第一章 2 『白銀の迷子』
その日の夜、成瀬卓斗は予定通りに帰宅した。
買ってきた牛乳を冷蔵庫へ入れ、母親に「買った」とだけ伝え、自室へ上がる。
階段を上る足音も、廊下の明かりも、部屋のドアを開けた時の空気も、何もかもがいつも通りだった。
鞄を床に置いた卓斗は、制服の上着を脱ぐ前にスマホを取り出した。
画面には、何の通知もない。電波も普通に入っている。
さっき白銀色に光ったように見えた端の部分も、今はただの黒いガラス面に戻っていた。
「……いや、普通に疲れだろ」
卓斗はベッドに腰を下ろし、スマホを手の中で回した。
白銀髪の少女。赤い色の混じった髪。こちらを真っ直ぐに見ていた白銀の瞳。口の形だけで、自分の名前を呼んだように見えたあの瞬間。
思い返すほど、現実味が薄くなる。
冷静に考えれば、夕方の逆光と疲れが重なっただけかもしれない。スマホの光も、通知が来た時の反射を見間違えた可能性がある。
名前を呼ばれた気がしたのも、ただの思い込みで片づけられる範囲だった。
「白銀髪の女の子がこっち見て名前呼ぶとか、ホラーの導入なんよ」
卓斗は一人で呟き、深く息を吐いた。
こういう時、余計に調べると負けだ。
ネットで「白銀髪 少女 見えた」と検索したところで、怪談か創作か病院案件が並ぶだけに決まっている。原因不明の違和感に時間を使うより、寝て忘れる方がまだ効率がいい。
卓斗はスマホを枕元へ放り、制服のネクタイを緩めた。
部屋の外から、夕飯の支度をする音が聞こえてくる。キッチンの換気扇、食器の触れ合う音、テレビのニュースの声。
現実はちゃんと家の中にあって、得体の知れない白銀の少女は、そこには入り込んでこなかった。
「寝よ。こういう時は寝るのが一番効率いい」
そう結論を出して、卓斗はその夜を無理やり終わらせた。
翌日も、世界は普通に始まった。
朝のアラームはいつも通りに鳴り、卓斗は三回目のスヌーズでようやく起きた。洗面所で寝癖を直し、金に染めた髪をセンターで分ける。
鏡の中の自分は昨日と変わらず、異世界に選ばれた主人公の顔などしていなかった。
登校中、卓斗は駅前のガラス窓に映る人影を何度か見た。
白銀の髪はない。赤いインナーカラーの小さな少女もいない。
学生、会社員、犬の散歩をする老人、イヤホンをつけた自転車の高校生。どこにでもある朝の景色が、どこまでも普通に続いていた。
学校に着く頃には、卓斗の中で昨日の違和感はだいぶ薄れていた。
ただ、完全に消えたわけではない。
「おい卓斗、今日眠そうじゃね?」
教室に入ると、拓海が自分の席から振り返った。
卓斗は鞄を机の横へかけ、椅子に座る。
昨日と同じ教室、同じ席、同じ友人の声。けれど窓の外を見るたびに、横断歩道の向こうにいた白銀の少女の姿が一瞬だけ重なった。
「いつも眠い」
「それはそうだけど、今日はなんか変」
「人を常時眠い生き物みたいに言うな」
「違うの?」
「否定材料が少ない」
拓海は笑いながら、スマホを机の上に置いた。
画面には昨日のゲームのスクリーンショットが表示されている。異世界探索系の新作らしく、剣を持ったキャラクターが巨大な竜の前に立っていた。
「昨日のやつ、やっぱ面白かったぞ。お前も来ればよかったのに」
「行かなくて正解だったわ。竜デカすぎだろ。初期装備で戦う相手じゃない」
「そこはゲームだから」
「現実だったら一秒で終わりです」
卓斗はそう言いながら、教科書を机に入れた。
竜という単語に、昨日の白銀の瞳が妙に引っかかった。もちろん、ただの連想だ。
ゲームの画面と、横断歩道の少女に関係があるはずもない。それでも、頭のどこかが勝手に警戒している。
「なあ、昨日なんかあった?」
拓海が何気なく聞いた。
卓斗は一瞬だけ返答に詰まった。
白銀髪の変な少女を見た。スマホが白銀色に光った。自分の名前を呼ばれた気がした。
そんな話をすれば、確実に面白がられるか、疲れている扱いされる。説明するのが、すでに面倒だった。
「牛乳買わされた」
「平和かよ」
「俺の放課後が一工程増えた。大事件だろ」
「お前の世界、狭いな」
「広げると面倒が増える」
卓斗はそれ以上何も言わなかった。
授業は普通に進み、昼休みも普通に過ぎた。誰かが購買のパンを取り合い、誰かが小テストの点数で騒ぎ、誰かが放課後の予定を相談する。
