第一章 21 『戻った灯り』
中継地点の扉が閉まると、外の夜気が一枚向こうへ押し出された。
室内の魔導灯は、戦う前と同じように淡く光っている。けれど、その光はさっきよりずっと温かく見えた。石造りの壁、木製の長椅子、読めない札の並ぶ棚、受付台の上に置かれた結界札。どれも初めて見た時と同じはずなのに、魔獣の爪と土煙を見たあとでは、屋根と壁があるだけで別世界のようだった。
卓斗は右腕を押さえたまま、長椅子へ腰を下ろした。
座った瞬間、全身から力が抜ける。足はまだ震えていた。右手首から肘にかけて、痺れと熱が残っている。手のひらには砂利で擦った傷があり、背中には小石が当たった鈍い痛みが広がっていた。
「屋根と壁って偉大だな……」
卓斗が呻くように言うと、少し離れた長椅子へ腰を下ろした絵麻が、深く息を吐いた。
「今だけは同意する」
絵麻の顔色もよくなかった。
空間を何度もずらした反動で、まだ足元が揺れているらしい。椅子に座っているのに、片手で座面の端を掴んでいる。気が強い顔を保っているが、無理をして立っていれば確実に倒れていた。
恵依は座らず、まず全員の位置と状態を確認していた。
彼女も無事ではない。こめかみに指を添え、時々目を細めている。解析負荷の頭痛が残っているのだろう。それでも、最初に自分が休むのではなく、卓斗、絵麻、ラール、管理人たちの状態を見ているところが恵依らしかった。
「座ってください。全員、状態確認が必要です」
「流川、戦闘後も仕事早いな」
「必要です」
恵依は短く答えた。
ゲブは恵依の横に立ち、白銅の魔素を薄く巡らせている。恵依の周囲に淡い黄色の流れが広がり、頭へ集まりすぎた情報の熱を外へ逃がすように整えていた。ゲブ自身は落ち着いて見えるが、白銅の光はいつもより少し細い。
ラールは絵麻の近くで両腕を抱えていた。
白鋼障壁を何度も受けた反動で、小さな腕が震えている。けれど、泣いてはいない。絵麻の顔色を見ながら、自分も座るべきか、それとも絵麻を支えるべきか迷っているようだった。
「ラール、座って」
絵麻が言った。
「でも、絵麻ちゃんが……」
「私も座ってる。あんたが立って倒れたら、余計面倒」
「はいぃ……」
ラールは素直に絵麻の隣へ座った。
その動きだけでも、腕の震えが分かる。絵麻は横目でそれを見て、少しだけ眉を寄せた。怒るためではなく、状態を確認するための目だった。
女性職員が奥の棚から水と布、薬草のような匂いのする小さな箱を持ってきた。
彼女の手も少し震えている。先ほど、魔獣の爪が届きかけた場所から絵麻に助けられたばかりだ。だが、仕事を止めるわけにはいかないと自分に言い聞かせているように、長椅子の前へ膝をついた。
「手当てを。大きな裂傷はありませんが、擦り傷と打撲があります」
「魔獣に踏まれてないだけマシ判定?」
卓斗が右手を差し出しながら聞くと、絵麻が渋い顔をした。
「そういう世界なんでしょ。嫌になるけど」
「嫌すぎるな、その判定基準」
女性職員は卓斗の手のひらの砂を布で払った。
傷は深くない。だが、砂利で擦った部分が赤くなり、水が触れた瞬間にじわりと痛んだ。卓斗は顔をしかめたが、魔獣の爪跡を思い出すと、これで済んだことに文句を言い切れなかった。
恵依は卓斗の手当てを横目で確認し、次に絵麻とラールを見た。
「現状では、全員行動不能ではありません。ただし、続戦は避けるべきです」
「続戦って単語が普通に出るの怖い」
卓斗が言うと、恵依は真面目に返した。
「必要な判断です。今の状態で外へ出れば、全員の反応が遅れます」
「怖さが増しただけだった」
