第一章 24 『消えた第三灯』
レオンが外へ出ると、重い扉はすぐに閉じられた。
冷たい夜気は扉の隙間に押し戻され、中継地点の中には魔導灯の淡い光だけが残った。さっきまで開いていた外の暗さが消えたはずなのに、室内の空気は軽くならない。王都方面の第三灯が落ちたという報告は、扉を閉めても消えなかった。
卓斗は長椅子に座ったまま、右手首を押さえていた。
熱は強くない。魔獣を引き寄せた時のように、砂利や空気が一気に歪むわけでもない。けれど、手首の奥に細い針金でも引っかけられたような感覚があり、気を抜くと意識が王都方面へ向きそうになる。
「……行く気はない。ないけど、右手首がめちゃくちゃ気持ち悪い」
卓斗が正直に言うと、絵麻がすぐに目を向けた。
彼女はまだ長椅子の端を掴んでいる。空間魔素の反動は残っているが、卓斗が変な動きをしないかを見る余裕はあるらしい。その目は、心配というより監視に近かった。
「なら座ってて。今外に出たら本当に殴る」
「西野、判断早すぎ」
「今は必要でしょ」
絵麻の返答に、恵依も静かに同意した。
彼女はこめかみへ指を添えたまま、卓斗の右手首と扉の位置を見比べている。解析負荷はまだ抜けていない。それでも、卓斗の魔素反応が外の異常と関係している以上、目を離すわけにはいかないと判断しているのだろう。
「西野さんに賛成です。成瀬くんは座っていてください」
「満場一致で外出禁止じゃん」
卓斗は長椅子へ深く座り直した。
自分でも外へ出たいわけではない。むしろ出たくない。さっき魔獣を押し返したばかりで、右腕も背中も痛い。それなのに、右手首だけが外の異常へ勝手に反応している。そのちぐはぐさが、余計に気持ち悪かった。
ティナは卓斗のすぐ近くに立ち、白銀の瞳で右手首の竜紋を見ていた。
彼女の表情はいつものように冷静だが、軽くは見ていない。卓斗の魔素が結界異常に反応する。それは手がかりになる一方で、異常の方へ引かれる危険もある。ティナはその両方を警戒していた。
「引っ張られるってほどじゃない。でも、右手首の奥が、消えた灯りの方を向いてる感じがする」
卓斗は感覚を言葉にしようとして、眉を寄せた。
自分でもうまく説明できない。方角を地図のように分かるわけではない。ただ、閉じた扉の向こう、さらにその先に落ちた灯りがあり、そこへ細く嫌な流れが伸びているように感じる。
恵依はその説明を聞き、姿勢をわずかに正した。
「方向が分かるのですか?」
「正確には無理。けど、たぶん王都側。さっき灯りが消えた方」
ゲブが恵依の横から卓斗の右手首を見た。
白銅の魔素が、卓斗の腕の周囲に細く漂う。触れるほど近くはない。直接干渉ではなく、外側の魔素流だけを確認しているようだった。
「確認できた範囲では、成瀬様の魔素は結界流の沈みに反応しています」
「俺が異常側みたいに聞こえるんだけど」
卓斗は嫌そうに顔をしかめた。
ゲブは慌てず、言葉を選び直す。
「原因と一致しているわけではありません。反応している、という表現が正確と思われます」
「そこ大事。かなり大事」
卓斗は少し強めに言った。
自分の力が引力や斥力に近いと分かっただけでも嫌なのに、結界異常に反応していると言われれば、まるで自分が異常の一部のように聞こえる。原因ではない。反応しているだけ。その線引きは、卓斗にとって絶対に曖昧にしたくないものだった。
恵依は一度目を伏せた。
解析するべきか、休むべきかを判断している。彼女自身も消耗している。さっきも頭痛を押さえていた。だが、今ここで卓斗の反応を少し確認できれば、外の第三灯で何が起きているのかを推測できるかもしれない。
「成瀬くんの反応を見れば、第三灯の沈み方を推測できるかもしれません」
ゲブがすぐに恵依へ顔を向けた。
「流川様、解析負荷が残っています。短時間でも危険です」
「分かっています。深くは見ません。方向と強弱だけです」
恵依はゲブの忠告を退けるのではなく、条件を絞った。
それでも卓斗にとっては、自分の腕が調査道具になるようで、あまり気分のいい話ではない。恵依が悪気で言っているのではないことは分かる。だからこそ、なおさら断りにくい空気になるのが嫌だった。
「俺の腕で調査する感じ、普通に怖いんだけど」
卓斗がそう言うと、恵依はすぐに卓斗へ向き直った。
