第一章 27 『王都へ向かう道』
中継地点の外で、夜の色が少しずつ薄くなっていた。
石造りの建物の窓には、魔導灯の淡い光がまだ残っている。だが、空の端は黒ではなく、灰色に近い青へ変わり始めていた。王都方面へ続く街道の結界灯も、夜の中で浮かぶ明かりから、朝靄の中に並ぶ標のように見え方を変えている。
卓斗は長椅子の上で、背中を丸めたまま目を開けていた。
眠った気はしない。目を閉じた時間はあったが、右手首の熱や外の足音、王都へ行くという言葉が頭に残っていて、眠りと呼べるものにはならなかった。身体は重いのに、意識だけが妙に起きている。
「寝た気がしない」
卓斗がぼそっと言うと、向かいの長椅子に座っていた絵麻が、目だけを動かした。
「寝てないでしょ」
「じゃあ正解。最悪」
絵麻も完全に休めてはいない。
空間魔素の反動はだいぶ落ち着いたようだが、顔色にはまだ疲れが残っている。足元を確かめるように靴先を軽く動かしているのは、平衡感覚が戻っているかを見ているのだろう。
恵依は窓際に近い椅子で、背筋を伸ばして座っていた。
彼女も仮眠と呼べるほど眠れてはいないはずだ。それでも、卓斗や絵麻よりずっと落ち着いて見える。こめかみに残っていた痛みも、ゲブの白銅による補助と休息で少しは和らいだらしい。
「短時間でも座って休めたことは意味があります」
「流川の前向き変換、今はちょっと助かる」
「前向きというより、状態の確認です」
「そこ真面目に返すところまで含めて助かるわ」
卓斗は軽く返しながら、右手首を見た。
竜紋は薄く沈んでいる。第三灯へ向かっていた嫌な反応も、今はほとんど表に出ていない。ただ、完全に消えたわけではなかった。右手首の奥には、まだ小さな熱の芯が残っている。
ティナは扉の近くに立ち、外の気配を拾っていた。
彼女は眠る必要がないのか、少なくとも眠そうには見えない。白銀の髪の赤いインナーカラーが、魔導灯の光を受けて細く揺れている。卓斗が視線を向けると、ティナはすぐに気づいた。
「右手首を気にしすぎね、タク」
「気にするだろ。勝手に異常方向向く腕とか、普通に怖いんだが」
「今は落ち着いているわ。だから、無駄に触らないことね」
「はいはい。触っても触らなくても怖いんだけどな」
卓斗は手を離した。
ティナの言い方は相変わらず雑だが、状態を見ているのは分かる。心配という言葉を使うつもりはないのだろうが、右手首の異変を軽く扱ってはいなかった。
外から馬のいななきと車輪の音が近づいてきた。
警備兵が入口の小窓から外を見て、管理人へ短く合図する。管理人は受付台に置いていた記録札をまとめ、レオンへ渡す準備を始めた。王都からの追加護衛が到着したのだ。
扉が開くと、朝の冷たい空気が室内へ入ってきた。
外には、レオンの部下とは別の騎士たちが数名並んでいた。背後には護送用の馬車が停まっている。幌は厚く、車輪には魔素を流すための細い金具が取り付けられていた。普通の旅用というより、護衛と保護を前提にした馬車らしい。
追加護衛の騎士がレオンへ敬礼した。
「レオン確認役、王都より追加護衛を受領しました」
レオンは騎士たちの配置を素早く確認した。
彼の表情は夜の間と変わらず硬い。だが、焦りはない。第三灯の異常が残っていても、護送を進めるための準備は整っていると判断しているのだろう。
「状況を共有する。対象は竜精霊三柱と契約者三名。扱いは保護対象。拘束ではない」
卓斗はすぐに顔を上げた。
「今の拘束ではないって、ちゃんと言った?」
レオンは卓斗へ視線を向け、わずかに頷いた。
「言った。必要な確認だろう」
「めちゃくちゃ必要」
卓斗は素直に答えた。
