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第二章 33 『混沌の前衛』



 絵麻の言葉が封印区画へ落ちた直後、七星が動いた。


 春が作った石壁の向こうから一歩だけ前へ出る。卓斗たちとの距離は十メートルほどのはずだったが、床の石目が斜めへ流れ、七星の姿だけが奥へ引かれていった。


「……は?」


 卓斗は七星の足元に散った石片を引き寄せ、進路を塞ごうとした。


 黒い魔素が直線に伸びる。


 だが、その流れは途中で左へ折れ、石壁へ食い込んだ。


「うおっ!?」


 壁の一部が引き剥がされ、卓斗の斜め後方へ飛ぶ。千佳の声に従って身を伏せると、第六騎士団員が剣で軌道を逸らした。


 石材は保守用魔導具から外れた床へ落ち、鈍い音を立てて砕けた。


「いや、待て待て。向きまで嘘つくの、普通に反則だろ」


「勝手に真っ直ぐだと思ってんのは、そっちだろ」


 七星の声は近かった。


 姿はまだ遠くに見える。だが、卓斗が顔を上げた時には、右拳が目前まで迫っていた。


 上体を左へ逃がす。拳は頬の横を抜けたが、続く左肘が胸を狙って回り込む。


 卓斗は床へ斥力を放ち、後方へ滑ろうとした。


 押し返した方向まで狂っていた。


 身体は右斜めへ流れ、肩から石柱へぶつかる。肺の空気が押し出され、喉から短い息が漏れた。


「っ……距離だけじゃなく、方角もかよ」


「タク、目だけで測るのをやめなさい」


 ティナが白銀の魔素を足元へ落とす。床との摩擦が薄れ、卓斗の身体に残った横向きの慣性が消えた。


 卓斗は柱の左側へ転がる。直後、七星の踵が石柱を砕き、細かな破片が首筋へ降りかかった。


「目で測るなって、他に何で測んだよ」


「残っている線よ」


「その線を消す役までいるんだけど?」


 卓斗の視線が七星の背後へ向く。


 白い面をつけたオブリナが片手を伸ばし、床の亀裂や壁の傷を一つずつ消していた。


「基準。不要」


「いや、こっちには必要なんよ」


 卓斗が言い返した直後、七星が再び踏み込む。


 今度は床を蹴る音へ意識を向けた。右前方から一度。次に左側で石が擦れる。


 卓斗は左腕を上げたが、衝撃は右肩へ入った。


「がっ……!」


 直前に身体を捻ったため直撃は免れた。それでも骨まで響く一撃に姿勢が崩れ、右手首の竜紋へ熱と痺れが走る。


「卓斗!」


 絵麻が右手を伸ばし、卓斗の足元に空間の歪みを作る。


 だが、移動先が定まる前にオブリナの魔素が触れ、座標の目印が欠けた。


「ちょ、消さないでよ!」


 絵麻は歪みを閉じた。移動先を失ったまま卓斗を動かせば、石壁の中へ重なる危険がある。


 代わりにラールが白鋼の障壁を立ち上げた。


「あわわっ、こ、こっちです! たぶん今度は合ってます!」


 半透明の壁は卓斗から一メートルほど左へずれたが、七星との間を遮る位置には届いた。


 七星の拳が障壁へ当たり、白鋼の表面に亀裂が走る。


「硬ぇな」


「わ、私、防御は得意なんです! 位置はちょっと間違えますけど!」


「そこ自分で言うなよ!」


 卓斗は痺れる右腕を庇いながら後退した。


 第一分霊石は後方十五メートルほどにある。円形の台座を四本の保守用魔導具が囲み、その前では騎士二人が正規接続線と黒い解除線を監視していた。


 卓斗たちと台座の間には春が作った石壁が二枚立ち、左右に一本ずつ通路が残されている。その長ささえ、七星の混沌によって定まらない。


「全員、分霊石へ直接戻ろうとしないでください」


 千佳は七星とオブリナ、奥にいる春と双葉、背後の保守用魔導具を順に確認した。


「相手の目的は、私たちを倒すことではありません。接続解除までの時間を稼ぐことです。守る対象を変えないでください」


「でも、このままだと近づけないわよ」


「近づく必要はありません。通すべきものだけを通します」


 千佳の返答と同時に、春がカラドボルグを床へ向けた。


 蒼黒の魔素が石床へ沈み、卓斗たちと第一分霊石の間に新たな壁が隆起する。高さは三メートルほどで、中央と左右に人一人が通れる隙間だけが残った。


「春……!」


 絵麻が睨みつける。


 春は高い石の足場から絵麻を見下ろしていた。再会への揺れは瞳に残っている。それでも、カラドボルグを下ろす気配はない。


「絵麻。お前なら、どの道を残せば人が動くか分かるはずだ」


「分かるから腹立つのよ。これ、全部罠でしょ」


「全部ではない」


「一個だけ本物とか、余計にタチ悪いのよ!」


 春が剣を横へ動かす。


 中央の通路が途中から二つへ分かれ、左の壁には新しい足場がせり出した。七星の混沌が重なると、五メートル先の壁が遠ざかり、右へ曲がった通路が元の場所へ戻るように見えた。


