第二章 3 『市場を走る鎧角獣』
朝の王都市場へ飛び込んだ鎧角獣は、石畳を砕きながら一直線に大通りを駆けていた。
通りの左右には、野菜や果物、布地、陶器を並べた露店が隙間なく続いている。開店準備をしていた商人たちは、接近する巨体に気づくと、商品を残したまま路地へ逃げ始めた。
「道を空けてください! 建物の中ではなく、左右の路地へ避難してください!」
先頭を走る千佳の声が市場へ響いた。
第一騎士団の追跡班は三人ずつ左右へ分かれ、住民を鎧角獣の進路から外していく。正面には千佳だけが残り、巨体との距離を二十メートルほどに保っていた。
「追いつくの速くない? 赤崎さん、普通に人間だよな?」
卓斗は走りながら息を乱した。騎士団の訓練区域を出てから、まだ一度も速度を緩めていない。
「タク、口を動かす余裕があるなら足を動かしなさい」
「これ、余裕じゃなくて現実逃避なんよ」
隣を走るティナは卓斗よりはるかに小さい身体でありながら、息一つ乱していなかった。白銀の魔素で自身の質量と足元の摩擦を調整し、石畳の上を滑るように進んでいる。
卓斗が羨ましそうに見た瞬間、ティナは冷たい視線を返した。
「タクの身体まで軽くすると、止まれずに屋台へ突っ込むわよ」
「先回りして否定すんなって。ちょっと期待しただけじゃん」
前方で鎧角獣が果物を積んだ荷車へ肩をぶつけた。荷台が横倒しになり、赤い果実と木箱が大通りへ散らばる。
鎧角獣は足元へ転がる果実を踏み潰し、速度を落とさない。岩のような甲殻には壊れた檻の金属片が残り、走るたびに甲殻と擦れて乾いた音を響かせている。
「流川様。鎧角獣の右前脚に、わずかな遅れが確認できます」
ゲブは恵依の隣を走りながら、鎧角獣の足元を見ていた。黄色の瞳には、巨体から漏れる魔素と地面へ伝わる流れが細い線として映っている。
「先ほどの傷の影響でしょうか」
「可能性はあります。ただ、傷だけではなく、音が鳴るたびに右側へ重心が偏っていると思われます」
恵依は解析の範囲を鎧角獣の頭部から脚へ広げた。
額の角から鎖は外れている。それでも檻の破片が背中へ残っており、金属音が響くたびに呼吸と魔素の流れが乱れていた。
「卓斗くん。鎧角獣は人を追っているのではありません。広くて障害物の少ない道を選んでいます」
「じゃあ、追い詰めるより、空いてる場所まで誘導した方が早い?」
「はい。ただし、今の進路を進むと中央市場へ入ります。今より人が多いはずです」
「それ先に止めないとダメなやつじゃん」
卓斗は大通りの先を見た。
建物の間から、青銅色の大鐘を備えた市場塔が見えている。その周囲には複数の通りが集まり、朝市の客と荷車が行き交っていた。
まだ鎧角獣の接近に気づいていない者も多い。
卓斗たちのいる通りだけを空けても、中央市場へ到達されれば被害を抑えられない。
「赤崎さん! この先、人が増える!」
「分かっています。中央へ入る前に東の荷捌き場へ進路を変えます!」
千佳は走りながら右手を上げ、先行する第一騎士団員へ合図を送った。
二人の騎士が右側の路地へ入り、東の荷捌き場へ続く道を開ける。残った騎士は中央市場側へ回り、住民と荷車を退避させ始めた。
「成瀬さんたちは鎧角獣を追い立てないでください。逃げ道を一つだけ残し、そちらへ向かわせます」
「一個だけ聞いていい?」
「何でしょうか」
「俺ら、今日が異世界二日目なんだけど、担当重くない?」
「私もそう思います」
「思ってるんだ」
千佳の返答は真面目だった。
卓斗が何とも言えない顔をした直後、前方の鎧角獣が突然左へ首を振った。