追加護衛の騎士たちは、卓斗の反応に少しだけ目を動かした。だが、レオンが先に条件を共有したため、誰も不用意に口を挟まない。三人を分断しないこと、読めない文書への署名を求めないこと、能力実演を求めないこと。レオンは第26話で記録した条件を、騎士たちへ簡潔に伝えていった。
恵依はその内容を聞き、静かに頷いた。
条件が言葉だけで終わらず、実際の護送隊へ引き継がれている。そこが大事だった。王都へ着くまでの範囲とはいえ、現場で守られるかどうかは、こういう確認にかかっている。
管理人が卓斗たちの前へ歩いてきた。
彼の手には、中継地点側の記録札がある。初めて会った時よりも、少し疲れた顔をしていた。無理もない。竜精霊三柱と契約者三名を保護し、結界異常と魔獣の襲撃を経験し、王都と何度も報告を交わしたのだ。
「そなたらの条件は、中継地点の記録としても送った。王都で扱いが変わるなら、この記録を確認させるといい」
恵依は姿勢を正した。
「ありがとうございます。記録が複数残るのは重要です」
卓斗は恵依を横目で見た。
「流川、記録って単語への信頼がすごい」
「今の私たちには必要です」
「だよな。読めないのが難点だけど」
「読み上げを求めます」
「そこも条件入りしてるしな」
卓斗は管理人へ目を向けた。
この中継地点に入った時、自分たちは何も分かっていなかった。文字は読めず、王国側がどう出るかも分からず、竜精霊たちは伝承の存在として畏れられていた。だが、ここで条件を出し、記録を残すことを覚えた。
女性職員が小さな治療箱を持って近づいてきた。
彼女は卓斗の右手首と手のひらを確認し、擦り傷の布を整えた。魔獣の爪を避けて転がった時の傷は大きくないが、砂利の跡はまだ赤く残っている。
「右腕の痺れが強くなったら、すぐ護衛へ伝えてください」
「了解。異世界初日の医療サポート、助かった」
卓斗が軽く言うと、女性職員は少し困ったように笑った。
「初日であれだけのことが起きる方は、そう多くありません」
「レアケース扱い、嬉しくないな」
「ですが、生きて出発できます」
その言葉に、卓斗は一瞬だけ返答を止めた。
確かにそうだった。生きている。魔獣に踏まれず、結界に巻き込まれず、王国側にすぐ拘束されることもなく、条件を持って王都へ向かえる。それは、この中継地点にいた人たちが動いてくれたからでもある。
「……それは、ほんと助かった」
卓斗の声は、少しだけ素直だった。
女性職員は深くは聞き返さず、布を結び直して下がった。卓斗が礼を言うのに慣れていないことを、なんとなく察したのかもしれない。
外へ出ると、朝靄が街道の上に薄く広がっていた。
中継地点の前には、魔獣戦の爪跡がまだ残っている。土は抉れ、結界杭の近くには補修用の札が仮に立てられていた。卓斗が斥力を使ったあたりの地面には、砂利が外側へ散った跡がある。
卓斗はその場所を見て、無意識に右手首を握りそうになった。
だが、途中で手を止める。触るなと言われたばかりだ。握ったところで熱が消えるわけでもない。代わりに深く息を吐き、視線を第三灯の方へ向けた。
遠くの灯りは、完全には戻っていなかった。
王都方面へ続く結界灯の列のうち、第三灯は薄く、第四灯もわずかに揺れている。朝の光が混ざり始めているせいで夜ほど目立たないが、安定した灯りとは言えなかった。
ゲブが恵依のそばで、その流れを確認する。
「確認できた範囲では、中継地点周辺の結界流は応急的に安定しています。ただし、第三灯方面にはまだ乱れがあります」
「つまり、安心して出発って感じではないと」
卓斗が言うと、レオンが馬車の前で答えた。
「護衛を増やした理由だ」
絵麻は馬車の方を見て、心底嫌そうに言った。
「聞けば聞くほど馬車から出たくない」
「全力で同意」
