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第一章 20 『押し返す力』



 魔獣が、最後の突進に向けて肩を沈めた。


 右肩の角質は割れ、そこから濁った魔素が黒い煙のように漏れている。前脚も震えていた。けれど、赤黒い目から殺気は消えていない。むしろ追い詰められた獣の怒りが、夜の街道に重く沈んでいた。


 卓斗は痛む右手首を押さえながら、足元を見た。


 砂利はまだ少しだけ靴先へ寄っている。さっきのように魔獣を引き寄せているわけではないが、完全に収まったとも言えなかった。右腕には痺れが残り、指先は小さく震えている。


「……今の、もう一回やれって言われても無理なんだけど」


 卓斗が呟くと、ティナは魔獣から目を離さずに答えた。


「やるしかないわ」


「ほんと最悪の返事しかしないな!」


 魔獣が低く唸った。


 前脚の爪が地面を抉り、土が大きく盛り上がる。結界杭の淡い光が、その爪の下で歪んだ。崩れた右肩をかばうように体重をずらしているが、突進の勢いはまだ残っている。


 恵依は魔獣の肩と前脚だけを見ていた。


 解析負荷は限界に近い。すべてを見ようとすれば、頭が焼き切れるような痛みが走る。だから、情報を絞った。右肩の落ち方、前脚の震え、結界の沈んだ線へ向かう魔素の流れ。その三つだけを追う。


「来ます。右肩は崩れていますが、突進の勢いは残っています」


 絵麻が息を整えながら言った。


「つまり、当たったら普通に終わりってことね」


「まとめ方が怖い」


 卓斗は顔を引きつらせた。


 だが、否定できない。あの巨体がもう一度突っ込んでくれば、白鋼障壁も白銀の硬化も、角度を間違えれば押し潰される。中継地点の入口までは近い。そこを抜かれれば、管理人も女性職員も巻き込まれる。


 卓斗は右手首を見た。


 自分の力は、便利な武器ではなかった。引けば魔獣を呼び寄せる。押せば自分も吹き飛ぶ。周囲の砂利も結界も巻き込む。制御できない力をもう一度使えと言われても、普通に怖い。


「また引いたらどうすんだよ。俺、さっき自分であいつ呼んだぞ」


 ティナが白銀の光を卓斗の足元へ薄く落とした。


 その光は攻撃ではない。卓斗の靴底の周りへ広がり、地面の砂利を竜鱗のように固めていく。背後の空気にも薄い白銀の圧が張られ、吹き飛ばされた時に受け止める壁のような感触ができた。


「だから、今度は周りが支える」


「周り頼みかよ」


「今のあなた一人では無理よ」


「言い方」


 恵依が卓斗へ視線を向けた。


 その顔色は悪いが、声はまだはっきりしていた。さっきまでのように卓斗一人が感覚だけで暴発させるのではなく、全員で向きを作る。そのための情報を、恵依は短くまとめようとしていた。


「一人で制御しようとしないでください。成瀬くんは方向だけを決めてください。流れは私たちで補助します」


「方向だけ……」


「魔獣そのものではなく、魔獣の前方の空間を外側へ押す意識です」


「また空間きた」


 卓斗は思わず眉を寄せた。


 恵依の説明は正確なのだろう。だが、戦闘中に聞くには難しい。空間を押すと言われても、右手首の熱と魔獣の圧しか分からない。卓斗が困っているのを見て、ティナが短く言い直した。


「来るな、ではなく、外へ行け。そう思いなさい」


「雑だけどそっちの方が分かる」


「雑な頭には雑な言葉が合うわね」


「今それ言う必要ある?」


 絵麻はラールへ向き直った。


 ラールは白鋼の光を両手に集めているが、腕の震えはまだ残っている。前回の衝撃で疲れているのは明らかだった。それでも、絵麻を見る目は逃げていない。


「ラール、今回は壁じゃなくてレール」


「レール……道を作る感じですね!」


「そう。受け止めない。外へ流す」


「はいっ!」


 ラールは声を張った。


 その声にはまだ緊張があったが、ただ慌てているだけではない。絵麻の指示を聞き、頭の中で障壁の角度を組み立てている。入口を守るための壁ではなく、魔獣の巨体を外側へ滑らせるための斜めの道を作るのだ。


