第一章 3 『竜精霊を名乗る少女』
夕暮れの住宅街は、まだ現実の形を保っていた。
車は横断歩道の前を通り過ぎ、駅へ向かう人の流れも途切れていない。遠くでは踏切の警報音が鳴り、コンビニの自動ドアが開くたびに、冷たい空気と店内の音楽が歩道へ漏れていた。
それなのに、成瀬卓斗の周囲だけが、薄い白銀の膜に包まれているようだった。
音は聞こえる。人も見える。けれど、それらは少し遠い。すぐそばにあるはずの街が、透明な壁の向こうへ押しやられたように感じられた。
卓斗はスマホを握ったまま、目の前の少女を見下ろしていた。
白銀の髪。内側に混じる赤い色。白銀の瞳。十歳前後にしか見えない小柄な姿。
その少女は、自分をティナと名乗った。
そして、こう言った。
竜精霊だ、と。
「……確認なんだけど、これドッキリじゃないよな?」
卓斗はできるだけ普通の声を出した。
普通の声を出せば、普通の状況に戻れる気がした。もちろん、そんな理屈が通るとは思っていない。だが、現実側へしがみつくには、まず言葉をいつも通りにするしかなかった。
ティナは卓斗の反応を眺め、わずかに首を傾けた。
「ドッキリという言葉の意味は知っているわ。でも違うわね」
「知ってるなら、もうちょい現代社会に寄せてくれ」
「あなたが理解しやすい形を選んでいるつもりよ」
「小石浮かせて、周りの認識ずらして、竜精霊名乗るのが?」
「十分に控えめね」
「基準が終わってる」
卓斗は一歩下がろうとした。
だが、足はすぐには動かなかった。地面に貼りつけられているわけではない。けれど、動いた先で何が起きるか分からないという判断が、足裏に余計な重さを生んでいた。
通報するか。
逃げるか。
大声を出すか。
その三つを順番に考えて、卓斗は全部の選択肢に疑問符をつけた。通報しても、警察がこの少女を認識できるか分からない。逃げても、昨日のようにまた現れるかもしれない。大声を出せば、周囲には自分だけが騒いでいるように見える可能性が高い。
詰んでいる。
少なくとも、普通の高校生が放課後に処理する案件ではなかった。
「タク」
「その呼び方、もう固定なのかよ」
「長い名前は効率が悪いわ」
「俺の理屈を変な方向で使うな」
卓斗は眉を寄せたまま、ティナとの距離を確認した。
およそ三メートル。走って逃げるには近い。逆に、相手が本当に人間ではないなら、この距離が近いのか遠いのかも分からない。
ティナは卓斗の警戒を見ている。
その目には、子どもらしい不安も、初対面の遠慮もない。ただ、相手の理解力と反応を測るような冷静さだけがあった。
「あなたは、思ったより逃げないのね」
「逃げたい気持ちはある」
「なら、なぜ逃げないの」
「逃げてどうにかなる相手か判断できないから。あと、全力で走って転んだら恥ずい」
「最低限の危機判断はあるようね」
「だから評価する流れじゃないんよ」
卓斗が言い返した瞬間、ティナの背後の空気が揺れた。
最初は夕方の熱気かと思った。だが、揺れ方が違う。空気そのものに細い白銀の線が走り、その線が重なって、巨大な輪郭を一瞬だけ作った。
翼。
爪。
長く伸びた首。
白銀の鱗のような光。
竜の影だった。
卓斗は息を止めた。
目を凝らした時には、その輪郭はもう消えていた。ティナの背後には、いつもの住宅街と、赤くなりかけた空しかない。だが、脳の奥には、白銀の竜がこちらを見下ろしていた感覚がはっきり残っていた。
「今の、何」
「見せた方が早いと思っただけよ」
「早いけど雑。説明が雑」
「言葉だけでは信じないでしょう」
「見せられても信じたくないんだが」
卓斗はスマホを持つ手に力を入れた。