横道から飛び出した商人が、陶器を積んだ手押し車を止められずにいた。車輪が石畳の溝へ引っかかり、押していた男の身体ごと進路上へ傾いている。
「絵麻さん、左です!」
「見えてる!」
絵麻は大通りの左端から空間を折り、商人の背後へ移動した。
到着地点には割れた陶器が散らばり、安定した足場がほとんどない。ラールが白鋼の魔素を伸ばし、絵麻の靴底が触れる場所へ薄い板を形成した。
「絵麻ちゃん、足元を固定しました! でも長くは――」
「一秒あれば十分!」
絵麻は商人の腕をつかみ、反対側の路地へ座標をつないだ。
二人の姿が揺らぎ、鎧角獣の進路から消える。直後、巨体の肩が手押し車へ衝突し、積まれていた陶器が石畳へ撒き散らされた。
白い破片が弾け、絵麻の頬の横を通過した。
商人を路地へ移した絵麻は、もう一度空間跳躍を使って大通りへ戻る。だが、短時間に二度座標を折った影響で、着地点が予定より半歩ずれた。
「ちょっ……!」
絵麻の右足が、転がっていた果実を踏んだ。
身体が後ろへ傾き、そのまま石畳へ倒れかける。卓斗は絵麻の上着に意識を絞り、弱い引力で自分の方へ引いた。
絵麻の身体は地面へ落ちず、卓斗の肩へ横向きにぶつかった。
「痛っ!」
「助けた側の第一声、それ?」
「引っ張るなら先に言いなさいよ!」
「転ぶ前に許可取る時間あると思う?」
卓斗は絵麻の肩を支え、石畳へ立たせた。
絵麻は言い返そうとしたが、視界が左右へ揺れている。転移の負荷で平衡感覚が乱れ、真っ直ぐ立っているつもりでも上半身がわずかに傾いていた。
「絵麻さん。連続使用は避けてください」
恵依は二人へ追いつくと、絵麻の瞳と呼吸を確認した。意識ははっきりしているが、次に跳べば到着位置をさらに外す危険がある。
「少し酔っただけ。まだ動けるわよ」
「動けることと、安全に跳べることは別です」
「でも、私が跳ばないと間に合わない時もあるでしょ」
「その時は、先に言ってください。着地点を私が確認します」
恵依の声は静かだったが、譲る気配はなかった。
絵麻は唇を結び、それ以上反論しなかった。代わりに卓斗の肩から手を離し、自分の足で大通りを走り始める。
「……さっきは、ありがと」
「え、何?」
「聞こえてたでしょ! 聞き返さないで!」
「はい、終わりです。照れ隠し入りました」
「落とすわよ!」
「助けた直後に殺意向けるの早くない?」
絵麻が拳を上げたところで、先を走る千佳が急停止した。
卓斗たちも足を止め、中央市場へ続く分岐を見る。
東の荷捌き場へ通じる右側の道は、避難を始めた荷車で半分塞がっていた。馬をつないだ大型車が方向転換できず、二台の荷台が互いに引っかかっている。
「予定の道、塞がってんだけど」
「移動させる時間はありません。別の進路を作ります」
千佳は周囲を見渡し、大通りの右側に並ぶ布屋と香辛料店の間へ視線を止めた。
二軒の間には細い通路がある。その先は東の荷捌き場へつながっているが、入口が狭く、鎧角獣の巨体では通れない。
「西野さん。あの通路を広く見せることはできますか?」
「空間を広げ続けるのは無理。でも、入口と出口の距離を近づければ、途中を短くすることはできる」
「鎧角獣が通れる幅は?」
「ラールに壁を固定してもらえば、たぶん」
絵麻はまだ残る目眩を押さえ、通路の入口を見た。
見えない場所への転移ではない。ここから出口の一部が見えているため、二点の座標をつなぐことはできる。ただし、四メートルを超える巨体が通れば、歪ませた空間へ強い負荷がかかる。