 ゲブが恵依の近くで白銅の魔素を広げた。


 結界杭の沈んだ光に、黄色がかった流れが重なる。卓斗の斥力がもう一度出れば、結界の流れも巻き込まれる。ゲブはその衝撃が杭へ流れ込みすぎないよう、あらかじめ逃げ道を作っていた。


「結界流を固定します。成瀬様の魔素が杭へ流れすぎないよう、外側へ逃がします」


 恵依が頷く。


「成瀬くん、右手首から内側へ集めないでください。外へ、前へ、広げる感覚です」


「外へ、前へ、広げる……」


「魔獣を見ると引きます。距離を見てください」


「距離、距離……!」


 卓斗は自分に言い聞かせるように呟いた。


 魔獣を見るな。赤黒い目を見るな。牙も爪も見れば怖いし、怖いと思うほど意識がそこへ集中する。見るべきなのは、魔獣と自分の間。入口ではなく、外側へ伸びる斜めの道。ラールの白鋼が作るはずの、逃がすための線だった。


 ティナの白銀が、卓斗の足元をさらに固めた。


 靴底の下の砂利が動かなくなる。地面そのものが一枚の硬い板になったようだった。背後の空気も硬く、見えない背もたれができたような圧がある。これなら、さっきのように真後ろへ転がるだけにはならないかもしれない。


「足場を固定するわ。反動で飛んでも、さっきよりはましよ」


「さっきよりは、が怖い」


「完全には抑えられないもの」


「先に言うな!」


 魔獣が動いた。


 右肩から濁った魔素を噴き出しながら、低く地面を蹴る。前脚の震えはある。だが、巨体の重さと怒りが突進に乗った。爪が土を抉り、結界杭の光が大きく歪む。魔導灯の列が一瞬だけ暗くなり、夜の街道が魔獣の影に飲まれた。


 恵依が魔獣の軌道を読んだ。


「右肩が落ちています。正面ではなく、左へ流れます」


「じゃあ、その左をさらに外へずらす」


 絵麻が足元へ魔素を落とした。


 透明な亀裂のような歪みが、魔獣の踏み込み位置へ走る。巨体を丸ごと動かすのではない。前脚が土を掴む、その一瞬だけを半歩外へ滑らせる。魔獣の爪が狙った位置を外し、土を斜めに削った。


「ラール!」


「白鋼、斜めに出します!」


 白鋼の盾が二枚、地面へ打ち込まれた。


 一枚目は魔獣の前脚の内側へ、二枚目は肩の外側へ。真正面から受け止める壁ではない。斜めに並んだ白鋼の板が、魔獣の進路を外側へ導くレールになる。巨体の前脚がその間へ入り、爪が障壁の表面を削って白い火花を散らした。


「そのまま! 押し返さないで、滑らせて!」


「はいっ!」


 ラールは腕を震わせながらも、障壁の角度を保った。


 魔獣の力と正面から喧嘩しない。受けた衝撃を外へ逃がす。白鋼の板に沿って魔獣の前脚が滑り、右肩の割れた部分がさらに開く。濁った魔素が黒い煙のように噴き出した。


「ほんとにレールだな……!」


 卓斗は息を呑んだ。


 ラールの白鋼と絵麻の空間のズレが、魔獣の突進を外側へ向けている。ゲブの白銅が結界の線を支え、ティナの白銀が卓斗の足場と背後の反動を押さえている。恵依は最小限の解析で軌道を示した。


