第一章 33 『フィオラの国』
王命によって行動制限案が止められた後、卓斗たちは検査棟の待機室から別の部屋へ移された。
移されたといっても、扉の外には相変わらず騎士がいる。案内するレオンと千佳の様子から、拘束ではないことは分かるが、好きに歩けるわけでもない。王都に来たばかりの卓斗たちにとって、白石の廊下も、壁に刻まれた紋章も、どこからどこまでが歓迎で、どこからが監視なのか判断しづらかった。
やがて辿り着いたのは、検査室よりも古い空気を持つ資料室だった。
白石の壁には大きな地図がかけられ、棚には厚い本や巻物が並んでいる。中央には広い机があり、その上に古びた石板、色付きの写し絵、円形の魔導具が置かれていた。壁際には、白銀、白銅、白鋼の竜を模した紋章もある。
卓斗は室内を見渡し、すぐに眉を寄せた。
「検査、危険物扱い、王様案件の次に歴史の授業?」
千佳は机の近くで足を止め、資料を確認しながら答えた。
「判断するためには必要です」
「異世界初日のカリキュラム、詰め込みすぎなんよ」
卓斗がぼやくと、恵依は疲れを残した表情のまま、机上の資料へ視線を向けた。
「必要な順番ではあります。私たちはフィオラという人物について、竜精霊側の説明しかほとんど聞いていません」
「必要でも疲れるものは疲れるわ」
絵麻は腕を組み、壁にかかった絵を見ながら言った。
その絵には、白い光を背に立つ女性と、三つの竜の影が描かれている。現実の人物というより、神話の場面を切り取ったような絵だった。文字は細かく添えられているが、卓斗たちには読めない。
卓斗は絵の下に並んだ文字を見て、すぐに諦めた。
「絵は分かる。文字は相変わらず終わってる」
恵依は絵と机上の石板を見比べた。
「視覚資料があるだけ、理解はしやすいです。ただ、内容の正確性は説明と照合する必要があります」
「でも説明してもらわないと、都合よく解釈されても分からないわね」
絵麻の言葉に、レオンは短く頷いた。
「だから読み上げる。内容の確認も取る。君たちが読めない文書に署名しない条件と同じで、理解できないまま同意した扱いにはしない」
その言い方で、卓斗は少しだけ肩の力を抜いた。
この世界の文字が読めないことは、思った以上に大きい。会話が通じる分、忘れそうになるが、文字だけで何かを決められたら、卓斗たちは簡単に置いていかれる。今、レオンが読み上げると明言したことは、地味だが重要だった。
ティナは壁の絵を見て、少しだけ目を細めていた。
絵の中の白銀の竜は、現実のティナとは似ていない。巨大で、神聖で、威厳に満ちている。今ここにいる小柄な少女の姿とはだいぶ違う。それでも、白銀の魔素を示す紋章だけは、卓斗の右手首に刻まれた竜紋とどこか通じていた。
レオンは机上の古い地図を広げた。
地図には、王都を中心とした白い線がいくつも伸びている。街道らしいもの、結界塔らしい印、山脈や川、かつての封印地を示すような黒い斑点。卓斗には文字が読めないが、その線が人の移動する道を示していることは分かった。
「まず、フィリスティア王国の起源から話す」
レオンの声で、資料室の空気が説明の場へ変わった。
「フィリスティア王国は、六百年前、フィオラ様が作った安全圏を礎に成立した国だ」
卓斗は地図の白い線を見下ろした。
「安全圏?」
千佳が地図の上へ指を置いた。
「当時、各地の結界は壊れ、街道も集落も孤立していました。魔素異常や魔獣災害が重なり、人が移動するだけでも命がけだったと伝えられています。フィオラ様は三柱の竜精霊と共に、それらを繋ぎ直したのです」
ティナが静かに補足した。
「少なくとも、フィオラは道を残したわ。人が動ける場所をね」
卓斗はティナを見た。
いつものような辛辣な声ではなかった。短く淡々としているのは同じだが、そこにはわずかな重さがある。六百年前を知っている者の声だった。
ゲブも恵依の横で、地図へ視線を落とした。
「確認できる範囲では、結界流を繋ぎ直した記録は事実に近いと思われます。白銀で道を開き、白銅で魔素流を整え、白鋼で崩れた結界の形を保つ。三柱がそれぞれ役割を担っていました」
ラールは少し緊張した様子で、自分の胸元に手を当てた。
「わ、私も頑張ってました。たぶん、すごく」
絵麻が横目で見た。
「たぶんって言った時点で不安になるんだけど」
