第一章 34 『アシェラ・イラト』
レオンが示した石板の上に、アシェラ・イラトという名が刻まれていた。
もちろん、卓斗にその文字は読めない。だが、レオンがその名を告げた瞬間、資料室の空気は明らかに変わった。フィオラの肖像を見ていた時とは違う、もっと硬く、冷たい沈黙が石板の周囲へ落ちる。
卓斗は右手首を見下ろした。
白銀の竜紋は静かに沈んでいる。だが、その下にある自分の魔素が、王都の古い記録に触れたという事実は消えない。引力と斥力。中継地点では魔獣を押し返すために使った力が、六百年前の災厄と同じ方向だと言われている。
「俺の危険物扱いの元ネタ説明、開始ってことね」
卓斗は軽く言ったつもりだった。
だが、声は思ったより乾いていた。自分でも笑えない言い方だと分かっている。それでも、何か言わなければ、石板の名前に押し潰されそうだった。
ティナは石板を見たまま、短く言った。
「軽く聞く話ではないわよ」
「知ってる。今日ずっと軽くない」
卓斗はそう返し、視線をレオンへ戻した。
資料室の机上には、フィオラの肖像、原初の人間の九つの円を刻んだ石板、九つの分霊石を模した模型が並んでいる。神話の話だったはずなのに、いつの間にか卓斗の右手首と直結していた。遠い過去の伝承が、今の自分の扱いを決めようとしている。
レオンは石板の一角を指した。
「アシェラ・イラトは、原初の人間九人の一人。記録上、引力と斥力に属する魔素を持っていた」
卓斗は小さく息を吸った。
「そこが俺と引っかかった場所か」
千佳が頷いた。
「はい。ただし、規模は比較になりません」
ティナがレオンの説明を引き継ぐように言った。
「アシェラの引力と斥力は、石や魔獣を動かす程度ではないわ。土地、結界、魔素流、空間の向きまで動かすものだった」
卓斗は思わず顔をしかめた。
「比較対象が急に天災なんだけど」
ティナは否定しなかった。
むしろ、その表現を肯定するように、白銀の瞳を細めた。卓斗が小石を引き寄せたり、魔獣を押し返したりした力とは、同じ言葉で呼ぶのが乱暴に思えるほど規模が違う。それでも方向が近いからこそ、王都は反応したのだ。
恵依は机上の記録を見比べながら、慎重に確認した。
「成瀬くんの魔素は、アシェラと完全一致したわけではないのですね」
「完全一致ではありません」
千佳はすぐに答えた。
「波形も規模も違います。ですが、引き込みと反発を同時に含む点が、古封印記録の一部と照合されました」
絵麻は腕を組んだまま、石板を睨むように見た。
「一部似てるだけで、あんな扱いになるわけ?」
レオンは表情を変えずに答えた。
「一部似ているだけではない。六百年前、その一部が王国を含む大陸全体に大きな被害を出した。だから、王都防衛は無視できない」
絵麻はすぐに言い返さなかった。
怒りは残っている。だが、警戒する理由そのものを否定できるほど軽い話ではないことも分かる。だからこそ、彼女は唇を引き結び、卓斗の横から離れなかった。
レオンは次の資料を開いた。
そこには、円の中心へ向かっていく無数の線と、外側へ弾かれる黒い点が描かれていた。文字は読めないが、絵だけでも不穏だった。人や街や結界らしき印が、一つの中心へ吸い寄せられている。
「王国記録では、アシェラは世界を一つの中心へ集めようとした存在とされている」
卓斗は眉を寄せる。
「中心?」
「国、種族、結界、魔素流、信仰、戦力。すべてを一つの支配点へ引き寄せる。従わないものは外へ弾く」
レオンの声は淡々としていた。
淡々としているからこそ、その内容が重く響いた。引き寄せる。押し返す。それはただの物理的な力ではなく、アシェラの思想そのものだったのだと、卓斗にも分かった。
絵麻が低く言った。
「最低じゃない」
恵依は図の線を見つめながら、言葉を選んだ。
「引力と斥力が、思想そのものにも反映されていたということですね」
ティナが短く答える。
「そうよ。アシェラは人の道を残すためではなく、人の行き先を自分で決めるために力を使った」
