第二章 34 『消える基準』
金色と群青の円が、封印区画の天井で閉じた。
輪の内側から細い光が降り、卓斗、千佳、七星、三竜精霊の順に身体をなぞっていく。光が触れるたび、その者がまとっている魔素の濃さが測られ、床へ異なる大きさの紋が浮かんだ。
「成立しましたよぉ」
双葉は高い石足場の上から、満足そうに両手を合わせた。
「この空間では、自分より強い魔素を持つ相手への干渉は無効です。皆さん、自分と釣り合う相手を選んでくださいねぇ」
「選べる状況にしてから言え?」
卓斗は上がらない左肩を押さえたまま、七星の足元にある石片へ右手を向けた。
本人へ直接使うつもりはない。踏み込みに使う石だけを押し出し、体勢を崩す。それなら先ほども通った。
黒い魔素が床を走る。
石片まで残り一メートルに迫ったところで、魔素が薄い煙のようにほどけた。
「……消えた?」
七星の周囲では混沌の魔素が濃く渦巻いている。先ほどより出力を上げたことで、卓斗の魔素より強い対象として、七星の支配下にある石片まで判定されたらしい。
「本人じゃなく、周りまで込みかよ」
「やだなぁ。七星先輩が使っているものなら、七星先輩の力の一部じゃないですかぁ」
双葉は困ったように首を傾けた。
「そこだけ都合よく別扱いにする方が、不公平ですよねぇ?」
「公平って言葉、一回辞書で調べた方がいいぞ」
「異世界に辞書があるなら、後で探しておきますねぇ」
軽い返答とは裏腹に、天井の秩序線は一切揺らいでいない。
恵依は床へ手をついたまま、解析した情報を千佳へ送ろうとした。ゲブの白銅の魔素が短い線を作り、二人の間をつなぐ。
線は千佳まで届く直前で弾けた。
「共有できません」
「私の方が出力判定で上だからですね」
千佳は七星を見据えたまま、恵依の状況を声だけで確認した。
戦智の魔素を広く展開している今の千佳は、解析へ集中する恵依よりも出力が高い。味方同士であっても、双葉の秩序は区別しなかった。
「敵に届かないだけならまだ分かるけど、味方の補助まで止めんの、どこが公平なんだよ」
「助けてもらえる人と、もらえない人がいる方が不公平じゃないですかぁ」
双葉は胸元へ片手を置き、いかにも心配しているような表情を作った。
「だったら最初から、同じくらいの人同士で頑張ればいいと思うんですよね。双葉、ちゃんと皆さんの成長を応援してますよぉ」
「成長する前に死ぬわ」
「そこは頑張ってください」
「急に雑なんよ」
卓斗の軽口へ反応するように、七星が床を蹴った。
視界の中ではまだ八メートルほど離れている。だが、右側の石壁から跳ね返った足音は、すでに二歩先まで近づいていた。
千佳が前へ出る。
七星の右拳が頬を狙い、千佳の剣が下から斜めに持ち上がる。刃で拳を斬るのではなく、剣の腹を前腕へ当てて外側へ流す軌道だった。
その直前、戦智の魔素が七星の踏み込みへ触れようとして消えた。
七星の混沌が一時的に千佳の出力を上回ったことで、動きを読むための干渉だけが秩序に阻まれた。
それでも千佳は止まらない。
七星の肩の沈み、腰の回転、床へ置かれた右足の角度だけを見て、剣の位置を半歩分修正した。
拳が剣の腹を叩く。
鈍い音とともに千佳の右腕が後方へ押されたが、軌道は頬から外れた。七星が左拳を腹へ続けると、千佳は肘を下げて受け、衝撃を横へ逃がしながら一歩後退する。
「能力なしでも捌くか」
「団長になる前から、剣は振っていますので」
千佳の足元で石が鳴る。
七星の混沌によって距離は狂っている。だが、接触した拳と剣の重さまでは消えない。
千佳は接近戦だけで七星を止め、卓斗たちが次の黒線へ向かう時間を作ろうとしていた。
「絵麻さん。保守用魔導具の手前へ移れますか?」
恵依は千佳へ送れなかった情報を、隣にいる絵麻へ直接伝えた。
絵麻は後方の騎士二人へ視線を向ける。台座までの見た目の距離は十メートルほどだが、七星の混沌によって実際の長さは定まらない。
「短く刻むならいける。でも、卓斗も一緒に動かすのは無理そう」
絵麻が卓斗の足元へ空間の歪みを作る。
歪みは形を保ったものの、卓斗の身体へ触れた瞬間に弾けた。負傷と反動で消耗している卓斗より、現在の絵麻の方が魔素出力を上回っているためだ。
「味方に運んでもらうのも駄目とか、だいぶ終わってんな」
「文句言ってないで、自分で歩きなさい」
「肩壊した奴に厳しくない?」
「口は動いてるでしょ」
絵麻は卓斗を置き、ラールとともに中央の石壁へ向かった。
