第二章 32 『芹沢春』
地下封印区画には、第一分霊石へ続く青白い光と、それを外そうとする黒い術式が重なっていた。
両者の境界を挟み、絵麻と青年は互いから目を離せずにいる。
絵麻の記憶に残っているのは、春が中学生だった頃の姿だった。目の前の青年は背が伸び、幼さの抜けた顔で黒い軍服風の衣装を着ている。
それでも、自分の名前を呼んだ声だけは変わっていなかった。絵麻が遅れて歩けば振り返り、追いつくまで道の端で待っていた少年の声だった。
「……春?」
絵麻は一歩だけ前へ出た。靴先が黒い術式陣へ近づく前に自分で止まり、青年の顔を確かめようと目を凝らす。
ラールは腕をつかまず、絵麻の半歩右へ位置を移した。黒い術式が動いた場合に防壁を出せる距離を保ちながら、再会を遮らない。
千佳は青年から視線を外さず、剣の柄へ置いた手を下げなかった。驚きが消えたあとには、確認すべき相手へ向ける第一騎士団長の厳しさが戻っている。
「芹沢春。そこで何をしているのですか?」
名前が地下へ響いた瞬間、絵麻の中に残っていた疑いが消えた。似た声の別人でも、記憶が作った幻でもない。
「本当に、春なの?」
「俺だ」
春は黒い術式を操作していた右手を下ろした。絵麻へ近づこうとはせず、術式陣の向こう側に立ったまま短く答える。
「四年間、どこにいたの? みんな捜したんだから。家にも帰ってこないし、連絡も何もなくて……」
問いが続くほど、絵麻の声は強くなった。生きていたことへの安堵と、何も知らされなかった怒りが同時に込み上げ、どちらか一方へ整理できない。
「帰れなかった。俺も、ここへ連れて来られた側だからな」
春の隣にいた黒銀髪の少女が、静かに一歩前へ出た。見た目は十歳ほどで、喪服を思わせる黒いドレスと赤い瞳を持っている。
「あの日、春は苦しんでいたの。だから、私が見つけたの」
少女の声は、泣き疲れた者を眠らせるように穏やかだった。優しさの形をしているのに、絵麻の意思を確かめようとする響きはない。
「私はレクイナ。春と契約して、こちらへ連れて来た葬送の冥精霊よ」
「契約って……私たちと同じ?」
絵麻は自分の契約紋へ視線を落とし、すぐ春へ戻した。春の胸元には、見慣れない黒い紋様と、物を作り出す魔素の光が残っている。
「同じとは言い切れない。でも、俺が日本からこの世界へ来たのは、レクイナと契約したからだ」
「春も、嫌だって言ったのに連れて来られたの?」
春はすぐには答えなかった。レクイナも彼の代わりに肯定せず、黒いドレスの裾を揺らして隣へ戻る。
「選べる状態ではなかった。それでも、ここへ来てから何をするかは俺が決めた」
春の答えには、強制された過去と現在の行動を分ける意志があった。絵麻は生きていた理由を知ったが、二人の間にある黒い術式まで消えたわけではない。
千佳は春の右手と地下出入口の認証板を見比べた。第五騎士団団長の権限は、記録上すでに失効しているはずだった。
「異世界へ来たあなたは王国に保護され、騎士になりました。その後、第五騎士団団長へ就任した。そこまでは記録に残っています」
「ああ」
「あなたが第五騎士団を離脱したあと、管理権限は停止されました。それでも地下出入口は、正式な団長認証で開かれている」
「認証に使ったのは、俺自身の魔素だ。盗んでも、写してもいない」
春は隠す様子を見せなかった。団長時代に登録した魔素波形と、当時使っていた団長印を組み合わせ、停止された権限を旧設備側から再接続したのだという。
「王国で守るために得た権限を、今は分霊石を外すために使っているのですか?」
「王国の目的と、俺の目的が同じだった時期は終わった」
「現在の所属を答えてください」
千佳の問いで、地下の空気が再び張り詰めた。春は絵麻から目を離し、ナーヴァと千佳を正面から見る。
「サリギア。俺が地上でまとめている組織だ」
「リーダーってこと?」
絵麻の声から、安堵が一段引いた。第一章で聞いたサリギアは、分霊石や古い封印を奪い、土地への被害を許容する組織だった。
「そうだ。九つの分霊石を集め、アシェラ・イラトを復活させる」
