第一章 31 『第一騎士団団長』
検査室の扉の向こうで、足音が止まった。
白石の床に響いていた音は、一人分だけだった。それなのに、入口に立つ騎士たちの空気は明らかに変わっている。検査官も補助官も、通達札を持つ手を止め、レオンでさえわずかに姿勢を正した。
卓斗は右手首を押さえたまま、扉を見ていた。
赤崎千佳。
その名前は、フィリスティア王国の騎士の名としては不自然なほど、卓斗たちに馴染みがあった。異世界文字は読めない。王都の看板も、記録札も、何一つ分からない。けれど、耳で聞いたその名前だけは、はっきり日本の響きを持っていた。
扉が開いた。
入ってきたのは、黒髪の女性だった。
年齢は二十歳ほどに見える。白と赤を基調にした騎士団の外套をまとい、腰にはこの世界の剣とは少し違う、真っ黒な鞘の刀を差していた。歩き方には無駄がなく、威圧するような魔素を放っているわけでもないのに、彼女が室内へ入っただけで散っていた視線が一つに整う。
卓斗は最初に、腰の刀を見た。
日本刀に見える。少なくとも、卓斗の知る剣よりはずっと日本刀に近い。ここが異世界だと分かっているのに、その黒い鞘だけが、妙に現代日本へつながるもののように見えた。
女性は室内を一度見渡した。
レオン、検査官、補助官、入口の騎士たち。次に卓斗、恵依、絵麻。そしてティナ、ゲブ、ラール。彼女の視線は速いが、雑ではなかった。誰が傷つき、誰が警戒し、誰が状況を握ろうとしているのかを、一瞬で確認しているようだった。
「第一騎士団団長、赤崎千佳です」
声は穏やかだった。
しかし、検査室の空気を緩める声ではない。どちらかといえば、乱れた空気を静かに整える声だった。卓斗はその名乗りを聞き、改めて名前の響きが日本人のものだと感じた。
「……日本人?」
卓斗が思わず聞くと、赤崎千佳は彼へ視線を向けた。
責めるような目ではない。むしろ、その反応は想定していたようだった。ほんのわずかに表情を和らげ、彼女は答える。
「はい。元、ですけどね」
「元って何。日本人って引退制度あるの?」
卓斗の口から、反射的に軽口が出た。
検査室の空気はまだ硬い。行動制限案の通達も消えていない。だが、日本人らしい名前の相手が目の前に現れたことで、卓斗の脳は一瞬だけ現実逃避に似た反応をした。
千佳は怒らなかった。
「戸籍の話をすると長くなります。今は、王国第一騎士団団長として来ました」
「そこ、めちゃくちゃ気になるんですけど」
「気になると思います。ですが、今ここで優先すべきことは別です」
その返答はやわらかいが、切り分けははっきりしていた。
卓斗は一瞬で、ただの同郷の優しい先輩が来たわけではないと理解した。赤崎千佳は日本人の名前を持っている。けれど、今この部屋に立っているのは、フィリスティア王国第一騎士団団長だった。
千佳は検査官へ向き直った。
「まず確認します。怪我人と消耗者に、能力実演を求めてはいませんね」
検査官は姿勢を正した。
「はい。測定のみです」
「読めない書面への署名は?」
レオンが答える。
「求めていません」
「三名の分断は?」
「行っていません。中継地点で確認した条件通り、同室で検査しています」
千佳はそこで卓斗たち三人へ視線を戻した。
「なら、そこは守られていますね」
卓斗はすぐに反応した。
「そこは、って言い方が怖いんだけど」
千佳は真面目に答えた。
「守られていない部分があるかもしれない、という意味です」
「正直で怖い人、多くない?」
卓斗は半分本気で言った。
レオンもそうだった。安心させるために嘘はつかない。千佳も同じ種類の人間らしい。助かるが、怖い。大丈夫ですと言われないことで、逆に状況の重さが増す。
千佳は卓斗の反応を受け流し、今度は三人へ向き直った。
「成瀬卓斗さん、流川恵依さん、西野絵麻さん。まず、王都到着直後にこのような形になったことは、王国側の人間として謝罪します」