「はいはい。では、双葉も始めますねぇ」


 春の後方で、双葉が両手を胸元へ持ち上げた。淡い金色の魔素が幾何学模様の線となり、封印区画へ広がる。


 モルティナの濃紺の魔素が、その線へ重なった。


「この区画では、一定以上離れた対象への魔素干渉は減衰する。これでどうですかぁ、モルティナ先輩?」


「成立する」


「では、お願いしますねぇ」


 双葉が指先を合わせた瞬間、空間がわずかに収縮した。


 卓斗は後方の石片へ引力を伸ばす。黒い魔素は五メートルほど進んだところで薄れ、石片へ届く前に霧散した。


「マジでルールになるのかよ」


「やだなぁ、そんな怖い顔しないでくださいよぉ。双葉、誰も殺すなんて言ってないじゃないですかぁ」


 双葉は申し訳なさそうに眉を下げたが、金色の線を維持する指先には迷いがない。


「ただ、離れたまま助け合えるのは、ちょっとずるいかなって思っただけです。皆さん、仲良しですからねぇ」


「十分性格悪いだろ」


「ええ? 褒めても何も出ませんよぉ」


「褒めてないんよ」


 封印区画中央の崩れた柱の陰で、恵依とゲブが床へ手をかざしていた。


 七星の混沌によって正規線と黒線の向きが入れ替わり、双葉の秩序によって遠くを走る線ほど解析結果が薄くなっている。


「ゲブ、広域共有はできますか?」


「十メートルを超えた時点で大きく減衰します。維持には通常より負荷がかかると思われます」


「では、広げません。短い範囲をつなぎます」


 ゲブの白銅の魔素が細い線となり、恵依から絵麻へ、絵麻から卓斗へ伸びた。


 一本の長い線ではなく、短い線を順に渡すことで双葉の条件を避ける。


「あ、なるほど。抜け道を探すんですねぇ」


 双葉は感心したように小さく手を叩いた。


「でも、誰か一人が切れたら全部止まっちゃいません? 双葉、そこまで面倒は見られないですよぉ」


「その時はつなぎ直します」


「真面目ですねぇ。そういう答え、嫌いじゃないです」


 双葉は微笑んだまま、秩序の線を一本増やした。


「まあ、好きだから見逃すとは言ってませんけど」


 七星が白鋼の障壁へもう一度拳を打ち込む。


 亀裂が中央まで広がり、ラールの身体が後ろへ引かれた。障壁を維持する魔素が震え、足元に固定していた退避路まで揺らぐ。


「ラール、下がって!」


「で、でも、ここがなくなると卓斗さんが!」


「私がずらすから!」


 絵麻はラールの肩を掴み、二人の位置を半歩だけ後方へ移した。


 障壁が砕ける。


 七星は破片の間を抜け、卓斗へ一直線に踏み込んだ。


 卓斗には七星が遠く見えていた。それでも、ゲブから渡された白銅の線が、床を踏む振動を足裏へ伝えてくる。


 右前方。三歩。


 卓斗は視覚を捨て、振動だけを基準に身体を沈めた。


 七星の拳が頭上を抜ける。


「やっと避けたか」


「こっちも学習するんよ」


 卓斗は床の石片を蹴り上げ、拳の軌道上へ浮いた石片へ斥力を加えた。


 至近距離なら、双葉の秩序による減衰は小さい。


 石片が七星の手首へ横から衝突し、拳の軌道が外れた。


 卓斗はそのまま脇を抜けようとしたが、足元の距離が再び狂う。右足が想定より早く床へ着き、身体が前へつんのめった。


「甘ぇよ」


 七星の膝が腹へ迫る。


 ティナが卓斗の身体へかかる慣性を一瞬だけ消し、前へ崩れていた姿勢を止める。


 それでも避けきれず、膝が左肩へ当たった。


「っ……!」


 痛みで左腕が落ちる。右手首の竜紋も熱を増し、指が思うように動かない。


「成瀬さん、交代してください」


