第二章 幕間 『剣の国で待つもの』
地下拠点の最奥で、黒石盤の一つが低く脈打っていた。
九つ並んだ印のうち、フィリスティア王国側を示していた一つだけが、これまでとは異なる光を宿している。完全に消えたわけでも、サリギアの手へ移ったわけでもない。
黒い印の内側へ、九色の細い輪が絡んでいた。
「見たままです」
双葉は石盤の前へ座り、震える右手を左手で押さえた。
複数の秩序を崩された反動が残り、金色の魔素は指先から不規則に漏れている。笑みこそ普段と変わらないが、床へ伸びた線は形を保てず、途中でほどけていた。
「第一分霊石の本体は、あの土地へ残っていますぅ」
双葉は黒石盤の光を指先で追う。
「でも、役割と接続の一部は成瀬さんたちへ移ったみたいですねぇ。奪われてもいないのに、こちらからは触れにくくなっています」
「言い方が気に入らねぇな」
七星は壁際へ背を預け、包帯を巻いた拳を握った。
千佳の剣を受けた前腕は腫れ、ナーヴァに踏み込みを外された際に打った脇腹も、まだ呼吸のたびに痛む。黒い上着の下には固定帯が巻かれているが、座る気はないらしい。
「取られたんだろ。結果は同じだ」
「同じではない」
春は黒石盤の正面に立っていた。
左手を開き、ゆっくり指を曲げる。第一分霊石の九色の光に押し開かれた感覚は残っているが、傷も火傷もない。
石は春の目的そのものを拒絶しなかった。
アシェラを復活させるために必要だという意思を見たうえで、周辺の結界と土地を切り捨てて持ち去る方法だけを拒んだ。
「本体は旧街道結界と外縁設備を支えたまま残った」
春の声は静かだった。
「成瀬たちは分霊石を要求していない。土地と住民を守った結果、持ち運べる接続を託された」
「だから何だよ」
「次も石だけを見れば、同じ形で失敗する」
七星の眉間に皺が寄る。
「だったら持ち主ごと潰せばいいだろ」
「持ち主を殺せば石が手に入るとは限らない」
「邪魔は消える」
「必要なのは死体ではなく分霊石だ」
春は声を荒げなかった。
逃げ道を残さない断定に、七星は舌打ちだけを返した。
レクイナは春の左手へ視線を落とした。
「持ち去らなくても、託される道があると知ったわ」
穏やかな声だった。
「あなたが選ばなかった道を、石の方が示したのね」
「残りも同じとは限らない」
「ええ。でも、あると分かった可能性は消えないわ」
春は答えず、黒石盤へ手を置いた。
第一分霊石に対応する印へ蒼黒の魔素を流し、接続解除を試みた時に得た反響だけを石盤へ移す。土地へ術式を飛ばすのではなく、サリギア側へ残った波形を、既存の分霊石資料と照合するためだった。
九つの印が順に明滅する。
第一の印から離れた光が、残る八つの間を不規則に巡った。
「来ますよぉ」
双葉が黒石盤の縁へ手を添えた。
西側に位置する印が淡く光る。
だが、反応は一点に留まらない。印の内部を右へ左へ動き、時折、別の溝へ触れそうになって戻った。
オブリナが短く告げる。
「石。動いている」
「固定された封印核ではないようですねぇ」
双葉は揺れる針を眺めた。
「誰かが持ち歩いているか、動くものに接続されているか。少なくとも地下神殿で大人しく待ってはいなさそうです」
「方向は?」
「西。少し北寄りです」
春は拠点の壁へ掛けられた大陸図を見る。
「エルヴァスタ大帝国」
「剣の国か」
七星が呟いた。
四大国の一つ、エルヴァスタ大帝国。
剣と武を尊び、国王ではなく大帝が統治する国。現在、その国内では次代の剣聖を決める候補戦が始まろうとしている。
個人同士が剣を交えるだけの大会ではない。
四人の候補者が、それぞれ領地と軍勢を率い、城塞、市街、資源地、国境領を奪い合う大規模な陣取り戦だ。
候補領の中心には領地核がある。
敵陣営が領地核を掌握し、自陣の旗印を立てれば制圧成立。持つ候補領をすべて失えば、その候補者は落選する。
「人も物も、候補戦に合わせて動く」
春は地図上の街道を指でなぞった。
「反応が定まらないのは、その影響かもしれない」
「だったら、候補者の誰かが持ってる可能性もありますねぇ」
双葉が楽しそうに首を傾げる。
「四人のうち誰でしょう?」
