第一章 18 『空間の一歩』
魔獣の前脚が、また地面を掻いた。
夜の街道に刻まれた爪跡が、魔導灯の薄い光を受けて黒く浮かび上がる。右肩の角質は割れ、そこから濁った魔素が煙のように漏れていた。恵依が見抜いた弱点は確かにある。だが、それは弱っているというより、怒りと痛みでさらに荒れているようにも見えた。
絵麻は、魔獣の右肩だけを見ていた。
さっき卓斗を半歩ずらして助けた反動が、まだ足の奥に残っている。空間を動かすたび、身体の中身だけが一拍遅れてついてくるような気持ち悪さがあった。それでも、目を逸らせば次の突進で誰かが吹き飛ばされる。
「右肩が開く瞬間、そこをずらす……ね」
絵麻は小さく呟いた。
ラールはその横で白鋼の光を両手に集め直している。肩で息をし、額にはうっすら汗が浮かんでいた。だが、今回は勝手に前へ出ない。絵麻の合図を待つように、魔獣と絵麻の顔を交互に見ていた。
「絵麻ちゃん、私、どこに障壁を出せばいいですか?」
「正面じゃない。横。あいつが踏み込んだ瞬間、肩の下へ斜めに入れる」
「肩の下へ、斜め……」
ラールは言われた言葉を繰り返し、自分の中で位置を組み立てようとしていた。
これまでの障壁は、入口を守る壁だった。正面から受ける盾だった。けれど今度は違う。突っ込んでくる魔獣の重心へ横から差し込み、崩すための楔にしなければならない。
入口側で息を切らしていた卓斗が、二人のやり取りを聞いて顔を引きつらせた。
「指示が完全に格闘ゲームの差し込みなんだけど」
「黙って見てて」
「はい」
卓斗は即座に引いた。
絵麻の声に余裕はない。茶化していい場面ではないと分かる程度には、卓斗もさっき死にかけたばかりだった。右手首はまだ熱く、足元の砂利が妙に気になる。だが、今この瞬間の主役は自分ではない。
恵依はゲブに支えられるように、結界杭の近くに立っていた。
解析負荷で顔色は悪い。すべての動きを追うのはもう危険だった。それでも、魔獣の右肩と結界の沈みだけには視線を残している。情報を絞り、必要な一点だけを見ていた。
「西野さんの空間魔素で、本体を大きく動かす必要はありません」
恵依が言った。
絵麻は魔獣から目を離さずに答えた。
「分かってる。丸ごと動かすのは無理。あんな重いの、今の私じゃ持っていかれる」
「では、どうしますか?」
ラールの声は震えていたが、ちゃんと聞いていた。
絵麻は足元の土を見た。魔獣が踏み込む場所。爪が土を噛み、巨体の重みが一点へ落ちる瞬間。その場所だけを、ほんの少し横へずらせばいい。
「足元をずらす。ほんの少しでいい。あいつが自分で突っ込む力を、横へ逃がす」
恵依は短く頷いた。
「それなら、右肩の割れ目に負荷が集中します」
「失敗したら?」
卓斗がつい聞くと、絵麻は魔獣を見たまま答えた。
「踏み潰される」
「聞かなきゃよかった」
「聞いたのそっちでしょ」
魔獣が低く唸った。
それだけで、会話が止まる。赤黒い目が入口側とラールの障壁を見比べ、次に絵麻の足元の空間の揺らぎへ向いた。学習している。さっきまでと同じ動きでは通れないと分かっているようだった。
ティナは白銀の魔素を薄く広げ、正面の結界線へ重ねている。
魔獣を止めようと思えば、今すぐ白銀で正面を固められる。だが、絵麻が狙うのは突進の力を利用した横崩しだ。正面から止めてしまえば、角度が消える。
「ティナ、正面は押さえないで。今止められると角度が消える」
絵麻はティナへ言った。
ティナの眉がわずかに動く。
「注文が多いわね」
「必要だから言ってるの」
絵麻は引かなかった。
伝承の竜精霊だろうと、建国の英雄に連なる存在だろうと、今の戦場で必要なことは必要だ。ティナが勝手に正面から潰せば、絵麻とラールの狙いは崩れる。だから言うしかない。
ティナは一瞬だけ絵麻を見て、それから魔獣へ視線を戻した。
「……分かったわ。抜けた時だけ止める」
「それでいい」
卓斗は思わず息を呑んだ。
絵麻は強い。性格がきついだけではない。必要なら竜精霊にも指示を出すし、引かない。ラールが彼女の契約者として隣にいる理由が、少し分かる気がした。
魔獣が走り出した。