「あわわっ、でも本当に頑張ってたんです!」
「そこは疑ってないわよ。今のあんたを見ると、伝承との差がありそうってだけ」
ラールは困ったように目を泳がせた。
卓斗はそのやり取りを聞きながら、壁の紋章をもう一度見た。白銀の竜、白銅の竜、白鋼の竜。王国では、ティナたちは伝承の存在として残っている。実物がこうして目の前にいるのは、王国側にとっても相当な出来事のはずだった。
レオンは次の石板を机の中央へ置いた。
そこには九つの円と、それぞれに刻まれた人型の意匠があった。中心には大きな光のようなものが描かれ、その光から九つの線が広がっている。卓斗には文字は読めないが、何かが九つに分けられている図であることは分かった。
「ただし、フィオラ様は単なる建国者ではない」
卓斗は嫌な予感を覚えた。
「まだ上があるの?」
千佳は頷いた。
「あります。フィオラ様は、原初の人間の一人です」
卓斗はすぐにレオンを見た。
「原初の人間?」
レオンは石板の九つの円を順に指した。
「原初の人間とは、千年前、創造神が自身の力を九つに分けて与えた最初の人間たちだ。その際、九人は不老となった」
卓斗はゆっくりと息を吐いた。
「待て待て。建国者どころか、神話の登場人物じゃん」
恵依は驚きを押さえながらも、すぐに情報を整理する方へ意識を向けた。
「千年前から存在する不老の人間、という理解でよいですか」
「王国記録では、そう扱われています」
千佳の返答に、恵依は少しだけ目を細めた。
「王国記録では、ということは、神話と史実が混ざっている可能性がありますね」
「はい。だからこそ、確定情報と伝承を分けて聞いてください」
卓斗は石板を見た。
九つの円に名前が刻まれているのだろう。読めない文字の向こうに、千年前から続く名前が並んでいる。神話と言われれば遠すぎるが、その一人であるフィオラは、ティナたちが実際に知っている存在だ。
レオンは一つずつ読み上げた。
「記録に残る九人は、フィオラ・フィンセント、アシェラ・イラト、アウル・ゲルミル、ゲオルギオス、イオ、ロジュス、ラビィーネ、エルドラ、ヴェルナ」
卓斗の反応は、アシェラの名で止まった。
危険物扱いの理由として出てきた名前。フィオラが自身ごと封じた相手。その名が、フィオラと同じ九人の中に並んでいる。つまり、ただの魔王や怪物ではなく、同じ原初の人間だったということになる。
「アシェラも、その九人の一人なのか」
卓斗の声は自然と低くなった。
千佳が答える。
「はい。アシェラ・イラトも原初の人間の一人です。詳しい説明は次に回しますが、六百年前の大災厄でフィオラ様と対立し、最後はフィオラ様が自身ごと封印したと記録されています」
「同じ神話級同士の喧嘩に、俺の右手首が部分照合したわけね」
卓斗は乾いた声で言った。
軽口の形にはしたが、誰も笑わなかった。卓斗自身も笑えない。自分の魔素が、その名前に触れたからこそ、王都は行動制限案を出したのだ。
レオンは続けた。
「現在も生存が確認されている原初の人間は二名。エルヴァスタ大帝国の大帝アウル・ゲルミル。レヴォルタ聖王国の聖王ゲオルギオス」
卓斗は顔を上げた。
「国のトップに神話級が普通にいるの、世界観おかしくない?」
千佳は真面目に答えた。
「普通ではありません。ただ、この世界では歴史の前提です」
絵麻が深く息を吐いた。
「前提が重すぎる」
その言葉に、卓斗は強く頷きたくなった。
日本では、歴史上の偉人は過去の人だった。千年前の人物が今も国のトップにいるなど、常識で考えれば意味が分からない。だが、この世界では不老の原初の人間が実在し、国を治めている。自分たちは、そういう世界に連れて来られたのだ。
恵依はさらに問いを重ねた。
「創造神が九人に力を与えたということですが、竜精霊は原初の人間とは別の存在なのですね」
ゲブが静かに答えた。
「はい。確認できる範囲では、私たちは竜巫女ナデュウ様によって創られた精霊です」
卓斗はまた新しい名前に反応した。
「ナデュウ?」
ティナが短く言う。
「私たちの母のような存在よ」
ラールがそこで少しだけ明るい声を出した。
「母様は、とてもすごい方なんです!」
絵麻は呆れ半分でラールを見た。
「急に家族設定出てきたわね」
卓斗も頭を押さえたくなった。
「異世界、親戚関係まで神話級かよ」