その言葉は、卓斗の胸に引っかかった。
人の行き先を自分で決める。卓斗がこの世界へ連れて来られてから、何度も嫌だと思ったことだった。契約も、転移も、保護も、行動制限案も、本人の意思より先に誰かが決めようとした。規模は違う。悪意も違う。それでも、方向だけなら同じ危うさがある。
卓斗はティナを横目で見た。
ティナも、それを分かっているのだろう。普段ならすぐに言い返す彼女が、この時は黙っていた。フィオラのためとはいえ、卓斗を強制契約で連れて来た事実は消えない。その重さが、この話の中で別の形を持って見えてくる。
千佳は机上の図を、六百年前の大災厄を示すものへ替えた。
今度の絵には、壊れた街道、傾いた結界塔、黒く歪む封印地、逃げる人々が描かれている。中心には、見えない力の渦のようなものがあり、周囲の線がすべてそこへ引き込まれていた。
「六百年前、アシェラは各地の魔素流を一つの中心へ引き寄せたと記録されています。結界は偏り、街道は切れ、封印地は崩れました」
レオンが続ける。
「都市や村は孤立し、魔獣災害が広がった。王国成立以前の安全圏は崩れ、人が移動する道も、守るための結界も、機能しなくなった」
卓斗は絵を見て、喉の奥が少し乾くのを感じた。
「自然災害じゃなくて、原初の人間が起こした人災ってことか」
ティナは静かに言った。
「そうね。天災の規模を持った人災よ」
その言葉で、資料室の空気がさらに重くなった。
卓斗は中継地点の結界異常を思い出した。灯りが弱り、結界流が外側へ引かれ、魔獣が入り込む薄い通り道が作られていた。あれは小さな異常だった。だが、もし同じようなことが大陸中で起きたなら、街道も、村も、都市も、簡単に孤立する。
ラールが小さく両手を握った。
「フィオラ様は、ずっと道を繋ぎ直していました。壊れたところを直して、逃げられる場所を作って、結界が崩れないようにして……でも、直しても直しても、引かれていったんです」
いつもの慌てた声とは少し違った。
ラールは不器用でも、六百年前を知っている。白鋼の魔素で壁を立て、崩れる結界を支えた記憶があるのだろう。絵麻はその声に気づき、からかうことなくラールの横顔を見ていた。
ゲブも静かに続ける。
「白銅で魔素流を繋ぎ直しても、中心へ向かう引力が強ければ、流れそのものが歪みました。各地の結界を独立させすぎれば孤立し、繋ぎすぎればまとめて引かれる。調整は困難でした」
卓斗はゲブの言葉を聞き、恵依の顔を見た。
恵依も同じことを考えていたのか、静かに眉を寄せている。繋ぐことは安全にもなるが、敵の引力が強ければ、繋がりそのものが弱点にもなる。魔素流や結界がただ便利なものではないことが、少しずつ見えてきた。
ティナはフィオラの肖像へ視線を向けた。
「フィオラは勝てなかったわ」
卓斗は息を止めた。
「……え?」
ティナは顔を逸らさない。
フィオラを復活させたいと強く願っているはずの彼女が、その事実を誤魔化さずに言った。資料室の中で、その一言は誰の説明より重かった。
「倒し切れなかった。アシェラを滅ぼそうとすれば、引かれた土地も、結界も、人の道もまとめて崩れる。だからフィオラは、自分ごと封じた」
ゲブが補足する。
「封印は、討伐ではなく、被害拡大を止めるための固定に近いものでした」
ラールも、小さく頷いた。
「フィオラ様は、残す方を選びました。全部壊して勝つんじゃなくて、みんなが生きる場所を残す方を」
卓斗はフィオラの肖像を見た。
疲れた目をした女性。完璧な英雄ではなく、それでもやめなかった人。アシェラを倒してすべて終わらせることができなかったから、自分ごと封じるしかなかった。勝利というより、被害を止めるための選択だった。
その重さを知ると、フィオラ復活という言葉も変わって見える。
ただ英雄を戻す話ではない。六百年前に封じたものを、どう扱うかという話でもある。
卓斗は右手首を握りかけ、途中でやめた。
「それ、俺もそのうち世界を引っ張るやつになるって話?」
自分で言ってから、喉の奥が重くなった。
