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第一章 16 『最初の魔獣』



 結界の乱れた場所へ、魔獣の影が踏み込んだ。


 魔導灯の光が届くぎりぎりの場所で、赤黒い目が二つ揺れている。狼に似ていたが、卓斗の知っている狼より一回りどころか二回りは大きい。背中は不自然に盛り上がり、肩から前脚にかけて黒褐色の硬い角質が鎧のように張り付いていた。


 太い前脚が土を踏むたび、地面が低く沈んだ。


 爪はただ鋭いだけではない。石を削る硬さがあり、結界杭の根元に敷かれた砂利を踏み潰して鈍い音を立てている。口元からは濁った魔素が煙のように漏れ、吐息が夜気に混ざって黒く揺れた。


「……でかくない?」


 卓斗の声は、自分で思ったより小さくなった。


 画面越しの怪物なら、いくらでも笑ってツッコめたかもしれない。けれど、目の前にいる魔獣は土を削り、息を吐き、肩を揺らすたびに空気まで重くする。足の裏へ伝わる振動と、獣臭さに混ざった濁った魔素の気配が、これは現実だと無理やり理解させてきた。


 恵依が卓斗の前方へ視線を固定したまま言った。


「成瀬くん、下がってください」


「分かってる。分かってるけど、足が思ったより言うこと聞かない」


 卓斗は半歩だけ後ろへ下がった。


 たった半歩だった。情けないと思う余裕すら薄い。魔獣の赤黒い目がこちらを見ているわけではないのに、視界の端に入るだけで膝が固くなる。正面に立つティナの小さな背中が、今だけはやけに遠く見えた。


 魔獣は結界の薄い場所を見つけるように、鼻先を低くした。


 前脚が地面へ沈み、爪が土を深く抉る。結界杭から伸びる淡い光が、魔獣の爪先に近づくほど歪んでいく。肩の角質が膨らみ、背中の筋肉が波打った瞬間、恵依の目が鋭く動いた。


「来ます」


 ティナが一歩前へ出た。


 白銀の髪が夜気の中でふわりと広がり、彼女の右手が横へ払われる。魔獣の突進軌道に沿って、見えない空気が一瞬で白銀色に走った。透明だったはずの夜気が、竜の鱗を何枚も重ねたような硬い面へ変わる。


「下がりなさい。正面から受けるわ」


「受けるって、あれを?」


「黙って下がることね」


 魔獣が突っ込んだ。


 地面を蹴った前脚が土を爆ぜさせ、黒褐色の肩が白銀の硬化面へ叩きつけられる。鈍い轟音が夜の街道を殴り、結界杭の根元に置かれた小石が一斉に跳ねた。空気が震え、卓斗は衝撃だけでさらに半歩後ろへ押された。


 白銀の硬化面は割れなかった。


 それでも、止めたとは思えないほど足元が揺れた。魔獣の爪は地面を削り続け、押し止められた肩から黒い魔素の煙が散る。止まったのではない。止められてもなお、前へ進もうとしているのだと分かった。


「止めてもこれかよ……!」


 卓斗は喉の奥で呟いた。


 ティナの足元に、白銀の光が薄く広がっている。だが、その光はところどころで歪んでいた。結界の沈んだ流れが固定点を乱し、ティナの硬化した空気をわずかにずらしている。ティナは片手を伸ばしたまま、魔獣の圧を受け流す位置を微調整していた。


「足場が悪いわね。結界の流れが沈んでいるせいで、固定がずれる」


「強キャラのくせに嫌なこと言うな」


「状況を理解しなさい」


 魔獣が白銀の面を前脚で叩いた。


 重い打撃音が響き、硬化した空気の表面に白銀の火花が散る。衝撃で土煙が舞い、中継地点の魔導灯が大きく揺れた。管理人と女性職員が入口側へ下がり、警備兵が槍を握り直す。


 恵依は片手でこめかみを押さえながら、魔獣の身体を見ていた。


 視線は目ではなく前脚へ向いている。肩、爪、背中の角質、地面への体重のかかり方。魔素の流れと身体の動きを重ね、次にどこへ動くかを読もうとしていた。


「前脚です。突進前に魔素が集中しています」


 ゲブが白銅の魔素を結界杭へ流した。


 黄色がかった光が、沈んだ結界の流れを一瞬だけ浮かせる。魔獣の濁った魔素は、薄い場所を探すように右側へ流れていた。ゲブの黄色い瞳が、その動きを正確に追う。


「右側の沈みへ回る可能性があります」


「戦闘中にそんな細かいの見えるの?」


 卓斗が思わず聞くと、恵依は視線を外さずに答えた。


「見えます。長くは無理です」


「流川様の負荷が上がっています。短時間で判断してください」


「分かっています」


 恵依は短く息を整えた。


 今の彼女は、ただ冷静に見ているだけではない。前脚に集まる魔素の濃さ、肩の沈み、爪が地面を掴む向き、そのすべてを拾っている。その分だけ、頭へかかる負荷も増えているはずだった。


