第一章 28 『フィリスティア王国』
馬車で半日という言葉は、聞いた時よりも実際に乗ってからの方が重かった。
護送用の馬車は、旅人用のものより頑丈に作られているらしい。車輪には魔素を流す金具があり、座席の下にも揺れを抑える術式が組み込まれているとレオンは説明していた。だが、現代日本の電車やバスに慣れた卓斗からすれば、それでも十分に揺れる箱だった。
朝に中継地点を出てから、街道は少しずつ広くなっていた。
最初は土と石を固めた道だったが、王都へ近づくにつれて、白い石材が敷かれた部分が増えていく。道の両脇には結界杭が一定間隔で並び、その根元には小さな魔導灯が埋め込まれていた。第三灯や第四灯のような不安定な揺れは、今のところ見えない。
「馬車で半日って、普通にしんどいな」
卓斗が背中を座席へ預けて言うと、向かい側に座った絵麻が呆れたように目を向けた。
「座ってるだけでしょ」
「スマホなしで揺れる箱に半日だぞ。現代人には拷問寄り」
「そこまで?」
「そこまで。暇つぶしゼロ、通信ゼロ、読める看板ゼロ。終わってる」
絵麻は窓の外へ視線を戻した。
彼女も完全に平気というわけではない。空間魔素の反動はだいぶ引いたが、長時間の揺れは身体に残る違和感を刺激するらしい。時々、座席の端を掴んで姿勢を整えている。
恵依は卓斗の言葉を聞き、少し考えるように言った。
「体力より、時間感覚の問題ですね」
「そう、それ。流川、分かってる」
「ただし、文句を言い続けても移動時間は短くなりません」
「分かってない。文句は精神安定剤なんよ」
ティナが卓斗の隣で腕を組んだ。
「文句が多いわね、タク」
「お前が連れて来たんだろ、この移動ストレス世界に」
「馬車の揺れまで私のせいにするのは、さすがに筋違いよ」
「異世界に来た原因がそっちだから、だいたい根本原因なんだよ」
卓斗がそう返すと、ティナは白銀の瞳を細めた。
いつものように冷たい視線だが、完全に突き放すものではない。中継地点での条件確認以降、卓斗とティナの会話はまだ険悪なままだが、少しだけ言葉の受け止め方が変わっている。卓斗が怒る理由を、ティナが完全には無視しなくなったからだ。
ゲブは恵依の横で、窓の外の結界杭を見ていた。
白銅の魔素は広げていない。レオンからも、移動中に無理な共鳴を行わないよう確認されている。ゲブ自身も、恵依との約束を守るように、必要以上の観測は控えていた。
「確認できた範囲では、王都に近づくほど結界杭の魔素流が安定しています」
ゲブが静かに言うと、恵依が頷いた。
「王都周辺の防衛網は、中継地点周辺より厚いようですね」
「はい。複数の流れが重なっていると思われます」
卓斗は窓から外を見た。
街道の先に、細い塔のようなものがいくつも見え始めている。最初は遠くの木かと思ったが、近づくにつれて、それが人工物だと分かった。塔の先端には魔導灯があり、空へ薄い光の膜を伸ばしている。
「結界塔ってやつ?」
卓斗が聞くと、馬車の外からレオンの声が返ってきた。
「王都外縁の結界塔だ。王都全体を覆う多層結界の支点になる」
「多層って、何枚もあるってこと?」
「そうだ。外敵、魔獣、魔素汚染、空からの侵入、それぞれに対応する層がある」
「急に防衛都市感すごいな」
卓斗は少しだけ身を乗り出した。
馬車の幌の隙間から見える景色が変わっていく。街道を行き交う人や荷車が増え、騎士の巡回も目に入るようになった。商人らしき人々が荷馬車を引き、旅装の者たちが結界杭の内側を歩いている。
やがて、朝靄の向こうから白い壁が見えた。
最初は横に長い雲のようだった。だが、馬車が進むにつれて、それが巨大な城壁だと分かる。白い石で築かれた壁は、街道の左右へ果てるように伸びていた。上部には魔導灯が一定間隔で並び、塔と塔を結ぶように淡い光の線が走っている。
その奥には、さらに高い王城の尖塔が見えた。
青白い結界の膜が空に薄く広がり、朝日を受けて虹のように揺れる。王城の背後にある高い塔からは、王都全体へ魔素の流れが降り注ぐように伸びていた。
卓斗はしばらく何も言えなかった。
「……でか」
ようやく出た言葉は、それだけだった。
絵麻が窓の外を見たまま言う。
「そこは普通に感想出るのね」
「いや、これは出るだろ。城壁のサイズ、ゲームのラスボス前じゃん」
「たとえが現代に戻りすぎ」
「だって現代人なんよ、俺」
恵依も外を見ていた。
彼女の視線は、城壁の大きさよりも、結界塔と魔導灯の配置を追っている。驚いていないわけではない。ただ、驚きながらも構造を見るところが恵依らしかった。
「防衛都市としての機能も兼ねているようです。結界塔の数が多いですね」