「流川様。鎧角獣の速度が上がっています」
ゲブの警告と同時に、背後から石畳を打つ足音が近づいた。
卓斗が振り返ると、鎧角獣は十数メートル先まで迫っていた。左右の露店を避けているが、このままでは塞がった荷車か中央市場のどちらかへ突っ込む。
「絵麻、いける?」
「やるしかないでしょ。ラール、入口の左右を固めて!」
「は、はい! 絶対ずれないようにします!」
ラールは布屋と香辛料店の壁際へ白鋼の柱を形成した。
二本の柱が建物の角を支え、絵麻が干渉する空間の輪郭を固定する。絵麻はその間へ両手を向け、見えている出口との距離を折り畳んだ。
細かった通路の入口が波打つ。
実際の壁が動いたわけではない。入口から見えるはずのない東側の荷捌き場が近くへ引き寄せられ、鎧角獣が通れるだけの幅を持つ空間として重なった。
「道は作った! でも、あいつが入ってくれるかは別!」
「恵依、何か嫌がるもん分かる?」
恵依は鎧角獣の進路と周囲の魔素を解析した。
巨体は広く暗い方向を選び、強い金属音を避けている。通路の奥は日陰になっているが、入口が狭く見えるため、そのままでは中央市場側へ向かう可能性が高い。
「入口の左側を塞いで、右側から音を出さずに圧力をかけてください。正面から押すと、興奮します」
「注文細かいな。でも、そっちの方が事故らんか」
卓斗は壊れた露店の屋根板へ引力を向けた。
木製の屋根板が石畳を滑り、中央市場へ続く左側の道へ斜めに立つ。完全な壁にはならないが、鎧角獣から見える進路を狭くするには十分だった。
「ティナ、右から少しだけ押す。反動だけ止めて」
「足元を固定するわ。出力を上げすぎないことね」
「分かってる。市場で牛みたいに吹っ飛ぶ趣味ないし」
「鎧角獣よ。牛に謝りなさい」
「異世界まで来て牛への配慮求められると思わんかったわ」
ティナの白銀が卓斗の両足の下へ広がり、石畳の密度と摩擦を書き換えた。
卓斗は鎧角獣の右肩から半メートル離れた空間へ斥力を発生させる。巨体へ直接叩きつけず、横から近づきにくい圧力を作り、中央市場側から通路へ顔を向けさせた。
鎧角獣の前脚が石畳を削った。
目の前には屋根板で狭まった道があり、その反対側には暗く広がる通路がある。巨体は一度だけ首を振ると、絵麻が折り畳んだ空間へ向きを変えた。
「入る!」
千佳が鎧角獣の後方へ回り、戦智の魔素で進路を確認した。
第一騎士団員たちは左右へ並ばず、巨体が引き返せない距離を保って追う。盾で叩くことも、声で追い立てることもせず、戻れる空間だけを狭めていく。
鎧角獣の角が、絵麻の作った通路へ入った。
続いて肩と前脚が空間の境界を越える。巨体が通るたびに景色が揺れ、白鋼の柱から金属を軋ませるような音が響いた。
「絵麻ちゃん、右の柱がずれてます!」
「分かってる! そっちから押し返して!」
ラールは右側の柱へ白鋼を重ね、傾いた形状を固定し直した。
絵麻は空間の接続を維持していたが、額から頬へ汗が流れている。先ほどの連続跳躍による負荷も残り、視界の端が再び揺れ始めていた。
「絵麻さん。鎧角獣の後ろ脚が越えたら解除してください。出口まで維持する必要はありません」
「まだ後ろに半分残ってる!」
「あと三歩です。二歩。次で越えます」
恵依は鎧角獣の脚と空間境界を見比べ、解除の瞬間を伝えた。
最後の後ろ脚が入口を越える。絵麻は両手を閉じ、折り畳んでいた空間を切り離した。
布屋と香辛料店の間に、元の細い通路が戻る。
鎧角獣の姿はすでに東の荷捌き場へ移り、卓斗たちから三十メートルほど先を走っていた。追跡する千佳と騎士たちは通常の横道を使い、遅れて荷捌き場へ向かう。
