第一章 1 『普通に平和な放課後』
——六限終了まで、あと三分。
教室の壁にかかった時計の秒針は、やけに真面目な顔で一秒ずつ進んでいた。
窓際の席では、部活に行く生徒が足元で鞄の位置を直し、廊下側では誰かが小さく欠伸を噛み殺している。
教師の声は黒板の前からまだ続いていたが、教室全体の意識はすでに放課後へ半分ほど逃げ出していた。
成瀬卓斗は、机に肘をついたまま、シャープペンの先でノートの端を軽く叩いていた。
金に染めた髪はセンターで分かれ、軽く整えられた毛先が額の横へ流れている。
派手すぎる不良というより、流行りをそれなりに拾った今時の高校生で、制服も崩しすぎず、けれど真面目すぎる着方でもなかった。
ノートには、板書の半分くらいしか写っていない。
ただし、まったく聞いていないわけでもなかった。
「成瀬。ここ、どうなる?」
教師が唐突に名前を呼ぶと、教室の何人かが反射的に卓斗の方を見た。
卓斗は一瞬だけ目を細め、黒板に書かれた式と教師の持つチョークの位置を見比べた。
そこから自分のノートへ視線を落とし、書いていないはずの途中式を頭の中で補った。
「……移項して、こっちまとめたら終わりじゃないですか?」
だるそうな返答だったが、声に迷いはなかった。
教師は少しだけ眉を上げ、卓斗の返答と黒板の式を照らし合わせた。
答えそのものは雑だったが、方向は合っている。
教室の端で誰かが「聞いてたんだ」と小さく笑い、卓斗はそちらを見ずに肩だけを落とした。
「言い方は雑だが、まあいい。そこから計算すると――」
「いや、雑なのは問題じゃないんすか?」
「成瀬、追加で説明するか?」
「黙ります」
卓斗が即座に口を閉じると、近くの席から小さな笑いが漏れた。
教師も深追いはせず、授業の残りを締めに入る。
卓斗はシャープペンを指先で回しながら、窓の外へ視線を逃がした。
校庭では、先に授業の終わったクラスが体育用具を片づけている。
部室棟の方からは、運動部の掛け声が薄く聞こえ始めていた。
空は夕方に寄りかけているが、まだ青さが残っていて、校舎の窓ガラスに柔らかく光が乗っている。
何も起きない、普通の放課後だった。
それ以上でも、それ以下でもない。
終業のチャイムが鳴った瞬間、教室の空気が一斉にほどけた。
椅子を引く音、教科書を鞄に押し込む音、部活へ急ぐ足音が重なり、教師の「寄り道しすぎるなよ」という声は半分くらいしか届いていない。
卓斗はノートを閉じ、机の横に引っかけていた鞄を持ち上げた。
中身は必要最低限しか入っていないはずなのに、やけに重く感じる。
今日は特別に疲れることをしたわけでもないが、学校という場所はいるだけで体力を削ってくる。
「卓斗、今日ゲーセン寄らね?」
前の席から振り返った男子生徒が、鞄を肩にかけながら軽く声をかけてきた。
名前は拓海。
休み時間ごとにどこかへ行こうとするタイプで、誘い方に遠慮がない。
卓斗は椅子に座ったまま、拓海の顔と窓の外の明るさを見比べた。
「いや、帰る」
「早っ。まだ理由聞いてねえだろ」
「聞いたら断る工程が増える。効率悪い」
「なんだよそれ。新作入ってんだって」
「新作は明日も新作だろ」
卓斗が鞄を机の上へ置いて中身を確認していると、別の友人が横からスマホを見せてきた。
画面には駅前のカラオケ店のクーポンが表示されている。
今日限定と書かれた文字が妙に強調されていた。
「じゃあカラオケは? 今日安い」
「明日もなんかしら安い」
「お前、最近付き合い悪くね?」
「俺、布団との付き合いが一番長いから」
「人間関係終わってんな」
「布団は裏切らない」
卓斗はそう返しながら、机の下に落ちていたプリントに気づいた。
近くの女子生徒が鞄を閉めようとしているが、本人はまだ落としたことに気づいていない。
卓斗は椅子を引き、プリントを拾ってその机の端に置いた。
「あ、それ私の? ありがと、成瀬くん」