ゲブが答える。
「確認できた範囲では、王都全体に多層結界が張られています。中継地点の結界よりも、魔素流の密度が高いと思われます」
「つまり、さすが王都ってことか」
卓斗は城壁を見上げた。
異世界に来た実感は、森や草原でも、魔獣でも、中継地点でもあった。だが、この王都は別だった。人が作った巨大な都市。守られ、整えられ、六百年の歴史を積んだ国の中心。そこへ今、自分たちは保護対象として連れて行かれている。
門へ近づくにつれ、城壁に刻まれた紋章が見えてきた。
中央には花を抱く女性の意匠があり、その周囲を三つの竜紋が囲んでいる。白銀、白銅、白鋼。それぞれを表す色の魔素石が埋め込まれ、朝の光を受けて静かに輝いていた。
門の前には、大きな像が立っていた。
剣ではなく、花と石を手にした女性像。髪は長く、表情は穏やかで、足元には三つの竜を象った浮き彫りがある。卓斗は説明されなくても、それがフィオラなのだと分かった。
「あれ、ティナたちの紋章?」
卓斗が聞くと、レオンが外から答えた。
「白銀、白銅、白鋼。フィオラ様と共に王国創建の伝承に残る三柱の印だ」
「お前ら、マジで歴史の教科書側なんだな」
卓斗はティナを見た。
ティナは当然と言いたげに、少しだけ顎を上げる。
「当然よ」
「その当然の存在が、俺に強制契約かましてきたの本当に最悪なんだが」
「まだ言うのね」
「一生言う可能性ある」
ティナは少しだけ目を細めた。
怒っているというより、面倒な契約者だと改めて認識したような顔だった。卓斗も引く気はない。王都の門に竜精霊の紋章があろうと、フィオラの像が立っていようと、強制契約された事実は消えない。
門の前で、護送隊は一度停止した。
王都の門番たちはすでに通達を受けていたらしい。だが、馬車の中にいるティナ、ゲブ、ラールの姿を確認すると、明らかに空気が変わった。騎士たちの視線が一瞬で揃い、何人かが息を呑む。
門番の一人がレオンへ敬礼した。
「レオン確認役。報告の竜精霊様三柱と契約者三名で相違ありませんか」
「相違ない。王都通達に従い、保護対象として入城させる」
その言葉に、門番たちはさらに姿勢を正した。
周囲にいた旅人や商人たちも、馬車へ視線を向けている。誰かが小さく「白銀」と呟いた。別の場所から「白銅」「白鋼」という声が漏れる。ざわめきはすぐに広がり、けれど騎士たちの制止で大きな騒ぎにはならなかった。
卓斗は幌の隙間から外を見て、顔を引きつらせた。
「保護対象って単語、便利に使われすぎじゃない?」
恵依は落ち着いて答えた。
「現時点では、拘束ではなく保護として扱われていることを確認しましょう」
「前向きだな」
「必要な区別です」
絵麻は外からの視線を感じて、露骨に不機嫌そうな顔になった。
「見られすぎて、全然保護されてる感じしないんだけど」
ラールが慌てて小声で言う。
「あわわっ、絵麻ちゃん、私たちの紋章があるから、その、たぶん珍しいんです」
「珍獣扱いみたいで嫌」
「珍獣ではないです!」
「じゃあ何?」
「えっと、えっと、伝承級……?」
「もっと嫌」
ラールは困ったように口を閉じた。
ゲブは静かに周囲を確認していた。視線は多いが、敵意は今のところない。畏敬、驚き、好奇心、警戒。それらが入り混じっている。三竜精霊が伝承の存在として崇められている一方で、契約者三人はまだ王都の人々にとって意味の分からない存在なのだろう。
門が開くと、王都の内側が姿を現した。
白石の街路がまっすぐ伸び、その両脇には整った建物が並んでいる。屋根には青や銀の装飾が使われ、窓辺には花が飾られていた。街路の中央には細い水路が流れ、そこに沿って魔導灯が一定間隔で立っている。
人の数は中継地点とは比べ物にならなかった。
商店の前には果物や布、魔導具らしき品が並び、荷車がゆっくりと通る。騎士団の巡回が交差点ごとに立ち、子どもたちが遠くから護送馬車を見ている。壁や広場の小さな祭壇には、フィオラの小像と花が置かれていた。
卓斗は窓の外を見ながら、思わず呟いた。
「街はすごい。けど看板が一個も読めない」
恵依も同じ方向を見た。
「会話が通じるだけ、まだ行動はできます。ですが、単独行動は避けるべきです」
絵麻が即座に言う。
「迷子になったら終わりね」
「王都で迷子とか、異世界転移より地味に怖い」
「地味じゃなく普通に危険だと思います」
恵依の真面目な返答に、卓斗は苦笑した。
街並みは綺麗だった。水路の流れも、白い石の道も、魔導灯の柔らかい光も、異世界の大国らしい華やかさがある。けれど、文字が読めないだけで、その街は急に巨大な迷路に変わる。どこが宿か、どこが役所か、何が売られているのか、全部誰かに聞かなければ分からない。
