第二章 20 『旧第五騎士団の箱』
沈砂槽の底に沈む防水箱は、蓋に刻まれた旧第五騎士団の紋章を上へ向けていた。
水深は五メートルほどあり、箱の下半分は黒い泥へ埋まっている。四隅の金属板から伸びた短い鎖は、川底へ敷かれた古い金属線と絡み合っていた。
「あれ、持ち上げた瞬間に何か起きるやつじゃない?」
卓斗は先頭艇の右側から水面を覗いた。濁りが薄くなっても箱の輪郭までしか見えず、鎖の先がどこへつながっているかは分からない。
「起きなければ楽なのだ!」
「その理論で開けるのやめない? 嫌な予感しかしないんだけど」
アトゥムは今すぐ引き上げるつもりだったらしいが、卓斗の隣で恵依が解析を始めたため手を止めた。二隻の小型艇は沈砂槽の東側へ縦に並び、箱から六メートルほど離れている。
「ゲブ。箱の内側と外側を分けてください」
「承知しました、流川様。確認できた反応から順にお伝えします」
ゲブの白銅が水面から沈み、防水箱へ細い線を伸ばした。箱の内部へ触れる線は淡い黄色に、外側の金属板と鎖を巡る線は濁った黒へ分かれる。
恵依は二つの波形を同時に追わず、最初に内部の反応だけへ解析を絞った。一定の間隔で脈打つ魔素は、外縁集落で記録した本物の魔導核とよく似ている。
「内部に魔導核と思われる反応があります。集落で確認した波形と、主要部分は一致しています」
「じゃあ、あれ取って村に戻せば終わり?」
「まだ断定できません。箱の外側には、黒い術式が残っています」
恵依が解析対象を切り替えると、ゲブも白銅の線を鎖へ移した。黒い術式は箱を封じるためではなく、鎖と川底の金属線を介して外側から箱を引く形になっている。
「流川様。人が近づいた場合に反応する線もあると思われます。水中へ入ることは推奨できません」
「泳ぐ案、消えた。助かったわ」
「タク。泳げる機会を失って残念ね」
二隻目の船首に立つティナは、表情を変えずに水面を見ていた。先ほどの仕返しを忘れていないらしく、卓斗が何か言い返す前に箱へ白銀の魔素を伸ばす。
「泥へ沈んでいる部分は重いわ。無理に鎖を引けば、箱より先に金具が外れるわね」
「箱の周囲から泥を払うのだ。浮かせたところを取ればいいのだ!」
アトゥムは先頭艇の船首へ移り、両腕を水面へ向けた。箱の真下から水を噴き上げれば、泥と一緒に箱まで回転する危険がある。
恵依は箱の傾きと鎖の位置を確認し、ゲブが安全に力を通せる範囲を円形の線で示した。箱の底へ直接当てず、周囲の泥だけを外側へ巻き上げる必要がある。
「水を通す位置は、箱から一メートル外側です。右下の鎖が深く埋まっているため、そちらを先に緩めてください」
「分かったのだ。泥だけを上げ、箱は中央へ残すのだ!」
アトゥムが両手を交差させると、沈砂槽の底で四つの水流が回り始めた。流れは箱の周囲を螺旋状に上り、堆積していた泥を少しずつ剥がしていく。
「——昇潮螺旋〈アノドス〉!」
四本の流れが一本の上昇渦へ変わった。黒い泥だけが箱の外側から吸い上げられ、水面へ円を描いて広がる。
箱の底面が泥から離れ、右下へ沈んでいた鎖も姿を見せた。水流は箱そのものを強く押さず、わずかに浮かせた状態で保っている。
「卓斗くん、上面の鎖を引けますか?」
「場所は見えた。箱丸ごとよりは全然マシ」
卓斗は蓋の中央から伸びた鎖へ右手を向けた。引力の範囲を鎖の先端へ絞り、自分たちの艇へ向かって斜め上へ引く。
鎖が水を切り、防水箱が泥の底から持ち上がった。箱は水中で左へ傾き、川底の金属線と絡んだ鎖を強く引っ張る。
「左側、まだ外れてない!」
絵麻は二隻目から水中の箱へ視線を向けた。卓斗が引く方向へ上がれば、残った鎖を軸に箱が回転し、側面から艇へぶつかる。