千佳は机上の別の写し絵を開いた。
そこには、中央に創造神らしき光の姿があり、その側に三つの影が描かれている。一つは竜の意匠を背負う女性。一つは星をまとった女性。一つは黒い薄布と冥い灯を持つ女性のように見えた。絵の線は古く、顔までははっきりしない。
「創造神には、三人の側近がいたと伝えられています。いずれも創造神が創造によって生み出した存在です。竜巫女ナデュウ、星巫女アストレア、冥巫女ネクロ・シビュラ」
卓斗は情報量に耐えるように、机の縁を軽く叩いた。
「創造神、原初の人間、三巫女、竜精霊。ちょっと待って。系図アプリくれ」
「紙の系図なら作れます」
恵依が真面目に言うと、卓斗は即座に首を振った。
「いや文字読めないから詰む」
千佳はほんの少しだけ笑った。
「あとで図だけでも分かる形にしましょう。今は、フィオラ様と竜精霊三柱の関係を理解できれば十分です」
卓斗は壁の絵を見た。
神話の階層は遠すぎる。だが、今の話で分かったこともある。フィオラは千年前の原初の人間で、六百年前に国の礎となる安全圏を作り、アシェラと対立して自身ごと封印された。ティナたちはそのフィオラと契約していた竜精霊で、さらにその創り主としてナデュウという竜巫女がいる。
レオンは壁の三竜紋章を示した。
「王国では、白銀は道を開き、白銅は流れを繋ぎ、白鋼は壁を立てた、と伝わっている」
ラールが目を丸くした。
「わ、私、そんなにちゃんとして伝わってるんですか!?」
絵麻が即座に返した。
「本人より伝承の方がしっかりしてるじゃない」
「あわわっ、否定できません!」
「否定しなさいよ、そこは」
卓斗は思わず口元を緩めた。
「本人とのギャップすごいな」
ティナは涼しい顔で言った。
「ラールは昔からこうよ」
「ティナちゃん!?」
ラールが慌てると、ゲブが小さく困ったように視線を落とした。
「ラール様は、行動の結果だけを記録されると非常に頼もしく見える傾向があります」
「ゲブちゃんまで!?」
説明の重さが、少しだけ緩んだ。
卓斗にとってはありがたかった。原初の人間や創造神の話ばかり続けば、頭が現実から逃げる。ラールの慌てぶりは伝承とのズレを示すと同時に、目の前にいる彼女たちが神話の絵ではなく、普通に喋って焦る存在なのだと確認させてくれた。
千佳は資料室の奥にある一枚の肖像画へ歩いた。
そこに描かれていたのは、一人の女性だった。白に近い淡い髪と、穏やかな目。王都の広場にあるという神聖な像とは違い、光に包まれた聖女というより、長い旅の後に立っている人のように見える。微笑んでいるのに、目元には疲れがあった。
卓斗はその肖像の前で足を止めた。
「この人がフィオラ?」
ティナは静かに答えた。
「……そうよ」
卓斗はしばらく肖像を見ていた。
創造神から力を与えられた原初の人間。王国を作った建国者。世界を救った英雄。そう聞けば、もっと遠くて、完璧で、近づきがたい存在を想像していた。だが、肖像のフィオラは、思っていたよりも人間に見えた。
「なんか、思ってたより普通の人っぽいな。もっと神様みたいなの想像してた」
千佳が肖像の下へ視線を落とした。
「王都の大広場では、もっと神聖な姿で彫られています。この肖像は、古い記録に近いものです。実在に近いとされています」
「英雄っていうより、疲れてる人に見える」
卓斗の言葉に、ティナは少しだけ黙った。
白銀の瞳が、肖像のフィオラから離れない。怒るかと思ったが、ティナは否定しなかった。
「疲れていたわ。それでも、やめなかった」
その声で、卓斗は自分が踏み込みすぎたわけではないと分かった。
ティナにとってフィオラは復活させたい相手であり、かつての契約者だ。王国の人々にとっては建国者であり、祈りの対象だろう。だが、ティナの中に残っているフィオラは、完璧な英雄ではなく、疲れながらも歩き続けた人だった。
千佳は肖像の前で、卓斗たちへ向き直った。
「王国の広場で語られるフィオラ様は、完璧な英雄です。でも、記録を読む限り、そう単純ではありません」
卓斗は千佳を見た。
「国の建国者なのに、そんなこと言っていいんですか」
「言わなければ、あなたたちは判断できません」
レオンも続けた。
「王国伝承には、美化と省略がある。信仰として残ったものと、実際の記録は分ける必要がある」