画面は暗いままだった。そこに白銀の紋様が浮かぶことはない。電波表示も普通で、バッテリー残量もいつも通りだった。現代の道具が正常であるほど、目の前の異常が余計に浮き上がる。
ティナはそのスマホを一瞥した。
「それに助けを求めても、状況は変わらないわ」
「個人情報も文明も把握済みみたいな言い方やめろ」
「必要な範囲だけよ」
「その必要って言葉、さっきからだいぶ信用できない」
卓斗は、これ以上ここで立っているのはまずいと判断した。
だが、どこへ動くべきか決められない。駅前へ戻るにしても、ティナがついてくる可能性がある。家へ帰れば、家族を巻き込むかもしれない。交番へ行くのは現実的に見えて、この状況では一番説明が難しい。
結局、卓斗はその場に留まるしかなかった。
「で、竜精霊って何。ファンタジー用語を当然みたいに置くな」
「竜の力と精霊の性質を持つ存在よ」
「そのまんま返されても困る」
「人間ではない。あなたの世界の生物でもない。そう理解すれば十分ね」
「十分じゃないんだけど、これ以上聞いても情報量増えるだけな気がしてきた」
ティナは小さく頷いた。
卓斗はその頷きに納得されても困ると思ったが、今は細かい言葉に引っかかっている場合ではない。目の前の少女は、会話こそ成り立っているが、価値観が人間のそれとずれている。
話が通じることと、こちらの都合を尊重することは別。
その嫌な切り分けが、少しずつ見えてきていた。
「私は、フィオラと契約していたわ」
ティナは唐突に名前を出した。
卓斗はすぐには返せなかった。竜精霊の次に、知らない固有名詞が出てきた。会話の階段を二段飛ばしどころか、建物ごと変えられている感覚だった。
「フィオラって誰」
「この世界を救い、国を作り、そして封印された人間よ」
「待て。世界、国、封印。三つ一気に出すな。情報量エグいって」
「必要な情報よ」
「必要なら小分けにしろ。人間の脳に優しくない」
卓斗は額に手を当てた。
この世界、という言葉が混ざった。
つまり、ティナは今いる日本とは別の世界を前提に話している。竜精霊という時点で薄々そういう方向だとは思ったが、実際に言葉にされると、頭の中の現実感がまた一段ずれる。
ティナは卓斗が混乱していることを理解しているようだった。
ただし、理解しているだけで、待つ気はあまりなさそうだった。
「フィオラは、私たち竜精霊と契約していた人間よ。彼女は世界規模の危機を止めるために、自分ごと封印を選んだ」
「世界規模?」
「そうよ」
「スケールで殴るな」
「事実を言っているだけよ」
「事実がデカすぎるんだよ」
卓斗は周囲を見た。
夕方の住宅街は、相変わらず少し遠い。通行人は卓斗たちの横を通り過ぎていくが、誰も会話に割り込まない。白銀の膜の中だけで、世界規模の危機だのという話が進んでいる。
現実の歩道に立ったまま、知らない物語へ無理やり足を入れられているようだった。
「そのフィオラさんが封印されてるとして、なんで俺に話が来るわけ」
「復活させる必要があるからよ」
「いや、そこもだいぶ重い」
「フィオラを復活させるには、九つの分霊石が必要になる」
卓斗は数秒、無言になった。
九つ。
分霊石。
知らない単語がまた増えた。
そして、増えた瞬間に嫌な予感がした。こういう話で「九つの何かが必要」という時は、だいたい集める流れになる。ゲームでも漫画でもそうだ。聞いた時点で面倒くさい匂いがする。
「普通に無理なんだが!?」
卓斗は反射的に声を上げた。
近くを通った通行人が、また卓斗だけをちらりと見た。ティナは認識されていない。つまり、卓斗が一人で突然叫んだ形になっている。
卓斗は慌てて声を落とした。
「九個? 石を? 世界中から? え、俺が?」
「あなたが必要なの」
「そこ確定で話進めるな」