卓斗はすぐに頷いた。
昨日までの自分なら、馬車に乗って移動することすら異世界っぽいと少しは思ったかもしれない。だが今は、結界灯の揺れと魔獣の爪跡を見た後だ。外を歩きたい気持ちはまったくなかった。
レオンは護衛の配置を再確認していた。
前方に二騎、馬車の左右に一騎ずつ、後方に二騎。さらにレオン自身が馬車の前側に付く。中継地点から王都へ向かう道は街道として整備されているが、第三灯と第四灯に不安定さが残る以上、通常の護送とは違う警戒が必要だった。
卓斗は馬車に乗る前に、レオンへ確認した。
「王都に行けば、帰る方法も、契約解除も、分霊石のことも、少しは分かるんだよな」
レオンは曖昧に安心させることをしなかった。
「分かる可能性がある。保証はできない」
「そこ正直なの、本当に怖いけど助かる」
恵依が卓斗の横で言う。
「分からないことを分からないままにしないためにも、行く必要はあります」
絵麻も馬車の踏み台を見ながら、短く続けた。
「行くけど、流されない。昨日決めた通り」
「昨日って言うには濃すぎる」
卓斗はぼやいた。
日本にいた頃なら、放課後に牛乳を買って帰るだけの日だったはずだ。そこから竜精霊と契約し、異世界へ連れて来られ、魔獣と遭遇し、王国の確認役と条件交渉をした。時間の感覚がもうめちゃくちゃだった。
ティナは王都方面の空を見ていた。
朝靄の向こうに、まだ王都は見えない。だが、その先にはフィオラが建てたという国の中心がある。六百年の時間を越えて、ティナはようやくそこへ戻ることになる。
「ティナ、王都ってフィオラの国なんだろ」
卓斗が聞くと、ティナは視線を遠くへ向けたまま答えた。
「そうよ。六百年経った今も、名が残っているならね」
「珍しく静かだな」
「タクに言われるほどではないわ」
「そこはいつも通りで安心した」
ティナは軽く鼻を鳴らした。
大げさな感傷は見せない。だが、いつもの辛辣な返しの奥に、少しだけ別の重さがあることくらいは卓斗にも分かった。フィオラの国へ向かうことは、卓斗にとっては帰る方法を探すための移動だが、ティナにとっては違う意味を持つ。
ゲブは恵依の乗車位置を確認していた。
「流川様、揺れが強い場合は早めにお知らせください」
「分かりました。ゲブも無理な共鳴はしないでください」
「承知いたしました」
その横で、ラールが馬車の踏み台を見て慌てていた。
「絵麻ちゃん、馬車の段差、気をつけてくださいね! あっ、私が先に転びそうです!」
「まず自分の足元見て」
「あわわっ、はい!」
ラールは自分の足元を見すぎて、今度は馬車の扉に肩をぶつけそうになった。絵麻が反射的に袖を掴んで止める。怒っているように見えるが、手はしっかりラールを支えていた。
護送用の馬車は、卓斗が想像していたより広かった。
向かい合わせの長椅子があり、窓には厚い布と小さな防護格子がついている。外の様子は見えるが、簡単に外へ飛び出せる構造ではない。荷物置きの下には、魔導具らしき金具がいくつも組み込まれていた。
卓斗、恵依、絵麻は同じ馬車へ乗った。
ティナ、ゲブ、ラールも同乗する。第26話で出した「三人を分断しない」という条件が、ここで実際に守られている。卓斗は馬車の中を見回し、それを確認してからレオンへ視線を向けた。
「三人同じ馬車なんだな」
「条件通りだ」
レオンは馬上から答えた。
絵麻が少しだけ顎を上げる。
「そこは評価する」
「西野の上から評価、安定してるな」
「なに?」
「何でもないです」
卓斗はすぐに視線を逸らした。
絵麻は軽く睨んだが、それ以上は追わなかった。疲れているのもあるだろうし、今は本当に馬車から出たくないのだろう。
出発準備が終わりかけた時、前方警戒の騎士が戻ってきた。