 魔獣が一度、白銀の硬化面から肩を引いた。


 逃げたわけではない。低く喉を鳴らし、右側の結界杭へ向けて身体を傾ける。ティナの正面防御を抜けないと判断し、薄い流れを探って横へ回り込もうとしている。


 恵依がすぐに指示を出した。


「ティナさんは正面。ゲブは右側の流れを補助。ラールさんは入口側に障壁。西野さんは退避補助をお願いします」


「俺は?」


 卓斗は反射的に聞いた。


 聞いた瞬間、自分でも分かっていた。今の自分に前へ出る役目はない。けれど、何もできないまま立っているのが嫌で、言葉だけが先に出た。


「入口側へ。警備兵と管理人さんの位置を見てください」


「了解。安全確認係、継続ね」


「今はそれが一番いいでしょ」


 絵麻が言った。


 卓斗は半眼でそちらを見る余裕だけは戻っていた。


「西野、言い方が毎回刺さる」


「刺さっても動いて」


「はい」


 卓斗は入口寄りへ移動した。


 中継地点の扉が背後にある。右には管理人と女性職員。少し前に警備兵。さらに前方でティナが正面を抑え、恵依とゲブが結界流を読んでいる。絵麻とラールは入口側と右の結界杭の間に立ち、回り込まれた時の壁になる位置を取った。


 魔獣が右へ走った。


 低い姿勢のまま地面を蹴り、太い前脚が土を削る。体が大きいのに速い。肩の角質が魔導灯の光を弾き、濁った魔素が黒い尾のように後ろへ流れた。狙いは中継地点入口へ近い、結界の沈んだ場所だった。


「入口側、障壁出します!」


 ラールが叫んだ。


「退避路は塞がない!」


「分かってます!」


 白鋼の魔素がラールの両手から走った。


 透明な壁ではない。白鋼色の板が、空間へ打ち込まれるように何枚も重なった。金属質の盾が斜めに噛み合い、中継地点の入口と結界杭の間へ防御面を作る。ラールの顔は強張っていたが、位置は悪くなかった。


 魔獣の前脚が白鋼障壁へ叩きつけられた。


 甲高い金属音が弾け、白い火花のような魔素が散る。障壁の表面が大きくたわみ、ラールの小さな身体が反動で後ろへ滑った。足元の土が削れ、ラールの靴が二本の跡を残す。


「っ、重いです……!」


「真正面で受けない! 角度を寝かせて、横に流して!」


 絵麻がラールの横で叫んだ。


 ラールは慌てながらも、両手の向きを変えた。白鋼の障壁がわずかに傾き、魔獣の爪を正面から止めるのではなく、横へ滑らせる。硬い爪が障壁の表面を削り、火花を散らしながら外側へ流れた。


 魔獣の前脚が地面へ落ち、土を大きく抉った。


 ラールは息を詰めながらも、障壁を維持した。角度を変えたことで受ける力が少し逃げ、入口へ向かう衝撃は弱まっている。絵麻はそれを見て、すぐ次の位置を確認した。


「その角度、維持。押されたら私がずらす」


「はいっ!」


「声が大きい!」


「はいぃ!」


 魔獣の衝撃で、女性職員の足元が揺れた。


 彼女は結界札を持ったまま、無意識に前へ出かけていた。札の光を確認しようとしたのだろうが、その先は結界の沈んだ線に近い。魔獣の爪が地面を叩いた衝撃範囲に、足先が入りかけている。


 絵麻が鋭く振り向いた。


「動かないで!」


 女性職員の足元の空気が、薄い硝子を横から押し曲げたように歪んだ。


 次の瞬間、彼女の身体は半歩だけ入口側へずれていた。魔獣の爪が地面を叩いた衝撃は、さっきまで彼女が立っていた場所を削り、土と小石を跳ね上げる。結界札が強く光り、女性職員は遅れて自分が助けられたことに気づいた。


