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第二章 6 『退避札の行方』



 翌朝の訓練区域には、木造の建物を模した壁と細い通路が組まれていた。昨日までの開けた土の広場とは違い、少し先の角さえ見通せず、二階の足場と路地が複雑に重なっている。


「三枚の札を取って、出口まで運べばいいんだよな?」


 卓斗は入口の石畳へ視線を落とし、壁際に残る足跡を確かめた。千佳が先に入っているなら、札だけでなく、こちらを止める場所も選んでいるはずだった。


「はい。ただし、赤崎さんは出口を守ると仰っていました」


 恵依は建物の二階へ伸びる足場を見上げ、解析の魔素を薄く広げた。正面の道だけを進めば、上から見られる可能性が高い。


「じゃあ、最初から正面はなしね」


 絵麻は右側の狭い路地へ目を向け、ラールの隣で小さく息を吐いた。壁に挟まれた道は荷車こそ通れないが、人が二人並べる程度の幅しかなく、前後を取られれば逃げ場がなくなる。


「分かった。今回は、最初から途中で変える前提で行こう」


 卓斗は入口の外に立つ千佳へ視線を戻した。訓練用の短剣を腰へ下げた彼女は、三人の位置を確認すると、石壁の陰へ先に姿を消す。


「退避札は建物の中、中央広場、二階の足場に一枚ずつあります」


 千佳の声だけが、入口の外から届いた。札を落とした場合と、札を持つ者が戦闘不能になった場合は失敗だという条件は、昨日の荷車訓練よりも守る対象が増えることを意味している。


「区画の外へ出るまで、私が妨害役です。三枚を持ったまま、全員で出口線を越えてください」


「開始後の赤崎さんの位置は、教えないってことですよね?」


 卓斗が確認すると、千佳は短く頷いた。出口を守るという条件は、出口に立ったまま待つという意味ではないらしい。


「皆さんが見つけてください。実地で、相手が最初に居場所を伝えてくれるとは限りません」


 千佳はそう告げ、入口の結界を起動した。淡い青の光が石畳へ走り、三人の足元を通って、区画の奥にある魔素灯まで細く伸びていく。


 卓斗は右側の路地へ残された足跡を見た後、反対側の左路地へ向いた。足跡を信じるなら右へ行くべきだが、見せられていると気づいた以上、同じ選択をする理由はない。


「左へ行く。俺が前、恵依は後ろから見て。絵麻とラールは真ん中で、危ない方へ動けるようにして」


「了解。最初に決めた位置へ、無理に残らない」


 絵麻は昨日の荷車訓練を思い出すように、短く返した。前を任されたから前に残るのではなく、守る対象に危険が近づいた時、必要な者が必要な場所へ入る。


 左の路地には、壁際へ空の木箱と壊れた荷車が置かれていた。卓斗が先頭から数歩進んだところで、恵依が石畳の継ぎ目へ視線を落とし、すぐに手を上げる。


「止まってください。前方に、訓練用の感知結界があります」


 石畳の隙間に、汚れのような細い青色の線が走っていた。恵依の解析によれば、そこを踏んだ者の位置を二階の魔素灯へ伝える仕組みであり、攻撃ではなく、千佳に居場所を知らせるための印らしい。