「それを見つける」
春が答えた時、拠点の奥にある扉が開いた。
「——ねぇ、もう始まってる?」
幼い声が広間へ入ってくる。
銀色のツインテールを揺らしながら、十歳ほどの少女が黒石盤へ近づいた。紅い瞳は、光る印より先に、春の左手と七星の包帯、双葉の乱れた魔素を順に観察している。
ヴィヴィだった。
黒と金を基調とした衣装の裾が、歩くたびに軽く揺れる。
「へえ。みんな、ちゃんと壊れかけてる」
「見世物じゃねぇぞ」
七星が睨む。
「でも、面白いよ?」
ヴィヴィは笑った。
「取れると思ってた石に選ばれなくて、帰ってきた時の顔。壊れる前と、壊れなかった後で、全然違うね」
「ヴィヴィ」
春が名前を呼ぶ。
叱責ではない。
それだけで、ヴィヴィは七星から黒石盤へ興味を移した。
「次の分霊石は、エルヴァスタ大帝国にある可能性が高い」
「剣聖候補戦の国?」
「ああ」
「四人いるんだよね。誰が一番先に壊れるのかな」
「壊すことが目的ではない」
「分かってる。石を取るんでしょ?」
ヴィヴィは光る印へ顔を近づけた。
紅い瞳の奥で、傲慢の魔素が薄く揺れる。遠くを覗く術式ではない。今ここにある波形と資料を、自分の目で読み取っているだけだった。
「反応、ずっと動いてるね」
「持ち主を見つけろ」
「候補者も、その周りも、全部見ていい?」
「必要なら」
「壊れる直前まで?」
「石が壊れる前に止めろ」
春の返答に、ヴィヴィは少しだけ頬を膨らませた。
「観測結果じゃなくて、分霊石が必要だ」
「分かってるよ。ちゃんと取れるところまで見る」
広間の別の入口から、重い足音が近づいた。
「——細かい話、まだ終わってねぇのか?」
漆黒に近い赤髪を乱れたポニーテールへまとめた女が、肩を鳴らしながら入ってくる。
筋肉質な腕を黒赤のコートから出し、紅蓮の瞳で地図を見下ろす。
セルケトだった。
「候補者四人だろ? 強い奴はどれだ?」
「先に石を探せ」
「探すのはヴィヴィがやるだろ。ウチは邪魔な奴をぶっ壊す」
春は地図の横へ置かれた四枚の資料を示した。
白耀の騎士、ジークヴァルト。
刹那の影、カイン。
断絶の巨腕、バルタザール。
そして、自律の剣姫、エルザヴェート。
セルケトは一枚ずつ拾い、能力の説明を流し読む。
「一撃で城塞ごと消す奴」
ジークヴァルトの資料を床へ戻す。
「攻撃した瞬間に先に斬ってる奴」
カインの紙を指で弾く。
「硬いほどぶった斬る大剣持ち」
バルタザールの資料で手を止めた。
「こいつ、面白そうじゃん」
「ウチならカインも見たいな」
ヴィヴィが横から資料を覗き込む。
「攻撃した瞬間に結果を変えるんでしょ? セルケトが殴ろうとした瞬間、もう斬られてたらどんな顔するのかな」
「その前にぶっ壊す」
「どうやって?」
「殴る」
「答えになってないけど、見たいからいいや」
「ムカつく」
セルケトの周囲へ赤黒い魔素が滲む。
ヴィヴィは怯えず、その膨らみ方まで楽しそうに眺めていた。
さらに奥から、低い笑い声が響いた。
「——候補者が強いなら、心臓も使えそうだな」
赤黒の短髪をした巨漢が、広間の入口へ立っていた。
イグニールは黒革の戦闘服の胸元を開き、赤い紋を指でなぞっている。そこには、これまで奪った複数の心臓を保持するための暴食の魔素が、重く脈打っていた。
「領地核ってのを喰えって話じゃねぇんだろ?」
「装置そのものを喰う必要はない」
春が答える。
「領地核と防衛結界を守る兵、技師、能力者。その中に使えるものがいれば心臓を奪え」
「姿も能力も使って、中へ入れってことか」
「ああ」
イグニールは口角を上げた。
「守るために繋いでるなら、喰い応えありそうだな」
「好きに喰っていいとは言っていない」
「必要な奴だけだろ。分かってる」
乱暴な口調とは裏腹に、イグニールは春の命令を聞き流さない。
強者の心臓を欲しがりはするが、春が止めれば従う。それがこの組織で彼が生き残っている理由でもあった。
「三人で帝国へ入れ」
春はヴィヴィ、セルケト、イグニールを順に見た。
「ヴィヴィは分霊石の持ち主と、石が何に接続されているかを確認する。セルケトは候補戦の軍勢と城塞を崩せ。イグニールは守備側の能力を奪い、内側から領地核へ通じる道を開け」