春の左右にいた二人も、隠れていた位置から術式陣の前へ出た。少年は卓斗たちを警戒しながら拳を握り、少女は黒い線の配置を見回している。
「守屋七星。サリギアの副リーダーだ」
少年は名乗りながらも、春と絵麻の間へ割り込まなかった。乱暴な口調と鋭い目つきに反して、立ち位置は負傷者や仲間をすぐ回収できる場所にある。
「双葉は東雲双葉です。こっちも一応、副リーダーなんですよぉ」
ポニーテールの少女は軽い調子で片手を上げた。しかし視線は卓斗たちの人数、第一分霊石への通路、ナーヴァの剣を順番に追い、笑顔のまま距離を測っている。
「名前、完全に日本人じゃん」
卓斗は二人の話し方まで聞き、ティナの隣で肩を落とした。異世界へ来てから日本人の契約者は自分たち三人だけだと思っていたが、その前提が一度に崩れる。
「日本人六人、精霊六人。異世界転移の参加人数、聞いてた話より多くない?」
「俺らも好きで参加したわけじゃねえよ」
七星は卓斗へ苛立った声を返した。敵意は向けているが、日本から連れて来られたという一点だけは冗談で扱う気がないらしい。
「オブリナに契約されて、気づいたらこっちだ。帰り方も分かんねえ。それでも、仲間を置いていく気はねえ」
七星の隣には、白い面をつけた灰白髪の少女が立っていた。存在感が極端に薄く、視線を外せばその場から消えたように感じられる。
「オブリナ」
面の奥から短い声だけが落ちた。オブリナは自分を説明せず、七星へ向く攻撃や魔素だけを見ている。
「虚無の冥精霊。消して守る。残さない」
「守るために、相手ごと消すんですか?」
恵依が問い返しても、オブリナの姿勢は変わらなかった。悪意ではなく、存在が残るから争いが起きるという考えで動いている。
「これで守る」
双葉の隣では、黒い長髪と群青の瞳を持つ少女が黒線の終点を確かめていた。幼い見た目に反して所作は整い、戦場の条件を読む学者のような静けさがある。
「終焉の冥精霊、モルティナです。続けることで損失が増えるなら、終わらせる方が合理的でしょう」
「モルティナ先輩、まだ終結条件には触らないでくださいね。再会中に事故るの、さすがに空気悪いじゃないですかぁ」
「承知しています。条件設定は、あなたの判断を待ちます」
双葉とモルティナのやり取りから、二人が軽い態度だけで動いていないことが伝わった。黒い術式陣の終点も、双葉が条件を決めるまで固定されていない。
ティナ、ゲブ、ラールは、三冥精霊を正面から見ていた。六百年前、フィオラとアシェラが争った時代に、互いの契約者の隣で向き合っていた相手だった。
「レクイナは葬送。オブリナは虚無。モルティナは終焉」
ティナは卓斗たちへ聞かせるため、三柱の性質を短く示した。今の姿や契約者が変わっても、魔素の根にある考えまでは変わっていない。
「六百年前、三人はアシェラ・イラトと契約していた冥精霊よ」
「今は春たちと契約して、前の契約者を復活させようとしてる?」
「そういうことね」
卓斗は春たち三組を見比べた。同じ日本から本人の同意が曖昧なまま連れて来られ、帰還手段も持っていない。それでも、異世界で選んだ立場は正反対だった。
「境遇同じっぽいのに、やってることは敵側って、話ややこしすぎない?」
「単純だ」
春は卓斗へ静かに返した。声を荒らげず、黒い術式陣と第一分霊石へ続く線を示す。
「お前たちはフィオラを戻すために分霊石を調べる。俺たちはアシェラを戻すために奪う。それだけだ」
「いや、こっちは石のせいで土地壊れるなら持っていかない方針なんだけど」
「だから、お前たちでは集めきれない」
春の断定に迷いはなかった。各地で役割を持った分霊石を一つずつ安全に動かす方法を探せば、何年かかるかも分からない。
「待って。春は、あれを外したらどうなるか知ってるの?」
絵麻は第一分霊石へ向かう黒線を指した。外縁集落の循環、水路、旧街道、王都西側の結界まで、青白い核の働きに支えられている。
「知っている。俺は第五騎士団団長だった。この地下も、旧街道結界の役割も理解している」
