第一章 19 『引き寄せる手』
卓斗の足元へ、砂利が集まっていた。
一つ、二つ、音もなく転がり、靴先へ寄ってくる。右手首の契約紋は焼けるように熱く、押さえた指の下で脈打っていた。白銀の竜紋の奥に、別の力が潜り込んでいるような感覚がある。
魔獣の巨体が、土を削りながら卓斗の方へ寄った。
絵麻とラールが横から崩したはずだった。右肩の角質は割れ、外側へ傾き、結界の外へ押し流されかけていた。それなのに、濁った魔素が肩口から噴き出した瞬間、崩れた重心が不自然に中継地点側へ戻ってくる。
「いや、待て待て待て! なんでこっち来てんの!?」
卓斗は右手首を押さえたまま叫んだ。
魔獣は前脚を地面へ立て直そうとしている。爪が深い溝を刻み、踏ん張ろうとするたびに土が跳ねる。けれど、その踏ん張りとは別に、巨体そのものが卓斗へ引かれていた。
ティナの白銀の瞳が鋭くなる。
「あなたが引いているからよ」
「俺が!? いや、引こうと思ってないんだが!?」
「思っていなくても出ているわ」
「最悪の仕様!」
卓斗は後ろへ下がろうとした。
だが、足元に集まった砂利が靴底を滑らせる。小石だけではない。魔獣の右肩から漏れた濁った魔素も、結界の沈んだ線も、目に見えない糸で卓斗の右手首へつながっているように歪んでいた。
魔獣が低く唸った。
引かれながらも、赤黒い目は怒りで濁っている。右肩の割れた部分から煙のような魔素を撒き散らし、前脚を一本ずつ立て直す。引かれているせいで、逆に卓斗との距離が縮まり、牙と爪の届く範囲が近づいていた。
絵麻が息を切らしながら叫んだ。
「ちょっと、止めなさいよ! こっちが崩した意味なくなるでしょ!」
「俺も止めたいんだよ!」
卓斗は右手首に力を込めた。
止まれ、来るな、動くな。頭の中で必死に念じる。けれど、意識すればするほど魔獣の赤黒い目と割れた肩に集中してしまい、そこへ力が伸びていく感覚が強くなる。
魔獣の巨体が、さらに一歩分こちらへ滑った。
ラールが慌てて白鋼の光を構える。
「絵麻ちゃん、間に障壁を出します!」
「斜め! 真正面じゃ受けきれない!」
「はいっ!」
白鋼の障壁が卓斗と魔獣の間へ打ち込まれた。
白鋼色の板が斜めに重なり、魔獣の前脚を受け止める。だが、今度は魔獣が突っ込んできたのではなく、卓斗の力に引かれて押し寄せている。衝撃の向きが読みにくく、障壁の表面が重い音を立てて軋んだ。
「押されます……!」
「耐えるんじゃない、逸らして!」
絵麻はラールの横に立ち、足元の空間を揺らした。
魔獣の前脚が障壁へ届く位置を半歩だけ外側へずらす。爪が白鋼の板を真正面から叩くはずだった軌道を外し、火花を散らしながら斜めへ滑った。絵麻の膝がわずかに沈むが、彼女は歯を食いしばって踏みとどまる。
ティナが卓斗の前方へ白銀の圧を薄く広げた。
完全に固めるのではなく、魔獣が一気に飛び込んだ時だけ受けるための薄い防御だ。だが、卓斗から伸びる引く力が邪魔をする。空気を硬化させても、魔獣の濁った魔素が白銀の面へ引きずられるように近づいてくる。
「タク、あなたの魔素は引く力と弾く力に近いわ」
「今説明回挟む余裕ある!?」
「今理解しなければ死ぬわ」
「最悪の授業!」
ティナの声は冷静だった。
だが、目は魔獣の前脚から外れていない。卓斗を怒鳴りつけながらも、白銀の硬化位置を小刻みに変え、ラールの障壁と重ならないよう防御面を調整している。余裕があるわけではない。
「引いているなら、逆へ押しなさい」
「逆って何!? ボタンどこ!?」
「そんなものはないわ。感覚で掴みなさい」
「最悪の操作説明!」
恵依がこめかみを押さえながら、卓斗の右手首を見た。
彼女は全体を解析しようとはしない。今は見える情報を絞っている。卓斗の契約紋から広がる魔素の流れ、結界の沈み、魔獣の右肩から漏れる濁った魔素。その三つだけを追っていた。
「成瀬くんの右手首を中心に、魔素が内側へ流れています」
「実況助かるけど止め方!」
「引いている方向を意識してください。魔獣ではなく、魔獣との間の空間を押し返す感覚です」
「空間を押し返すって何!?」
卓斗は叫び返した。
恵依の言うことは、たぶん正しい。だが、正しいことと分かりやすいことは別だった。魔素も空間も、卓斗にはまだ手触りがない。右手首だけが熱く、見えない何かが勝手に引っ張っているとしか分からなかった。
ティナが短く言い換えた。