管理人は受付台の前に立ち、王都へ送った追加報告の控えを確認していた。
机の上には、魔導札と木札が並んでいる。卓斗には一文字も読めない。だが、管理人がそれを慎重に扱っていることから、先ほどの戦闘が単なる現場の出来事ではなく、この国の記録として残されようとしていることだけは分かった。
警備兵は入口の内側で槍を持ち、外の音に耳を澄ませている。
魔獣は退いた。結界の穴も一時的に塞がった。それでも、結界を乱した原因は消えていない。扉一枚を隔てた外には、まだ夜の街道があり、揺れる結界灯がある。
管理人は控え札を置き、卓斗の方へ向き直った。
「先ほどの力について、王都へ追加で伝える必要がある」
卓斗は右腕を押さえたまま、嫌そうに顔を上げた。
「俺も何が起きたか説明してほしい側なんだけど」
管理人は卓斗を責めるような顔はしていなかった。
ただ、慎重だった。竜精霊三名と契約者三名が現れただけでも大事だ。そのうえ、契約者の一人が結界の流れと魔獣の巨体に影響する未知の力を使った。中継地点の責任者として、記録しないわけにはいかないのだろう。
ティナが卓斗の右手首を見た。
白銀の竜紋は、今は薄く沈んでいる。だが、完全に消えてはいない。その奥に、先ほどまで魔獣を引き寄せ、押し返した力の熱が残っているように見えた。
「引力と斥力に近い魔素よ。まだ制御できていないわ」
「制御できてないって、王都報告に書かれるの普通に嫌なんだけど」
卓斗は即座に反応した。
自分でも分かっている。実際に制御できていない。だが、それを知らない誰かへ正式に報告されるとなると、急に自分が危険物扱いされるような気がした。魔獣を押し返したことより、魔獣を引き寄せたことの方が記憶に残っている。
恵依が、卓斗の不快感を受け止めたうえで言った。
「書かない方が危険です。制御できていないことも含めて、正確に伝えるべきです」
「流川までそっち側?」
「成瀬くんを危険物として扱うためではありません。何が起きたかを隠せば、次に対処が遅れます」
恵依の声は柔らかくはなかった。
だが、突き放してもいなかった。卓斗の意思と、卓斗の魔素の危険性を分けて考えている。そこを曖昧にしないために、正確な報告が必要だと言っているのだ。
絵麻も長椅子の上で足を組み直した。
「危険だからって、本人ごと危険物扱いされたら困るしね」
卓斗は少し驚いて絵麻を見た。
絵麻は別に優しい顔をしていない。むしろ、当然のことを言っただけだという表情だった。だが、その一言で卓斗の胸にあった嫌な重さが少しだけ動いた。
「西野、今の助かるけど、言い方は相変わらず刺さるな」
「助かったならいいでしょ」
「まあ、いいけど」
管理人は二人のやり取りを見て、ゆっくり頷いた。
「契約者殿を疑うためではない。だが、結界の流れに影響する力なら、王都が把握しなければならない」
「把握される側の気分、全然よくないな」
卓斗は正直に言った。
管理人はすぐには返さなかった。彼は卓斗を見てから、右手首の契約紋ではなく、卓斗の顔へ視線を戻した。力だけを見るのではなく、本人を見る。たぶん、意識してそうしたのだろう。
「その気分も、伝える必要があるのだろうな」
卓斗は少し言葉に詰まった。
管理人が王国側の人間である以上、完全に信用したわけではない。だが、少なくとも今の一言は、卓斗をただの道具や異常として扱うものではなかった。
ティナはそこで口を挟まなかった。
いつものように「当然よ」と切り捨てることもできたはずだ。けれど、卓斗と管理人の間で交わされた言葉を、少しだけ見守っていた。六百年後の王国が、契約者をどう扱うかを見ているようにも見えた。
