住宅街の夕暮れを覆うように一瞬だけ現れ、卓斗の足元の紋様へ白銀の光を落とした。光は細い鎖のように絡まり、卓斗の右腕から胸元へ伸びる。
制服の内側、鎖骨の下あたりが熱を持った。
「ぐっ……!」
卓斗は胸元を押さえた。
そこにも薄い紋様が広がっている感覚があった。右腕ほどはっきり見えない。だが、体の中心に何かが接続されるような感覚があり、息を吸うたびに白銀の光が肺の奥まで入り込んでくる。
視界が揺れる。
住宅街が歪む。
白銀の膜の向こうに、知らない景色が一瞬だけ重なった。
白い城壁。
広い草原。
巨大な森。
空をよぎる竜の影。
暗い場所で眠る誰かの輪郭。
そして、遠く離れた場所に散る九つの光。
卓斗は目を見開いた。
見たことのない景色なのに、脳の奥へ直接流し込まれたように残る。意味は分からない。地名も、理由も、誰の記憶なのかも分からない。ただ、今の一瞬で、自分の放課後とはまったく別の世界が存在することだけは分かってしまった。
「今の、何見せた……!」
「契約がつないだ断片よ」
「勝手につなぐな!」
卓斗は叫んだ。
だが、白銀の光は止まらない。
ティナが胸元へ上げていた手を、静かに卓斗の方へ向ける。彼女の白銀の瞳が強く光り、足元の術式が最後の円を描いた。卓斗の右手首の竜紋が一度だけ眩しく輝き、胸の奥の冷たい熱が一本の線になる。
卓斗とティナの間に、白銀の細い線がつながった。
目にはほとんど見えない。
だが、卓斗には分かった。
何かが、自分とティナを結びつけた。
切ろうとしても、手で払っても、逃げても、簡単には消えない種類の何かが。
「契約、成立」
ティナは短く告げた。
卓斗は右腕の竜紋を見て、それからティナを睨みつけた。
「成立じゃねえよ! 俺、了承してない!」
「拒否は聞いたわ」
「聞いた上でやったのが一番悪いんだよ!」
卓斗の声が白銀の膜の中に響いた。
胸の奥では、まだ知らない力が暴れている。足元の小石が卓斗の右手へ寄りかけ、次の瞬間には外側へ弾かれる。引き寄せる力と押し返す力が、本人の意思と関係なく小さくぶつかっていた。
ティナはその反応を見て、わずかに目を細めた。
「引く力と、押す力。やはり、こちらの世界にはない反応ね」
「感想言ってる場合か」
「重要な確認よ」
「俺にとっては人生の緊急事態なんだよ!」
卓斗はスマホを確認した。
画面には、母親からの通知も、友人からのメッセージもない。いつも通りの待ち受けが表示されている。だが、その右上の電波表示が、白銀の光に侵食されるように揺れていた。
圏外になる。
そう直感した。
「おい、待て。これ、まだ終わりじゃないよな」
「次は移動よ」
「いや、待て待て。俺、家帰る途中なんだけど」
「もう帰れないわ」
「言い方!」
「正確には、すぐには戻れないわ」
「悪化しただけなんよ」
卓斗は髪をかき上げ、必死に現代側の事情を並べようとした。
家がある。学校がある。明日も授業がある。母親は、卓斗が普通に帰ってくると思っている。友人も、今日の放課後にこんなことが起きているとは知らない。さっきまでコンビニの袋を持って歩いていた高校生が、いきなり異世界へ移動していいわけがない。
「家! 学校! スマホ! 俺の人生! あと、今日まだ夕飯食ってないんだけど!」
「優先順位が混ざっているわね」
「混ざるわ! 人生の危機なんだから!」
「食事は向こうでも必要になるわ」
「そういう問題じゃない!」
ティナは卓斗の抗議を受け流し、彼の右手首に浮かぶ契約紋へ視線を落とした。
白銀の竜紋は、まだ淡く光っている。呼吸や鼓動に合わせて、紋様の一部が細かく脈打ち、ティナの周囲の光と同じ周期で揺れていた。
ティナが一歩近づく。
卓斗は下がろうとしたが、足元の紋様がそれを許さない。白銀の円はすでに転移のための形へ変わり始めていた。住宅街のタイルが遠のき、足元に見えるはずの影が薄く伸びていく。
「近づくな。マジで近づくな」
「暴れない方が安全よ」
「安全って言葉の信用が地に落ちてる」
「落下はしないように調整するわ」
「落下する可能性があるの!?」
卓斗の抗議が終わる前に、ティナの小さな手が彼の右手首へ触れた。
契約紋が強く光る。
その瞬間、住宅街の音が消えた。
車の音も、踏切の警報音も、コンビニの自動ドアの音も、通行人の足音も、全部が一斉に遠ざかった。代わりに、耳の奥で低い竜の唸りのような音が響く。
スマホの画面が白銀色に染まった。
右上の電波表示が消える。
圏外。
卓斗はそれを見た瞬間、背筋の冷えが怒りに変わった。
「いや、待て! これマジでどこ行くやつ!?」
白銀の光が足元から吹き上がった。
住宅街の夕暮れが、まるで水に溶ける絵の具のように崩れていく。家の輪郭がにじみ、道路の白線が消え、空の色が白銀に塗り替えられる。
ティナは卓斗の手首を離さなかった。
その白銀の瞳だけが、崩れていく景色の中で変わらず卓斗を見ていた。
「異世界よ」
「普通に誘拐だろ、これ!」
卓斗の叫びを最後に、白銀の光が弾けた。