「解除できる?」


「できます。ただ、私が作業している間に赤崎さんへ近づかれる可能性があります」


 恵依は結界線の左端が、狭い排水溝の手前で途切れていることを示した。排水溝の縁を壁伝いに進めば越えられるが、靴底を滑らせれば結界の上へ落ちる。


「踏まないで越えよう。俺が先に行く」


 卓斗は左手を壁へつき、排水溝の縁へ右足を乗せた。石には朝の湿り気が残っており、重心を高くすれば簡単に足を取られる。


 卓斗は腰を落とし、壁側へ身体を寄せながら一歩ずつ進んだ。引力で自分の足場を補助することもできるが、そこで魔素を使えば、千佳とぶつかった時に残る余裕が減る。


「卓斗くん、次は壁の黒い継ぎ目へ足を置いてください」


 恵依の解析が、濡れた石の中でも滑りにくい場所を拾っていた。卓斗は指示どおりに足を運び、結界線の向こうへ渡った後で、後ろの二人へ振り返る。


「恵依、次。絵麻はその後で」


「分かりました。ラールさんは、私が渡った位置をそのまま使ってください」


 恵依は卓斗の手を借りず、壁際の石へ足を置いた。両手を空けたまま渡る方が、結界が予想外に反応した時に自分で身体を支えられると考えたのだろう。


 ゲブの白銅が、恵依の見つけた安全な足場を細い光の線としてラールへつないだ。絵麻とラールもその線に沿って渡り、誰も感知結界を起動させずに路地の奥へ進む。


「一枚目の札は、あの半地下です」


 角を曲がった先には、木の扉が少しだけ開いた建物があった。室内から漏れる魔素灯の光が石畳へ落ち、扉の内側には人が通れば発光する結界が張られている。


「入口から入ったら、赤崎さんにバレる?」


「はい。ですが、横の小窓には結界がありません」


 恵依が示した窓は腰ほどの高さにあり、木板が半分だけ外れていた。内側には木箱が積まれているが、絵麻なら見えている場所へ短く空間をつないで入れる。


「俺が入口へ入る。絵麻は窓から札を取れる?」


「できる。でも、赤崎さんが来たら、私は先に外へ出るから」


「それでいい。恵依とゲブは外で見てて」


 卓斗は入口の結界をわざと反応させ、千佳の注意を正面へ向けることにした。三人が同じ扉から入れば狭い室内で逃げ道を失うが、札を取る者と相手の目を引く者を分ければ、短い時間を作れる。


「ラールは恵依のそば。壁は、必要になるまで出さなくていい」


「はい! 逃げ道を塞がないようにします!」


 ラールは半地下の入口と小窓の両方が見える位置へ移った。昨日までは広い範囲を守ろうとして焦っていたが、今日は誰がどこから出るかを先に確認している。


 絵麻は小窓の前に立ち、窓枠の内側にある距離を一歩分だけ短くした。身体が木箱の陰へ滑り込み、ほとんど音を立てずに室内へ入る。


 同時に、卓斗は半地下の扉を押し開け、入口の結界線を踏み抜いた。淡い青の光が床から立ち上がり、建物の外壁を伝って二階の魔素灯まで走る。


 室内は左右に木箱が積まれ、一人ずつしか進めない狭さだった。奥の棚には退避札が置かれているが、その手前に斜めの板が渡され、下から訓練用の魔素が漏れている。


「絵麻、その板は踏むな」


 卓斗が低く声を飛ばすと、絵麻は木箱の陰で立ち止まった。板を踏めば頭上の木箱が落ちる仕掛けで、札を持った状態で姿勢を崩せば、千佳に奪われる危険がある。


「分かってる。札の方を寄せる」


 絵麻は札と自分の間にある二メートルほどの距離を歪ませた。身体ごと飛ばず、棚の上にある札だけを掌へ滑らせるように引き寄せる。


 青い札が絵麻の手へ収まった瞬間、外で石畳を蹴る足音が鳴った。ゲブの白銅が、千佳が路地の右側から近づいていることを細い線として伝える。


「赤崎さんが入口側へ接近しています。卓斗くん、あと少しです」


「札取った。先に出る!」


 絵麻は小窓の内外を短くつなぎ、来た時より早く建物の外へ抜けた。卓斗も半地下の奥へ逃げず、木箱の隙間を使って小窓の下へ回る。


 小窓は卓斗の肩幅より狭く、そのままでは通れない。卓斗は木枠の下側にある緩んだ板へ引力をかけ、外側へ傾けて通れる幅を作った。


「ティナ、板だけ軽くできる?」


「あなたが壊さない程度なら、補助するわ」


 ティナの白銀が木板の質量を一瞬だけ軽くし、卓斗は肩を入れて外へ抜けた。背後で千佳の訓練用短剣が木箱の横を通ったが、卓斗の服へ触れる前に身体は石畳へ転がり出る。


「一枚目、取れた。次は?」


「中央広場に一枚、二階の足場に一枚です。二つを同時に取らなければ、出口側へ先回りされます」


 恵依は解析の視界に重なる二つの反応を見ながら答えた。千佳は建物の入口から外へ出た後、こちらを追わずに出口のある方向へ視線を向けている。


「俺と恵依で広場。絵麻は二階。取ったら、出口へ行く前に合流する」


「一人で残すわけじゃないってことね」


 絵麻は一枚目の札を胸元へしまい、二階へ続く外階段を見上げた。自分が札を取った後に階段を塞がれても、窓や足場から降りられるよう、ラールが近くにいる。


「階段が危なければ、別の窓から降りる。ゲブは位置をつないで」


「承知しました。範囲を建物と広場の間に限定します」


 ゲブの白銅が二組の間へ細い線を残し、卓斗と恵依は中央広場へ向かった。絵麻とラールは外階段を上り、足場の板が軋む音を確かめながら二階へ進む。


 中央広場には壊れた噴水を模した石組みがあり、その裏側に二枚目の札の反応があった。広場は遮蔽物が少なく、二階の窓から見下ろされれば、どの方向へ逃げても動きを読まれやすい。