空間を解除した絵麻の膝から力が抜けた。
ラールが慌てて白鋼の板を足元へ作ったが、絵麻はその場へ座り込む。頭を押さえ、回転する視界が収まるまで動けなかった。
「だから無理するなって言っただろ」
「今のは、必要だったでしょ」
「必要だったけど、終わったあと倒れる前提でやるのは効率悪い」
「じゃあ、ほかに方法あった?」
絵麻は悔しそうに卓斗を見上げた。
卓斗はすぐに答えられなかった。時間がなく、荷車が道を塞いでいた。絵麻の空間操作がなければ、鎧角獣は中央市場へ入っていた可能性が高い。
「……今回は、たぶんなかった」
「ならいいじゃない」
「よくはない。次までに、倒れない方法を考える」
卓斗は絵麻へ手を差し出した。
絵麻は一瞬だけ迷ったあと、その手をつかんで立ち上がる。まだ足元は不安定だが、先ほどより呼吸は落ち着いていた。
「卓斗くん。鎧角獣が止まっています」
恵依の声で、二人は荷捌き場へ目を向けた。
東の荷捌き場は、市場へ運ばれる荷物を一時的に置くための広場だった。石壁に囲まれた四角い空間で、北側には倉庫、東側には水場、南側には荷車用の門がある。
中央には逃げ遅れた一台の荷車が残っていた。
その横で、小さな男の子が立ち尽くしている。転んだのか、片方の靴が脱げ、膝から血を流していた。
鎧角獣は広場の西側から入り、男の子まで二十メートルも離れていない。巨体はすぐには走り出さず、周囲を探るように頭を動かしている。
「待って、あの子……!」
絵麻が空間跳躍を使おうとしたが、視界が揺れて座標を定められない。
恵依も男の子までの経路を探したが、間には鎧角獣がいる。真っ直ぐ駆け寄れば、巨体の正面へ出ることになる。
広場の南側で、市場の警報鐘が鳴った。
鎧角獣の背中に残っていた檻材が震え、甲殻へ金属音を伝える。落ち着きかけていた魔素が一気に乱れ、巨体が鐘とは反対側へ顔を向けた。
その先に、男の子がいた。
「鐘を止めてください!」
千佳の声が飛んだが、すでに鎧角獣は前脚を踏み込んでいた。
地面が揺れ、巨体が男の子へ向かって走り出す。
「絵麻、あの子を飛ばせる?」
「今の視界じゃ座標がずれる!」
「なら道を伸ばして! あいつが着くまでの距離だけ!」
卓斗は叫びながら、広場中央の荷車へ右手を向けた。
引力を受けた荷車が横向きに滑り、鎧角獣と男の子の間へ入る。だが、空の木製荷車では、あの突進を止められない。
「ラール、荷車を固定して!」
「あわわっ、やります!」
白鋼の魔素が荷車の車輪と側面を包み、構造を硬化させた。
絵麻は男の子までの空間へ両手を向ける。救出のために座標を折るのではなく、鎧角獣が進む距離だけを引き延ばした。
巨体の前脚が石畳を蹴る。
見た目には男の子へ近づいている。それでも一歩ごとの距離が短くなり、到達までの時間がわずかに伸びた。
「流川様。鎧角獣の進路は、荷車の右側へ外れる可能性があります」
ゲブは恵依が解析した流れへ白銅の魔素を重ねた。
鎧角獣の右前脚には傷があり、踏み込みが浅い。そのため巨体は走るほど右へ傾き、固定した荷車の端を避けて男の子へ進む軌道を取ろうとしていた。
「卓斗くん。荷車の左端を引いて、右側を前へ出してください!」
卓斗は恵依の指示に従い、白鋼で固定された荷車の左端だけへ引力をかけた。
車輪が地面へ固定されているため、荷車は移動せず、その場で斜めに回転する。前へ出た右側の板が鎧角獣の角へ向き、突進を横へ滑らせる角度を作った。
「ティナ、俺が吹っ飛ぶ!」
