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第二章 9 『閉じた檻』



 鉄柵が内側へ曲がり、検査区画へ鈍い音が響いた。大型魔導獣は二本の角を低く構え、濁った魔素を鼻先から漏らしながら、檻の外側にある保管庫への通路を睨んでいる。


「次は捕獲です。外へ出させず、殺さずに確保します」


 千佳は短剣を抜き、検査区画の入口から一歩前へ出た。外周門は閉じ始めているが、魔導獣が保管庫へ入れば、残された積み荷と荷役足場を壊しながら外へ向かう可能性がある。


「見学の難易度じゃないんよ、これ」


 卓斗は保管庫側の通路を見ながら、右手首を一度開いた。昨日の訓練で使った引力の熱は残っていないが、魔導獣そのものへ力を向ければ、怯えた相手をさらに刺激する危険がある。


「タク、喋る前に動きなさい」


「喋りながら動いてる。効率いいだろ」


 ティナは返事をせず、魔導獣の前脚が石床を削る位置を見た。獣が次に突進すれば、壊れた鉄柵の右側から保管庫への通路へ入り、荷車の残る方向へ抜ける。


「卓斗くん、魔導獣の前方右側にある隔壁が弱っています。次にぶつかれば、保管庫側へ倒れます」


 恵依は解析の魔素を檻の周囲だけに絞り、結界の亀裂と石壁の固定術式を追った。魔導獣の体内にも黒い魔素の乱れがあるが、今は獣を読むより、どこを壊されれば人が危険になるかを先に見る必要がある。


「保管庫の通路を塞ぐ。絵麻、右側の職員通路を広げられる?」


「できる。でも、獣を直接ずらすのは無理よ」


「獣は赤崎さんが向きを変えます。絵麻さんは、保管庫へ入るまでの距離を長くしてください」


 恵依の言葉を受け、絵麻は壊れた鉄柵の右側にある通路へ魔素を伸ばした。通路の入口と保管庫の扉の間にある十メートルほどの距離が、魔導獣にとってだけ長くなるよう、石床の座標を細く引き延ばしていく。


「ラールは、保管庫の扉の前。荷箱が崩れたら、落ちる場所だけを止めて」


「はい! 広く固めないで、必要なところだけですね!」


 ラールは保管庫の入口へ駆け、傾いた荷箱と石壁の間を見た。全部を白鋼で囲めば避難路が潰れるため、箱が倒れた時に職員通路へ転がる角度だけを、細い白鋼の支えで受ける。


 千佳は魔導獣の正面には立たず、檻の左側に残った鉄柵の陰へ身を移した。獣が保管庫へ走ろうとした時、その肩を左側へ向けさせ、中央に残る空いた区画へ誘導するつもりらしい。


「赤崎さん、中央にもう一つ檻がある?」


「あります。検査用の補助収容区画です。ただし、扉は荷役鎖で閉める仕組みになっています」


「じゃあ、そこへ入れれば勝ち?」


「入れるだけでは足りません。扉を閉じ、結界を戻す必要があります」


 卓斗は補助収容区画の位置を確認した。魔導獣の左前方、壊れた檻から二十メートルほど離れた場所に、低い石壁と鉄格子で囲まれた空間がある。


 補助収容区画の扉は開いたままだが、上から太い荷役鎖が垂れていた。鎖を引けば扉は閉じるが、獣が入った後に誰かが近くで操作しなければならず、千佳一人では誘導と閉鎖を同時に行えない。


「俺が鎖を見る。絵麻は、保管庫側を長くしたままでいい」


「卓斗、鎖を引くなら、獣が入った後よ。早く閉めたら、赤崎さんの逃げ道まで塞ぐ」


「分かってる。閉じ込めるのは、全員が外に出てから」


 卓斗は荷役足場の下にある操作柱へ走った。鎖は太く、魔素で補助しなければ高校生の力だけで引くのは難しいが、鎖そのものを引力で動かすなら、魔導獣に直接干渉せずに済む。


 魔導獣が再び頭を振り、残っていた鉄柵へ角をぶつけた。結界の亀裂から黒い光が散り、鉄柵の根元が石床から外れる。


「来ます!」


 恵依の声と同時に、魔導獣が檻の外へ踏み出した。太い前脚が石床を叩き、角が保管庫側の隔壁へ向く。


 絵麻が引き延ばした通路へ魔導獣が入ると、石床を踏む足は前へ進んでいるのに、保管庫の扉はなかなか近づかない。獣は進めない理由が分からず、角を振って壁際の荷箱へ向きを変えた。