 卓斗の番だった。


 右手首が熱を増す。


 卓斗は魔獣を見なかった。


 見れば怖い。怖いと思えば、また引く。だから、魔獣の巨体ではなく、その前にある距離を見る。ラールが作った白鋼のレールの先、結界の外側へ伸びる逃げ道を見る。


「こっちじゃない」


 卓斗は右手首を握りしめた。


 魔獣を見るな。


 距離を見る。


 入口ではなく、外側へ。


 白鋼のレールの先へ。


「外へ行け……!」


 卓斗と魔獣の間の空気が歪んだ。


 今度は、ただ爆発するように広がるのではなかった。黒に近い透明な圧が、白鋼のレールに沿って外側へ流れる。砂利が一瞬だけ浮き、次に同じ方向へ弾けた。魔獣の巨体が、その圧に押されてさらに外へ滑る。


 魔獣が咆哮した。


 爪が白鋼障壁を削り、地面に深い溝を刻む。だが、進路は戻らない。絵麻が半歩分のズレを維持し、ラールが斜めの障壁を保ち、ゲブが結界の沈みを支える。ティナの白銀が卓斗の足元を固定し、反動を背後へ逃がす。


 卓斗の右腕に痛みが走った。


「っ……!」


 押す。外へ。こっちじゃない。戻ってくるな。卓斗は歯を食いしばり、右手首の奥へその感覚を叩き込み続けた。前回より方向は分かる。だが、力の重さは変わらない。自分の腕ごと持っていかれそうだった。


 魔獣の巨体が結界の薄い線を越えた。


 白鋼のレールに沿って外側へ滑り、右肩から濁った魔素を撒き散らしながら草むらの方へ押し出される。地面には二本の深い溝が残り、土煙が魔導灯の光を飲み込んだ。結界杭の光が大きく揺れ、次の瞬間、ゲブの白銅によって細く繋ぎ直される。


「今です。外側の流れを閉じます」


 ゲブが白銅の魔素を結界杭へ流し込んだ。


 沈んでいた線が、一瞬だけ持ち上がる。完全な修復ではない。それでも、魔獣が通ろうとしていた薄い隙間が細く閉じた。ティナがその外側の空気を白銀で硬化させ、跳ね返って戻る魔獣の身体を外へ押し留める。


 魔獣は結界の外側へ転がった。


 黒い草むらを押し潰し、右肩を地面へ叩きつける。立ち上がろうとしたが、白銀の硬化した空気と、白銅で持ち上げられた結界流に阻まれた。赤黒い目が一度だけ卓斗を睨み、低い唸りを残して後ろへ下がる。


 草むらが大きく揺れた。


 魔獣の影は、夜の外側へ消えていく。完全に倒したわけではない。けれど、少なくとも中継地点の結界内からは押し出した。魔導灯の光の内側へ、あの巨体は戻ってこなかった。


 卓斗の膝が落ちた。


 ティナの白銀で足場は固定されていたが、力を使った反動までは消えない。右腕が痺れ、肘から指先まで熱と痛みが走る。背中の硬化した空気に支えられなければ、そのまま倒れていたかもしれない。


「っ……! 腕、持ってかれるかと思った……」


 卓斗は右手首を押さえながら呻いた。


 ティナは白銀の魔素を薄く引き、卓斗の足場を解いた。


「持っていかれていないわ。よかったわね」


「慰め方、ほんと終わってる」


 恵依が息を吐きながら言った。


「前回より方向は安定していました」


「そこは褒めてる?」


「事実です」


「流川も褒め方が硬い」


 卓斗は苦笑しようとして、腕の痛みで顔をしかめた。


 絵麻はその場で膝に手をついた。


 空間を何度もずらした反動で、足元がまだ揺れているようだった。ラールは白鋼の障壁を消し、両手を胸の前で握りしめている。腕は震えていたが、最後まで角度を崩さなかった。


「ラール、今のは合ってた」


 絵麻が息を整えながら言った。


 ラールの顔がぱっと明るくなりかけたが、絵麻はすぐに釘を刺した。


「調子に乗らない。次も同じことできるとは限らないから」


「はいっ。でも、今のは合ってたんですね!」


「……合ってた」


 ラールは小さく両手を握った。


 卓斗はそのやり取りを見て、少しだけ口元を緩めた。さっきまで魔獣に踏み潰されかけていたとは思えない会話だが、その軽さに救われる部分もある。誰かが普通に喋っているだけで、まだ生きていると分かる。