「王都方面、第四灯に微弱な揺れ」
馬車の中の空気がわずかに硬くなる。
卓斗は反射的に右手首を見た。熱は強くならない。第三灯の時ほどの嫌な反応はない。だが、第四灯という言葉だけで、昨日の感覚が戻りかける。
レオンはすぐに判断した。
「前方警戒を厚くしろ。護送は予定通り進める。止まれば中継地点に対象を留め続けることになる」
「了解」
騎士が前方へ戻っていく。
卓斗は幌の隙間からレオンを見た。
「今の、めっちゃ不穏なんだけど」
「だから護衛をつけている」
「納得したくないけど納得した」
卓斗は背もたれに沈んだ。
完全に安全になるまで待つという選択肢もあるのかもしれない。だが、ここに留まり続けても結界異常の原因が消えるわけではない。王都で調べるべきことがある以上、動くしかないのだ。
管理人と女性職員、警備兵たちが中継地点の前に並んだ。
見送りというほど大げさではない。彼らにも仕事がある。結界の補修と、第三灯方面の警戒と、旅人への対応が残っている。それでも、馬車が動き出す前に、彼らは卓斗たちへ向き直った。
管理人が短く言った。
「王都で、そなたらの意思が正しく扱われることを願う」
卓斗は幌の隙間から顔を出し、少しだけ笑った。
「そこは俺らも全力で願ってる」
恵依が続ける。
「記録、ありがとうございました」
絵麻は少し迷ってから、小さく言った。
「……助かったわ」
女性職員が柔らかく頭を下げた。
ラールが慌てて手を振ると、絵麻が袖を引いて落ち着かせる。ゲブは静かに礼をし、ティナは短く視線だけを向けた。それぞれの反応は違うが、この中継地点がただの通過点ではなかったことは、全員が分かっていた。
馬車がゆっくり動き出した。
車輪が石畳から土の街道へ移り、低い振動が車内へ伝わる。卓斗は幌の隙間から外を見た。石造りの中継地点が少しずつ遠ざかる。読めない札の掛かった入口、淡く戻った結界灯、魔獣の爪跡、見送る管理人たちの姿が、小さくなっていく。
卓斗にとって、そこは最初に異世界人とまともに話した場所だった。
同時に、魔獣に襲われ、自分の力の怖さを知った場所でもある。そして、勝手に決めさせないために条件を出すことを覚えた場所だった。短い時間しかいなかったはずなのに、ただ通り過ぎたとは思えなかった。
卓斗は右手首を軽く握った。
今度は熱を確かめるためではない。
あの場所で決めたことを忘れないためだった。
帰る方法を探す。
勝手に決めさせない。
分霊石は奪わない。
サリギアが奪うなら、見なかったことにはしない。
馬車の中で、卓斗は改めてレオンへ声をかけた。
「で、王都って遠いの?」
外からレオンの声が返ってくる。
「馬車で半日ほどだ」
「半日……スマホなしで?」
ティナが呆れたように言う。
「その基準は知らないわ」
「異世界、移動からしてしんどいんだが」
絵麻が向かいの席で肩をすくめる。
「文句言っても着かないでしょ」
「文句言わないと精神がもたない」
恵依は窓の外を見ながら、冷静に言った。
「体力温存のため、適度に黙ることも検討してください」
「流川の正論、今日も強い」
卓斗はそう言って、少しだけ笑った。
馬車は朝の街道を進んでいく。
前方では第六騎士団の騎士が結界灯を確認し、左右の護衛が草むらと道端を警戒している。第三灯の不安定さは背後に遠ざかり、第四灯の揺れも前方警戒の中に飲み込まれていく。
中継地点の石造りの屋根は、やがて朝靄の向こうに消えた。
卓斗は幌の隙間から前を見た。
まだ王都は見えない。けれど、道は確かにそちらへ伸びている。白い城壁の影が見えるのは、もう少し先になるだろう。
フィリスティア王国の王都。
そこへ向かう道が、ようやく始まった。