「ラール、受け台を先に作って! 私は箱と船の距離を縮める!」
「は、はい! でも、船の片側だけ重くなりませんか?」
「真ん中へ乗せる。船首じゃなくて中央!」
ラールは二隻目の中央から両側の船縁へ、白鋼の支柱を伸ばした。支柱の上に浅い箱形の受け台を作り、防水箱が載っても船底の一点へ重さが集中しない形にする。
絵麻は水中の箱と受け台の間にある斜めの距離を短くした。箱は急に移動せず、卓斗の引力で進む一メートルが、通常より長い移動としてつながる。
「タク。箱の慣性を弱めるわ。速度を上げすぎないで」
ティナの白銀が鎖から箱の外周へ伝わった。泥から外れた反動と水流による横揺れが薄れ、箱の傾きが小さくなる。
防水箱が水面まで二メートルの位置へ上がった時、外側に絡んでいた黒い術式が明滅した。川底の金属線から濁った魔素が流れ込み、残った三本の鎖へ広がる。
「止めてください! 黒い術式が作動します!」
恵依の声を受け、卓斗は引力を弱めた。箱は落下しなかったが、引き上げる速度を失い、水中で止まる。
川底へ埋まっていた金属線が泥を割り、左右から持ち上がった。太い線は水中で鞭のようにしなり、防水箱へ巻きついた鎖を沈砂槽の底へ引き戻す。
「箱を取られます!」
ラールは受け台から白鋼の帯を伸ばし、箱の上面にある鎖へ巻きつけた。引き上げる力はなくても、箱が一気に沈むのは止められる。
黒い金属線と白鋼の帯が上下から引き合い、二隻目の右側が水面へ沈んだ。船内へ水が入り、騎士二人が反対側へ体重を移す。
「絵麻ちゃん、受け台まで引かれています!」
「固定を船から外して! 箱と帯の形だけ残して!」
ラールは白鋼の支柱を船体から切り離した。受け台は消えたが、箱の鎖をつかむ帯だけは水中へ残り、船が引き込まれる危険を避ける。
「流川様。黒い術式の接続は三か所です。鎖そのものではなく、川底の金属線との結び目にあります」
ゲブの白銅が、箱の左、右後方、真下へ三つの点を示した。恵依は流れる黒い魔素を追い、どの順番で切れば箱が回転しないかを組み立てる。
「右後方から外します。次に左、最後に真下です。アトゥムさん、右後方の接続点へ短い振動を送れますか?」
「できるのだ。だが、三本同時には外さないのか?」
「同時に外すと、卓斗くんの引力で箱が船へ飛びます。一つずつ傾きを戻します」
「分かったのだ! 位置をつなげ!」
ゲブは右後方の点からアトゥムの指先へ白銅の線を伸ばした。アトゥムは大きな水流を起こさず、接続点だけへ細かい揺れを打ち込む。
黒い術式の結び目が震え、金属線から鎖へ渡っていた魔素が途切れた。箱の右側が浮き、残る二本の鎖へ重さが移る。
「絵麻さん、左側の接続距離を延ばしてください。引く力を弱めます」
「分かった。箱の位置は動かさない!」
絵麻は左の鎖と川底の金属線の間だけを引き延ばした。黒い術式は同じ力で引こうとするが、箱へ届くまでの距離が増え、鎖の張りが緩む。
アトゥムが二つ目の接続点へ振動を通した。結び目が外れ、左側の金属線が力を失って川底へ沈む。
「最後は真下です。卓斗くん、今は引かないでください」
「了解。飛んできた箱に轢かれたくないし」
卓斗は鎖へ残した引力を解除した。ティナが箱の重さと慣性を支え、ラールの白鋼帯が水中の位置を固定する。
最後の接続点は箱の底へ隠れ、アトゥムから直接狙えなかった。水流を下から当てれば、箱ごと持ち上げて術式の位置をずらす可能性がある。
「ゲブ、接続している魔素だけを上へ誘導できますか?」
「負荷はありますが、短時間であれば可能と思われます」