 千佳が卓斗と七星の間へ入った。


「まだいけますって」


「いけるかどうかではありません。役割を渡してください」


「……了解」


 卓斗は一歩下がった。


 千佳は七星へ斬りかからず、剣先で床の石片を左右へ散らした。


 七星が右へ動けば、右側の石片だけが遠ざかる。左へ踏み込めば、左の破片が七星へ吸い寄せられるように見えた。


「流川さん。守屋さんを中心に、魔素の通りやすい方向があります」


「はい。こちらでも確認します」


 七星の周囲では、春たちの魔素だけが滑らかに流れている。反対に卓斗たちの魔素だけが曲げられ、遠回りさせられていた。


「完全に乱しているわけではありません。春さんたちの流れを基準に、私たちの方向だけを外しています」


「外れ方は読めますか?」


「時間があれば。ただし、オブリナさんが基準を消しています」


 恵依が示した先で、千佳が配置した石片と床に残る創造線が消えた。


 春たちの痕跡であっても、卓斗たちが基準として使えるなら、オブリナは消している。


「見えるものを基準にするから消されるんです」


 恵依は保守用魔導具へ意識を向けた。


 四本の魔導具は、一定の間隔で低い振動を発している。


「ゲブ。魔導具の振動だけを拾えますか?」


「可能と思われます」


「第一分霊石へ近づいているか、離れているかだけ共有してください」


「承知しました、流川様」


 ゲブの白銅の魔素が床へ染み込み、保守用魔導具の振動を拾う。


 正確な距離は分からない。それでも、動いた方向が第一分霊石へ近づくのか、離れるのかは判断できた。


「絵麻さん。右側の通路は遠ざかっています」


「見た目だと近づいてるんだけど」


「見た目は捨ててください」


「言い方が容赦ないわね!」


 絵麻は右側に作りかけた空間の印を消し、中央の壁際へ新しい座標を置いた。


 ラールが白鋼を流し、床と壁の位相を固定する。


「こ、ここなら消されても、床ごとはなくならないと思います!」


「思いますじゃなくて、固定して!」


「してますぅ!」


 封印区画中央から、保守用魔導具を守る騎士二人の手前まで、四メートルほどの退避路が成立した。


「ナーヴァ団長、切断できますか?」


 千佳が七星の拳を剣の腹で受け流しながら問う。


 ナーヴァはデュランダルを抜いたまま、第一分霊石へ続く線を見ていた。


 黒い解除線、正規接続線、春の創造線、双葉の秩序線、人間の魔素が複雑に重なっている。


「まだ。切れない」


「理由は?」


「人。契約。正規線。重なってる」


「では、露出させます」


 卓斗は痛む左肩を押さえ、第一分霊石の台座へ目を向けた。


「恵依、黒線の根元、どこ?」


「中央壁の右端から台座へ向かう一本が、他より浅く床を通っています」


「絵麻、数センチだけずらせる?」


「見えてない線を?」


「恵依が見る。俺が周りの石を剥がす。そっちで床との接点だけ動かして、ラールが固定」


「注文多くない?」


「効率いい分担ってことで」


 卓斗は痺れる右手を持ち上げた。


 広い範囲へ魔素を伸ばせば、七星の混沌に方向を狂わされる。足元の小石から、その先の床片へ、短い距離で魔素を渡していく。


「タク、右へ三度よ」


「三回も?」


「嫌なら一度で失敗しなさい」


「はいはい、やりますよ」


 三度目の石片が引き剥がされ、床下から細い黒線が露出した。


「見えました!」


 恵依の解析が黒線へ集中する。


「絵麻さん、床との接触点を右へ四センチです。それ以上は正規線へ触れます」


「四センチね」


