第一章 17 『解析の目』
魔獣の赤黒い目が、卓斗で止まっていた。
白銀の硬化を正面から破れないと悟ったのか、白鋼の障壁を面倒だと判断したのか、理由までは分からない。ただ、その獣が次に狙う場所を変えたことだけは、誰の目にも明らかだった。前脚が沈んだ結界の土を深く掻き、太い爪が地面に黒い溝を刻む。
「成瀬くん、下がってください」
恵依の声は聞こえていた。
聞こえているのに、卓斗の足はすぐに動かなかった。赤黒い目が自分を見ている。ただそれだけで、喉が詰まり、足の裏が地面に貼り付いたようになる。頭では後ろへ下がれと分かっているのに、身体が理解に追いつかなかった。
「分かってる……! 分かってるけど、こいつ、完全に俺ロックしてない?」
「はい。だから下がってください」
「肯定が早い!」
卓斗はようやく一歩下がった。
だが、遅い。
魔獣は真正面から来なかった。ティナの白銀が残る場所を避け、結界の沈んだ線に沿って斜めに走り出す。地面を蹴った瞬間、土が爆ぜ、爪跡から小石が弾け飛んだ。巨体の割に低く、速く、入口側へ回り込むような軌道だった。
ティナが舌打ちするように息を吐いた。
「タク、右へ跳びなさい」
「跳べる余裕あったらもう跳んでる!」
「情けないわね」
「今それ言う!?」
卓斗は右へ動こうとした。
だが、足元の砂利が滑る。結界の沈んだ線が近いせいか、魔導灯の光も薄く、地面の凹凸が見えにくい。踏み出した足が思ったより深く沈み、身体が一瞬だけ前へ傾いた。
魔獣の肩が膨らんだ。
黒褐色の角質が開くようにせり上がり、前脚へ濁った魔素が集まる。赤黒い目が卓斗を捉えたまま、爪が地面を掴んだ。次の一歩で、卓斗のいる位置まで届く。
恵依が結界杭と魔獣の軌道を同時に見た。
ティナが正面から受ければ、魔獣は止まるかもしれない。だが、そこは沈んだ結界の線の上だった。力任せにぶつかれば、弱った結界杭が根元から持っていかれる可能性がある。中継地点の入口周りの防御まで崩れる。
「正面から止めないでください。杭が持ちません」
ティナの白銀の瞳が、恵依へ向いた。
「なら、どうするの」
「流します。ゲブ、右側の沈みを一瞬だけ上げてください」
ゲブはすぐに恵依の横へ立った。
黄色い瞳が結界杭の根元を捉え、白銅の魔素が両手から地面へ落ちる。沈んでいた魔素流へ触れた瞬間、白銅の光は川底から水を持ち上げるように広がった。
「承知しました。流川様、負荷が高くなります」
「短時間で終わらせます」
恵依の声は硬かった。
彼女の額には薄く汗が浮いている。解析負荷はすでに限界へ近い。それでも、目の前で卓斗が踏み潰される可能性がある以上、見ることを止められなかった。
「白銅補助、流れを上げます」
ゲブの白銅が結界杭から地面を走った。
淡く沈んでいた結界の線が、波のように持ち上がる。魔獣の前脚がそこへ踏み込んだ瞬間、爪は狙った場所へ深く噛まなかった。流れに押されるように横へ滑り、地面を斜めに削る。
魔獣の巨体がわずかに傾いた。
右肩が前へ落ち、左前脚の着地が遅れる。その一瞬を、恵依の目が逃さなかった。彼女は魔素の濃淡だけでなく、筋肉の沈み、角質の開き、爪が土を掴む角度まで読み取っている。
「左前脚が遅れます。次、爪は低い位置」
ティナは即座に指を下げた。
白銀の圧が魔獣の前脚の下へ打ち込まれる。空気が硬く重くなり、爪を滑らせた前脚が地面へ叩きつけられた。土が陥没し、魔獣の肩が前へつんのめる。
「そのまま伏せていなさい、タク」
「言われなくても伏せてる!」
卓斗は跳んだというより、転がった。