先程に固定した四メートルの退避路は、白鋼の薄い床として残っている。だが、その入口を示していた空間の印が見当たらない。
オブリナが白い面を二人へ向け、右手を下ろした。
「入口。不要」
「またそれ!?」
絵麻は退避路へ足を出しかけ、直前で止めた。
白鋼の床そのものは残っている。しかし、どの位置から踏み込めば内部へ接続できるのか分からない。半歩ずれれば、春が作った石壁へ正面からぶつかる。
さらに、床を伝っていた保守用魔導具の振動も途中で途切れた。
オブリナは退避路の目印だけでなく、振動を伝える床の一部まで消している。正確な位置も、第一分霊石へ近づく方向も失われた。
「流川様。共有していた振動が途切れました」
ゲブは床へ触れた手を動かし、消えた範囲を探った。
「床そのものが存在しない部分があります。広さは断定できません」
「存在しない場所を直接探す必要はありません」
恵依は魔素の流れを床全体へ薄く広げた。
オブリナに消された場所には反応がない。だが、その周囲を走る正規線や春の創造線は、空白を避けるように曲がっている。
消えたものは見えない。
それでも、周囲の流れが不自然に迂回する輪郭なら読める。
「ゲブ。確認できたものではなく、欠けたことで生じた乱れを共有してください」
「承知しました、流川様」
白銅の魔素が恵依の解析へ重なる。
広域には伸ばさない。隣にいる絵麻へ、さらに絵麻からラールへ、触れられる距離だけで消去境界を渡していく。
絵麻の視界に、床の空白を囲む歪な輪郭が浮かんだ。
「そこ、踏んじゃ駄目ってことね」
「はい。退避路の入口は、その境界から左へ半歩です」
絵麻は足を滑らせるように左へ移し、慎重に白鋼の床へ乗った。
ラールも続こうとするが、退避路の奥で石壁が動いた。
春がカラドボルグを横へ払う。
台座近くにいた第六騎士団員の一人と退避路の間へ、厚い石壁が斜めに押し出された。騎士は保守用魔導具を守る相方から分断され、壁際の狭い区画へ追い込まれる。
「右へ逃げてください!」
千佳が七星の拳を受けながら指示を飛ばす。
騎士は右へ踏み出したが、七星の混沌で床の長さを誤った。足が想定より早く着き、体勢が前へ崩れる。
七星が千佳から離れた。
混沌の中を迷わず走り、分断された騎士へ向かう。見た目では遠いままなのに、足音だけが急速に近づいていった。
「絵麻、あの人を動かせ!」
「やってる!」
絵麻が騎士の周囲へ空間の歪みを作る。
しかし、騎士は全身へ防御用の魔素をまとっていた。七星の接近を前に出力を引き上げた結果、絵麻の干渉より一時的に強くなっている。
空間の歪みが騎士の身体へ触れた瞬間、金色の火花となって消えた。
「うそでしょ!?」
ラールが障壁を伸ばす。
白鋼の壁は途中まで進んだものの、双葉が最初に課した距離の秩序によって減衰し、騎士へ届く前に薄くなった。
七星は残り二歩まで迫っている。
モルティナの群青の魔素が天井の円から降り、失敗した空間移動と届かなかった障壁をなぞった。
救援が失敗するたび、封印区画の奥で黒い解除線が強く脈打つ。選べなかった結果が、第一分霊石と旧街道結界を分離する結末へ結びつけられていた。
「卓斗くん、対象本人ではありません!」
恵依の声が飛ぶ。
卓斗は痛む右手を上げた。
騎士本人には届かない。七星本人にも届かない。
なら、その周囲を動かす。
騎士の右足が乗っている床石へ意識を絞る。距離は七メートル近くあるため、直接では魔素が減衰する。
卓斗は手前の石片から順に斥力を渡した。
一つ目が二つ目を押し、二つ目が三つ目へ衝撃を伝える。魔素そのものを遠くへ伸ばさず、物理的な力だけを連鎖させる。
最後の石片が騎士の足元へ当たり、床石の端を持ち上げた。
「足元、右にずれます!」
恵依の指示を受け、絵麻は騎士ではなく、傾いた床面の座標へ干渉した。
石床が騎士を乗せたまま、退避路側へ半メートル滑る。
双葉の秩序は反応しない。動かしているのは騎士本人ではなく、騎士が立つ床だからだ。
「ラール、床をつないで!」
「はいっ!」
ラールは騎士へ障壁を送らず、移動した床と退避路の間へ白鋼の板を固定した。
騎士は前へ崩れた勢いのまま、その板へ足をかける。七星の拳が背中へ届く寸前、身体が退避路の内側へ滑り込んだ。
七星の拳は石壁を打ち抜いた。
破片が退避路へ飛び込むが、ラールが板の端を折り上げ、低い壁に変えて受け止める。
「助かった……!」
騎士は片膝をつきながらも、すぐに剣を構え直した。
モルティナの群青の魔素が一度大きく揺れる。