ゲブは真下の結び目へ白銅を通し、黒い魔素の流れを箱の右側へ誘導した。敵の術式へ深く共鳴せず、アトゥムが触れられる位置へ表面の流れだけを持ち上げる。
恵依が黒い術式の先端を捉え、右側へ移った瞬間を示した。アトゥムは白銅の線へ指先を合わせ、局所振動を短く放つ。
三つ目の結び目が切れ、箱を沈めていた力が消えた。ゲブはすぐに共鳴を解除し、恵依も黒い術式から解析を外す。
「今です。引き上げてください!」
卓斗は再び鎖へ引力をかけた。絵麻が受け台までの距離を縮め、ラールは二隻目の中央へ白鋼の支柱を作り直す。
防水箱が水面を破り、大量の水を落としながら宙へ上がった。ティナが横向きの慣性を抑えたことで船体へ衝突せず、白鋼の受け台へ底面から収まる。
箱の重さを受け、二隻目が中央から深く沈んだ。左右の騎士が姿勢を整え、絵麻とラールも船縁につかまって傾きを抑える。
「回収、成功です!」
「箱一個取るのに大仕事すぎない? 宅配なら追加料金取られるやつじゃん」
「誰に請求するつもりよ?」
「旧第五騎士団?」
「六百年前の記録しか残っていなければ、タクが払うことになるわね」
「じゃあ無料でいいです」
防水箱の外側から黒い術式は消えたが、蓋には古い封印が残っていた。沈砂槽の上で開けば、内部の魔導核が水へ落ちる可能性もある。
アトゥムは旧水路の北側にある石段を示した。その先には屋根の一部が崩れた点検小屋があり、壁際に古い作業台が残っている。
二艇を岸へつけ、第三騎士団員が先に小屋の安全を確認した。床は乾いていないものの、箱を置けるだけの石台と、奥へ続く閉鎖扉が残っていた。
ラールの白鋼で作った担架へ箱を載せ、騎士たちが石段を上る。卓斗たちはその後ろにつき、点検小屋の中央まで防水箱を運んだ。
「古い字、いっぱい書いてあるけど、俺ら読めないんよな」
箱の側面には、第五騎士団の紋章と並んで複数の文字が刻まれていた。卓斗には線と記号の集まりにしか見えず、恵依と絵麻も内容を読み取れない。
「搬送箱、第五式。西外縁補助核用と書かれているのだ」
アトゥムは側面の文字を指で追い、汚れを布で拭った。第三騎士団員も隣から記録を確認し、現在の水路名へ置き換えていく。
「下には、旧保守水路から王都西門の搬送所へ送るとあります。ですが、この形式は六十年以上前に廃止されています」
「六百年前じゃなくて六十年前?」
「箱自体は何度も補修されているのだ。最後に第五騎士団が使った記録が、その時期なのだ」
側面の記録板は古いが、留め具の一部には新しい擦れ跡があった。黒い術式も最近加えられたものであり、箱だけが長く沈んでいたわけではない。
「旧第五騎士団の搬送網を、誰かが使い直したということですね」
「そうなのだ。印があるだけで、昔の団員全員を犯人にはできないのだ」
アトゥムは第五騎士団の紋章から、蓋の封印へ視線を移した。古い正規封印と新しい黒い術式が重なり、外から無理に開けば内部の固定まで壊れる構造になっている。
「流川様。正規封印は蓋の内側へ向き、黒い術式は外側の留め具へ接続しています」
「先に黒い術式だけを外します。正規封印まで分解すると、内部の魔導核を傷つける可能性があります」
恵依は箱の左側へ立ち、ゲブが示す魔素流を順に追った。黒い術式は四つの留め具を一つの線で結び、どこか一か所を開けば残る三か所が締まるよう組まれている。
「絵麻さん。箱の周囲を隔離できる準備をしてください。術式が外へ広がった場合だけ切り離します」
「分かった。今はまだ動かさない」
絵麻は箱の四隅へ座標を置き、空間を閉じる直前で止めた。早く隔離すればゲブの白銅や卓斗の引力まで遮るため、異常が出る瞬間を待つ。
「ラールは蓋と蝶番を固定してください。開く方向だけ残してください」