 絵麻が床面の座標だけを横へずらし、黒線と正規線の重なりを外す。


「ラール!」


「固定します!」


 白鋼の魔素が黒線の周囲へ絡み、ずれた位置を保った。


 ナーヴァがデュランダルを上げる。


 その直前、春がカラドボルグを床へ突き立てた。露出した黒線の手前から石壁が立ち上がり、ナーヴァとの間を遮る。


「させない」


「関係ない」


 デュランダルの切っ先が石壁へ沈み、そのまますり抜けた。


 だが、ナーヴァは振り抜かなかった。


「違う。これじゃない」


 露出した黒線は、第一分霊石を直接引き抜く線ではなく、解除命令を奥へ送る中継線だった。


「ナーヴァ団長、切断は待ってください」


 千佳が指示を変える。


「流れだけ止めます」


 千佳は七星の拳を逸らし、その反動で身体を回転させた。石壁の隙間へ剣を差し込み、黒線の周囲へ薄い防壁を作る。


 内部を流れていた解除命令が止まり、黒い脈動が弱まった。


「一本、止まりました」


 保守用魔導具の振動がわずかに安定する。


「よっしゃ」


 卓斗が息を吐いた瞬間、足元の振動が途切れた。


 オブリナが白銅の共有線へ手を伸ばし、恵依から絵麻、絵麻から卓斗へ渡っていた線の中央を消していた。


「つながり。不要」


「必要って言ってるでしょ!」


 七星は千佳の剣を拳で弾き、オブリナの横まで下がった。


「一本止めたくらいで喜ぶなよ」


「一本も止められなかった奴が言うなら分かるけどな」


「まだ口減らねぇのか」


「肩二回殴られたくらいで黙るほど素直じゃないんで」


 強がりとは裏腹に、左腕はほとんど上がらない。右手首の痺れも残っていた。


 第一分霊石へ続く黒線は、まだ複数残っている。


 春がカラドボルグを引き抜くと、卓斗たちの左右から二本の石柱がせり上がった。その間に二層目の足場が作られ、春と双葉の位置がさらに高くなる。


「次の線へ移る」


「はいはい。春さん、本当に人使いが荒いですねぇ」


 双葉は口では不満そうにしながら、金色の線を増やしていく。


「でも、ここで止められたままだと困りますもんね。双葉たち、ちゃんと目的があって来てるわけですし」


「次の定義を」


 モルティナが促す。


「そうですねぇ」


 双葉は顎へ指を当て、わざとらしく考える仕草を見せた。


「皆さん、強い人に助けてもらうのが上手じゃないですかぁ。だったら、そこを少し公平にしてあげた方がいいと思うんですよね」


 金色の線が天井へ昇り、群青の魔素と重なって巨大な円を描き始める。


「この空間では、自分より強い魔素を持つ相手への干渉は無効。これなら、誰か一人に頼りきりにはならないじゃないですかぁ」


「それを公平って言うの、だいぶ終わってるだろ」


「ええ? 双葉、皆さんが自分の力で頑張れるように応援してるだけですよぉ」


 双葉は柔らかく微笑んだ。


「それとも、誰かに守ってもらえないと困ります?」


 金色と群青の円が完成へ近づき、敵味方の魔素を測る光が一人ずつの身体をなぞり始める。


 卓斗たちは最初の黒線を止め、混沌の中でも第一分霊石へ近づくための基準を一つ見つけた。


 だが、次の秩序は距離だけを奪うものではない。誰が誰を助けられるのか、その組み合わせ自体を切り分けようとしている。


 卓斗は動かない左肩を押さえたまま、その光がティナから自分へ移るのを見た。


 助け合いを止めるための次のルールが、封印区画全体へ降りようとしていた。




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