卓斗は少しだけ目を細めた。
「謝るんですか」
「検査自体は必要です。ですが、あなたたちは消耗した状態で王都へ到着し、その直後に行動制限案という言葉を聞かされた。混乱と不信を招いたことは事実です」
その言い方に、恵依がわずかに反応した。
千佳は検査の必要性まで否定していない。王都側の安全確認も、卓斗の魔素の危険性も、なかったことにはしていない。ただ、手順が卓斗たちへ与えた影響を認めている。
絵麻はまだ警戒を解いていなかった。
「あの、赤崎さんって、本当に日本から来たんですか」
千佳は絵麻の方へ顔を向けた。
「はい。私は四歳の時にこの世界へ来ました」
恵依の声が少しだけ低くなる。
「四歳……」
「じゃあ、ほとんどこっちで育ったってこと?」
絵麻の問いに、千佳は頷いた。
「そうですね。日本の記憶はあります。でも、今の私の生活はフィリスティア王国にあります」
卓斗の胸に、少し重いものが落ちた。
日本人の名前を聞いた時、どこかで安心した。自分たちより先に来た人間がいて、しかも王国の偉い立場にいるなら、帰る手がかりもあるのではないかと一瞬思った。だが、四歳で来て、今二十歳ほどに見える彼女がこの国の騎士団長になっているという事実は、別の可能性も突きつけてくる。
「帰れなかったんですか」
卓斗の問いは、検査室の空気をさらに静かにした。
千佳はすぐには答えなかった。
誤魔化す沈黙ではない。どこまで話すべきか、今ここで話せる内容を選んでいる沈黙だった。彼女は卓斗の目を見たまま、静かに言った。
「帰る方法を探した時期はあります。けれど、今ここで詳しく話すには長すぎます」
「助かったと思ったら、むしろ不安材料増えたんだけど」
卓斗は正直に言った。
千佳は申し訳なさそうに、けれど嘘はつかずに返す。
「すみません。安心させるためだけの嘘は言えません」
「この国、正直な人ほど怖いな」
卓斗は力なく笑った。
帰る方法を探した時期はある。つまり、帰れるかどうかは簡単ではない。千佳がここにいることは希望でもあり、不安でもある。日本から来た先輩がいるという安心と、その先輩が今もこの世界にいるという現実が、同時に突きつけられた。
千佳はそこで、自分の立場をはっきり示した。
「私は日本人として、あなたたちの戸惑いは理解できます」
卓斗は少しだけ身を乗り出した。
「じゃあ味方?」
「王国第一騎士団団長として、王都の安全も守ります」
「はい、簡単に味方認定できないやつ」
「その理解で大丈夫です」
千佳の返答は穏やかだが、甘くなかった。
同じ日本人だからすべて味方する。そういう立場ではない。彼女はこの国で育ち、この国の騎士団長になった。卓斗たちの不安を理解しながらも、王都の安全を守る責任も持っている。
それでも、卓斗は少しだけ安心した。
なぜなら、彼女は最初からその立場を隠さなかったからだ。
千佳はレオンから通達札を受け取った。
行動制限案。古封印記録との部分照合。引力・斥力系統。アシェラという名。そこに書かれている内容を確認するにつれ、千佳の表情は静かに引き締まっていく。
「成瀬さんの魔素が古封印記録に触れたことは、軽視できません」
卓斗は顔をしかめた。
「そこは否定してくれないんですね」
「否定すると、あなたを守る判断もできなくなります」
「守る?」
卓斗が聞き返すと、千佳は通達札を閉じた。
「危険性を正確に扱わないと、恐怖だけで拘束されます」
その言葉に、卓斗は返答を失った。
危険ではないと言い切れば、王都側の警戒を無視することになる。だが、危険だという言葉だけが独り歩きすれば、卓斗本人が消える。千佳はその両方を避けようとしているようだった。
千佳は続けた。
「危険を止めることと、本人の未来を決めることは別です」
検査室の空気が、少しだけ変わった。