「上に投射具が三つあります。赤崎さんではありません」


 恵依の解析が告げた直後、二階の窓から丸い布玉が落ちてきた。柔らかい訓練用の道具だが、当たれば足を止める程度の衝撃があり、札へ届く前に姿勢を崩される。


「右へ!」


 卓斗は恵依の前へ半歩出て、落ちてくる布玉の一つへ弱い引力をかけた。玉は卓斗の肩へ向かう軌道から外れ、途中に積まれた樽の上へぶつかって転がる。


 残る二つは左右から落ち、卓斗と恵依の進路を挟んだ。恵依は卓斗の後ろへ隠れず、布玉の落下位置を解析しながら樽の左側を抜け、噴水の陰へ滑り込む。


「二つ目は卓斗くんの右足側です」


「見えてる!」


 卓斗は右足の前へ落ちた布玉を跳び越え、着地した石畳の段差を使って身体を左へ流した。三つ目は背中のすぐ後ろに落ちたが、土埃を受けながらも、恵依のいる噴水の裏へ入る。


 恵依は石組みの影で二枚目の札をつかみ、すぐに内側のポケットへしまった。卓斗が広場の出口側へ目を向けると、石壁の陰にあった千佳の気配が、いつの間にか近づいている。


「卓斗くん、左から来ます」


 千佳は石組みの横を回り込み、卓斗と恵依の間へ短剣を差し込む角度で踏み込んだ。狙いは卓斗を倒すことではなく、札を持つ恵依を広場の中央へ押し戻し、二階から見える位置へ出すことだった。


「恵依、噴水の裏から動かないで!」


 卓斗は短剣の切っ先を右へ避け、千佳が踏み込んだ左足の前にある石畳へ引力をかけた。人を直接引くことはできないため、靴底が置かれる場所だけをわずかに自分の方へ寄せる。


 千佳の足は止まらなかったが、想定より半歩だけ内側へ流れた。短剣が恵依へ届く線から外れ、卓斗と千佳の間に石組みの角が入る。


「絵麻さん、赤崎さんが広場に入りました。三枚目の札は、急がずに回収してください」


 恵依は札を守りながら、二階の絵麻へ白銅の線を通して告げた。千佳がこちらへ来たなら、三枚目の札の周囲は今だけ薄くなっている可能性がある。


「分かった。でも、戻る階段は使えなさそう」


 絵麻は足場の上から下を見て、千佳が広場へ入った方向と、二階を回り込める屋根の縁を見比べた。札を取った後に戻る道まで決め打ちすれば、今度は千佳に先回りされる。


 卓斗は千佳の短剣を石組みの外へ誘導し、恵依が広場の反対側へ抜ける時間を作った。千佳は卓斗を深追いせず、二枚目の札を持つ恵依がどの路地へ入るかを見て、すぐに出口側へ身体を向ける。


「赤崎さん、もう出口へ戻る気だ」


「三枚目を取った後の私たちを、出口前で止めるつもりだと思われます」


 恵依は卓斗と並んで広場を離れ、二階の建物へ向かう。二枚の札を持ったまま千佳を追う必要はなく、絵麻が三枚目を取るまでの間、下で合流できる道を確保する方が先だった。


 二階の足場では、絵麻が窓際に置かれた三枚目の札を見つめていた。札の手前には透明な結界があり、踏み込めば足場の端へ身体をずらされる仕組みが、空間の魔素を通してかすかに触れている。


「結界がある。札を取ったら、階段じゃなくて反対の窓から降りる」


 絵麻はラールへ伝え、窓の下に積まれた樽と石畳の距離を確認した。札を寄せることはできても、下へ降りる場所まで準備しなければ、持ち帰る途中で千佳に奪われる。


「分かりました! 絵麻ちゃんが降りる場所だけ、白鋼で作ります!」


 ラールは二階の外壁へ魔素を伸ばし、窓の下に小さな足場を作る準備を始めた。広い防壁ではなく、絵麻が一度だけ足を置き、次の石畳へ降りるためだけの細い白鋼を選んでいる。


 絵麻は札へ手を伸ばさず、足場の外側にある屋根の縁へ視線を向けた。千佳の足音はまだ聞こえないが、広場から出口へ戻るだけなら、二階の通路を使った方が早い。


「卓斗、恵依。赤崎さんが二階へ回ったら、上から来るかもしれない」


 白銅の線を通った絵麻の声に、卓斗は建物の壁へ背をつけた。三枚目の札を取る前に、千佳が出口へ戻るだけなのか、それとも絵麻の退路を塞ぐために二階へ上がるのかを見極める必要がある。


「分かった。無理に取らなくていい。逃げ道を残してから取れ」


「分かってる。今度は、一人で急がない」


 絵麻は札の手前にある結界へ空間の魔素を重ねた。透明な膜の向こうにある札と、自分の立つ足場の距離がわずかに縮まり始める。


 その時、建物の反対側で木の足場が鳴った。千佳が広場から出口へ戻ったのではなく、二階へ続く別の階段を使い、絵麻のいる高さへ回り込んだ音だった。




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