肩から地面へ落ち、砂利が手のひらを擦る。直後、魔獣の爪がさっきまで卓斗の足があった場所を抉った。土と石片が背中へ叩きつけられ、制服の上からでも痛みが走る。
「痛っ……! 避けても普通に痛いんだが!?」
「生きてるなら文句言わない!」
絵麻の声が飛んだ。
「生きてるから文句言ってんだよ!」
卓斗は地面に転がったまま叫び返した。
軽口を返せるだけ、まだ意識はある。だが、心臓は暴れるように鳴っていた。自分が立っていた場所が、深い爪跡で抉れている。ほんの一秒遅れていれば、足どころか身体ごと持っていかれていた。
魔獣は前脚を押さえ込まれながらも、首を振った。
白銀の圧に地面ごと沈められた前脚が震え、黒褐色の角質から濁った魔素が噴き出す。痛みで怯むどころか、さらに怒ったようだった。赤黒い目が地面の卓斗へ向き直る。
恵依がその動きを見て、さらに声を出そうとした。
だが、そこで視界が揺れた。
魔獣の魔素、結界の沈み、白銅の流れ、白銀の圧、白鋼の障壁。その全部が重なって見えすぎる。頭の奥を針で刺されたような痛みが走り、恵依の足元がわずかに揺れた。
「流川様、解析を切ってください」
ゲブがすぐに言った。
「まだ、次の動きが……」
「これ以上は危険です」
ゲブの声は丁寧だが、強かった。
恵依は魔獣の右肩を見た。突進の衝撃で、そこに張り付いた角質が一部割れている。割れ目の下で、濁った魔素が不安定に揺れていた。硬い鎧の下に、ほんのわずかな乱れがある。
「……分かりました」
恵依は解析を切った。
完全に目を閉じるのではなく、見える情報を絞る。ゲブの白銅が彼女の周囲へ薄く回り、過剰に流れ込む魔素の情報を遮った。恵依はこめかみを押さえながらも、今見つけた一点だけは忘れないように言葉へ変えた。
「右肩の角質が割れています。そこは硬化が薄いです」
絵麻が一瞬だけ恵依へ視線を向けた。
「弱点ってこと?」
「正面からでは難しいです。突進後、横から崩せば体勢を崩せる可能性があります」
「横からね……簡単に言ってくれるわ」
絵麻はラールの障壁と魔獣の位置を見比べた。
白鋼障壁は入口側を守っている。ラールはまだ維持できているが、さっきの衝撃で肩が上がり、呼吸が乱れていた。それでも逃げてはいない。絵麻の指示を待つように、両手へ白鋼の光を集め直している。
魔獣が前脚を白銀の圧から引き抜いた。
地面が裂け、土の塊が飛ぶ。ティナは押さえ込みを続けようとしたが、結界の沈みがまた白銀の固定点をずらした。魔獣はその揺れに身体をねじ込み、爪を地面へ叩きつけて圧から抜ける。
「しつこいわね」
ティナの声が低くなる。
魔獣はまだ卓斗を見ていた。
卓斗は地面に片膝をつき、立ち上がろうとしている。だが、手のひらの擦り傷と背中に当たった石片の痛みで動きが鈍い。そこへ魔獣が低い姿勢で首を振り、前脚を横へ薙ぐ準備をした。
恵依は負荷で即座に解析できない。
ティナは正面側の白銀を維持している。
ラールの障壁は入口側。
わずかな隙間を、魔獣の爪が狙っていた。
「成瀬くん、頭を下げて!」
ゲブが白銅の魔素を卓斗側の結界流へ流した。
沈んでいた線が一瞬だけ持ち上がり、魔獣の踏み込みが鈍る。爪の軌道は完全には止まらない。だが、速度が落ちた。その半拍を、ラールが拾った。
「卓斗さん、頭下げてください!」
ラールの白鋼障壁が、低い位置に打ち込まれる。
いつものような入口を守る高さではない。地面すれすれに、白鋼色の板が斜めに差し込まれた。魔獣の爪がそこへぶつかり、金属音と白い火花が弾ける。障壁は大きく軋んだが、爪の角度を上へ跳ね上げた。
「誰が卓斗さん!? いや今それどころじゃない!」