卓斗は右手首を見下ろした。
「ティナ、お前、俺の力があんな感じって分かってたのか?」
ティナは隠さず答えた。
「兆しはあったわ。小石や軽いものが寄ったり、弾かれたりしていたもの。けれど、ここまで結界と魔獣に反応するとは、今確認した」
「つまり実験台?」
「結果としてはね」
「言い方!」
「嘘を言っても意味がないわ」
卓斗は口を開きかけ、閉じた。
腹は立つ。今の言い方は普通に腹が立つ。けれど、ここでティナが適当に慰めたり、最初から全部分かっていたように偉そうに言ったりしなかったことも分かった。最低限、今確認したことと、前から分かっていたことは分けている。
それでも納得はしない。
「俺、戦えるようになったからって、この世界に残るつもりないぞ」
卓斗の言葉で、室内の空気が少し変わった。
管理人と女性職員が顔を上げる。警備兵も入口から視線だけを向けた。恵依は卓斗の意図をすぐに理解したのか、静かに続きを待っている。絵麻も、茶化さずに黙った。
卓斗はティナを見た。
「あと、フィオラ復活したら絶対帰れる、みたいな話でもないんだろ?」
ティナはすぐには答えなかった。
白銀の瞳が、卓斗の右手首から壁の伝承画へ移る。そこには、建国者フィオラらしき女性と、三つの竜精霊の紋様が描かれている。王国にとっては祈りの対象で、ティナたちにとっては取り戻すべき契約者。だが、卓斗たちにとっては、帰れる保証のない理由でもある。
「確実とは言えないわ。日本とこちらを行き来する転移魔法は、頻繁に使えるものではないもの」
卓斗の眉が動いた。
「帰れる保証ないのに連れて来たの、マジで最悪なんだが」
ティナは反論しなかった。
その沈黙が、卓斗の言葉を否定できないことを示していた。必要だった。そう言うことはできるのだろう。けれど、帰れる保証がないまま連れて来たことへの怒りを、無かったことにはできない。
恵依が静かに口を開いた。
「帰還手段の確認は、フィオラ復活とは別に必要です」
絵麻もすぐに続けた。
「そこ、王都にも言うべきでしょ。私たちは帰れる保証をもらってないって」
「それな」
卓斗は短く同意した。
管理人はその会話を重く受け止めているようだった。
彼にとってフィオラは建国者であり、世界を救った英雄だ。その復活に関わる契約者が現れたと聞けば、本来なら国として喜ぶべき出来事かもしれない。だが、その契約者本人たちが帰還保証もなく連れて来られたと主張している。信仰と現実の間に、簡単には埋まらない溝があった。
管理人は報告札へ向き直った。
「記録に加える。契約者三名は、帰還手段の確認を求めている。フィオラ様の復活と帰還手段は、同一とは限らない。契約経緯に不同意が含まれる可能性あり」
卓斗は少し目を細めた。
「そこまで書いてくれるのか」
「事実ならばな」
管理人は筆を止めずに答えた。
恵依がその横へ立ち、控え札の文字を読めないまま、内容の確認を求めた。
「『契約者三名が協力』と記録してください。竜精霊だけではありません」
管理人は筆を止め、恵依を見た。
「それは、どういう意味だ」
「私たちは竜精霊の付属物ではありません。今回の魔獣撃退も、竜精霊だけで行ったものではありません。成瀬くん、西野さん、ラールさん、ゲブ、ティナ、それぞれの判断と行動がありました」
恵依は落ち着いていたが、言葉は強かった。
自分たちが何かの鍵や道具のように記録されることを避けようとしている。竜精霊と契約しているから、その一部として扱われる。それを今の段階で防ぐために、恵依は記録の言葉へ踏み込んだ。
卓斗は小さく息を吐いた。
「そこ大事なの?」