卓斗はその空気に流されながら、昨日の出来事を少しずつ「たぶん気のせい」の箱へ押し込んでいった。
けれど、放課後が近づくほど、足元に小さな重りが増えていくような感覚があった。
帰るなら、昨日と同じ道を通ることになる。
六限が終わり、教室に放課後のざわめきが戻る。
卓斗は鞄を肩にかけ、いつもより少し遅れて廊下へ出た。友人たちはゲーセンや部活の話をしていたが、卓斗は軽く手を振って断った。
「今日こそ来いよ」
「無理。帰る」
「また布団?」
「布団は予定を裏切らない」
「名言っぽく言うな」
拓海の声を背中で受けながら、卓斗は昇降口へ向かった。
靴を履き替え、校門を出る。夕方の空気は昨日と似ていた。校舎の影、部活の声、駅へ向かう学生の流れ。
似すぎているせいで、逆に昨日の景色がよみがえる。
卓斗はスマホを確認した。
通知はない。電波もある。画面も白銀色には光らない。
「……昨日の道、やめとくか」
口に出してから、卓斗は足を止めた。
遠回りすれば、あの横断歩道を避けられる。時間にして五分か七分程度。大した差ではない。
だが、見間違いかもしれないもののために生活ルートを変えるのは、何となく負けた気がする。
そもそも、またいる根拠がない。
昨日が本当に疲れによる見間違いなら、遠回りするだけ無駄だ。無駄なことは嫌いだった。
怖いから避ける、というより、根拠の薄い不安に行動を変えられるのがだるい。
「遠回り、効率悪いよな」
卓斗は結局、いつもの道を選んだ。
駅前を抜け、コンビニの前を通る。昨日牛乳を買った店の自動ドアが開き、冷たい空気が歩道に流れてきた。
今日は何も頼まれていない。寄る必要はない。
住宅街へ入る手前の横断歩道が近づく。
卓斗の歩幅が少しだけ小さくなった。
車の音は普通に聞こえる。踏切の警報音も遠くで鳴っている。スマホの電波も切れていない。
昨日のように音が遠のくこともなく、人の流れも自然だった。
やっぱり、ただの見間違いだった。
そう思いかけた時、横断歩道の向こうに白銀が見えた。
「……いや、いるんかい」
卓斗は思わず足を止めた。
昨日と同じ場所ではない。少しだけ左にずれた、住宅街へ入る細い道の入口。
そこに、小さな少女が立っていた。
白銀の髪。
内側に混じる赤の色。
十歳前後に見える小柄な姿。
そして、こちらだけを見ている白銀の瞳。
夕方の光の中で、少女の姿は昨日よりもはっきり見えた。見間違いで押し切るには、輪郭が鮮明すぎる。
コスプレと言うには、周囲の空気から浮きすぎている。
卓斗は一歩も動けなかった。
「昨日の今日で二回目は、もう見間違いで押し切れないんよ」
少女は静かに卓斗を見上げた。
周囲の人間は、やはり誰も反応しない。
自転車の高校生が少女のすぐ横を通ったが、目線はスマホに向いたままだった。犬を連れた女性も、少女を避けるように自然に歩いたのに、そこに人がいるとは思っていない様子だった。
少女の唇が動く。
「——見つけたわ、タク」
今度は、はっきり聞こえた。
卓斗の背筋が冷えた。昨日のような口の形だけではない。
声として、名前として、確実に届いた。
「いや、待て待て。なんで名前知ってんの?」
卓斗は一歩後ろへ下がった。
少女はその反応を見ても、驚かない。むしろ、予想の範囲内だと言いたげに、白銀の瞳を細めた。
小柄な外見に似合わない落ち着きがあり、迷子の不安も、子どもらしい警戒も見えなかった。
「警戒心はあるのね」
「評価される流れじゃないんよ」
「逃げずに確認を選んだ。最低限の判断力はあるようね」
「俺、面接されてる?」
卓斗は周囲を見回した。
自分の声に反応した通行人が一人、ちらりとこちらを見た。けれど、その視線は卓斗だけを見て、少女の方へは向かない。
卓斗が一人で何かを言っているように見えている可能性が高かった。
それが一番まずい。
白銀の少女と話しているつもりが、周囲からは独り言を言う高校生に見えている。現代社会でこの構図はかなり危険だ。
事案とは違う方向で終わる。
「君さ、迷子? それとも撮影かなんか?」
「違うわ」
「じゃあ親は?」
「いないわね」
「さらっと重い答えやめろ」
卓斗は頭を押さえた。
初対面の小さな少女に対して強く出るわけにもいかない。だが、名前を知られている時点で普通ではない。