冗談の形にはできなかった。今の自分は小石や魔獣を動かす程度だとしても、同じ方向の力を持つなら、いつかアシェラのようになる可能性があるのか。王都が怖がった理由が、卓斗自身の中にも入り込んでくる。
恵依はすぐに卓斗を見た。
「現時点で、そう断定できる情報はありません」
千佳も続ける。
「成瀬さんはアシェラではありません。ただ、同じ方向の力を持つ可能性がある以上、危険性は見ます」
卓斗は苦く笑った。
「否定しきってはくれないんですね」
「否定しきれば、あなたを守れません」
千佳の返答は、いつも通り正直だった。
安心させるためだけの言葉はない。だが、突き放すための言葉でもない。危険性を見ることは、卓斗を閉じ込めるためだけではなく、卓斗自身が恐怖だけで扱われないようにするためでもある。
ティナが卓斗へ向き直った。
「あなたはアシェラじゃないわ。けれど、自分の力を知らないままでいていいほど軽い魔素でもない」
卓斗はしばらく黙った。
その言葉は嫌だったが、納得できた。知らないまま、怖いから使わないと逃げるだけでは、結局何かが起きた時に止められない。中継地点でも、自分の斥力を使わなければ魔獣を押し返せなかった。知らないままでは、守ることもできない。
「分かった。逃げずに聞く」
卓斗は短く言った。
千佳はそれを確認し、次の資料へ進んだ。
机上に置かれたのは、中継地点で見た結界異常の写しと似た図だった。結界の流れが外側へ引かれ、根元に細い傷のような術式が入り、内側から薄くなっている。卓斗はそれを見た瞬間、第三灯の弱い光を思い出した。
レオンの声が低くなる。
「サリギアは分霊石を狙っている」
卓斗はすぐに反応した。
「フィオラ復活のため?」
「当初はその可能性も考えられた。だが、術式の向きが違う」
恵依が図へ視線を寄せた。
「向き?」
千佳が結界図の一部を指した。
「フィオラ様の封印を安定させるのではなく、内側から薄くする方向です。封印や結界を保つための流れを外へ逃がし、中心の固定を弱める」
ティナの表情が明らかに変わった。
「……アシェラ側を起こす術式ね」
資料室の空気が凍った。
卓斗はその言葉を聞き、背筋が冷えるのを感じた。フィオラを復活させるために分霊石を集める。それだけでも十分に重い話だった。だが、サリギアが狙っているのは、フィオラではない。
レオンははっきり告げた。
「現在、王国はサリギアの目的を、アシェラ・イラトの復活と見ている」
「最悪じゃん」
卓斗の口から、素直な感想が落ちた。
誰も否定しなかった。
絵麻は拳を握った。
「つまり、あいつらは石を奪って、結界も封印も薄くして、六百年前の災厄を起こしたやつを戻そうとしてるってこと?」
「その可能性が高い」
レオンの答えは短い。
その短さが、逆に重かった。可能性が高い。王国がそう判断するだけの痕跡がある。中継地点の術式傷も、その一つなのだろう。
恵依は情報を整理するため、ゆっくりと言葉にした。
「分霊石はフィオラ様の復活の鍵であり、封印や結界維持にも関わる核。そして、サリギアはその分霊石を使って、フィオラ様ではなくアシェラ・イラトを復活させようとしている可能性が高い」
千佳が頷く。
「はい」
卓斗は机上の九つの模型を見下ろした。
「つまり、石を集めないとフィオラは戻らない。でも石を奪われるとアシェラが戻るかもしれない」
「はい」
「詰んでない?」
千佳は即座に否定しなかった。
その間が、卓斗には妙に怖かった。完全に詰んでいるとは言わない。だが、簡単ではない。分霊石を動かすには、現代で何を支えているかを確認しなければならない。放置すればサリギアが先に動く。どちらにしても厄介だった。
恵依が冷静に言った。
「少なくとも、放置すればサリギア側が先に動く可能性があります」
絵麻も苦い顔で続ける。
「それで結界が壊れて誰かが襲われるなら、見なかったことにはできないわね」
ティナは卓斗を見た。
「だから集める必要があるのよ」
卓斗はすぐに返した。