「無理にはしません。成瀬くんが不快なら中止します」
その返答は早かった。
卓斗は少し黙った。恵依は合理的だが、本人の意思を飛ばして進めるつもりはない。そこを分けてくれるなら、短時間だけなら許可してもいいと思えた。
「軽く見るだけな。痛くなったら即終了」
「分かりました」
絵麻が横から卓斗の顔を見た。
「成瀬が変な顔したら止めるから」
「変な顔基準?」
「あんた分かりやすいから」
「その評価、嬉しくはないな」
卓斗は文句を言いつつ、右腕を膝の上へ置いた。
ゲブが白銅の魔素をさらに細く整える。卓斗の右手首を包み込むのではなく、周囲の空気に薄い流れを作るだけだった。白銅の光は柔らかく、結界の乱れを直接抑えるというより、周りの魔素が暴れないように縁を作っている。
恵依はその縁の内側を見た。
彼女の瞳がわずかに光を帯びる。解析の魔素が、卓斗の右手首から外へ向かう反応を追う。深く潜らない。卓斗の中身を覗くのではなく、右手首の周囲に生じた魔素の傾きだけを確認する。
卓斗は息を止めかけ、すぐに吐いた。
痛くはない。だが、気持ち悪さは増した。右手首の奥にある細い違和感が、誰かに指差されたことで輪郭を持ったように感じる。外へ伸びるわけではないのに、空気の重心が王都方面へ傾いているようだった。
恵依は数秒で解析を止めた。
ゲブも白銅の流れを弱める。長椅子の周囲に漂っていた淡い光が薄くなり、卓斗の右手首の熱も少しだけ落ち着いた。
「同じ系統です。結界を壊すのではなく、外側へ引いて沈めています」
恵依の声は落ち着いていたが、表情は重かった。
卓斗は右手首を押さえ直した。
「また引くやつかよ」
「確認できた範囲では、成瀬様の魔素と方向性は近いですが、波形は一致しません」
ゲブがすぐに補足する。
「そこ大事。めちゃくちゃ大事」
卓斗は二度目の確認のように言った。
ティナが静かに続ける。
「だから、あなたが原因ではないわ。ただし、反応してしまう」
「便利能力じゃなくて、嫌なものに反応する呪いっぽいんだけど」
「使い方次第よ」
「そういう言い方するやつ、だいたい危ない力なんだよ」
卓斗は眉を寄せた。
今の反応は、役に立つかもしれない。第三灯の異常に室内から気づけたのは事実だ。だが、それを理由に今後も卓斗の右手首を結界異常の探知に使う流れになれば、本人としてはたまったものではない。
恵依はその不快感を拾った。
「現時点では、使用を前提にしない方が安全です。反応がある、という情報に留めるべきです」
「それ大事。俺、魔獣レーダーとか結界異常レーダーになる気ないから」
絵麻が頷いた。
「勝手に探知機扱いされたら困るしね。そこは王都でも言った方がいい」
「どんどん条件増えるな」
「増やさないと流されるでしょ」
絵麻の言い方は刺々しいが、内容は正しかった。
卓斗は異世界に来てから、何度も勝手に決められかけている。契約も転移も、王都への保護も、自分の魔素の扱いも。言わなければ、便利なものとして扱われる可能性がある。それが今の世界の怖さだった。
ティナは卓斗の右手首を見ながら、声を少し低くした。
「それ以上は見るのをやめなさい」
「命令形」
「あなたの魔素が異常の方へ寄る。今のあなたでは、引かれる可能性があるわ」
「俺、磁石か何か?」
「近いわね」
「否定してくれ」
卓斗はげんなりした。
笑いに逃げたいのに、完全には笑えない。魔獣の時、自分は実際に引いてしまった。今は遠くの結界異常へ反応している。もしそれが強くなれば、ただ気持ち悪いだけでは済まないのかもしれない。
ラールが、卓斗の右手首を見て口を開きかけた。
「あの、卓斗さんの反応があれば、もしかして……」
そこまで言って、ラールははっとしたように言葉を止めた。
絵麻が横目で見る。ラールは慌てて両手を振り、言い直した。
「あ、でも、勝手に使う前提にしたら駄目ですよね」
絵麻は少しだけ口元を緩めた。
「そう。今のは止まれたから合格」
「合格ですか?」
「ぎりぎり」
「ぎりぎり……!」
ラールは複雑そうな顔をしたが、それでも少し嬉しそうだった。
重い空気の中で、そのやり取りだけがわずかに緩みを作る。卓斗も少し息を吐いた。ラールはポンコツだが、学ぼうとはしている。悪意がなくても困ることがある。そのことを、彼女なりに受け止めようとしていた。