相手が子どもに見えるほど、逆に対応が難しくなる。
卓斗は距離を保ったまま、近くの交番の方向を指した。
「とりあえず交番行く? 俺が連れてくと事案っぽいから、距離取って歩くけど」
「交番に用はないわ」
「俺にはある。主に安全確認のために」
「あなたに必要なのは、安全確認ではなく状況理解よ」
「初対面でそれ言う人、だいたい信用できないんよ」
少女は卓斗の言葉を気にせず、ゆっくりと歩道の端へ移動した。
その動きに合わせて、周囲の人間が自然に流れを変える。誰もぶつからない。誰も見ていない。
それなのに、誰も少女と同じ場所を通ろうとしない。
そこにいるのに、いないことになっている。
卓斗は喉の奥が乾くのを感じた。
「……お前、周りから見えてないの?」
「正確には、認識をずらしているだけよ」
「認識をずらしているだけ、で済む話じゃないだろ」
「騒がれると面倒でしょう」
「そこだけ効率寄りなのやめてくれる?」
卓斗は、目の前の少女を改めて観察した。
白銀の髪は作り物には見えない。赤のインナーカラーも、染めたというより最初からそこにある色のようだった。
白銀の瞳は、日本人どころか人間の色としても不自然で、街の夕方の明るさを受けても濁らない。
服装も奇妙だった。
軽いワンピースのようにも、古い儀礼服のようにも見える。汚れはなく、歩いてきたはずの靴にも土がついていない。
迷子なら泣いているはず、という単純な話ではなく、そもそも迷子として成立していなかった。
「俺の名前、どこで知った?」
「調べたわ」
「何で」
「必要だったから」
「その答え方、だいぶ怖い」
卓斗はスマホを握り直した。
警察を呼ぶべきか。いや、そもそもこの少女が周囲に認識されていないなら、警察に何を説明するのか。
白銀髪の少女が俺の名前を知っていて、認識をずらしていて、たぶん普通じゃないです。
そんな通報をすれば、来るのは警察ではなく別の何かかもしれない。
現実的な選択肢が、一つずつ潰れていく。
「タク」
「その呼び方、距離感バグってるからやめてくれる?」
「長い名前は効率が悪いわ」
「俺の専売特許みたいな理屈を使うな」
少女は卓斗の抗議を聞き流した。
その様子は、子どもがわがままを言っているのとは違う。
最初から結論が決まっていて、卓斗の反応を確認しながら必要な情報だけ拾っている。そんな態度だった。
「あなたを探していたわ」
「俺は探される覚えがない」
「あるわ」
「本人にない時点で、それはもう怪しいんよ」
「あなたには、来てもらう必要があるの」
卓斗は数秒、言葉を失った。
来てもらう。
どこへ、という問題より先に、その言い方が引っかかった。
お願いではない。誘いでもない。まるで最初から卓斗の都合など選択肢に入っていないような響きだった。
「来てもらうってどこに?」
「ここではない場所よ」
「広い。情報が広すぎる」
「今のあなたには、その程度で十分ね」
「いや、十分じゃない。知らん子に急に来いって言われて行く高校生、だいぶ終わってるだろ」
卓斗は周囲へ視線を走らせた。
逃げるなら、人通りの多い駅前へ戻る方がいい。だが、相手は認識をずらすなどと言っている。
普通の逃げ方が通用するか分からない。そもそも、逃げたところで、昨日のようにまた別の場所へ現れる可能性もある。
卓斗は無意識に一歩下がった。
その足元で、小石が浮いた。
「……は?」
靴の先に触れかけていた小さな石が、地面から数センチ上で止まっていた。
風に押されて転がったわけではない。誰かが糸で吊ったわけでもない。
石はそこに、ただ浮いていた。
同時に、道路脇の植え込みから落ちた葉が空中で止まる。
葉は風を受けた形のまま、揺れもしない。通り過ぎる車の風圧も、歩行者の足音も、その葉には届いていなかった。
卓斗の周囲だけ、何かの規則が一瞬だけ変わったようだった。
音が少し遠くなる。
踏切の警報音が薄くなり、人の話し声が水の中に沈む。けれど、完全に消えたわけではない。
昨日と同じ違和感が、今度は目の前で形になっていた。
「はい、終わりです」
卓斗は低く呟いた。
逃げるか、叫ぶか、スマホを投げるか。どれも有効に見えない。むしろ下手に動けば、何が起きるか分からない。
卓斗は浮いた小石と少女を交互に見て、できるだけ刺激しない声を選んだ。