卓斗は叫びながら頭を下げた。
爪が頭上をかすめ、風圧だけで髪が乱れる。土と魔素の臭いが鼻先を通り過ぎた。まともに受けていたら、首から上がどうなっていたか分からない。
絵麻が踏み込んだ。
彼女は卓斗の襟を掴み、足元の空間を歪ませる。硝子を横から曲げるようなゆらぎが卓斗の身体を包み、次の瞬間、卓斗の位置が半歩だけ入口側へずれた。大きな移動ではない。けれど、その半歩で魔獣の追撃範囲から外れる。
「首! 首しまる!」
「助けてるんだから我慢!」
「ありがたいけど雑!」
卓斗は襟を引かれたまま転がり、入口側の土の上へ尻もちをついた。
絵麻も反動でよろめいた。空間をずらすたびに、彼女の体へ負担がかかる。だが、絵麻はすぐに体勢を戻し、卓斗を後ろへ押した。
「下がって。ほんとに邪魔だから」
「助けた直後に言い方!」
「生きてるなら動けるでしょ」
「西野、正論で殴るタイプすぎる」
卓斗は立ち上がろうとした。
膝が震えている。腕も痛い。それでも、今度は完全には固まらなかった。自分が狙われていると分かっているのに、その場へ座り込む方が怖かった。
魔獣は低く唸った。
ラールの低い障壁、絵麻の空間移動、ゲブの白銅補助。その全部に邪魔されたことで、さらに苛立っているように見える。赤黒い目がぎらつき、右肩の割れた角質から濁った魔素が漏れた。
恵依はこめかみを押さえながら、その右肩だけを見ていた。
すべてを見る必要はない。今見つけた弱点だけを見る。魔獣の突進後、右肩の角質が開く瞬間がある。そこを横からずらせれば、正面から止めるより少ない力で体勢を崩せる。
「正面ではなく、横から崩せます」
恵依は息を整え、絵麻の方を見た。
「突進後、右肩が開く瞬間があります。そこをずらせれば、体勢を崩せます」
絵麻は卓斗から手を離し、ラールの障壁を横目で確認した。
彼女の顔には疲れが出ている。空間を半歩ずらすだけでも、連続すれば負担になるのだろう。それでも、絵麻は逃げ道ではなく、魔獣の右肩を見た。
「ずらすって、簡単に言ってくれるわね」
ラールが震えながらも、白鋼の光を構え直した。
「でも、やるしかないですよね……!」
「勝手に突っ込まない。私が合図する」
「はいっ」
絵麻はラールの返事を聞いてから、魔獣の足元を見た。
恵依の解析、ゲブの白銅、ティナの白銀、ラールの白鋼。それらがなければ、今の半歩も作れなかった。自分だけでどうにかできる相手ではない。だからこそ、ずらすなら一瞬だけ、確実にやる必要がある。
魔獣は白銀の圧を振り払い、再び低く唸った。
だが、さっきまでとは違う。
右肩の角質が一部割れ、その下で濁った魔素がむき出しになっている。魔導灯の光がそこへ当たるたび、黒い煙のような魔素が揺れた。恵依は揺れる視界の中で、その一点だけを見逃さなかった。
卓斗は入口側で息を切らしながら立った。
足元の砂利が、またほんの少しだけ自分の靴先へ寄っている。右手首の契約紋は熱い。だが、今はその熱をどうすればいいのか分からない。目の前では、絵麻とラールが次の一手へ向けて構えている。
「次、横から崩すってことか」
卓斗が言うと、絵麻は魔獣から目を離さずに返した。
「そうよ。だから変に前へ出ないで」
「さすがに出ない。さっき死にかけたし」
「ならいい」
魔獣の前脚が、また地面を掻いた。
今度は入口ではなく、障壁の横を抜ける軌道だった。低く、速く、右肩を突き出すように構えている。割れた角質が開くまで、ほんの数歩。
絵麻は息を止め、ラールは白鋼の盾を低く構えた。
夜の街道に、次の衝突の気配が満ちていった。