恵依はその言葉を受けて、慎重に確認した。
「では、今聞いている内容も、確定ではなく王国側の記録という扱いですね」
「そうだ」
レオンははっきり答えた。
「竜精霊三柱の記憶と照合できる部分もある。だが、六百年の間に失われた記録、王国に都合よく整えられた伝承、神話として飾られた部分もある」
卓斗は少しだけ納得した。
王国はフィオラを崇めている。だからこそ、フィオラの復活を願う声も強いはずだ。だが、信仰が強すぎれば、本人の苦しみや選択の重さは消える。伝承の中では、英雄はいつも正しく、いつも望んで犠牲になるものとして扱われがちだ。
それは、卓斗が嫌いな種類の話だった。
レオンは机上へ、九つの小さな石を模した模型を並べた。
それぞれ色と形が少しずつ違う。中心にはフィオラの肖像と同じ紋章が刻まれた円盤が置かれた。九つの模型は、その円盤から分かれたものとして配置されている。
「分霊石は、フィオラ様の力を九つに分けた核とされる。復活に必要な鍵でもある」
卓斗は模型を見下ろした。
「鍵であり、インフラ部品でもあると」
千佳がすぐに返す。
「言い方は雑ですが、間違ってはいません」
「雑って言われた」
恵依は模型の配置を見ながら、レオンに問いかけた。
「九つそれぞれの所在と役割は分かっているのですか」
「すべては分かっていない。所在不明のもの、他国管理のもの、封印地に組み込まれた可能性があるものがある。中には、現代の結界や街道維持に関わっている可能性が高いものもある」
絵麻は顔をしかめた。
「やっぱり、勝手に集めたらダメなやつじゃない」
「そうだ」
レオンは否定しなかった。
「王国としても、分霊石を単純な所有物として扱うことはできない。フィオラ様の復活に必要であっても、現在それが何を支えているかを確認せず動かせば、被害が出る」
ティナはその言葉を聞き、少しだけ唇を引き結んだ。
フィオラを戻したい。だが、分霊石を奪えば人が危険に晒されるかもしれない。その現実は、彼女にとっても軽くないのだろう。
卓斗は模型からフィオラの肖像へ視線を移した。
「フィオラって人がすごいのは分かった。国が大事にしてるのも分かった。原初の人間ってやつで、神話級なのも分かった」
千佳は静かに聞いている。
卓斗は続けた。
「でも、じゃあ復活のために何でもしていいって話にはならないよな」
「その理解で合っています」
千佳の返答は早かった。
ティナが卓斗へ視線を向ける。
「フィオラを戻す必要はあるわ」
「そこはまだ保留。俺が今分かったのは、雑に石を集めたら終わるってこと」
ティナは不満そうに目を細めた。
「……本当に面倒ね、タク」
「褒め言葉ってことで処理するわ」
「褒めていないわよ」
「知ってる」
卓斗は軽く返したが、考えは変えなかった。
フィオラを復活させたいティナの気持ちは、少しだけ見えた。フィオラがこの国に残したものの大きさも分かった。けれど、だからといって自分たちを勝手に連れて来たことが正しくなるわけではないし、分霊石を奪っていい理由にもならない。
恵依が机上の模型から、アシェラの名が刻まれていた石板へ視線を移した。
「では、成瀬くんの魔素が照合された相手、アシェラ・イラトについて確認が必要です」
千佳は頷いた。
「はい。そこを避けては、成瀬さんの扱いも、フィオラ様の封印も判断できません」
卓斗は右手首を見た。
「ついに俺の危険物扱いの説明か」
ティナが低く言う。
「軽く聞く話ではないわよ」
「知ってる。今日ずっと軽くない」
卓斗はそう返しながらも、逃げる気はなかった。
フィリスティア王国は、フィオラの名でできていた。
白い城壁も、結界塔も、街道の灯りも、王都の祈りも、六百年前に彼女が残した道の上にあった。
けれど、その道は綺麗な伝説だけでできているわけではない。
原初の人間。
九つに分かれた分霊石。
竜巫女ナデュウが創った三柱の竜精霊。
自身ごと封じた相手。
そして、卓斗の右手首に宿った引力と斥力。
レオンはアシェラの名が刻まれた石板へ手を置いた。
「次は、アシェラ・イラトだ」
その声が、資料室に落ちる。
卓斗は右手首を見た。
「……俺の危険物扱いの元ネタ、ってわけか」
誰も、その言い方を笑わなかった。
フィオラの国を知るためには、彼女が何を封じたのかを知らなければならなかった。