中継地点の外では、レオンが部下二名を連れて王都方面へ進んでいた。
夜明け前の街道は、まだ青黒い闇を残している。魔導灯の列が道を示しているが、第三灯だけは沈黙していた。そこだけが、灯りの連なりから抜け落ちた穴のように暗い。
レオンは馬を手前で止め、第三灯の結界杭へ歩いて近づいた。
足元には魔獣の大きな足跡はない。中継地点近くで暴れた大型寄りの魔獣とは違い、第三灯の周囲は荒らされていなかった。草の倒れ方も少なく、土を掘り返した跡もない。
部下の一人が灯りを掲げ、結界杭の根元を照らした。
「杭は破損していません。ですが、流れが外へ逃げています」
レオンは片膝をつき、結界杭の根元を確認した。
石材は割れていない。魔獣の爪で削られた跡もない。だが、根元近くに細い刻印のような傷が走っていた。傷そのものは浅い。けれど、その浅い線に沿って結界の魔素流が外側へ引かれ、灯りを支える芯が沈められている。
「魔獣ではない。爪跡ではなく、術式の傷だ」
レオンの声に、もう一人の部下が周囲を警戒しながら尋ねた。
「人為的な干渉ですか」
「断定は戻ってからだ。だが、自然劣化ではない」
レオンは指先で土を軽く払った。
刻印の溝には、濁った魔素の残滓がわずかに残っている。燃え残りの灰のように薄く、時間が経てば消えてしまいそうな痕跡だった。それでも、第六騎士団の確認役として見逃せるものではない。
第三灯は壊されていない。
壊せば、すぐに異常として見つかる。だが、流れだけを外へ引いて沈めれば、結界は完全には消えず、薄い通り道だけができる。魔獣が偶然通ったのではない。誰かが通れる状態を作った可能性が高い。
レオンは立ち上がった。
「中継地点へ戻る。現場保存だ。触れるな」
「了解」
部下二名が周囲の警戒を維持したまま、第三灯から離れた。
レオンは振り返り、灯りの落ちた結界杭をもう一度見た。王都へ続く街道の一部に、意図的な穴が空けられている。それは中継地点だけの問題ではない。王都方面の結界線そのものが、誰かに狙われている。
中継地点の扉が開くと、外の冷気と一緒にレオンが戻ってきた。
外套の裾には土がつき、袖口には薄い魔素の残滓がまとわりついている。彼は室内へ入ると、まず扉を閉めるよう部下へ合図した。警備兵がすぐに閂を戻し、室内の空気が再び閉じられる。
卓斗は右手首を押さえたまま、レオンを見た。
レオンの表情を見れば、良い報告ではないことくらい分かる。管理人も受付台の前に立ち、女性職員は結界札を抱えて待っていた。恵依は無理に立たず、座ったまま視線だけを上げている。
「第三灯を確認した。杭は折れていない。だが、結界流が外側へ引かれている」
レオンは最初に結論を言った。
恵依の表情が少し険しくなる。
「こちらの推測と一致します」
「推測したのか」
レオンの視線が卓斗へ動いた。
卓斗は嫌そうに肩をすくめた。
「俺の右手首が勝手に気持ち悪くなった」
「……報告の通り、結界異常に反応しているのか」
「便利そうに言わないでくれ。本人はだいぶ嫌」
レオンはその言葉を軽く扱わなかった。
彼は卓斗の顔を見てから、記録札へ視線を落とす。
「記録には、本人の不快感と危険性も含める」
「そこは助かる」
卓斗は少しだけ息を吐いた。
原因としてではなく、反応者として。本人の意思とは別に、勝手に反応してしまう危険なものとして。そう記録されるなら、まだましだった。もちろん、名前が報告に増えること自体は全然嬉しくない。
レオンは続けた。
「術式痕は、魔獣の爪ではない。自然劣化でもない。結界を壊すのではなく、流れだけを外へ引いて沈めている。中継地点周辺の異常と同系統だ」
ティナが白銀の瞳を細めた。
サリギアという現代の名を、彼女は知らない。けれど、結界や封印の流れを外からいじる術式の質には、竜精霊として反応できる。彼女の視線は扉の向こうではなく、レオンの外套に残った薄い魔素残滓へ向いていた。
「嫌な術式ね。結界を壊すのではなく、通れる薄さに沈める。封印や結界の役割を知っている者のやり方だわ」
ゲブも静かに目を伏せた。
白銅の魔素が、彼女の周囲でわずかに揺れる。そこには驚きより、嫌な予感を確認してしまったような重さがあった。
「確認できた範囲では、六百年前の術式そのものではありません。ただ、分霊石や結界核に近い魔素流を外側へ動かそうとする質があります」