「近づくな、と強く思いなさい」
「最初からそう言え!」
「雑に言えば、そういうことよ」
「雑でいいんだよ、俺初心者なんだから!」
ゲブが白銅の魔素を広げた。
白銅の光が地面へ落ち、卓斗の足元から結界杭へ向かって薄い波紋のように走る。卓斗の魔素そのものを止めることはできない。だが、周囲の魔素流が一緒に引き込まれないよう、流れを外側へ逃がすことはできる。
「成瀬様の魔素を止めることはできません。ですが、周囲の流れを整え、引き込みを限定します」
ゲブの白銅が広がると、卓斗へ集まりかけていた砂利の一部が横へ流れた。
結界杭の光も、わずかに本来の線へ戻る。完全ではない。それでも、卓斗の右手首へ全部が吸われるような感覚は少しだけ弱まった。息が吸える。考える隙が、ほんの少しだけできた。
魔獣が白鋼障壁へ前脚を叩きつけた。
引かれる勢いに怒りの突進が混ざり、障壁の板が大きく歪む。ラールが声を詰まらせ、絵麻が空間をさらに外へずらす。白鋼の表面を爪が滑り、黒い土と白い火花が同時に散った。
「成瀬、早くどうにかしなさい!」
「それ今いちばん俺が思ってる!」
卓斗は右手首を握りしめた。
止まれ。
来るな。
動くな。
けれど、また魔獣が近づく。意識が魔獣へ向くほど、力がそこへ伸びる。止めたいと思うほど、引く力が強くなっている。自分で自分の首を絞めているような感覚だった。
ティナの声が飛ぶ。
「対象だけを見るな。引くわよ」
「見ないでどう止めんだよ!」
「距離を見なさい。近づけない感覚を作るの」
恵依が続けた。
「対象ではなく、距離を意識してください。魔獣そのものではなく、成瀬くんと魔獣の間です」
「距離!?」
卓斗は歯を食いしばった。
距離。間。空間。言葉は分かる。だが感覚としては掴めない。卓斗の頭の中に浮かんだのは、難しい魔法理論ではなく、満員電車で無理やり身体を押し込まれた時の、来るな、近い、押すな、という雑な拒絶だった。
「要するに、来んなってことだろ!」
卓斗が叫ぶと、ティナが短く返した。
「雑ね。でも近いわ」
「近いなら採用!」
卓斗は右手首を握りしめた。
引くな。
来るな。
近づくな。
その感覚だけを、無理やり右手の奥へ叩き込む。魔獣を見るのではなく、魔獣と自分の間にある距離を見る。縮まってくる空間を、押し戻す。満員電車で押し返すみたいに、これ以上入ってくるなと突っぱねる。
次の瞬間、卓斗と魔獣の間の空気が歪んだ。
集まっていた砂利が一瞬止まる。
直後、外側へ弾け飛んだ。
魔獣の前脚が、白鋼障壁ごと押し返される。地面に刻まれていた爪跡が逆方向へ削られ、黒い土が波のようにめくれた。空気が膨らむような衝撃が走り、魔導灯の光が外へ押し広げられる。
「うおっ!?」
卓斗自身も後ろへ吹き飛んだ。
背中から入口近くの土へ転がり、肘と肩を強く打つ。息が詰まり、目の前に火花が散った。右手首の熱は消えず、むしろ焼けたように痛む。
白鋼障壁にぶつかっていた魔獣の前脚が弾かれた。
巨体が外側へ滑り、地面に二本の深い溝を刻む。右肩の割れた部分から噴き出していた濁った魔素が、斥力の衝撃で吹き散らされた。土煙が舞い上がり、結界杭の光が一瞬だけ強く戻る。
ティナが白銀の魔素を横へ流した。
卓斗の斥力は雑だった。放っておけば中継地点側にも反動が跳ね返る。ティナは白銀で空気の面を作り、外へ逃げる衝撃だけを通し、中へ返る圧を削る。白銀の火花が夜の空気で散った。
ゲブも白銅で結界流を支えた。
卓斗の反発に巻き込まれた結界杭の光が大きく揺れる。ゲブはそこへ白銅を重ね、沈んだ流れがさらに裂けないように整えた。黄色がかった光が地面を走り、結界の線を繋ぎ止める。
ラールは障壁を畳みながら、反動を横へ逃がした。
「わわっ、障壁、壊れる前に逃がします!」
「遅いけど合ってる!」
絵麻がそう言いながら、卓斗の方へ一歩出ようとした。
だが、空間を連続でずらした反動で膝が揺れる。彼女は歯を食いしばり、無理に走るのをやめた。卓斗は転がったが、まだ意識はある。今は魔獣の位置を見失う方が危ない。
卓斗は土の上で咳き込んだ。
「痛ってぇ……! 俺も飛ぶの聞いてないんだが!?」
ティナが魔獣を見たまま答える。
「当然よ。制御していないもの」
「チュートリアルが雑!」
「今ので、引力から斥力に切り替わりました」
恵依が息を整えながら言った。
卓斗は片肘をつき、顔を上げる。
