第二章 7 『出口の前』
木の足場が鳴った音は、一度で終わらなかった。絵麻がいる二階の反対側から、一定の間隔を空けて板が軋み、千佳が急がずに距離を詰めていることを示していた。
「絵麻さん、赤崎さんは二階の通路へ入っています。あと十秒ほどで、札の場所が見える位置へ来ます」
恵依は建物の外壁に沿って走りながら、解析の範囲を二階の足場へ絞った。卓斗と恵依の位置からは千佳の姿が見えないが、足場を踏む魔素の揺れと、木材へかかる重さだけは追える。
「札は取る。降りる場所も使うから、ラールは窓の下をお願い」
絵麻は札の手前にある透明な結界へ手を伸ばした。踏み込めば身体を足場の端へずらされる仕組みだが、結界そのものを壊せば、千佳に大きな魔素の変化を知らせることになる。
「分かりました! 窓の下に、二段だけ作ります!」
ラールは二階の外壁へ白鋼の魔素を伸ばし、窓の下に細い板を二段だけ組み上げた。地面までを覆う壁ではなく、絵麻が一度だけ足を乗せ、積まれた樽を避けて石畳へ降りるための短い足場だ。
絵麻は結界の向こうにある札と、自分が立つ板の距離をわずかに縮めた。身体は結界の手前に残したまま、青い札だけを掌へ引き寄せるように空間を撓ませる。
札が手の中へ落ちた瞬間、足場の反対側から千佳が姿を現した。短剣はまだ鞘に収まっているが、絵麻と外壁の窓の間へ入るだけで、下へ降りる道を選ばせない位置になっている。
「札の回収は確認しました。ですが、そのまま窓へ向かえば、着地の瞬間に動けなくなります」
「だから、そっちに行かない」
絵麻は窓へ走らず、足場の中央から一歩だけ後ろへ下がった。千佳が窓側へ寄ったことで、二階の建物内へ続く扉の前にわずかな隙間ができている。
「恵依、建物の中を通って反対側へ出られる?」
「確認します。室内に感知結界が一つ、窓の下に落下用の仕掛けが二つあります」
恵依は足を止めず、建物の外から解析を伸ばした。情報量が増えすぎれば頭痛が強くなるが、絵麻が千佳の前にいる今は、室内の安全な経路を作る方が優先される。
「床の中央を避ければ通れます。右側の木箱沿いへ進んでください」
「了解」
絵麻は札を内ポケットへ押し込み、足場から室内へ入った。千佳が後ろから追うなら狭い部屋で短剣を振る幅は限られるが、逃げる先の窓を知られていれば、外へ出た時に止められる。
千佳はすぐに室内へ踏み込まず、足場の上で一度だけ立ち止まった。絵麻がどの窓を使うかを読んで、下にいる卓斗と恵依の合流地点まで先回りするつもりらしい。
「赤崎さん、二階の外周を回ります。絵麻さんの後ろではありません」
ゲブの白銅が、千佳の進行方向を細い光の線として三人へ共有した。絵麻が反対側の窓から降りれば、千佳は出口寄りの通路へ下り、卓斗と恵依を含めた三人の合流を妨げられる。
「じゃあ、俺らも同じ場所に待たない。恵依は右の路地へ」
「卓斗くんは?」
「俺は中央に残る。絵麻がどこから出ても、赤崎さんが一人で札まで行けないようにする」
卓斗は建物と出口を結ぶ通路の中央へ走った。千佳を倒す必要はないが、絵麻が地上へ降りた瞬間に追い込まれない距離へ、自分が先に入る必要がある。
建物の反対側の窓が開き、絵麻が外へ身体を出した。ラールが作った白鋼の足場は窓の真下にあり、絵麻は窓枠から一段目へ足を移す。
その着地と同時に、出口側の石壁から千佳が現れた。二階の外周を回って階段を下りた彼女は、絵麻と恵依の間にある細い通路へ入り、二枚の札と一枚の札を合流させない位置を取っている。
「絵麻、札は持ったままでいい。俺の方へ来て!」
卓斗は建物の中央側から声をかけ、千佳の横を抜ける道ではなく、自分のいる石壁の陰へ絵麻を誘導した。絵麻は一段目の白鋼から二段目へ降り、最後に石畳へ足を着ける。
千佳は絵麻を追わず、短剣を抜いて卓斗の前へ踏み込んだ。卓斗が絵麻を庇う位置へ入るなら、その横を抜けて恵依へ届く道が空くと判断したのだろう。
「卓斗くん、赤崎さんの狙いは私です。正面で止め続けないでください」
「分かってる。だから、今から変える」