「だからって、勝手に奪うのはなし。そこは変わらない」
ティナの目がわずかに細くなった。
反論したい気配はあった。だが、彼女はすぐには言わなかった。フィオラを戻すために分霊石が必要なのは事実。サリギアに奪われればアシェラが戻る危険があるのも事実。けれど、今の分霊石が人々の安全を支えている可能性もまた、事実だった。
卓斗は続けた。
「俺はまだ、フィオラ復活のために命張りますとは言えない」
ティナは黙って聞いている。
「でも、サリギアが石を奪ってアシェラを起こすなら、それは止める。そこまでは分かった」
ティナは少しだけ視線を伏せた。
「……それでいいわ。今は」
その一言に、卓斗は少しだけ驚いた。
もっと強引に言ってくると思っていた。フィオラの復活を最優先にしろと押しつけてくると思っていた。だが、ティナは今だけでも卓斗の線引きを受け入れた。強制契約から始まった関係としては、小さいが確かな変化だった。
恵依が資料を見ながら、今後の目的を整理した。
「現時点での目的は、分霊石を集めることではなく、所在と役割を確認し、サリギアによる奪取を防ぐことです」
千佳がすぐに頷く。
「正確です」
恵依は続ける。
「同時に、帰還手段の調査、契約解除の可否確認、成瀬くんの魔素の制御と危険性の記録、アシェラ復活阻止が必要になります。フィオラ様の復活については、分霊石の現代での役割と、封印の状態を確認するまで即断できません」
卓斗は両手を軽く上げた。
「流川、まとめ助かる。俺の脳内、もう神話と危険物で渋滞してる」
「渋滞しているからこそ、整理が必要です」
「正論が強い」
絵麻は少しだけ呆れたように卓斗を見た。
「でも、あんたが変に抱え込むよりマシね」
「俺、抱え込むタイプに見える?」
「変なところでね」
「評価が微妙すぎる」
卓斗は軽口を返したが、絵麻の言葉は少し残った。
自分の魔素がアシェラに近いかもしれない。サリギアがそのアシェラを復活させようとしている。そう聞けば、普通に考えて自分だけがどうにかしなければならないような気分にもなる。だが、今ここには恵依がいて、絵麻がいて、ティナたち竜精霊がいて、千佳とレオンもいる。
一人で抱え込む話ではない。
レオンは記録札を閉じた。
「この件は、第六騎士団の管轄になる」
卓斗は顔を上げた。
「第六騎士団って、俺らの一時保護先だっけ」
千佳が答える。
「はい。特殊魔素、古封印、竜精霊、異界由来者、分霊石。すべて第六騎士団の領域です」
絵麻はすぐに眉を寄せた。
「領域広すぎない?」
レオンは否定しなかった。
「だから、団長の判断が必要になる」
卓斗はそこで首を傾げた。
「団長って、レオンさんじゃないんだ」
「違う」
「じゃあどんな人?」
レオンはすぐには答えなかった。
その沈黙だけで、卓斗は嫌な予感を覚えた。普通の人なら、普通に説明すればいい。説明しづらいということは、何かしらクセがあるのだ。
千佳も少しだけ間を置いた。
「会えば分かります」
「それ、絶対クセ強いやつじゃん」
卓斗の声に、絵麻が小さく同意するように息を吐いた。
アシェラ・イラト。
原初の人間の一人。
フィオラが自身ごと封じた相手。
そして、サリギアが分霊石を集めて復活させようとしている存在。
卓斗は右手首を見た。
自分がアシェラではないことは分かった。けれど、自分の力がその名へ触れる以上、無関係ではいられない。知らないまま逃げるには、もう情報が多すぎた。
資料室の外で、騎士が扉を叩いた。
「第六騎士団団長、到着されました」
その報告に、資料室の空気がまた一つ変わった。
卓斗は思わず扉の方を見た。
「なあ、今さらだけどさ」
誰にともなく、卓斗は呟いた。
「第六騎士団の団長って、普通の人だよな?」
レオンは答えない。
千佳も、すぐには答えない。
ティナだけが、どこか面白がるように卓斗を見た。
「タク。普通を期待するだけ無駄よ」
「終わったわ」
扉の向こうで、小さな足音が止まった。
卓斗の嫌な予感は、だいたい当たる。