「いや、そこ入れ方雑すぎ。絶対また落とすやつ」
「一言余計」
「事実は時に人を傷つける」
女子生徒は苦笑しながらプリントをファイルに入れ直した。
卓斗はそれ以上何も言わず、鞄のファスナーを閉める。
友人たちはその一連の動きを見て、からかうように口元を緩めた。
「そういうとこだよな、お前」
「何が?」
「面倒くさいとか言うくせに、拾うのは拾う」
「後で先生が誰のだって騒ぐ方がめんどい。未然に防いだだけ」
「出た、効率」
「効率は世界を救う」
「お前が言うと救わなそう」
「救わない。俺は帰って寝る」
卓斗は立ち上がり、机の横を抜けて廊下へ向かった。
途中、後ろの席の男子が椅子にかけたままの体操着袋を忘れそうになっているのが視界の端に入る。
卓斗は足を止めず、指だけでその袋を示した。
「それ、今日持って帰らないと明日終わるやつ」
「あっぶね。サンキュ」
「終わる未来が見えた」
「予知能力者かよ」
「ただの経験則」
教室を出ると、廊下には放課後のざわめきが満ちていた。
部活へ走る生徒、友人を待つ生徒、階段前でスマホを覗き込む生徒たちが流れを作っている。
卓斗はその流れに逆らわず、肩がぶつからない程度に速度を落として歩いた。
階段へ向かう途中、廊下の掲示板の前で一年生らしい女子が困ったようにプリントを見比べていた。
部活動見学の場所が分からないらしく、友人と二人で小さく迷っている。
卓斗は通り過ぎかけたが、掲示板の地図が古い方の案内を指していることに気づいた。
「それ、体育館じゃなくて第二体育館。外出て右」
卓斗は足を止めずに言った。
女子生徒たちは一瞬きょとんとし、それから慌てて頭を下げる。
「あ、ありがとうございます」
「急いだ方がいい。そっち、地味に遠い」
卓斗は返事を待たずに歩き出した。
拓海が後ろから追いついてきて、にやにやしながら肩を軽く小突く。
「親切じゃん」
「違う。あそこで迷われると階段前が詰まる」
「そこまで言うならもう親切でいいだろ」
「親切って認定されると次もやらされる。コスパ悪い」
卓斗が階段を下りると、昇降口の近くで教師が段ボールを抱えていた。
中には回収した教材らしい束が詰まっている。
教師は誰か手の空いている生徒を探していたが、部活へ急ぐ生徒たちは目を合わせないように通り抜けていく。
卓斗も一度は視線を逸らした。
だが、段ボールの底が少し歪んでいるのが見えた。
あのまま持っていくと、途中で底が抜ける。
散らばった教材を拾う未来は、かなり面倒くさい。
「……それ、底危なくないすか?」
卓斗は結局立ち止まった。
教師は段ボールを抱え直し、少し驚いた顔で卓斗を見る。
「成瀬、気づいたか。悪いが職員室まで――」
「手伝うとは言ってないです」
「まだ何も言ってないだろ」
「今の流れ、絶対言うやつだったんで」
卓斗は文句を言いながらも、段ボールの片側を持った。
拓海はその様子を見て吹き出し、もう片側を持つでもなく、ただ横で笑っている。
卓斗はそちらを半目で見た。
「笑ってる暇あるなら持て」
「俺、今日部活」
「俺も帰宅部の部活ある」
「帰るだけだろ」
「活動内容を軽く見るな」
結局、拓海も段ボールを少し支え、三人で職員室の前まで運ぶことになった。
たいした距離ではなかったが、放課後の廊下は人が多く、教材を落とさないよう進むにはそれなりに気を使う。
卓斗は前から来る生徒の鞄や、開きかけた教室の扉を見て、何度か進む角度を変えた。
職員室の前で段ボールを下ろすと、教師は満足そうに頷いた。
「助かった。成瀬、意外と面倒見がいいな」
「その評価、取り消してもらっていいすか?」
「なぜだ」
「次も頼まれる可能性が上がる」
「正直だな」
「俺、一般人なんで」
教師が笑いながら職員室へ入っていくと、卓斗は肩を回した。
ほんの数分の寄り道なのに、帰宅までの道のりが少し遠くなった気がする。