「だったら、何で奪うの? 集落も街道も危なくなるって分かってるんでしょ?」
「一つの土地を支えるために、アシェラを封じ続ける方が正しいとは思わない」
春は被害を知らずに動いているのではなかった。接続が外れれば補助核へ負荷が移り、結界の弱い場所から魔物や災害の危険が増すことまで理解している。
「代わりが間に合わないなら、被害は出る。それでも、アシェラを戻すために必要なら進める」
「人が巻き込まれても?」
「全員を守って、失ったものまで戻せるとは限らない。一人を捨てれば多くを守れることもある。逆も同じだ」
絵麻は、再会できた幼馴染の言葉をすぐには受け止められなかった。春が操られているのでも、事情を知らないのでもなく、自分で被害を選択肢へ入れている。
千佳は春の返答を聞き、剣を鞘から数センチだけ抜いた。敵対の意思を示しながらも、まだ攻撃の間合いへは踏み込まない。
「あなたは第五騎士団団長として、この旧街道を守っていました。今度は自分の手で壊すのですか?」
「守るだけでは、戻せないものがある」
「守っていた人々を、過去を戻すための費用に変えることは認めません」
「認めてもらう必要はない」
春は黒い術式陣へ右手を向けた。胸元から創造の魔素が流れ、止まっていた線が床の溝に沿って再び光り始める。
「双葉。終結条件を設定しろ」
「はいはい、春さん。対象は建国核の接続。終結は、第一分霊石と旧街道結界の分離。関係者の死亡は条件に含めませんよぉ」
双葉が具体的な終点を定めると、モルティナの群青の魔素が黒い術式へ重なった。複数に分かれていた可能性が狭まり、接続解除という一つの結末へ流れ始める。
「抵抗しても、結末は変わりません」
「勝手に終わり決められるの、普通に嫌なんだが?」
卓斗は右手を上げ、第一分霊石へ戻る経路を背後に置いた。ティナも白銀を薄く広げ、春の創造によって足場が変わる場合に備える。
七星は術式陣の前へ出て拳を構えた。オブリナがその半歩後ろへ立ち、七星へ向かう魔素を消せる位置を取る。
「悪いが、ここは通さねえ。春が終わらせるまで、俺が止める」
ナーヴァは七星を追って前へ出ず、デュランダルを抜いた。彼個人ではなく、第一分霊石へ進む黒い術式を切れる角度を探している。
「本人と線、分ける。まだ振らない」
春の創造の魔素が床へ沈み、地下封印区画の左右から石壁がせり上がった。中央通路を塞がず、卓斗たちの進路、退路、第一分霊石への射線を別々に分ける配置になっている。
壁の間には新しい足場と高低差が作られ、春たちの側だけが黒い術式陣へ直接触れられる。長引くほど構造物が増え、卓斗たちの連携が難しくなる戦場だった。
「戦場まで作るとか、準備良すぎだろ」
「準備せずに守れるほど、分霊石は軽くない」
春は背中から神器カラドボルグを抜き、刃先を床へ向けた。レクイナはその隣で淡い葬送の光を広げ、争う意志を静かに薄めようとしている。
「絵麻。退け。お前と戦うために来たわけじゃない」
春の声には、ほかの相手へ向ける冷たさとは違う揺れがあった。生きて再会できた絵麻だけは、分霊石を巡る戦いから外そうとしている。
絵麻は一度だけ唇を噛み、春が目の前にいる事実を確かめた。生きていたことは嬉しい。声を聞けたことも、もう二度と会えないと思っていた時間が終わったことも嘘ではない。
それでも、背後には第一分霊石があり、その先には何も知らず旧街道を使う人々がいる。春との再会だけを理由に、危険を見なかったことにはできなかった。
「生きててよかった。本当に、ずっと会いたかった」
絵麻はラールと並び、春が作った石壁の正面へ立った。空間の魔素を周囲へ広げ、第一分霊石までの退避路と仲間の位置を確かめる。
「でも、それと止めないことは別だから」
春の蒼黒の瞳から、再会した幼馴染を見る揺れが消えた。代わりにサリギアのリーダーとしての静かな判断が戻り、カラドボルグの切っ先が持ち上がる。
第一分霊石へ向かう黒い術式が再び動き、六人の日本人契約者と六柱の精霊は、同じ異世界の地下で正反対の目的へ踏み出した。