「これ、俺が関わったらダメなやつだろ」
「理解が早いのは悪くないわ」
「褒められても嬉しくないんよ」
少女が指先を下げると、小石が静かに地面へ落ちた。
落ち葉もふわりと動きを取り戻し、何事もなかったように歩道へ滑っていく。遠かった音が戻り、車のエンジン音が耳に刺さるくらいはっきり聞こえた。
通行人は、誰も気づいていない。
卓斗だけが、今見たものを処理できずに立っていた。
「タク。あなたが拒否したくなるのは理解しているわ」
「理解してるなら帰してくれ」
「それはできないわね」
「理解だけして配慮ゼロなの、だいぶ悪質だぞ」
卓斗はスマホの画面を見た。
時刻は放課後の帰宅時間として普通だった。電波もある。警察に電話することも、家に連絡することもできる。
だが、目の前の少女がそれを許すかどうかは別問題だった。
少女は一歩、卓斗へ近づいた。
卓斗は反射的に一歩下がる。距離はまだ数メートルある。それでも、白銀の瞳が近づいただけで、周囲の空気が重くなったように感じた。
「まず名乗れ。話はそこからだろ」
「そうね。順序としては必要だったわ」
「そこ飛ばして人を連れていこうとしてたの、普通に怖いんだけど」
「あなたの理解速度を確認していたのよ」
「だから何目線なんだよ」
少女はそこで初めて、わずかに表情を変えた。
笑ったわけではない。楽しそうでもない。
ただ、ようやく本題に入れると判断したように、白銀の瞳から余計な観察の色が少しだけ消えた。
「私はティナ」
その名前を聞いても、卓斗には何も分からなかった。
外国人名のようにも聞こえるが、目の前の少女を普通の外国人として処理するには、さっきの小石と落ち葉が邪魔をする。
名前一つで安心できる段階は、とっくに過ぎていた。
「ティナね。で、ティナさんは何者なんですか」
「さんはいらないわ」
「こっちは距離を取るためにつけてるんだよ」
「無駄ね」
「無駄って言われた」
卓斗は頭の中で、今起きていることを整理しようとした。
昨日見た白銀髪の少女が、今日も現れた。自分の名前を知っている。周囲の認識をずらしている。小石と落ち葉を浮かせた。自分をどこかへ連れていく必要があると言っている。
どの要素を取っても、普通ではない。
普通ではないが、逃げ道もない。
「タク」
ティナは短く呼んだ。
その呼び方に慣れるつもりはなかったが、二度三度と呼ばれるうちに、否応なく自分へ向けられた声だと分かってしまう。
卓斗は嫌そうに眉を寄せた。
「何」
「あなたが理解できる言葉で言うなら、私は人間ではないわ」
「はい、出た。やっぱりそういう系か」
「私は竜精霊」
ティナの周囲で、白銀の光が薄く揺れた。
街灯でも、夕日でもない。空気そのものが細く光ったような色だった。
白銀の髪の内側で赤い色がわずかに揺れ、浮き上がった光が一瞬だけ竜の鱗のような模様を作る。
卓斗はその光景を見たまま、口元を引きつらせた。
「……竜、精霊」
「そうよ」
「情報量エグいって」
ティナは当然のように頷いた。
卓斗にとっては世界の前提が崩れる言葉だったが、彼女にとっては自己紹介の一部でしかない。
その温度差が、逆に状況の異常さを強めていた。
「タク。あなたには、私と契約してもらうわ」
その言葉で、卓斗の思考は完全に止まった。
竜精霊。
契約。
来てもらう必要。
昨日から続いていた違和感が、ようやく一つの方向へ向き始める。
それはどう考えても、卓斗が望んで踏み込むような道ではなかった。
「いや、待て待て待て」
卓斗は一歩下がり、浮いてもいない地面を確かめるように足裏へ力を入れた。
普通の放課後は、まだすぐ後ろにあるはずだった。
車の音も、人の流れも、夕方の街も、全部そこにある。けれど目の前の白銀の少女だけが、その全部を別のものへ変えようとしていた。
「契約って何。竜精霊って何。あと、なんで俺」
ティナは白銀の瞳で卓斗を見上げた。
その目には、迷いがなかった。
「説明はするわ。あなたが理解できるかは別だけれど」
「最初から失礼だな、お前」
卓斗のツッコミに、ティナは表情を変えなかった。
ただ、周囲の空気だけが、もう一度白銀色に揺れた。通行人の足音が遠のき、夕暮れの住宅街が薄い膜の向こうへ押しやられていく。
卓斗は、自分の放課後が完全に終わった音を聞いた気がした。