レオンが馬車の横で説明する。
「王都では、まず状態確認と魔素検査が行われる」
卓斗の表情が一気に曇った。
「検査って聞くと、一気に嫌な予感する」
「必要な確認だ。ただし、中継地点で記録した条件は報告済みだ。三名を意図的に分断しない。読めない文書への署名は求めない。能力実演は求めない」
「その復唱、助かるけど逆に緊張するな」
レオンは淡々としている。
だが、復唱には意味があった。護送中だけでなく、王都に入ってからも条件を引き継ぐ。少なくともレオンはそのつもりで動いている。王都のすべてが同じように扱ってくれるかは、まだ分からない。
馬車は大通りを進み、やがて王城へ向かう道から少し外れた。
王城は遠くに見える。白い壁と青い屋根、いくつもの尖塔が空へ伸びている。そこへ直行するのかと思っていた卓斗は、馬車が外郭沿いの広い道へ曲がったことで少しだけ首を傾げた。
「王城に行くんじゃないのか?」
レオンが答える。
「まず外郭検査棟へ向かう。王城へ入る前に、状態確認と魔素検査を行う必要がある」
「観光地っぽいところを横目に、病院送りみたいな流れか」
「病院ではない」
「じゃあ検査施設?」
「近い」
「さらに嫌になった」
卓斗がぼやくと、絵麻も同意するように小さく息を吐いた。
「歓迎されてる感じは、全然しないわね」
恵依は冷静に言った。
「歓迎より確認が優先される状況です。竜精霊三柱と契約者三名、結界異常、サリギア類似術式、成瀬くんの未知魔素。王国側が検査を求めること自体は不自然ではありません」
「流川、正論が痛い」
「ただし、扱い方は別です」
恵依ははっきり付け加えた。
検査が必要なことと、本人の意思を無視していいことは別だ。そこは中継地点からずっと確認してきた線だった。卓斗はその言葉に少しだけ安心した。
ティナは王都の街並みを黙って見ていた。
彼女は門をくぐってから、普段より言葉が少ない。フィオラの像、竜精霊の紋章、白い城壁、王城の尖塔。それらは六百年前から続くものでもあり、六百年の間に変わったものでもあるのだろう。
卓斗は横目でティナを見た。
「……ティナ?」
「何でもないわ」
「何でもない顔じゃないだろ」
「タクに心配されるほどではないわ」
「心配っていうか、珍しく黙ったから不気味だっただけ」
「やはり心配ではなかったわね」
ティナはいつもの調子で返した。
だが、その目はまだ王都の街並みに向いている。卓斗はそれ以上踏み込まなかった。ティナにとって、この国はただの目的地ではない。フィオラが建てた国で、六百年後も彼女の名を掲げている場所だ。その重さを、軽口だけで踏み荒らす気にはならなかった。
馬車は外郭に建つ白石の施設の前で止まった。
建物は王城ほど豪華ではないが、石壁には騎士団の徽章と結界札がいくつも刻まれている。入口の両脇には第一騎士団と第六騎士団らしき騎士が立ち、建物の周囲には魔素測定用と思われる細い柱が並んでいた。
街のざわめきは、ここでは急に遠くなる。
白石の壁と結界札に囲まれた建物は、王都の華やかな通りとは違う硬さを持っていた。治療施設にも、役所にも、警備拠点にも見える。どれであっても、卓斗が気楽に入りたい場所ではない。
レオンは馬車を止めさせ、扉を開けた。
「ここから先は、王都外郭検査棟だ。まず状態確認と魔素検査を行う」
卓斗は馬車の中から建物を見上げた。
「観光終了、即検査?」
「観光の予定は組まれていない」
「異世界、情緒がない」
絵麻が呆れたように言う。
「そもそも観光に来たわけじゃないでしょ」
「それはそう」
卓斗は認めた。
だが、白い王都を見て少しだけ異世界らしさに圧倒された直後に検査棟へ連れて来られると、現実へ引き戻される感じがすごい。自分たちは歓迎された客ではない。重要で、危険性もあり、扱いに注意が必要な保護対象なのだ。
建物の扉が開いた。
中から白い外套を着た検査官が出てくる。年齢は三十代ほどで、手には金属の輪と透明な板を組み合わせたような魔導具を持っていた。後ろには補助官らしき者が二人いて、記録札と小さな箱を抱えている。
検査官はレオンへ一礼し、それから馬車の中へ視線を向けた。
ティナ、ゲブ、ラールを見た瞬間、目の奥に驚きが走る。だが、仕事の顔は崩さなかった。次に卓斗、恵依、絵麻を見て、記録札を開く。
「竜精霊三柱、契約者三名。規定に従い、魔素反応、契約紋、異界由来反応を確認します」
卓斗は右手首を押さえた。
王都に着いた。
白い城壁も、巨大な結界も、フィオラ像も見た。
けれど、歓迎の花道などどこにもなかった。




