第一章 26 『三人の条件』
卓斗の「勝手に奪うのはなしだろ」という言葉のあと、中継地点の室内には、少し重い沈黙が落ちていた。
魔導灯の光は変わらず淡い。受付台の上では結界札が細く揺れ、第三灯の異常を示す小さな光が消えきらずに残っている。外では第六騎士団の部下たちが周辺警戒を続けており、扉の向こうから時折、馬具の金具が鳴る音がした。
レオンは記録札へ卓斗の言葉を刻んでいた。
卓斗には、その文字は読めない。だが、筆先の動きが慎重になったことだけは分かった。自分の言葉が、この世界の記録として残されている。それは心強くもあり、同時に気味が悪くもあった。
恵依は長椅子に座ったまま、結界札から卓斗、絵麻、レオンへと視線を移した。
彼女の顔色はまだ万全ではない。解析の負荷は残っている。それでも、今の会話を流してしまえば、王都に着いた時には別の形で話が進んでいるかもしれない。そう判断したのだろう。
「王都へ向かう前に、条件を整理しておくべきです」
卓斗は少しだけ眉を上げた。
「条件って、俺らが出していいやつ?」
レオンは記録札から顔を上げた。
「出していい。守れるかどうかは、私の権限と王都側の判断を分けて答える」
その答えに、絵麻がすぐ反応した。
「じゃあ今言う。後で流されたら困るし」
絵麻の声には疲労が残っている。
だが、弱くはなかった。空間魔素を使いすぎて座っているしかない状態でも、言うべきことは言う。その姿勢は、卓斗にも分かりやすかった。
恵依は小さく頷き、最初の条件を口にした。
「まず、三人を意図的に分断しないことです。私たちは同じ経緯でこの世界へ来ています。認識を合わせた状態で説明する必要があります」
レオンはすぐには返さなかった。
彼は恵依の言葉を記録札に残し、そこから卓斗と絵麻を順に見た。三人が同じ条件を望んでいるのかを確認している。確認役として当然の動きなのだろうが、今はその手順がありがたかった。
絵麻が腕を組む。
「別々にされたら、話を作られても分からないでしょ」
「俺、異世界文字読めないしな。書類出されたら終わる」
卓斗が続けると、レオンは頷いた。
「王都到着まで、三名を意図的に分断しない。これは私の権限で守る」
「王都到着まで、か」
卓斗はその範囲を聞き逃さなかった。
レオンはごまかさない。
「王都到着後は、私一人では保証できない。だが、この記録と私の報告は残る」
「そこ毎回怖いけど、嘘つかれるよりはマシか」
卓斗は息を吐いた。
絶対大丈夫と言われるより、守れる範囲を区切られる方が、今は信用できる。少なくとも、レオンは安心させるための嘘を使っていない。
恵依は次の条件へ進んだ。
「書面が必要な場合、内容を読み上げ、私たちが理解できる形で確認してください。読めない文書への署名は拒否します」
卓斗は大きく頷いた。
「それな。読めない書類に名前書けとかはなし。マジでなし」
「当然だ。読めない文書への署名は求めない」
レオンの返答は早かった。
卓斗は少しだけ目を丸くする。
「今の当然って言葉、かなり助かる」
「当然の確認が必要な状況だということは理解している」
レオンはそう言い、記録札へ条件を加えた。
卓斗はその文字を見たが、当然読めない。読めないからこそ、今の確認が必要になる。会話は通じるのに文字が読めないという不便さは、王都へ行けばさらに重くなるのだろう。
恵依はそのまま言葉を重ねた。
「契約経緯についても記録してください。私たちは自分の意思でこの世界へ来たわけではありません。契約に十分な説明と同意があったとは言えません」
その言葉で、竜精霊三人の空気が少し変わった。
ゲブは静かに視線を落とし、ラールは膝の上で手を握る。ティナだけは卓斗たちを正面から見ていたが、反論はしなかった。
卓斗は右手首を見下ろし、竜紋の薄い光を見た。
「俺ら、好きで来たわけじゃない。そこは絶対に記録してくれ」
絵麻もすぐ続ける。
「竜精霊の契約者ってだけで、自分から使命を受けたみたいに扱われるのは嫌」
レオンは三人の言葉を聞き、少しだけ表情を引き締めた。
「契約経緯に不同意が含まれる可能性あり。三名は帰還希望を持つ。これも再記録する」
ラールが小さく息を呑んだ。
絵麻は横目でそれを見る。責めるためではない。だが、目を逸らすつもりもなかった。ラールは絵麻を連れて来た側だ。その事実は、今ここで曖昧にしてはいけない。
ゲブは恵依へ丁寧に頭を下げた。
「流川様、説明が十分ではなかったことは事実です。今後は、確認と説明を優先いたします」
恵依はすぐには許すとは言わなかった。