「国や街が壊れても?」
ヴィヴィが明るく尋ねる。
「構わない」
春は迷わなかった。
「必要なのは分霊石だ。周辺の結界や土地を守ることは目的ではない」
第一分霊石で方法を拒まれたからといって、サリギアの方針が変わったわけではない。
国が傷つこうと、封印が崩れようと、アシェラ復活へ必要なら進む。
ただし、石まで壊せば意味がない。
「誰が持っているかを見つけろ」
春の声が広間へ落ちる。
「邪魔な結界と軍は壊せ」
ヴィヴィの紅い瞳が細められる。
「分霊石は奪え」
「うん」
「ウチに任せろ」
「使える心臓があれば、持って帰る」
三人の返答が重なる。
ヴィヴィは四候補の資料へもう一度手を伸ばし、エルザヴェートの紙を持ち上げた。
腕を組んだまま戦う少女。
周囲の空間から無数の刃を生み、敵の殺気や動きを自動感知して迎撃する。
「この子、動かないんだ」
「自律の魔素らしい」
双葉が資料を覗く。
「自分が動かなくても、剣が全部やってくれるそうですよぉ」
「へえ」
ヴィヴィは嬉しそうに笑った。
「自分で何もしなくても勝てるって思ってるのかな?」
「資料だけで決めるな」
春が言う。
「だから、直接見るんだよ」
ヴィヴィは紙を胸元へ抱えた。
「壊れる前も、壊れそうな時も、壊れなかった後も。全部見てから決める」
「決めるのは観測の価値じゃない。奪うための手順だ」
「春って、前より細かくなったね」
「同じ失敗を繰り返さないだけだ」
ヴィヴィは第一分霊石に対応する九色の印を見た。
「成瀬卓斗たちも来る?」
「来る可能性は高い」
「じゃあ、また見られるね」
嬉しそうな声だった。
「今度は誰と一緒に変わるのかな」
***************
エルヴァスタ大帝国の東部では、剣聖候補戦を翌日に控え、最後の軍議が続いていた。
石造りの広間には、候補領を示す大地図が広げられている。
城塞領、市街領、資源領、国境領。
四陣営の旗を模した駒が各地へ置かれ、街道、河川、補給地、領地核の位置が色分けされていた。
「北側の資源領へは、第一隊を送ります」
戦術科の制服を着た少女が、記録紙を地図の上へ広げる。
ミレーネ・アストリア。
帝国騎士学校戦術科首席であり、エルザヴェートの幼なじみでもある。
「バルタザール陣営は国境側から圧力をかけるはず。こちらが正面で受けるより、山道を先に押さえた方が補給を止められるわ」
「合理的だね」
エルザヴェートは地図の向こうで腕を組んでいた。
長い髪を背中へ流し、口元には余裕の笑みを浮かべている。
「なら、ボクが山道へ出よう」
「いけません」
即座に答えたのは、筆頭側近のローデリヒだった。
重圧の魔素を持つ護衛騎士は、地図ではなくエルザヴェート本人を見ている。
「候補戦初日から、御身を狭い山道へ置くのは危険です」
「危険だから、ボクが行くんだろう?」
「あなたは陣営の中心です」
「中心は動かない方がいいという理屈かい?」
「倒されれば、残る領地すべての士気に関わります」
周囲の将や家臣も、ローデリヒの意見へ反対しなかった。
彼らはエルザヴェートを軽んじているわけではない。
剣聖候補として勝たせたい。
傷つけたくない。
その思いが強いからこそ、彼女を戦場の中心へ置かず、守られる旗として残そうとする。
「ボクを守るために、山道の兵へ危険を押しつけるのかい?」
エルザヴェートは笑みを崩さなかった。
「それは剣聖候補の戦い方として、あまり面白くないね」
「面白さで決めることではありません」
ローデリヒの声は硬い。
「もちろん」
エルザヴェートは地図へ視線を落とした。
「だから能力の相性で話そう。狭い地形では、敵の進路が限定される。ボクの刃なら、正面から入る攻撃を自動で処理できる」
「敵が地形そのものを崩せば?」
ミレーネが問い返す。
「その記録を取って、次の刃を合わせる」
「一人で完結させようとしないで」
「ボクの能力は自律だよ?」
「能力が自律してるからって、あんたまで全部一人でやる必要はないでしょ」
ミレーネは記録紙を畳んだ。