卓斗は短剣の切っ先が胸元へ伸びる前に、身体を左へずらした。千佳と自分の間にあった石壁の角へ引力をかけ、壁際に置かれた木箱を数十センチだけ手前へ滑らせる。
木箱は千佳の足元へ倒れず、彼女が横へ動くための石畳だけを狭めた。千佳は短剣を引いて木箱を避けたが、その間に卓斗は絵麻の側へ戻り、二人は建物の陰へ入る。
「絵麻、恵依の方へ行ける?」
「今なら行ける。でも、赤崎さんが追ったら、また三人が広がる」
「それなら、札を一つにまとめる」
卓斗は千佳が木箱を越える前に、恵依へ手を上げた。三枚を別々に持ち続ければ、三人が離れた瞬間に守る場所も増える。
「絵麻の札も、恵依が持って。俺らは札の近くへ戻る」
「私がまとめて持てば、狙いが集中します」
「その方が、守る場所を間違えない」
恵依は一度だけ周囲を確認し、広場側から来る道に千佳以外の反応がないことを確かめた。札を一人へ集める危険はあるが、三人が散らばったまま出口へ向かうより、守る対象を明確にした方が連携は組みやすい。
絵麻は石壁の陰から短く走り、恵依の横へ入った。内ポケットから三枚目の札を取り出し、恵依の手元へ重ねて渡す。
「これで三枚。落とさないでよ」
「分かっています。絵麻さんも、こちらから離れないでください」
恵依は三枚の札を胸元の内側へしまい、上から片手を添えた。卓斗はその左前、絵麻は右後方へ位置を変え、ラールは恵依の胸元が見える距離で白鋼の準備を整える。
千佳は木箱を越え、三人が作り直した形を見て短剣を下げなかった。出口へ進むなら正面の大通りを使うしかなく、そこには彼女が最初に言った通り、出口線が待っている。
「三枚を一人へ集めましたね。その判断は、守る側には有効です」
「褒めるなら、出口から退いてほしいんですけど」
卓斗が言うと、千佳はわずかに笑った。訓練中に出口を譲るつもりはないが、三人が昨日までの位置を固定する考えから抜け出したことは、彼女も認めているらしい。
「出口の横に木戸があります。あちらから回れば、正面を避けられます」
恵依は出口の左側にある細い通路を見つけ、解析を向けた。木戸の先は出口線まで数メートルしかなく、千佳が正面にいる間なら、三人で抜けられる可能性がある。
「ただし、結界があります。札を持つ人だけを入口側へ戻す条件になっています」
「便利に嫌な仕掛けを置くなあ」
卓斗は木戸と千佳の位置を見比べた。恵依が結界を解除している間、千佳は正面の出口から回り込み、三人の背後か横から札を狙える。
「解除にはどれくらい?」
「構造は単純です。ですが、赤崎さんを止める方が必要です」
「俺と絵麻で止める。ラールは、恵依の札だけ守って」
「はい。守る範囲を絞ります!」
ラールは大きな防壁を作らず、恵依の胸元から腰までを覆える大きさの白鋼板を用意した。壁を広げれば恵依自身の逃げ道も狭くなるため、短剣が届く場所だけを先に固定する。
恵依は木戸の前に立ち、結界を構成する魔素の線へ解析を流した。淡い青の輪は石畳から木戸の蝶番、さらに出口線の端へつながっており、札を持つ人間が通った時だけ反応する条件が組まれている。
「今、解除します。二人とも、赤崎さんは右側から来ます」
千佳は正面の出口を離れ、石壁に沿って右へ回った。木戸を使うなら、三人は狭い通路へ一列で入ることになり、恵依の横へ短剣を差し込める角度が限られる。
卓斗は千佳の進路に入らず、通路の入口から一歩だけ外へ出た。正面に立てば短剣で押し込まれるため、千佳が恵依へ近づく最後の一歩だけを邪魔できる位置を選ぶ。
「卓斗、右!」
絵麻が石畳の距離を一瞬だけ伸ばした。千佳の踏み込みは止まらないが、通路の入口へ届くまでに必要な歩数が増え、その間に卓斗は短剣の外側へ回り込める。
千佳の短剣が卓斗の左肩へ向かう。卓斗は身体を低くし、切っ先の下へ入って千佳の手元に近づいた。
近い距離なら、短剣全体を引く必要はない。卓斗は柄の金具だけへ弱い引力をかけ、千佳の手首が戻す軌道を数センチだけ外した。
「今、通って!」
恵依は結界の最後の接続線をほどき、木戸を押し開けた。三枚の札を胸元へ押さえたまま通路へ入り、ラールの白鋼板が短剣と札の間へ入る。