「竜精霊だけでは集められないわ」
「じゃあ諦める選択肢もあるだろ」
「ないわ」
ティナの返答は短かった。
その短さに、卓斗は言葉を詰まらせた。冗談でも、迷いでもない。フィオラを復活させるという目的だけは、ティナの中で絶対に動かないものらしい。
卓斗はその重さを理解し始めたが、理解したからといって納得できるわけではなかった。
「竜精霊が無理なら、人間でも無理だろ。俺、一般人なんよ」
「あなたの世界の人間には、こちらの魔素体系にない反応が出る可能性があるわ」
「なんで日本人?」
「異なる世界から来た人間だからよ。こちらの世界にない揺らぎを持っている」
「可能性で人の放課後に現れるな」
「必要だったの」
「その必要って言葉で何でも通すな」
卓斗は頭の中で必死に整理した。
ティナは異世界の竜精霊。フィオラという人間と契約していた。フィオラは世界を救うため封印された。復活には九つの分霊石が必要。竜精霊だけでは集められない。だから異世界から来た人間、つまり日本人である自分に目をつけた。
整理できた。
整理できたが、整理したところで結論は変わらない。
意味が分からない。
「俺がその、特別な力を持ってるって確定してるわけ?」
「確定ではないわ」
「はい、解散」
「可能性は高いわ」
「可能性で人生巻き込まれるの怖すぎるだろ」
ティナは卓斗の反応を静かに見ていた。
白銀の瞳は冷たいが、悪意だけがあるわけではない。むしろ、悪意がないから厄介だった。目的があり、そのための手段として卓斗が必要で、だから来た。彼女の中では、それが一本の線でつながっている。
卓斗の生活や予定や意思は、その線の外側に置かれている。
「あなたには、私の契約者になってもらうわ」
ティナは改めて言った。
卓斗は息を吸い、すぐには返さなかった。ここまでの話の中で、一番危険な単語が戻ってきたからだ。
契約。
その言葉だけは、聞き流せない。
「契約って、具体的に何」
「竜精霊は、人間と契約することで力を安定して扱える。契約者は、竜精霊の魔素とつながる。あなたが私の契約者になれば、分霊石を探すために必要な道が開くわ」
「道って何」
「異世界へ渡る準備よ」
「はい、また増えた。異世界へ渡るって何。旅行みたいに言うな」
「あなたの世界から、私たちの世界へ来てもらうという意味よ」
「一番聞きたくなかった答えが来た」
卓斗は一歩下がった。
今度は足が動いた。だが、逃げるためではなく、距離を取るための一歩だった。心臓が少し速くなっている。目の前の話が、ただの怪異や不審者ではなく、自分の生活そのものを壊す話だと分かってきた。
異世界へ行く。
契約する。
九つの石を集める。
フィオラを復活させる。
どれも卓斗が望んだことではない。
「俺、今日帰って寝る予定だったんだけど」
「予定は変わるものよ」
「勝手に変えるな」
「あなたが必要なの」
「必要なら何してもいいわけじゃないだろ」
卓斗の声が少し低くなった。
ふざけたツッコミで受け流せる範囲を越え始めていた。目の前の少女は小さく、見た目だけなら守るべき子どもに近い。けれど、話している内容は、卓斗の人生を別の場所へ運ぼうとしている。
その線引きは、はっきりさせなければならない。
「お前さ、契約って言葉の意味知ってる?」
「知っているわ」
「普通、同意がいるんよ」
ティナは黙った。
その沈黙で、卓斗は少しだけ嫌な予感を覚えた。知らないのではない。分かっていないのでもない。分かった上で、別の優先順位を置いている。
それが一番まずい。
「あなたが納得していないことは分かっているわ」
「分かってるなら話終わりだろ」
「いいえ。分かっていることと、止めることは別よ」
「最悪の切り分け方すんな」