救援失敗へ寄せられていた結末が崩れ、黒い解除線の脈動が一瞬だけ弱まった。
「直接助けられないなら、周りを動かすんですねぇ」
双葉は笑顔を崩さなかったが、床へ広げた金色の線を見直していた。
「そういう抜け方、ちょっとずるくないですかぁ?」
「そのルール作った奴にだけは言われたくないんよ」
「双葉は正面から条件を出してますよぉ。抜け道を探す皆さんの方が、よっぽど意地悪じゃないですかぁ」
「被害者面うまいな、お前」
卓斗は軽口を返しながら右手を下ろした。
石片を連続で動かした反動により、竜紋の熱が肘の近くまで上がっている。指を握ろうとしても、中指と薬指が遅れて動いた。
「タク。次は同じ方法を使わないことね」
「言われなくても、手が拒否してるわ」
ティナは卓斗の右手首へ白銀の魔素を薄く重ねた。熱の流れだけを外へ逃がすが、負傷や痺れそのものは消えない。
その間にも、千佳と七星の接近戦は続いていた。
千佳は戦智の干渉が通らない瞬間を見極め、剣技だけで拳を外へ流している。七星は混沌によって踏み込みの距離を隠し、左右の拳へ肘と膝を組み合わせて押し込んだ。
七星の左拳が千佳の剣を横へ弾く。
続く右肩が胸元へ入る寸前、卓斗が二人の横にある石壁へ斥力を加えた。
直接七星へ向けたものではないため、秩序は働かない。
壁から剥がれた薄い石板が七星の進路へ倒れ込む。七星は肩を止め、拳で石板を砕いた。
その一拍で千佳が間合いを外す。
「成瀬さん、助かりました」
「周りならいけるっぽいです」
「その認識で進めましょう」
千佳は短く答え、剣先を下げた。
恵依も同じ結論へ届いている。
双葉の秩序は、強い相手本人へ向けた干渉を止める。だが、対象が立つ床、周囲の壁、まだ誰の魔素にも支配されていない物体までは完全に含められない。
「直接届かない場合は、構造を動かします」
恵依はゲブとともに床へ視線を戻した。
「オブリナさんが消した境界も、避けるためだけではなく、残っている床を特定する基準にできます」
「流川様。正規接続線が空白の下を迂回しています」
ゲブが示した先では、魔素の流れが半円を描くように曲がっていた。
恵依はその曲線を逆算し、第一分霊石へ続く正規線の位置を追う。正規線と並行して走る黒線も、周囲の流れを押し退ける細い乱れとして見えてきた。
「次の黒線は、中央壁の下です。前回より正規線との距離が近いです」
「見つけたんですねぇ」
双葉の声が上から降る。
その直後、オブリナが中央壁へ手を向けた。
黒い魔素が床へ沈み、正規線と黒線を覆っていた石材の一部が消える。
今度は目印ではない。
線を支えていた床そのものが、横幅一メートルほど失われた。
正規線と黒線が空中へ露出し、支えをなくして上下に揺れる。二本が接触するたび、白と黒の火花が散った。
「保守用魔導具、負荷上昇!」
台座近くの騎士が叫ぶ。
四本のうち右奥にある魔導具が激しく震え、外殻へ細い亀裂が走る。分散されていた負荷が、床を失った正規線を支えるため一基へ集中していた。
第一分霊石の光が大きく脈打った。
封印区画全体が低く揺れ、春が作った石壁から砂が落ちる。旧街道結界へ続く正規線が一瞬だけ細くなり、その隙間へ黒線が絡みついた。
「魔導具を先に守ってください!」
千佳が七星を押し返しながら指示を飛ばす。
絵麻とラールは退避路を通り、亀裂の入った魔導具へ向かおうとする。だが、モルティナの群青の魔素が床へ広がり、退避路の先を三つの影へ分けた。
どれも同じ場所へ続いているように見える。
実際に成立する道は、一つしかない。
「モルティナ先輩」
双葉は天井の秩序を維持したまま、柔らかく呼びかけた。
「助け方を変えられるなら、助けられる道の方を減らしちゃいましょうか」
「終結へ不要な可能性を閉じる」
モルティナの群青の瞳が細くなる。
三つに分かれた退避路のうち、左の道が音もなく薄れた。続いて右の道も輪郭を失い、中央だけが残る。
だが、その中央へ春の石壁がゆっくりとせり出している。
選べる道が減ったのではない。
選ばなければならない道を、一つずつ塞がれている。
亀裂の入った保守用魔導具が、再び大きく震えた。
卓斗たちは双葉の秩序を迂回し、オブリナが消した空白を新しい基準へ変えた。それでも、見つけた対処法を使える道そのものが、モルティナの終焉によって狭められていく。
第一分霊石の光がもう一度脈打つ中、中央に残された唯一の退避路へ、春の石壁が重い音を立てて迫っていた。