「大事です。記録に残った言葉は、後で扱いに影響します」
「なるほど。流川、やっぱ会議と議事録の才能がすごい」
「必要な確認です」
絵麻が腕を組んだまま言った。
「私もそこは入れて。勝手に契約者三名を竜精霊側の持ち物みたいに書かれたら困る」
「そのようには書かん」
管理人は静かに答えた。
彼は控え札へ新たな文を刻んだ。卓斗には読めない。だが、管理人の筆運びが慎重になったことは分かった。単なる事務処理ではなく、今後の扱いを左右する記録だと理解しているのだろう。
女性職員が結界札を見ながら報告内容を補足する。
「中継地点周辺の結界は一時安定。外部から結界流を引き、沈めた痕跡あり。王都方面の結界灯にも揺れが継続。大型寄り魔獣は撃退されたが、原因は未解決」
ゲブが丁寧に付け加えた。
「確認できた範囲では、魔獣は結果であり、結界異常の原因ではありません」
恵依はその言葉に頷いた。
「成瀬くんの魔素反応は、外部干渉の残留魔素とは一致しません。ただし、結界の引かれた痕跡に反応しました。そこも正確に記録してください」
「さらっと俺の厄介さが増えていく」
卓斗は疲れた声で言った。
絵麻が横から言う。
「実際厄介でしょ」
「本人に言うな」
「でも記録には必要」
「みんなして正論で逃げ道塞ぐのやめない?」
ラールが恐る恐る卓斗を見た。
「あの、でも卓斗さんの力がなかったら、魔獣を外へ押し戻せませんでした」
「さん付け、まだ慣れないな」
「す、すみません!」
「いや、そこは別にいいけど」
卓斗は少しだけ力が抜けた。
ラールの言葉は素直だった。危険な力だ。制御できていない。報告も必要。それでも、あの瞬間に魔獣を押し返したのは事実だった。全部が嫌なことだけではないと、少しだけ思えた。
管理人が報告札をまとめ終える頃、台座の上の魔導札が淡く光った。
王都からの再返信だった。
室内の空気がすぐに張り詰める。警備兵が入口から一歩だけ机の方へ寄り、女性職員が結界札を抱えたまま息を止めた。管理人は台座に浮かぶ文字を読み取り、顔を引き締めた。
「王都より再返信。第六騎士団への連絡を優先。確認役の到着を早める。外部調査は中止し、保護対象の状態確認を優先せよ」
「外出禁止、正式決定?」
卓斗が聞くと、恵依が答えた。
「安全上は妥当です」
絵麻は椅子に背を預けた。
「もう外出たいとか言わないから、今だけは歓迎」
「全力で同意」
卓斗も同じ気持ちだった。
外に出れば、また魔獣が来るかもしれない。結界の揺れも残っている。右腕もまともではない。今だけは、保護対象として留められることへの反発より、外へ出なくて済む安心の方が勝った。
管理人は続きの文字を読んだ。
「夜明け前後に王都確認役、または第六騎士団の隊員が到着予定。中継地点は保護と記録を継続せよ、とのことだ」
「夜明け前後……」
恵依は時間を計算するように呟いた。
日本の時計はない。スマホはあるが、圏外で、この世界の時間と一致するかも分からない。それでも、夜明けという言葉だけは分かる。今夜はここで待つしかない。
卓斗は長椅子に座ったまま、右手首の契約紋を見た。
さっきまで魔獣を引き寄せ、押し返した力は、もう表には出ていない。けれど、熱だけはまだ残っていた。自分の体に刻まれているのに、自分のものとして扱いきれない力。それが、これから王都の記録にも残る。
帰るための手がかりなのか。
それとも、この世界にさらに引きずり込む鎖なのか。
今の卓斗には、どちらとも分からなかった。
外では、中継地点近くの結界灯が静かに光を戻している。
だが、王都へ続く遠い灯りは、まだ一つ、弱く揺れていた。