「行くなら部隊をつける。ローデリヒも一緒。補給線は私が見る。それなら賛成する」
ローデリヒはなお反対したそうだったが、本人を中央へ閉じ込める案よりは現実的だと判断したらしい。
「護衛配置を増やします」
「多すぎると刃の邪魔になるよ」
「必要な数はこちらで決めます」
「ボクの戦場なのに?」
「あなたを守るのが私の役目です」
エルザヴェートは数秒だけローデリヒを見た後、肩をすくめた。
「役目か。便利な言葉だね」
軍議が終わると、エルザヴェートは一人で城壁上へ出た。
夜の風が外套を揺らし、眼下では兵士たちが明朝の出陣へ向けて物資を運んでいる。四方の塔には候補戦用の旗が掲げられ、遠くの街道にも魔素灯が並んでいた。
エルザヴェートは胸元へ手を入れた。
銀細工のネックレスが指へ触れる。
母の形見として幼い頃から身につけてきた品だった。中央には小さな石が埋め込まれているが、家伝の装飾以上の意味があるとは聞かされていない。
「守られるために、剣を持ったわけじゃないんだけどね」
独り言が夜風へ消える。
剣を抜かずとも、自律刃は敵を捉える。
自分が動く前に刃が迎撃し、殺気へ反応し、死角から迫る攻撃も追尾する。
だから一人で守れる。
そう考えるほど、周囲は彼女を前へ出さなくなった。
力があるから守られ、守られるから力を使う場所を決められない。
エルザヴェートがネックレスを握った瞬間、内部の石が淡く光った。
「……へえ?」
指の隙間から、九色の細い光が漏れる。
赤、青、黄、緑、紫、白、黒、銀、金。
ほんの一瞬だけ巡り、すぐに元の暗い色へ戻った。
「今まで一度も反応しなかったのに」
エルザヴェートは怯えなかった。
むしろ新しい術式を見つけた時のように、瞳へ好奇心を浮かべる。
「実に興味深いね」
背後の扉が開き、ミレーネが城壁へ出てきた。
「まだここにいたの? 明日は早いのよ」
「ちょうどいい。これを見てくれるかい?」
エルザヴェートはネックレスを持ち上げた。
「光ったんだ」
「魔導具だったの?」
「少なくとも、ボクは今まで知らなかった」
ミレーネは記録の魔素を薄く広げた。
だが、石はすでに沈黙しており、記録紙には銀細工の形と微かな残留波形しか写らない。
「異常な熱もない。危険な反応には見えないけど、明日まで預かって調べる?」
エルザヴェートはネックレスを胸元へ戻した。
「いや。これは母上の形見だ」
「候補戦中に変な反応をしたら?」
「その時は、ボクが観察するよ」
「そう言うと思った」
ミレーネは呆れたように息を吐いた。
「勝手に一人で試さないで。何かあったら、まず私かローデリヒに見せること」
「善処しよう」
「それ、守らない時の返事でしょ」
翌朝、エルヴァスタ大帝国の各地で鐘が鳴った。
城塞の門が開き、四つの旗がそれぞれの領地から進み始める。
白い極光を背に、ジークヴァルトが整然とした軍勢を率いる。
カインは最小限の部隊とともに、市街領へ続く細い道を選ぶ。
バルタザールは身の丈を超える大剣を肩へ担ぎ、国境領から豪快に進軍する。
エルザヴェートは腕を組んだまま城門を抜けた。
その周囲には、朝日を受けても輪郭の見えない無数の刃が浮かんでいる。敵意も攻撃もない今は静止しているが、彼女へ危険が迫れば、主より早く動き出す。
外套の内側で、ネックレスの石がもう一度だけ脈打った。
同じ頃、サリギアの地下拠点から、三つの影が西へ向かっていた。
「候補者、四人」
ヴィヴィは道中で資料を広げ、楽しそうに笑っている。
「誰が石を持ってるのかな」
「誰でもいい」
セルケトは拳を鳴らした。
「邪魔ならウチがぶっ壊す」
「強い奴の心臓なら、俺がもらう」
イグニールが低く笑う。
ヴィヴィは二人の間を歩きながら、遠くに見え始めた帝国の旗を見上げた。
「さて」
紅い瞳に、四つの旗と、その向こうにある未知の変化が映る。
「どの剣が、石を抱えているんだろうね」
剣聖候補戦へ向かう四人。
第二の分霊石を追う卓斗たちとナーヴァ。
そして、石を奪うために国境へ近づくヴィヴィ、セルケト、イグニール。
まだ互いの姿を知らない三つの道が、剣の国で始まる戦いへ向かって重なり始めていた。