ただ、落ち着いた声で返す。
「お願いします。必要なことでも、本人に説明しないまま進めないでください」
「承知いたしました」
ティナは卓斗を見た。
卓斗も視線を逸らさない。
「ティナ、お前にも言っとく。俺抜きでフィオラ復活の話を進めるな」
「タク、あなたは本当に文句が多いわね」
「文句じゃなくて条件」
「分かっているわ。今後は、可能な限り先に話す」
「可能な限り、が怖いんだよ」
卓斗が顔をしかめると、ティナは白銀の瞳を細めた。
「絶対と言えないことを絶対とは言わないわ」
「そこだけ妙に誠実なの腹立つな」
卓斗は文句を言いながらも、それ以上は押し込まなかった。
ティナが完全に謝ったわけではない。強制契約への怒りも消えていない。だが、少なくとも今のティナは、卓斗抜きで話を進めることが問題になると理解している。
恵依は次の条件へ移った。
「帰還手段の調査を、フィオラ様復活とは別に扱ってください」
レオンは記録札へ手を置いた。
「別に、とはどういう意味だ」
「フィオラ様が復活すれば帰れるかもしれない、という希望的観測で流されるのは困ります。帰還手段の有無、転移魔法の再現性、契約解除の可否は、それぞれ確認すべきです」
卓斗は即座に頷いた。
「フィオラ復活したら帰れるかも、みたいな話で進めるのはなし。帰れる保証ないのに連れて来られた側としては、そこ普通に重要なんよ」
ティナは短く答えた。
「確実とは言えないわ。そこは分けるべきね」
「お前がそれ言うと、ちょっと複雑」
「事実よ」
卓斗は何か言い返そうとして、やめた。
ティナが断言しないことは腹立たしいが、嘘をつかれるよりはいい。帰れる保証がないと認めたうえで、帰還手段を調べる必要がある。その確認は、今後も絶対に外せなかった。
レオンは記録札に追記した。
「王都には転移魔法、召喚記録、異界記録に関する資料がある。すべてが有効とは限らないが、確認対象に加える」
「それ、頼む。マジで」
卓斗の声は軽くなかった。
スマホは圏外で、家への道も、学校へ戻る道もない。異世界の空の下で、帰るという言葉だけが、まだ自分を現代日本につなぎ止めている。
恵依はそこで、前話から続く最重要の条件を出した。
「分霊石についても記録してください。勝手に奪わないこと。動かす場合は、役割、影響範囲、代替手段、現地管理者の同意を確認する必要があります」
卓斗はレオンを見た。
「分霊石は勝手に奪わない。これ、絶対入れて」
絵麻も声を強める。
「必要だからって勝手に持ってく側にはならない。サリギアと同じになりたくないし」
レオンはその条件を、少し重く受け止めた。
「その方針は王国側にも必要だ。記録する」
ティナは黙っていた。
彼女にとって、フィオラ復活は諦められない目的だ。分霊石が必要であることも変わらない。だが、前話で聞いたように、現代の分霊石は各地の結界や封印、魔導施設の支えになっている可能性がある。そこを無視すれば、守るべきものを壊すことになる。
「フィオラを戻すために必要でも、今の役割を無視して奪えば、守るべきものを壊すことになる。……分かったわ」
卓斗は少しだけ驚いた。
ティナが渋々でも認めたからだ。完全に納得した顔ではない。それでも、「奪う」とは言わなかった。その違いは大きい。
「今の、ちゃんと記録しといて」
卓斗が言うと、レオンは頷いた。
「記録する」
ゲブが恵依の横で静かに補足した。
「流川様、分霊石を動かす場合、代替となる魔素流の確保が必要です。私の白銅で一時的に補助できる可能性はありますが、恒常的な代替には不足すると思われます」
恵依はすぐにゲブへ向き直った。
「その場合でも、無理な共鳴は禁止です」
「……その条件も含まれるのですね」
「含まれます。あなたが倒れたら、全体の安全が下がります」
ゲブは少しだけ沈黙したあと、丁寧に頷いた。
「その計算は正しいと思われます」
ラールは絵麻の隣で、両手を握りしめた。
「絵麻ちゃん、私も勝手に決めないようにします!」
絵麻はラールを見る。
「まず慌てて変な方向に障壁出さないこと」
「あわわっ、そこも頑張ります!」
「それと、フィオラ様のためって言葉で全部まとめないこと」
ラールは一瞬だけ困った顔をしたが、すぐに頷いた。
「はい。必要でも、ちゃんと聞きます」
絵麻はその返事を聞き、少しだけ表情を緩めた。
「ならいい」
卓斗はそのやり取りを見て、また少しだけ空気が変わったことを感じた。
竜精霊たちはフィオラを戻したい。日本人三人は帰りたい。目的は同じではない。けれど、勝手に決めない、奪わない、説明する。そういう最低限の線が引ければ、少なくとも今すぐ崩れることはない。