「は、はい! 留め具は固めないようにします!」
ラールは蓋の左右へ薄い白鋼を沿わせ、背面の蝶番だけを石台へ固定した。蓋が急に跳ねても、内部へ落ち戻らない角度で止める形になっている。
「卓斗くん。右手前の留め具を、上ではなく箱の中央へ引いてください」
「また回す系? 普通に開く箱、この世界にないの?」
「不満は開けてからお願いします」
「恵依の指示、最近ちょっと強くなってない?」
卓斗は右手前の留め具へ引力を向けた。金具を持ち上げず、内部へ沈めるように力をかける。
留め具が数ミリ動き、黒い術式が残る三か所へ流れた。ゲブはその流れを白銅で受け、箱の外周を一周させず、最初の留め具へ戻す。
「流川様、循環しました。今であれば接続を外せると思われます」
「アトゥムさん、右側面の線だけを切ってください」
アトゥムは指先を箱の側面へ当て、石台へ響かないほど短い振動を送った。黒い術式の線だけが途切れ、四つの留め具から濁った光が消える。
「正規封印は残っています。アトゥムさん、開封手順をお願いします」
「第五式は順番が決まっているのだ。左奥、右手前、右奥、左手前なのだ!」
第三騎士団員がアトゥムの指示に従い、四つの留め具を順に外した。最後の金具が開くと、蓋の縁から淡い緑色の光が漏れる。
ラールの白鋼が蓋を支え、ゆっくりと上へ開いた。箱の内部には防水布と金属枠が重ねられ、その中央に緑色の魔導核が固定されている。
「本物です。外縁集落で記録した魔素波形と一致します」
「流川様。損傷は小さいと思われます。ただし、土地との接続が切れた状態が長く続いています」
恵依とゲブは魔導核へ直接触れず、表面を流れる魔素だけを確認した。偽物とは違い、生命を無秩序に増やす偏りはなく、土地の循環へ戻るための安定した流れが残っている。
「やっと見つけた。これ戻したら、集落の方も完全に直る?」
「ユノさんが整えた循環へ戻す必要があります。置くだけでは元に戻らない可能性があります」
「最後まで手順多いな、この石」
箱の蓋裏には、薄い金属板が二枚収められていた。アトゥムが一枚目を外し、刻まれた文字を読み上げる。
「西外縁集落から旧保守水路を通り、西門搬送所へ送る経路なのだ。最終目的地は記録されていないのだ」
「消されているのではなく、最初から空欄です。途中で別の搬送記録へ引き継ぐ形式でしょう」
騎士団員は二枚目の記録板を裏返し、端に残る番号を確認した。その番号は旧第五騎士団が使っていた搬送人形の管理番号だという。
「箱を運ぶ専用の人形があったってこと?」
「重い魔導核を人手だけで運ばないためのものなのだ。だが、第五騎士団の活動停止後に全て封鎖されたはずなのだ」
アトゥムが説明を終えた時、点検小屋の奥から金属の擦れる音が届いた。
閉鎖扉の向こうには、旧保守水路から西門へ続く陸上搬送路がある。扉は外側から錆びた鎖で固定され、先ほどまで動いた形跡はなかった。
「今の音、誰かいる?」
絵麻が箱から扉へ向き直り、ラールも白鋼の防壁を作れる位置へ移った。卓斗は開いた箱と扉の間へ入り、魔導核までの直線を塞ぐ。
錆びた鎖が一度だけ持ち上がり、中央から切れた。床へ落ちた金属音のあと、扉が内側からゆっくりと押し開かれる。
暗い搬送路から現れたのは、人間より一回り大きな魔導人形だった。両腕は荷を抱えるため太く作られ、顔のない頭部には横一線の魔素灯が埋め込まれている。
人形は入口で足を止め、点検小屋の中を見回さなかった。青白い魔素灯だけが、開かれた防水箱の中にある本物の魔導核へ真っ直ぐ向けられる。
六十年以上前に封鎖されたはずの運搬用魔導人形は、失われていた荷を見つけたように一歩を踏み出した。