拓海はスマホを見ながら、まだゲーセンの予定を諦めていない顔をしていた。
「で、ほんとに来ねえの?」
「行かない」
「新作、異世界探索系だぞ。魔法とか剣とか、ドラゴンとか出るやつ」
「現実で剣持って走るとか普通に無理だろ」
「ゲームだって」
「ゲームでも無理な時あるじゃん。スタミナ管理とか素材集めとか、あれ現実だったら地獄だろ」
卓斗は昇降口へ向かいながら、下駄箱から靴を取り出した。
校舎の外から吹き込む風に、夕方の少し冷えた匂いが混ざっている。
靴を履き替えた生徒たちが、門の方へ流れていった。
拓海は隣で靴紐を結びながら、面白がるように話を続ける。
「でもさ、異世界行ったらチート能力とかもらえるかもしんねえじゃん」
「もらえる前提で話すなって」
「勇者召喚とか」
「知らん国に呼ばれて、世界救ってくださいって言われるやつ? 普通に怖いだろ」
「夢ないな」
「スマホ圏外、言葉通じない、金ない、家ない、保険証ない。詰み要素多すぎ」
卓斗は昇降口を出て、校門へ向かった。
グラウンドからは運動部の声が聞こえ、校舎裏の方では吹奏楽部の音が途切れ途切れに流れている。
放課後の学校は、帰る者と残る者で空気が分かれていた。
拓海はまだ笑っていたが、少しだけ納得したように頷いた。
「まあ、お前は異世界行っても最初に帰り方探しそうだな」
「当たり前だろ。布団とWi-Fiある世界に帰る」
「魔王倒せよ」
「誰だよ魔王。初対面の人に殺意向けるの怖すぎ」
「勇者向いてねえ」
「向きたくもない」
校門の前で、拓海は部活へ向かう友人に呼ばれた。
卓斗は片手を軽く上げ、そこで別れる。
寄り道に誘ってきたわりに、拓海自身は結局部活へ行くらしい。
自由なやつだ、と卓斗は内心で呟いた。
駅へ向かう道に出ると、学生の数は少しずつばらけていった。
コンビニの前では同じ学校の生徒がアイスを選んでいて、横断歩道の向こうでは自転車のベルが軽く鳴る。
スマホの画面には、母親からの短いメッセージが届いていた。
『帰りに牛乳買ってきて』
卓斗は足を止めかけ、画面を見つめた。
帰宅ルートからコンビニへ寄ると、信号一つ分だけ遠回りになる。
スーパーへ寄れば安いが、さらに遠い。
牛乳一本のためにどこまで効率を追求するか、今の疲労度と残りの体力を考えれば、最適解は近いコンビニだった。
「……終わったわ」
卓斗は小さく呟き、返信を打った。
『買う』
余計な言葉は入れない。
入れると追加で何か頼まれる可能性がある。
卓斗はスマホをポケットへ戻し、コンビニへ向かう角を曲がった。
住宅街へ入る手前の道は、夕方の光がビルの間から斜めに差し込んでいた。
車の音、人の話し声、遠くの踏切の警報音がいつも通りに重なっている。
卓斗はその中を歩きながら、今日の夕飯と帰宅後の流れを頭の中で組み立てた。
牛乳を買う。
帰る。
飯を食う。
風呂に入る。
寝る。
それだけでいい。
それ以上のイベントはいらない。
コンビニで牛乳を買い、レジ袋を片手に外へ出た時、空の色は少しだけ濃くなっていた。
駅前へ向かう人の流れとは反対に、卓斗は住宅街の細い道へ入る。
ここを抜けると、自宅までの最短ルートになる。
いつもの道だった。
塀の上に猫がいて、角の家の植木鉢が少し歩道へはみ出していて、電柱の横には古い地域掲示板がある。
卓斗は何度も通った道を、特に意識せず歩いていた。
だからこそ、違和感に気づいた。
音が、一瞬だけ遠くなった。
車の走る音も、誰かの話し声も、踏切の警報音も、薄い膜の向こうへ沈んだように聞こえなくなる。
卓斗は足を止め、スマホを取り出した。
画面の電波表示が、ほんの一瞬だけ圏外に変わる。
「……は?」
次の瞬間、表示は元に戻った。
卓斗は眉を寄せたまま、スマホを軽く振った。
もちろん、それで何かが分かるわけではない。
バグか、通信の乱れか、近くで工事でもしているのか。