「赤崎さん、左です!」


 恵依は魔導獣の肩と首へ流れる魔素を読み、次に突進する方向を告げた。千佳は石壁の陰から飛び出し、短剣の腹で角の外側を叩く。


 刃を通すための攻撃ではなく、硬い音と衝撃で視線を横へ向けるための一撃だった。魔導獣は千佳のいる左側へ頭を振り、角を追うように身体の向きまで変える。


「こっちです。保管庫には入れません」


 千佳は後ろへ跳び、補助収容区画へ続く中央の通路を空けた。魔導獣は黒い魔素に怯えているだけで、千佳を狙って追うわけではないが、障害が減った方向へ身体を向ける。


 その時、保管庫の上に積まれた荷箱が揺れた。魔導獣の角が隔壁を掠めた反動で、さっき卓斗たちが止めた荷役足場の留め具が再び外れかけている。


「ラール、上!」


「はいっ!」


 ラールは荷箱全体を固めず、最も外側にある一箱の下へ白鋼を差し込んだ。箱は斜めに落ちかけたが、支えに当たって職員通路とは反対側へ傾き、その場で止まる。


 保守通路へ逃げた職員たちは、白鋼の足場の上から検査区画を見ていた。千佳は振り返らず、職員の避難が終わるまで外周門を開けるなと、近くの警備兵へ指示を飛ばす。


「魔導獣の中にある黒い反応、分かる?」


 卓斗は鎖の操作柱へ手を置いたまま、恵依へ聞いた。獣がただ怯えているなら、黒い術式の流れを切れば、追い込まなくても落ち着く可能性がある。


「獣の体内に直接、術式が入っているわけではありません。壊れた檻の結界から流れ込んだ魔素に反応して、感覚が乱されています」


 恵依は魔導獣の胸元から脚へ流れる魔素を追い、黒い線が檻の亀裂とつながっていることを見つけた。黒い術式は獣を操っているのではなく、安全結界を薄くして、収容された獣が自分で暴れる状況を作ったらしい。


「ゲブ。檻の亀裂から入る流れを、補助収容区画へ向けないでください」


「承知しました。魔素の方向だけを、こちらで弱めます」


 ゲブの白銅が、壊れた檻と補助収容区画の間へ細い線を作った。黒い魔素そのものを消せるわけではないが、魔導獣の進む先へ流れ込み続ける量を減らし、次の檻の中まで怯えさせないようにする。


 魔導獣は中央の通路へ向きを変えたが、補助収容区画の手前で足を止めた。開いた扉の奥は暗く、さっきまで閉じ込められていた場所と同じように見えるのか、前脚を踏み込んでは後ろへ引いている。


「入ってくれないんだけど」


「だから、進路を作るだけでは足りません。嫌がる理由を減らします」


 千佳は補助収容区画の正面ではなく、右側にある古い検査台へ向かった。台の上には魔導獣の魔素を測るための小さな魔素灯が並び、淡い光が獣の目に直接入る位置に置かれている。


 千佳は短剣の柄で検査台を叩き、魔素灯の向きを左側へ倒した。眩しい光が消えたことで、補助収容区画の中は暗い穴ではなく、外の通路と同じ明るさに近づく。


「卓斗くん、扉の右側にある鉄柵を少し動かせますか?」


「動かすのはいいけど、どっちへ?」


「中央へ寄せてください。保管庫側を見えにくくします」


 卓斗は補助収容区画の右にある可動柵へ引力を向けた。鉄柵は石床の溝に沿って少しだけ中央へ滑り、保管庫の荷箱や外周門が魔導獣から見えにくくなる。


 獣は残った見通しの中で、千佳が空けた補助収容区画の入口だけを見た。黒い魔素の流れはゲブが弱め、検査台の光も消え、保管庫側の騒がしさも鉄柵で隠れている。


「今です。赤崎さん!」


 恵依の声に、千佳は魔導獣の左後ろへ回った。短剣で脅すのではなく、石床を強く踏んで音を出し、獣が驚いて右前方へ一歩逃げる方向だけを選ばせる。


 魔導獣の前脚が補助収容区画の中へ入った。続いて重い胴が鉄格子の内側へ進み、角の先が扉の向こうまで通る。


「卓斗、まだ閉めないで!」


 絵麻の声に、卓斗は操作柱の前で手を止めた。千佳はまだ獣の左後方にいて、扉を閉めれば区画の内側に取り残される。


 魔導獣は中へ入ったものの、後ろ足を外へ残したまま身体を引き返そうとした。千佳は横へ跳び、獣の肩へ短剣の平らな面を当てて、外へ戻る向きではなく奥へ入る向きへ力を流す。


「今、閉めてください!」


「了解!」


 卓斗は荷役鎖の金具へ引力をかけた。太い鎖が上の滑車を鳴らしながら引かれ、補助収容区画の鉄扉が外側から落ちてくる。


 魔導獣は扉の音に驚き、後ろ足で石床を蹴った。千佳は扉が下りる線から外へ転がり、鉄格子の外側へ身体を抜ける。


 ラールが扉の下端と石床の隙間へ白鋼を重ね、鉄扉が途中で止まらないよう固定した。鎖が最後まで引かれ、重い鉄格子が石床へ噛み合う。


 魔導獣は一度だけ扉へ角をぶつけたが、補助収容区画の結界はまだ完全には戻っていない。恵依はゲブと共に、黒い魔素が流れない内側の結界線を確認し、以前の檻より落ち着いた青い光が戻り始めるのを見た。