卓斗ははっきりとティナを見た。
白銀の瞳が、まっすぐに返ってくる。そこには揺れがない。卓斗が怒っても、引いても、拒否しても、ティナの中心にある目的は動いていない。
話は通じる。
だが、止まる気がない。
卓斗はその事実を、胃の奥が冷えるような感覚と一緒に受け取った。
「フィオラさんが大事なのは分かった。お前にとって、その人を復活させたいのも分かった。世界を救ったとか、たぶん重い事情があるんだろうなってのも分かった」
卓斗は言葉を選びながら話した。
いつもの軽口だけでは足りない。ここは、冗談で流していい場所ではない。相手がどれだけ人間離れしていても、ここで曖昧に頷けば、自分の人生が勝手に決められる。
だから、卓斗は一度息を整えた。
「でも、それで俺の人生を勝手に使っていい理由にはならないだろ」
ティナの表情は変わらなかった。
ただ、周囲を包む白銀の膜が、ほんの少しだけ静かになった気がした。
「俺、フィオラって人知らないし、分霊石も知らないし、異世界も知らない。そもそも、お前のことも今日初めてまともに話したばっかだ」
卓斗はスマホを握る手から力を抜いた。
逃げるためではない。怒鳴るためでもない。ただ、自分の言葉をちゃんと置くために、手の震えを隠した。
「それで契約しろとか、異世界来いとか、九つの石を集めろとか、普通に無理なんだが」
「タク」
「断る」
その言葉だけは、迷わなかった。
白銀の膜の中で、卓斗の声がやけにはっきり響いた気がした。
「契約には同意がいる。俺は同意しない」
ティナは卓斗を見上げたまま、しばらく何も言わなかった。
夕暮れの街の音が、また少し戻ってくる。通行人の足音、車のタイヤが路面を擦る音、遠くの自転車のベル。普通の世界がすぐそばにあるのに、卓斗とティナの間だけは、まだ別の場所にあるようだった。
卓斗は、今度こそ話が終わることを期待した。
正面から断った。
理由も言った。
相手の事情を理解した上で、それでも自分は同意しないと伝えた。
普通なら、ここで終わる。
「……あなたの言い分は、正しいわ」
ティナは静かに言った。
卓斗は少しだけ息を吐きかけた。
「じゃあ――」
「でも、時間がないの」
吐きかけた息が、喉の奥で止まった。
ティナの白銀の瞳が、さっきよりも冷たく見えた。怒っているわけではない。悲しんでいるわけでもない。ただ、何かを決めた目だった。
卓斗は本能的に一歩下がった。
足元の落ち葉が、今度は勝手に動いた。
風ではない。白銀の光が地面の上を薄く走り、葉の影を撫でるように広がっていく。歩道のタイルの隙間に、細い紋様のような光が浮かび始めた。
「タク。あなたが拒否することは分かったわ」
「なら、話終わりだな」
「いいえ。拒否されたことを確認しただけよ」
「おい」
卓斗はスマホを握り直し、今度こそ走る方向を探した。
駅前。コンビニ。交番。人通りのある方。頭の中で逃げ道を並べるが、白銀の光は足元から周囲へ広がっている。距離を取る前に、何かが始まろうとしていた。
ティナは小さな手を胸元へ上げた。
その動きに合わせて、空気が重くなる。
卓斗の足元から、白銀の紋様が円を描くように広がった。街の音が一段遠のき、夕暮れの色が薄くにじむ。
「ここから先は、必要なことをするわ」
「必要って言えば通ると思うなよ」
卓斗は声を荒げた。
だが、ティナは退かなかった。
白銀の光が、卓斗の影を静かに飲み込んでいく。
「安心しなさい。即死はしないわ。多分ね」
「安心できる要素どこだよ!?」
卓斗の叫びは、白銀の膜の中で弾かれるように消えた。
普通の放課後は、もうすぐ後ろにあるはずだった。
けれどその境目は、ティナの足元から広がる光に塗り替えられていった。