「言葉だけ聞くと賢そうだけど、体感ただの事故!」
「事故でも、方向は合っています」
「慰めが理系!」
卓斗は立ち上がろうとして、右腕の痺れに顔をしかめた。
右手首から肘にかけて、じんじんと熱が残っている。筋肉痛とは違う。内側の神経を無理やり使ったような、気持ち悪い疲労だった。手を開くと、指先が少し震えている。
管理人と女性職員は入口付近で息を呑んでいた。
彼らにとって、竜精霊の白銀、白銅、白鋼は伝承にある力だ。だが、卓斗の今の力は違う。結界の流れも、魔獣の巨体も、地面の砂利もまとめて押し返した。制御されているようには見えないが、だからこそ危うく、強烈だった。
「今のは……契約者殿の魔素か」
管理人が呟いた。
女性職員は結界札を見て、震える声で言う。
「結界の流れが一瞬、押し戻されました。魔獣もろとも……」
警備兵は槍を握ったまま、卓斗と魔獣を見比べた。
「今の力で、あの巨体を……?」
「いや、狙ってやった感出さないで。俺も何起きたか分かってないんで」
卓斗は慌てて言った。
褒められる状況ではない。自分で引き寄せて、自分で押し返して、自分も吹き飛んだだけだ。結果的に助かったが、制御できたとはとても言えない。
ティナは白銀の瞳で卓斗を見た。
「出力だけなら悪くないわ。制御は最悪ね」
「褒めてから刺すな」
「褒めていないわ」
「じゃあ全部刺してた」
卓斗は顔をしかめた。
それでも、ティナの評価は間違っていない。力は出た。魔獣を押し返した。だが、その前に自分で引き寄せたし、押し返した反動で自分も転がった。便利な能力というより、扱いを間違えたら味方ごと危ない力だった。
魔獣は結界の外側で低く唸った。
完全には倒れていない。だが、先ほどまでの勢いは明らかに落ちていた。右肩の割れ目は広がり、前脚は地面を掻くたびにわずかに震えている。卓斗の斥力で押し返された衝撃が、傷口と足場の両方を乱したのだ。
恵依はその変化を見逃さなかった。
「今の反発で、右肩の魔素流がさらに乱れました。次なら、押し返せます」
「次って何? 今ので終わりじゃないの?」
卓斗が半泣きに近い声を出すと、絵麻が魔獣から目を離さずに言った。
「終わってたら、あいつ立ってないでしょ」
「西野、現実で殴るのやめて」
「殴ってない。見れば分かること言ってるだけ」
「それが殴りなんだよ」
ラールは白鋼の障壁を小さく構え直した。
先ほどより腕が震えているが、前に比べれば落ち着いている。絵麻の指示を待ち、入口側と卓斗の位置を確認しながら、どこへ出せば退避路を塞がないかを考えていた。
ゲブは白銅を広げたまま、恵依の様子も見ている。
「流川様、解析負荷は限界に近いです。次の確認は短くお願いします」
「分かっています。見るのは右肩と前脚だけにします」
恵依はそう言った。
卓斗はその横顔を見て、自分だけが痛いわけではないと今さら理解した。恵依は頭痛を押さえ、絵麻は空間の反動で足元が揺れ、ラールは障壁の衝撃で腕が震えている。ティナもゲブも力を使い続けている。
自分だけ何もできないと思っていた。
だが、今はできない方が安全だったかもしれない。
卓斗は右手首を押さえながら、よろよろと立ち上がった。
「……今の、もう一回やれって言われても無理なんだけど」
ティナは白銀の瞳で魔獣を見たまま答えた。
「やるしかないわ」
「ほんと最悪の返事しかしないな!」
「嫌なら逃げなさい。逃げられる足が残っているならね」
卓斗は一瞬だけ黙った。
足は震えている。右腕は痺れている。逃げたい気持ちはある。だが、背後には中継地点の入口があり、管理人と女性職員がいて、警備兵が槍を構えている。魔獣をここで通せば、その後ろが危ない。
「逃げたいけど、後ろに人いるのがズルいな」
卓斗は小さく吐き捨てた。
ティナは答えなかった。
魔獣が前脚を沈めた。
右肩は崩れ、前脚は震えている。それでも赤黒い目は消えていない。今度の突進は、さっきより遅いかもしれない。だが、最後の力を込めてくる気配があった。土が爪の下でめくれ、濁った魔素が低く渦を巻く。
卓斗の右手首が、また熱を帯びた。
今度は、引かれているのか、押そうとしているのかも分からない。ただ、距離を意識しろという恵依の声と、近づくなというティナの雑な指示だけが頭に残っている。
魔獣が低く唸り、最後の突進に向けて肩を沈めた。
卓斗は痛む右手首を握りしめ、震える足で立った。