卓斗はゲブの声に引っかかった。
「分霊石とか結界核に近いって、また話でかくなってない?」
レオンが答えた。
「その手口に近い現代の組織がある」
管理人がその言葉に反応し、警備兵の手が槍の柄へわずかに力を込める。女性職員も結界札を抱く手を強くした。卓斗はその反応を見て、まだ名前も聞いていない相手が王国側に警戒されているのだと理解した。
レオンは短く告げた。
「サリギアだ」
「サリギア?」
卓斗が聞き返すと、レオンは記録札を閉じた。
「王国が警戒している組織だ。分霊石、封印、古い魔導核に対する干渉が複数確認されている。今回の術式痕は、その既知手口に近い。ただし、完全一致ではない」
ティナはレオンの説明を聞き、少しだけ眉を動かした。
知らない名だった。六百年前の彼女の記憶にはない。フィオラと共に戦った時代には存在しなかったか、少なくともその名では呼ばれていなかった組織。けれど、結界や封印を狙う質そのものは、彼女にとって見過ごせるものではなかった。
「現代の組織ね。私の知る名ではないわ」
ティナがそう言うと、卓斗は少しだけ顔を向けた。
「知らないのか?」
「六百年経っているもの。私が知る時代の敵と、今の王国が警戒する組織が同じとは限らないわ」
「そこ、ちゃんと分けるんだな」
「分けなければ判断を誤るわ」
卓斗は返す言葉を少し失った。
ティナは強引だ。契約も転移も勝手に進めた相手だ。けれど、知らないことを知っているとは言わない。今のサリギアという名前については、王国側の情報を待つ姿勢を取っている。
レオンは卓斗へ視線を戻した。
「サリギアは、分霊石や封印に関わるものを狙う。今回の痕跡が本当にそうかは断定できない。だが、王都へ報告すべき段階だ」
卓斗は頭を抱えたくなった。
フィオラ復活のために九つの分霊石が必要。そこまでは聞いた。納得はしていないが、情報としては知っている。だが、今度はそれを狙って奪おうとする組織がいるという。
「復活素材集めだけでも嫌なのに、奪う側もいるのかよ」
絵麻が低く呟く。
「しかも結界を薄くして魔獣を通すとか、普通に被害が出るやつじゃない」
恵依は頷いた。
「結界を壊さず、流れだけを沈めるなら、発見が遅れる可能性があります。旅人や中継地点が異常に気づく頃には、魔獣が通れる状態になっているかもしれません」
レオンの表情がさらに厳しくなる。
「その通りだ。第三灯だけで済むとは考えない方がいい」
卓斗の右手首が、じんと弱く熱を持った。
強くはない。だが、サリギアという名前を聞いた直後に反応したようで、卓斗は余計に嫌な気分になった。自分の魔素が、あの術式と似た方向を持っている。原因ではないと分かっていても、気分は最悪だった。
ティナは卓斗の右手首を見た。
「今はそれ以上追わないことね」
「追う気ないって。むしろ逃げたい」
「なら、そのまま座っていなさい」
「命令が雑」
卓斗は文句を言いながらも、長椅子から動かなかった。
レオンは管理人の魔導札を借り、王都への再報告を準備した。管理人が札を台座に置き、女性職員が第三灯の反応記録を添える。警備兵は入口の警戒を続け、レオンの部下は外側で周辺警戒に戻った。
レオンは報告内容を声に出して確認した。
「第三灯に人為的術式痕あり。中継地点周辺と同系統。サリギアの既知手口に近いが、完全一致せず。王都方面結界線への連続干渉の可能性あり」
卓斗はそこで嫌な予感がして、顔を上げた。
レオンは続ける。
「契約者、成瀬卓斗殿の魔素反応が異常方向と一致。ただし、原因ではなく反応者として記録。本人に不快感と危険性あり。能力実演は求めず」
卓斗は露骨に顔をしかめた。
「俺の名前、どんどん嫌な報告に混ざってない?」
レオンは札から目を離さずに答える。
「混ざっている。だが、原因としてではなく、反応者として記録する」
「そこ、めちゃくちゃ大事」
レオンは短く頷いた。
魔導札の光が強まり、王都方面へ向けて細い光の筋が走る。壁の上部に刻まれた術式が一瞬だけ明るくなり、報告の魔素が中継地点の外へ飛んでいった。
卓斗の右手首の熱は、少しずつ弱まっていく。
しかし、完全には消えない。
消えた第三灯の方角。そのさらに先で、もう一つ小さな灯りが、弱く揺れたような気がした。