その言葉は、卓斗が中継地点からずっと感じていたものに近かった。危険だから調べる。それは分かる。だが、危険だから本人抜きで扱いを決める。それは違う。千佳はその線を、はっきり言葉にした。
千佳は卓斗の前へ一歩進んだ。
近づきすぎるわけではない。威圧する距離でもない。会話をするための距離だった。
「成瀬さん。あなたは今、何を望んでいますか」
卓斗は一瞬、言葉に詰まった。
望んでいることは多すぎる。家に帰りたい。スマホの電波がほしい。契約を解除したい。ティナに文句を言いたい。王都に危険物扱いされたくない。だが、その中で今この場に必要な言葉を選ばなければならなかった。
「帰る方法を探したい。契約を解除できるか知りたい。あと、俺抜きで俺の扱いを決められたくない」
千佳は静かに聞いている。
「それだけですか」
卓斗は少しだけ視線を逸らした。
それだけ、と言われると、胸の奥に引っかかるものがある。中継地点で見た魔獣の爪跡。第三灯の消えた光。分霊石を勝手に奪えば、どこかの結界や封印が崩れるかもしれないという話。それらを、なかったことにはできない。
「……分霊石を勝手に奪うのは嫌です。サリギアが奪って誰かが魔獣に襲われるなら、見なかったことにはできない。でも、フィオラ復活のために戦うって納得したわけじゃない」
千佳はそこで初めて、小さく頷いた。
「分かりました」
その一言は、軽くなかった。
卓斗が何を望み、何に納得していないのか。その両方を受け取ったうえで、千佳は記録へ残す準備をしている。卓斗は、危険な魔素の持ち主としてだけではなく、本人の言葉を持つ人間として扱われていることを感じた。
恵依が続いた。
「成瀬くんの意思と魔素の危険性を分けて記録してください。結界異常への反応があることは事実ですが、原因ではないことも中継地点で確認されています」
千佳は恵依へ視線を向けた。
「流川さん。あなたは、三名を分断しない条件を維持したいのですね」
「はい。私たちは同じ経緯で来ています。別々に扱われると、情報の切り取りや解釈の偏りが生じます」
「分かりました」
絵麻も口を挟んだ。
「成瀬だけ危険物みたいに分けるのもなし。勝手に連れて来られたのに、今度は閉じ込めるなら最悪だから」
千佳は絵麻の強い言葉にも怒らなかった。
「西野さんの警戒も、記録に含めます」
「警戒っていうか、普通に嫌ってだけ」
「その嫌だという感覚も、本人たちの意思です」
絵麻は少しだけ言葉に詰まった。
自分の感情を正面から記録されると言われると、逆に反応しにくい。卓斗は横でそれを見て、少しだけ口元を緩めた。絵麻はそれに気づき、すぐ睨んできたので、卓斗は何も言わないことにした。
千佳はレオンへ向き直った。
「レオン確認役。中継地点からの条件を維持した判断は妥当です」
レオンは短く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「検査官。行動制限案には、反論記録を添えてください」
検査官が少しだけ眉を動かした。
「反論記録、ですか」
「はい。成瀬さん本人の発言、現場での使用目的、原因ではないという記録、契約経緯の不同意、帰還希望、三名を分断しない条件。これらを同時に提出します」
検査官は記録係へ視線を向けた。
補助官たちも、先ほどまでの緊張を残したまま記録板を操作し始める。千佳の指示は強かった。第一騎士団団長としての権限が、この検査棟内でも通るのだと卓斗は理解した。
千佳は続けて言った。
「危険性は記録します。ですが、危険性だけを切り出した通達では不十分です」
検査官は姿勢を正す。
「承知しました。仮記録へ追加します」
卓斗は千佳を見た。
「助かる、でいいのかこれ」
千佳は少しだけ柔らかく答える。
「完全に安心できる状況ではありません。でも、今この場で閉じ込められる状況ではなくします」
「その言い方、現実的すぎる」