低い姿勢のまま、地面を削るように進む。太い前脚が土を深く掻き、結界杭の光が風にあおられた炎のように揺れた。右肩の割れた角質が開き、そこから濁った魔素が煙となって噴き出す。
「まだですか?」
ラールが声を震わせる。
「まだ。早いと正面で受けるだけになる」
絵麻は魔獣の前脚を見ていた。
踏み込みが浅い。まだ重心が乗っていない。今ずらしても、魔獣はすぐ立て直す。右肩の割れ目が開く瞬間まで待つ必要があった。
「今ですか?」
「まだ。右肩が開いてから」
「右肩……右肩……!」
「ラール、唱えてる」
卓斗が小声で言うと、絵麻が鋭く返した。
「集中してるんだから茶化さない」
「すみません」
魔獣が三歩目を踏み込んだ。
その瞬間、背中の盛り上がりが一気に沈み、右肩が突き出される。割れた角質が外側へ開き、濁った魔素が黒い息のように噴いた。爪が次に土を掴めば、そのまま肩から障壁の横をこじ開ける軌道になる。
絵麻は足元へ魔素を落とした。
「今!」
透明な亀裂のような歪みが、絵麻の足元から地面を走った。
それは光ではなく、景色のずれだった。魔導灯の線が一瞬だけ曲がり、魔獣の前脚が踏み込むはずだった場所だけが半歩分、外側へ滑る。爪は土を深く噛むはずの位置を外し、砂利を撒き散らしながら横へ流れた。
魔獣の巨体が傾いた。
その重みが、開いた右肩へ乗る。
「白鋼、差し込みます!」
ラールが叫んだ。
「低く! 肩の下!」
「はいっ!」
白鋼の盾が、地面から斜めに立ち上がった。
入口を守る壁ではない。魔獣の右肩の下へ、楔のように差し込まれた白鋼の板だった。巨体の重みを受けた肩がそこへ乗り上げ、割れた角質の隙間へ白鋼の縁が食い込む。
金属を無理やり引き裂くような音が響いた。
魔獣が咆哮する。夜の街道がびりびりと震え、結界杭の光が一瞬だけ散った。濁った魔素が肩口から噴き出し、白鋼の盾の表面へ黒い火花のようにぶつかる。
「押されます、絵麻ちゃん!」
ラールの小さな身体が後ろへ滑った。
白鋼障壁は魔獣の肩を受け止めているが、真正面で押し合えば力負けする。障壁の表面が軋み、白い火花が散った。ラールの腕が震え、足元の土が二本の線を刻む。
「押し返さない! 外へ逃がして!」
「外へ……!」
「力で勝とうとしないで。角度で勝つの!」
絵麻は叫びながら、もう一度足元の空間へ魔素を流した。
魔獣の身体を動かすのではない。地面と肩の間にある距離の感覚をずらし、白鋼の板へ乗った重みの向きを外側へ逃がす。見た目には、魔獣の足元だけが一瞬滑ったように見えた。
ラールは絵麻の言葉に合わせ、白鋼障壁の角度を変えた。
持ち上げるのではなく、受け流す。正面で止めるのではなく、外側へ滑らせる。障壁の縁が魔獣の割れた肩へ食い込んだまま、巨体の重心を横へずらしていく。
魔獣の右前脚が浮いた。
「右前脚、浮いた! 今なら外に流せる!」
卓斗が叫んだ。
「見えてる!」
絵麻が即座に返す。
「じゃあ言わなくていい?」
「うるさいけど助かる!」
「褒め方が雑!」
卓斗は叫び返しながらも、魔獣の足元から目を離さなかった。
怖い。まだ怖い。今も爪が一振りでも届けば終わる距離にいる。だが、前脚が沈む瞬間、肩が開く瞬間、身体が傾く瞬間は見える。戦えなくても、声を出すことはできる。
ゲブの白銅が結界杭の光を支えた。
絵麻の空間の歪みは、結界の沈んだ線にも負担をかける。ゲブはその反動で結界流がさらに崩れないよう、白銅の魔素を細く広げた。地面に淡い白銅の波が走り、歪んだ流れを一瞬だけ整える。
「結界流を支えます。西野様、継続は短時間でお願いします」
「分かってる!」
絵麻は歯を食いしばった。
恵依はこめかみを押さえながらも、最低限の情報だけを出した。
「次、首を振ります。噛みつきの軌道です」
その声が終わるより早く、魔獣が頭を低く回した。
右肩を崩されながらも、首だけを強引に振る。牙が白鋼障壁の縁へ向かい、噛み砕こうとするように開いた。赤黒い目がラールを捉える。
「頭来る! ラール、下がれ!」
卓斗が叫んだ。
「えっ、あっ!」
「こっち!」
絵麻はラールの腕を掴み、半歩だけ後ろへ引いた。