レオンが記録を続ける中、卓斗は次の条件を口にした。
「あと俺の右手首。勝手に結界異常レーダー扱いしないでくれ」
レオンは顔を上げた。
「本人の同意なく反応確認を任務化しない。能力実演も求めない。王都到着までの範囲では保証する」
恵依も続けた。
「反応が出た場合も、本人の状態確認を優先してください。痛み、熱、意識の引かれ方が強い場合は中止すべきです」
絵麻が腕を組んだまま、卓斗の方を見ずに言う。
「成瀬が嫌がってるのに使う流れになったら、私が止めるから」
「西野の殴る宣言、ここで活きるの怖い」
「殴るとは言ってないでしょ」
「さっき言ってたよな?」
「必要ならね」
「やっぱ言ってるじゃん」
卓斗の軽口に、絵麻はそっぽを向いた。
だが、その言葉はありがたかった。自分が嫌だと言った時に、誰かが一緒に止めてくれる。それだけで、便利な道具にされる不安は少しだけ薄くなる。
レオンはそこで、記録札を一度閉じた。
彼は全員を見渡し、これまでの条件を自分の言葉でまとめ始める。確認役として、ここから先に何を守れるかを明確にするためだった。
「私が保証できるのは、王都到着までの護送範囲だ。三名を意図的に分断しない。読めない文書への署名は求めない。能力実演は求めない。契約経緯と帰還希望を報告に明記する。分霊石を奪わない方針も報告する。成瀬卓斗殿の魔素反応は、本人の同意と状態確認を優先する」
卓斗は真面目に聞いた。
長い条件だが、どれも自分たちに関わる。聞き流していいものではない。分からない言葉があれば、今聞くべきだった。
「王都に着いた後は?」
絵麻が短く聞いた。
レオンはすぐ答える。
「王都到着後の上層判断、王城での正式保護方針、第六騎士団配属の可否、分霊石探索の正式方針、帰還手段の有無。これらは私一人では決められない」
「そこ、毎回怖いけど、嘘つかれるよりはマシ」
卓斗が言うと、レオンは静かに頷いた。
「だからこそ、ここで記録を残す」
恵依はその言葉を受け取り、確認するように言った。
「記録が後の判断材料になる、ということですね」
「そうだ。王都で誰が判断するにしても、中継地点での記録と確認役の報告は残る」
管理人も受付台の前で頷いた。
「この中継地点からも同じ内容を送る。そなたらの条件は、私の記録にも残す」
卓斗は管理人を見る。
初めてこの中継地点に来た時、読めない文字と竜精霊への畏敬に囲まれて、完全にこちらが不利だと思った。今も有利ではない。だが、少なくとも言葉を残そうとする人間はいる。
「助かる。いや、まだ全部信用したわけじゃないけど」
管理人は短く答えた。
「それでいい」
卓斗は少し笑った。
この世界に来てから、何度も似た言葉を言っている気がする。信用はまだできない。だが、話はできる。その積み重ねでしか、今は進めない。
レオンは再び記録札を開き、三人の条件を刻んでいった。
卓斗はその文字を読めなかった。
けれど、今度は読めないまま流されるつもりはなかった。読めないなら読み上げさせる。分からないなら聞く。勝手に決められそうになったら止める。そういう当たり前のことを、一つずつ条件にしていくしかない。
ティナは卓斗の横で、腕を組んだまま黙っている。
恵依は条件の抜けがないかを確認し、絵麻はまだ少し不満そうな顔でレオンの手元を見ていた。ゲブとラールも、それぞれの契約者のそばで、今交わされた言葉を受け止めている。
やがて、レオンの筆が止まった。
「記録した。王都へ送る追加報告にも反映する」
卓斗は長椅子の背から体を起こした。
右手首の熱は、さっきより落ち着いている。だが、完全には消えていない。王都へ行けば、この力のことも、契約のことも、分霊石のことも、さらに深く調べられるのだろう。
それは嫌なことでもある。
だが、知らないまま流されるよりはましだった。
「王都へ行く。けど、勝手には決めさせない」
卓斗の声は大きくなかった。
それでも、室内にはっきり届いた。
恵依が静かに頷く。
「はい。そのために、条件を残しました」
絵麻も視線をそらしたまま言う。
「勝手に決められたら、また言えばいいでしょ」
「西野、そういうとこ頼もしいな」
「変な褒め方しないで」
「褒めてるって」
「知ってる」
絵麻は小さく返した。
外では、夜明け前の空が少しだけ薄くなり始めていた。
中継地点の扉の隙間から入る光はまだ弱い。けれど、完全な夜ではなくなっている。王都へ向かう道は、少しずつ姿を見せようとしていた。