「先に言えるだけ成長したわね」
ティナは卓斗と荷車の間へ白銀の足場を作った。
空間そのものが硬い壁として固定され、荷車から返る衝撃が卓斗へ直接届かない構造になる。
鎧角獣の角が荷車へ衝突した。
白鋼で固められた木板が大きくしなり、ラールの両腕が反動で跳ねる。荷車は破壊されなかったが、右側の車輪が石畳へ深く食い込んだ。
斜めの板へ当たった角は、男の子から外側へ滑った。
鎧角獣の身体が右へ流れ、東側の水場へ向かう。巨体の肩が石造りの水槽へ衝突し、大量の水が広場へ溢れた。
「今です! 男の子への進路が空きました!」
恵依の声に、千佳が動いた。
鎧角獣の横を走り抜け、男の子の身体を抱えて北側の倉庫前へ退避する。水場へ突っ込んだ鎧角獣は濡れた石畳で脚を滑らせ、横倒しにならずに踏みとどまった。
千佳が男の子を騎士へ預けると、第一騎士団の追跡班が鎧角獣を囲む。
北には倉庫の壁、東には壊れた水槽、南には騎士たちの盾列がある。西側だけは空いているが、卓斗たちが通ってきた細い通路へ戻ることはできない。
「殺傷攻撃は不要です。動きを止めます」
千佳の周囲へ戦智の魔素が広がった。
鎧角獣の重心、傷ついた右前脚、水で滑る足場、騎士たちの位置が一つの戦場として組み立てられる。騎士たちは千佳の合図に合わせ、鎧角獣の正面ではなく左右から盾を押し出した。
鎧角獣が左へ逃げようとすれば、右側の盾列が前へ出る。
右へ向きを変えれば、左側の騎士が距離を詰める。攻撃せず、巨体が選べる方向だけを少しずつ減らしていく。
「成瀬さん。鎧角獣が突進する場合は、角の方向だけを外してください」
「了解。でも、そろそろ右手が限界近い!」
「一度で構いません。こちらで合わせます」
卓斗は右手首の熱を意識しながら、鎧角獣へ向き直った。
絵麻は空間操作を解除し、ラールの肩を借りて立っている。恵依とゲブは鎧角獣の魔素が高まる瞬間を見逃さないよう、呼吸と脚の動きを追っていた。
鎧角獣が盾列の薄い南東へ顔を向けた。
「来ます!」
恵依の警告と同時に、巨体が頭を下げた。
卓斗は角の先へ斥力を集中させる。鎧角獣の身体を吹き飛ばすのではなく、突進の先端だけを左へ押し、騎士のいない水場側へ進路をずらす。
右手首の竜紋が白銀に光り、腕へ鋭い痛みが走った。
斥力が角へ触れ、鎧角獣の頭がわずかに外れる。
その変化へ千佳が合わせた。左側の盾列を後退させ、右側の騎士を前へ出すことで、巨体の身体を水場の壁際へ導く。
鎧角獣は騎士へ衝突せず、石壁の手前で停止した。
左右と後方から盾が重なり、ラールの白鋼がその外側を固定する。騎士たちは太い拘束帯を甲殻の隙間へ通し、角と前脚の動きを抑えた。
鎧角獣は数度身体を揺らしたが、逃げられないと分かると、荒い呼吸を残して動きを止めた。
「……終わった?」
卓斗は右腕を下ろし、濡れた石畳へ座り込みたくなるのを堪えた。
千佳は拘束帯と鎧角獣の呼吸を確認し、騎士たちへ治療担当を呼ぶよう指示した。討伐ではなく保護された個体である以上、背中の傷と残った檻材を処置する必要がある。
「はい。鎧角獣の確保と、住民の救出は完了です」
「初日の基礎訓練で市場一個走り回るの、絶対カリキュラム間違ってるよな?」
「予定にはありませんでした」
「予定外で済ませていい規模じゃないんよ」
卓斗が肩を落とすと、絵麻もラールの隣へ座り込んだ。
恵依は疲労を見せながらも、救出された男の子と商人に大きな怪我がないことを確認している。市場の露店や荷車には被害が出たが、鎧角獣の突進に巻き込まれた者はいなかった。