 管理人と女性職員、警備兵は入口付近で固まっていた。


 伝承の竜精霊の力だけではない。三人の契約者が、それぞれ違う形で戦闘に関わった。空間をずらし、流れを読み、力を押し返す。その光景は、中継地点の職員たちにとっても簡単に受け止められるものではなかった。


「今のは……全員で、流したのか」


 管理人が呟いた。


 女性職員は結界札を確認し、震えていた声を少しだけ落ち着かせた。


「結界の流れが戻っています。完全ではありませんが、穴は塞がりました」


 警備兵は槍を下げきらず、草むらの外側を見ていた。


「魔獣が退いた……」


「俺単体では二度とやりたくない」


 卓斗はその場に座り込みながら言った。


 ティナがすぐに返す。


「単体では、また引くでしょうね」


「やめろ。リアルに想像できるのが嫌すぎる」


「だから練習しなさい」


「異世界初日の課題が重すぎるんだよ」


 恵依は結界杭へ視線を向けた。


 魔獣は退いた。中継地点周辺の穴も、一時的には塞がった。だが、外部から結界の流れを引いた痕跡は残っている。王都方面へ続く結界線の沈みも消えたわけではない。


「これ以上の解析は危険です。中へ戻るべきです」


 ゲブが恵依の状態を見て頷いた。


「流川様の負荷も高い状態です。継続は推奨できません」


 絵麻も足元を見ながら言った。


「異議なし。足、ちょっと限界」


「俺も腕とメンタルが限界」


 卓斗が言うと、ティナは容赦なく返した。


「メンタルは鍛えなさい」


「異世界初日で魔獣突進されたんだから労われ?」


 管理人が大きく息を吐いた。


 彼は周囲の結界杭、草むら、そして卓斗たちを順番に見た。王都からは保護対象として留めるよう指示が来ている。その保護対象が中継地点を守るために戦い、しかも消耗している。これ以上外に立たせる理由はなかった。


「ここまでだ。全員、中へ戻る。王都への追加報告は私が送る」


 女性職員も結界札を抱え直した。


「結界の一時安定を記録します。外部干渉痕は継続確認が必要です」


 警備兵は最後まで草むらを警戒しながら、入口側へ下がった。


 中継地点の扉が開く。


 室内の魔導灯の光が、外より少しだけ温かく見えた。卓斗は立ち上がる時に右腕をかばい、顔をしかめる。歩ける。だが、戦闘前と同じではない。右手首の奥には、まだ自分のものではないような熱が残っていた。


 卓斗は扉へ向かう前に、もう一度街道の外側を見た。


 魔獣の姿はもうない。だが、草むらの奥には、何かが引っかいたような濁った魔素の跡が残っている。魔獣が暴れた痕とは違う。結界の流れを外から引いた、細い残滓だった。


「確認できた範囲では、魔獣の反応は離れています。ただし、結界を引いた残滓は消えていません」


 ゲブの声に、恵依が静かに頷いた。


「魔獣は結果です。原因は、まだ残っています」


「魔獣押し返して終わりじゃないのかよ」


 卓斗が言うと、ティナは当然のように答えた。


「終わりではないわ」


「ほんと嫌な続き方するな」


 管理人が中継地点の中へ戻り、追加報告用の札を手に取った。


 魔導札へ文字が刻まれる。卓斗には読めない。だが、その光が王都へ飛ぶ意味はもう分かった。これはただの連絡ではない。自分たちの存在と、結界異常と、魔獣襲撃の記録が、この国の中心へ送られるということだった。


 王都へ向けて、追加報告の光が飛んだ。


 その光は夜の街道を細く切り裂き、魔導灯の列の先へ消えていく。


 卓斗は痺れる右腕を押さえながら、その光を見送った。帰る方法を探すだけのはずだった。けれど、今はもう、自分の力がこの世界の危険とどう関わるのかも、知らないままではいられなかった。


 遠くの街道で、結界灯が一つだけ、また弱く揺れた。





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