千佳は短剣を引き戻し、白鋼板の横から恵依の左側へ回ろうとした。狭い通路では壁を避けるために身体を横へ向ける必要があり、その一瞬だけ動きが遅くなる。
「絵麻、壁際を!」
「分かってる!」
絵麻は千佳と恵依の間にある石壁の距離を伸ばした。短剣が届くまでの時間はほんのわずかに増えたが、ラールが白鋼を作り直すには十分な間ができる。
「札の左側、固定します!」
ラールの白鋼が恵依の左胸の前へ重なり、千佳の短剣の切っ先を受け止めた。硬い音が通路に響き、短剣は札まで届かずに止まる。
卓斗は右手首に走る熱を感じ、引力を切った。追加で短剣を引けば千佳の動きはさらに遅らせられるが、腕の内側に残る痺れが、次は危険だと伝えている。
「タク、それ以上は駄目よ」
「使ってない。もう止めた」
ティナは卓斗の右手首へ触れず、契約紋の周囲に熱が集まっていないかを見た。無理をさせないために止めたことを、卓斗が自分で守れたことには何も言わない。
千佳は白鋼へ短剣を押し込まず、一度だけ後ろへ下がった。その距離ができた間に、恵依の足が出口線を越える。
「卓斗くん、絵麻さん!」
恵依が線の向こうから振り返り、二人の進路を空けた。卓斗と絵麻は同時に通路を抜け、三人そろって出口線の外へ出る。
終了を告げる鐘が鳴り、訓練区域の魔素灯が順に暗くなった。千佳は短剣を鞘へ収め、出口線の手前で三人の位置を確認する。
「訓練終了です。三枚の退避札、全ての回収と搬出を確認しました」
「……これ、成功でいい?」
卓斗は右手首を軽く開き、残る熱を確かめた。痛みはあるが、指先の痺れは強くなく、今日これ以上使わなければ問題ないと分かる。
「成功です。ただし、私を倒したわけではありません」
「そこは別に求めてないんだよな」
卓斗が疲れた声で返すと、絵麻は堪えきれずに小さく笑った。恵依は札を千佳へ返しながら、最初から出口へ急いでいれば、木戸の結界と千佳の回り込みで止められていたと考えている。
「皆さんは、途中で役割を変えました。それでも、札を守るという目的を失っていませんでした」
千佳は三枚の札を重ね、入口脇の台へ戻した。卓斗が前から離れ、絵麻が別経路で札を持ち帰り、恵依が三枚をまとめて守ったことで、千佳は三人を分断しきれなかった。
「隊列は、決めた場所を守り続けるためのものではありません。守る対象へ危険が近づいた時、必要な者が必要な位置へ入るための形です」
「昨日よりは、ちょっと分かったかも」
絵麻は二階の足場を見上げ、ラールが作った白鋼の降下足場へ視線を向けた。一人で札を取りに行ったが、一人でやり切ろうとしたわけではなく、下にいる二人と竜精霊たちが動ける位置を残していた。
「卓斗くんも、無理に前で止まり続けませんでした」
恵依は卓斗の右手首を見た後、出口横の木戸へ視線を移した。引力を使う回数を抑えたため、最後の短剣を外す力が残り、全員が通る道を作れた。
「まあ、前にいるだけで守れるほど便利じゃないって、昨日やったし」
卓斗は肩をすくめ、ティナの方を見た。ティナは文句を言わず、白銀の魔素をほんの少しだけ契約紋の周囲へ流し、熱が残らないよう整えている。
「本日の第一騎士団での訓練は、これで終了です」
千佳は訓練用短剣を鞘へ収め、三人の前へ戻ってきた。卓斗たちは次も同じ場所で訓練を続けるのだと思ったが、千佳は入口の外、王都西側へ伸びる街道の方を見ている。
「午後は搬入検査場の安全確認へ向かいます。実地任務へ移る前に、王都の結界と現場の運用を見ておいてください」
「訓練終わった直後に、別の勉強会?」
卓斗は露骨に顔をしかめたが、千佳は困ったように笑うだけだった。実地任務で人を守るなら、剣を振るう場所だけでなく、荷車が通る道や結界が支える施設も知っておく必要がある。
「見学で終われば、それが一番です」
千佳はそう言って、区画の外にある王都の城壁を見た。卓斗たちもその視線の先を追ったが、朝の光に照らされた西側の検査場は、まだ何の異常も見せていなかった。