「現実ですから」
「やっぱ怖いな、この人」
卓斗がぼそっと言うと、千佳は聞こえていたのか、少しだけ目元を緩めた。
彼女はそのままティナたち竜精霊へ向き直る。
「白銀のティナ様、白銅のゲブ様、白鋼のラール様。お戻りになったこと、王国として確認します」
検査室の騎士たちが、わずかに姿勢を正した。
ティナは礼を受けても、表情を変えなかった。
「礼より状況を進めなさい」
「はい。そのために来ました」
千佳は当然のように返した。
卓斗は思わず感心した。
「強いな、赤崎さん。ティナ相手に普通に返してる」
千佳は少しだけ苦笑した。
「昔から、強い方々に囲まれていましたので」
「それ、絶対いろいろあったやつじゃん」
「いろいろありました」
「否定しないんですね」
「嘘になりますから」
卓斗はもう一度、この国の正直な人たちの怖さを感じた。
千佳はティナへ視線を戻す。
「六百年前のこと、アシェラのことは、後で確認させてください。ただし、今この場で長く話すべきではないと判断します」
ティナは短く答えた。
「その判断は妥当ね」
卓斗は横から口を挟んだ。
「俺としては気になるんだけど」
「気になるでしょうね」
千佳は卓斗へ向き直った。
「ですが、あなたは今、検査と通達と古封印記録を続けて受けています。ここで全てを詰め込めば、判断が乱れます」
「正論で止められた」
卓斗は頭を掻きたくなったが、右手首に触れそうになり、途中でやめた。
確かに、今の状態でアシェラの詳細まで聞かされたら、頭が追いつかない。すでに王都、検査、危険物扱い、日本人の騎士団長と、情報量は限界に近い。
千佳は最後に、検査官へ正式に判断を告げた。
「現時点で、成瀬さんの行動制限を即時適用する理由はありません」
検査官は記録を見ながらも、慎重に返す。
「ですが、古封印記録との照合が」
「警戒はします。否定もしません。ですが、本人を見ずに制限だけを先に置けば、王国は判断を誤ります」
千佳の声は静かだった。
けれど、その場にいる誰もが黙った。検査官も補助官も、騎士たちも、彼女の判断を受け止めるしかなかった。王国第一騎士団団長という立場は、ただの肩書きではないらしい。
レオンが確認する。
「では、現時点では第六騎士団同行下で保護継続。第一騎士団は王都防衛上の監視を行い、行動制限案には反論記録を添えて上申する、という形でよろしいですか」
「はい」
千佳は頷いた。
「本人抜きで扱いを決めないよう、私からも上げます」
卓斗はその言葉を聞き、少しだけ息を吐いた。
危険扱いが消えたわけではない。アシェラと同系統かもしれないという話も、王都上層の警戒も、そのまま残っている。けれど、今この場で閉じ込められる流れは止まった。
千佳は卓斗たち三人へ向き直った。
「この件は、王城へ上げます」
卓斗はすぐに嫌な顔をした。
「王城って、王様?」
「はい。グレコ王に、本人の言葉を含めて報告します」
「王様案件になった。終わったわ」
千佳は首を横に振った。
「終わらせないために、本人の言葉を持って行きます」
その言葉は、検査室の中で妙に強く響いた。
卓斗は千佳を見た。
赤崎千佳は、日本人の名前を持っていた。けれど、ただの同郷の味方ではない。王国第一騎士団団長として、王都の安全を守る人間でもある。その彼女が、卓斗の言葉を記録に加え、行動制限案を即時適用させなかった。
それは完全な安心ではない。
だが、何もないよりずっと大きな一歩だった。
「王様に会うとか、普通に胃が痛いんだけど」
卓斗がぼやくと、千佳は静かに答えた。
「大丈夫とは言いません。ですが、本人がいない席で未来を決める流れにはしません」
卓斗は右手首を見た。
白銀の竜紋は静かに沈んでいる。
危険扱いは消えていない。
それでも、自分抜きで決めさせないという言葉は、白い検査室の中で確かに残った。