千佳は三人を順に見た。
「最初の隊列訓練では、皆さんは自分の役割を優先し、互いの目的が揃っていませんでした」
卓斗は訓練区域での失敗を思い出した。
恵依は救助対象の確認を優先し、絵麻は妨害役の前へ出て、卓斗は二人に合わせようとして立ち位置を決められなかった。あの時は、誰が何を守るのかが揃っていなかった。
「今回は綺麗に並んだわけではありません。それでも、住民と鎧角獣を傷つけないという目的は共有できていました」
「市場中をバラバラに走ってたけど、それでも隊列なの?」
「隊列とは、同じ形で並び続けることではありません。守る対象を中心に、自分がどこへ立つべきかを選ぶことです」
千佳の言葉に、卓斗は濡れた荷捌き場を見回した。
絵麻は住民を逃がし、恵依は危険な進路を見つけ、卓斗は巨体の向きを外した。三人は同じ場所に並んでいなかったが、それぞれの力は一つの目的へ向いていた。
「なるほど。じゃあ、訓練は合格?」
「基礎訓練は途中です」
「そこは空気読んで合格にしようよ」
「必要な部分は改めて行います」
「日本人先輩、普通に厳しいな」
千佳は小さく笑ったが、判断を変える気配はなかった。
その時、荷捌き場の西側から小さな足音が近づいた。
ナーヴァがデュランダルを片手に歩いてくる。その後ろには、黒い布で包まれた細長い破片を持つ第一騎士団員が続いていた。
「ナーヴァ。結界の方は?」
「止めた。広がらない」
ナーヴァは卓斗たちの前まで来ると、騎士が持っていた黒い布を開かせた。
中には、結界杭の石片が置かれている。灰色の表面へ細い黒線が刻まれ、冷えた火傷のような魔素痕が残っていた。
「自然破損じゃない」
ナーヴァは短く告げ、黒線へデュランダルの先を向けた。
「外から入れた。訓練開始で、開くように」
恵依は石片へ近づき、残る魔素の流れを確認した。
中継地点の結界杭で見た術式傷と完全に同じではない。それでも、結界の流れを外へ引き、内側を薄くする組み方には共通点がある。
「ゲブ。確認できる範囲で構いません。中継地点の術式と比較してください」
「承知しました、流川様」
ゲブは白銅の魔素を石片へ近づけた。
黒線の奥に残る流れが淡く浮かび、中継地点で記録した魔素波形と重なる。細部は異なるが、術式の方向と、結界の守りを利用して内側から崩す考え方は同じだった。
「断言はできません。ただ、サリギアの術式と同系統である可能性は高いと思われます」
卓斗は訓練区域の方角へ振り返った。
偶然壊れた檻から鎧角獣が逃げただけではない。結界杭の亀裂は、訓練が始まり、防護結界へ負荷がかかった時に開くよう仕組まれていた。
「俺らが今日、第一騎士団で訓練するって知ってたってこと?」
「知っていたとは、限らない」
ナーヴァは石片を見下ろした。
「でも、狙った。守る練習をする場所」
卓斗は黒い亀裂から、市場に残る壊れた荷車へ視線を移した。
鎧角獣は確保できた。住民にも重傷者は出なかった。それでも、サリギアが入れた小さな亀裂一つで、訓練区域の外まで被害が広がった。
「普通に性格悪すぎるだろ」
ティナは卓斗の隣で石片を見つめていた。白銀の瞳から普段の辛辣さが薄れ、代わりに古い敵意が静かに浮かんでいる。
「ええ。だから、放置はできないのよ」
卓斗は痛む右手首を押さえた。
異世界で戦い方を学ぶ最初の日は、予定された訓練だけでは終わらなかった。誰かが守られている場所へ亀裂を入れ、その先で何が起きるかを確かめようとしている。
黒い術式片の奥には、まだ姿の見えないサリギアの意図が残っていた。