直後、魔獣の牙が白鋼障壁の縁へ食い込んだ。金属質の障壁が軋み、白い火花が牙の隙間から弾ける。ティナの白銀が牙の前に硬化しなければ、その牙はラールの肩まで届いていた。
白銀の硬化面が、牙の圧でぎしりと音を立てる。
ティナは片手を伸ばし、魔獣の噛みつきを横へ逸らした。完全に止めるのではなく、牙の先をずらして白鋼の端へ逃がす。魔獣の首が外側へ流れ、絵麻とラールの前に一瞬だけ空白ができた。
「ラール、もう一枚!」
絵麻が叫ぶ。
「はいっ!」
ラールは恐怖で顔を青くしながらも、白鋼の光を消さなかった。
新しい盾が、魔獣の右肩へ横から叩き込まれる。先ほど差し込んだ楔とは別角度だった。割れた角質の下へ白鋼の縁が重なり、黒い魔素の煙を切り裂くように食い込む。
絵麻は魔獣の踏み直し位置をもう一度ずらした。
足元の空間が薄く歪み、魔獣の右前脚が着地先を失う。巨体が外側へ傾き、右肩へかかる負荷がさらに増した。白鋼の盾が軋みながら、魔獣の身体を横へ押し流す。
魔獣の咆哮が夜を裂いた。
右肩の角質が大きく割れ、濁った魔素が噴き出す。地面が陥没し、土煙が一気に舞い上がった。結界杭の光が、弱った線の上で一瞬だけ戻る。魔獣の右前脚が支えを失い、巨体が片側へ落ちた。
「効いた!」
卓斗が思わず叫ぶ。
「体勢が崩れました」
恵依の声にも、わずかに力が戻った。
魔獣は完全には倒れなかった。
だが、右肩を大きく崩され、片前脚を地面についた。黒褐色の角質の下から濁った魔素が漏れ、土煙の中で赤黒い目が揺れている。さっきまでの突進の勢いは失われていた。
ラールは白鋼障壁を維持したまま、肩で息をしていた。
絵麻も膝に手をつきかけたが、なんとか踏みとどまる。空間を二度、三度とずらした反動が足腰に来ている。それでも、彼女は魔獣から目を離さなかった。
「絵麻ちゃん……できました……?」
「まだ。倒れてない」
「でも、崩せました」
「……そうね。そこは、悪くなかった」
ラールの顔が一瞬だけ明るくなった。
だが、すぐに魔獣の唸りがそれを消した。
崩れた右肩から漏れた濁った魔素が、結界の沈んだ線へ流れ込む。黒い煙のような流れが、地面を這いながら魔導灯の薄い光を濁らせた。その動きに反応するように、卓斗の右手首が強く熱を持った。
卓斗は息を呑んだ。
足元の砂利が、一つ、二つ、靴先へ転がってくる。自分で動かしていない。意識もしていない。なのに、地面に散った小石が、ゆっくりと卓斗の方へ寄っていた。
「……またかよ」
卓斗は右手首を押さえた。
契約紋の奥が焼けるように熱い。痛みに近いのに、手を離せない。崩れた魔獣の濁った魔素と、結界の沈んだ流れと、自分の中の何かが勝手につながっていく感覚があった。
魔獣の巨体が、ほんのわずかに卓斗の方へ揺れた。
倒れかけた身体が、自然な重力とは違う方向へ引かれる。右肩を崩され、外側へ傾いていたはずの魔獣が、土を削りながら卓斗のいる入口側へわずかに寄った。赤黒い目が、再び卓斗を捉える。
「タク、抑えなさい」
ティナの声が鋭く飛んだ。
「いや、何を!?」
「あなたの魔素よ。引いているわ」
「俺が!?」
卓斗は右手首を強く押さえた。
自分で動かした覚えはない。引こうと考えたわけでもない。けれど、小石が、濁った魔素が、崩れた巨体の重心が、確かにこちらへ寄ってきていた。
絵麻が顔を上げた。
「ちょっと、あいつこっちに戻ってきてない?」
「俺に聞くな! 俺も今知った!」
恵依は負荷の残る目で、卓斗の足元と魔獣の重心を見た。
「成瀬くんの魔素が、魔獣の崩れた重心に反応しています」
「説明されても困る!」
ゲブが白銅を伸ばし、結界の流れを支えようとした。
「引力に近い反応です。ただし、制御されていません」
「制御とか言われても、操作画面どこだよ!」
卓斗は叫びながら、右手首を押さえ続けた。
魔獣が低く唸った。
引き寄せられた巨体の赤黒い目が、卓斗を睨む。崩れた右肩から濁った魔素を撒き散らしながら、魔獣は無理やり前脚を地面へ立て直そうとしていた。
足元の砂利が、さらに卓斗の靴先へ集まった。
夜の街道で、卓斗の契約紋が白銀とは違う薄い光を帯び始めていた。