理由はいくつか考えられるが、どれも確認するほどのことではなかった。
そう判断して歩き出そうとした時、視界の端に白いものが映った。
横断歩道の向こう。
夕方の光と人の流れの間に、小さな少女が立っていた。
年齢は十歳前後に見える。
白銀の髪が肩のあたりで柔らかく揺れ、その内側に赤い色が一筋混じっている。
服装は日本の子どもが普段着るものとは少し違っていて、舞台衣装か、撮影用の衣装のようにも見えた。
だが何より目を引いたのは、周囲の誰もその少女を気にしていないことだった。
卓斗は思わず足を止めた。
「……コスプレ?」
声に出した直後、自分でも違う気がした。
少女は迷っているようには見えなかった。
泣いてもいないし、誰かを探している様子もない。
ただ、真っ直ぐにこちらを見ている。
白銀の瞳が、夕方の街灯よりも冷たく澄んでいて、卓斗の姿だけを最初から見つけていたように動かなかった。
卓斗は周囲を見回した。
保護者らしい大人はいない。
撮影スタッフもいない。
近くの人たちは、少女の横を普通に通り過ぎていく。
誰もぶつからず、誰も振り返らないのに、誰も気にしない。
それが一番気持ち悪かった。
「いや、話通じるタイプか……?」
卓斗は横断歩道の信号を見た。
こちら側は赤。
向こう側に立つ少女は、信号の色など気にしていないように見える。
車が通り過ぎるたびに視界が遮られ、そのたびに白銀の髪だけが夕方の中で残像のように浮いた。
迷子なら、声をかけた方がいい。
だが、どう見ても普通の迷子ではない。
関わると面倒なことになる。
卓斗の中の危険予測は、かなり早い段階でそう結論を出していた。
交番へ行くか、近くの店員に伝えるか。
それなら自分が直接踏み込まずに済む。
卓斗がそこまで考えた時、少女の唇がわずかに動いた。
車の音にかき消されて、声は届かなかった。
けれど、口の形だけは見えた。
タク。
そう呼ばれた気がした。
「……いや、待て」
卓斗の背中に、薄い冷気のようなものが走った。
自分の名前を知っている。
いや、聞き間違いかもしれない。
そもそも距離がある。
あの口の動きが本当に名前だったかも分からない。
卓斗は自分にそう言い聞かせながら、もう一度少女を見ようとした。
その瞬間、大きなトラックが横断歩道の前を通った。
白銀の少女は、車体に隠れた。
トラックが通り過ぎる。
向こう側の歩道には、もう誰もいなかった。
卓斗は数秒、そこから動けなかった。
人の流れは普通に戻っている。
電波もある。
車の音も、踏切の警報音も、コンビニ袋の中で牛乳が揺れる感覚も、全部がいつも通りだった。
ただ、あの白銀の瞳だけが、頭の奥に残っていた。
「……関わらんとこ」
卓斗はようやくそう呟き、信号が青に変わるのを待った。
横断歩道を渡る時、念のため左右だけでなく、少女が立っていた場所も確認した。
そこには、誰かが立っていた痕跡など何もない。
落とし物も、足跡も、変な光もない。
ただの歩道だった。
普通に考えれば、見間違いだ。
疲れていた。
授業もあった。
段ボールも運んだ。
牛乳も買わされた。
そういう小さな疲労が重なれば、妙なものを見た気になることくらいある。
卓斗は自分の中で無理やり結論を出し、住宅街の道へ入った。
それでも、足取りは少しだけ早くなっていた。
自宅へ向かう道の途中、スマホが一度だけ震えた。
卓斗は母親からの追加メッセージかと思い、反射的に画面を見る。
通知はなかった。
代わりに、画面の端が一瞬だけ白銀色に光ったように見えた。
「……終わったわ」
卓斗は低く呟き、スマホをポケットに押し込んだ。
今日の予定は、帰って飯を食って風呂に入って寝るだけだった。
それだけで終わるはずだった。
だが、背後の夕暮れのどこかで、白銀の瞳がまだこちらを見ているような気がして、卓斗は一度も振り返らないまま歩き続けた。