「黒い反応は、補助区画へ入っていません。獣の魔素も、少しずつ戻っています」


「よかった。檻が二回壊れたら、さすがに今日は帰りたい」


 卓斗は操作柱から手を離し、右手首へ残る熱を軽く振って散らした。ティナは小さく息を吐き、卓斗が獣へ直接引力を使わなかったことを確認している。


「タク、次は鎖を引く前に、自分の腕も見なさい」


「見てた。たぶん」


「たぶんで判断しない」


 ティナの返しに、卓斗は反論しかけて口を閉じた。千佳が補助収容区画の前から戻り、短剣の刃に傷がないことを確認して鞘へ収める。


「皆さん、怪我はありませんか?」


 千佳は卓斗たちだけでなく、保守通路へ避難した職員たちの方も見た。誰も下敷きにならず、魔導獣も傷つけずに収容できたことで、検査場に残る緊張は少しずつほどけ始めている。


「俺らは大丈夫。職員さんも、たぶん全員出てる」


「確認済みです。検査区画に残った方はいません」


 恵依は解析を広げすぎない範囲で、保守通路と外周門の人の反応を数えた。荷役足場の事故で避難が遅れた作業員も、絵麻とラールが作った通路を使って外へ出ている。


 千佳は保守区画へ続く階段を見た。結界の魔素を抜く仕組みが残っているなら、魔導獣を捕まえただけでは、別の場所で同じ事故が起こる可能性がある。


「結界杭をもう一度調べます。今回の事故は、単なる故障ではありません」


 地下の保守通路へ戻ると、さっきよりも青い魔素管の明滅が弱くなっていた。検査場を支える結界は最低限の形を保っているが、石柱の下側にある黒い術式の線は、魔素が減ったことでかえって見えやすくなっている。


「ここです。黒い反応が、一か所に集まっています」


 恵依が石柱の根元を示すと、千佳は保守用の工具で周囲の石板を外した。板の下には細い空洞があり、結界の魔素を横へ流すための黒い札が、焼け焦げた状態で挟まっている。


 札には読めない文字と、見覚えのない術式の線が重なっていた。だが、線の一部は訓練区域で見つかった亀裂と同じように、結界の魔素を外へ引き、支える場所だけを薄くする形になっている。


「これが、結界を弱らせた原因?」


「原因の一部です。検査場の結界と荷役用の術式へ、同時に負荷がかかるよう組まれています」


 恵依は札へ直接触れず、解析の魔素で残った流れを読んだ。魔導獣を操るためではなく、檻が壊れやすい時に荷役足場まで不安定にし、避難と捕獲の両方を難しくするための仕込みだった。


「わざわざ逃げ場まで潰すとか、性格悪すぎだろ」


 卓斗は黒い札を見下ろし、誰かが事故を起こすだけでなく、助けに入る側まで動きにくくする形を選んだことへ苛立った。結界が壊れた時に人が集まる場所を狙っているなら、次も同じ方法で別の施設を崩すかもしれない。


「だからこそ、現場ごとに守り方を変えます」


 千佳は札を保全用の箱へ入れ、保守通路の出口へ目を向けた。卓斗たちが訓練で覚えたことは、決められた区画だけで使うためのものではなく、守る対象と地形が変われば形も変える必要がある。


 その時、階段の上から小さな足音が響いた。保守通路へ現れたナーヴァは、検査場の被害状況を一度見渡し、千佳の手にある黒い術式札へ視線を落とす。


「怪我人」


「軽い打撲の職員が一名です。命に関わる者はいません。魔導獣も補助収容区画へ移しました」


 千佳は短く報告し、卓斗たちが避難と捕獲に使った位置も続けて伝えた。ナーヴァは卓斗の右手首、恵依の少し青い顔、絵麻の足元に残る空間の揺れを順に確認する。


「無理、した?」


「俺はしてない。今回は、たぶん」


「たぶん、なし」


 ナーヴァは卓斗の言葉を切り、黒い術式札へ顔を向けた。小さな手で札には触れず、千佳が開けた石板の下に残る魔素の流れを見ている。


「訓練区域。停止」


「はい。結界基礎杭の全数確認と、訓練用結界の再構築を進めます」


 千佳が答えると、ナーヴァは次に卓斗たちへ視線を戻した。七歳の少女らしい短い言葉のまま、次の予定を変える判断だけは迷わなかった。


「訓練、終わり。実地、増やす」


 卓斗は検査場の石壁と、保全箱に収められた黒い札を見た。今日まで使っていた訓練区域は止まり、次からは実際に人が暮らす場所で、同じような異常が起きないよう動くことになる。


「やっぱり、見学で終わらなかったな」


 ティナは答えず、卓斗の隣で白銀の瞳を細めた。保守通路の奥に残る黒い術式の痕は小さいが、誰かが王都の安全を少しずつ薄くしていることだけは、はっきりと残していた。




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