 絵麻は少しふらついた。


 空間をずらす動きは大きくない。それでも、連続すれば体に響くのだろう。絵麻はすぐに足を踏み直し、ラールの障壁の横へ視線を戻した。


「今の、便利だけど怖いな」


 卓斗が思わず言うと、絵麻は息を整えながら返した。


「便利って言わないで。気持ち悪いんだから」


「ごめん。でも助かった」


「分かってる」


 絵麻は短く答えた。


 魔獣は白鋼の障壁を嫌がるように一度下がった。


 だが、逃げない。赤黒い目がティナの白銀、ラールの障壁、恵依とゲブの白銅の流れを順番に見ている。知能があるとまでは言えないが、少なくともただ突っ込むだけの獣ではない。抜ける場所を探している。


 卓斗は息を殺して見た。


 魔獣が右へ行く時、前脚が先に沈む。肩の角質が動く前に、爪が地面を掴む。低く跳ぶ前には、背中の盛り上がりが一度固まり、尻尾が止まる。恵依ほど魔素が見えるわけではないが、動きの癖は少しだけ分かった。


 魔獣の左前脚が深く土を掴んだ。


 右側へ向かう前の動きだった。


「右、来る! 前脚が沈んだ!」


 卓斗が叫ぶと、恵依が即座に反応した。


「はい、右側です!」


 絵麻が障壁の横へ動く。


「言うの遅くない!」


「初戦闘で完璧求めんな!」


 卓斗は叫び返しながら、警備兵の位置を見た。


 警備兵は魔獣の動きに合わせて前へ出ようとしていた。槍の間合いを作るには前へ出たくなるのだろう。だが、その一歩は入口側の防御を空ける。魔獣がそこを抜ければ、中継地点の扉まで一直線だった。


「前に出るな! そこ抜かれたら入口空く!」


 卓斗が叫ぶと、警備兵が歯を食いしばった。


「分かっている!」


「ほんとか!? 俺なら焦る!」


「自分基準で叫ばない!」


 絵麻の声が飛んだ。


 それでも、警備兵は踏みとどまった。白鋼障壁の後ろに位置を取り、槍の穂先だけを障壁の横から出す。魔獣へ深く刺すのではなく、顔の向きを逸らすための牽制だった。


 魔獣が低く跳んだ。


 狙いはティナの白銀とラールの白鋼障壁の間。結界の沈みが細く走る場所へ、胴体を滑り込ませるような動きだった。背中を低くし、肩を斜めに入れ、硬い角質で障壁の縁を削ろうとしている。


 恵依の目が魔獣の軌道を追った。


 だが、一瞬だけ呼吸が詰まる。解析負荷で反応が遅れたのだ。ゲブがすぐに白銅の魔素を強め、沈んだ結界流を下から持ち上げる。黄色い光が細く走り、魔獣の足元の結界がわずかに戻った。


「流れを上げます」


 ゲブの声と同時に、ティナが指先を下へ落とした。


 魔獣の前脚の周囲の空気が白銀に沈む。重さを持った空気が足首へまとわりつき、跳び込もうとした前脚が地面へ叩き落とされた。土が爆ぜ、魔獣の体勢がわずかに崩れる。


「ラール、追加!」


「はいっ!」


 白鋼の障壁がもう一枚、斜めに打ち込まれた。


 絵麻は自分の足元の空間を歪ませ、半歩だけ障壁の横へずれた。魔獣の肩が白鋼へぶつかる瞬間、絵麻は障壁の横の空間をさらに外側へ押し曲げる。衝撃の向きがわずかにずれ、魔獣の胴体が入口から外へ流れた。


 警備兵の槍が、障壁の後ろから突き出された。


 穂先は魔獣の鼻先をかすめただけだった。だが、それで十分だった。魔獣は目の前の金属を嫌って頭を逸らし、踏み込みの角度を失う。爪が土を深く削り、横滑りした体が結界の外側へ押し戻された。


 白銀、白銅、白鋼の光が夜の街道で重なった。


 地面が低く鳴り、土煙が舞い上がる。魔導灯の光が大きく揺れ、結界杭の影が卓斗たちの足元で伸び縮みした。魔獣の太い前脚が地面に溝を掘りながら後退し、結界の外側へ一歩、押し返される。


 卓斗は息を吐くのを忘れていた。


 胸が痛い。喉が乾く。何かをした気になっていたが、実際には叫んだだけだ。それでも、その叫びが警備兵を止め、入口の隙間を埋める一つになった。役に立ったのかもしれないという実感と、まだ何もできていないという焦りが同時に残った。


 魔獣は結界の外側へ下がった。


 ティナは手を下ろさず、白銀の硬化面を薄く保っている。ラールは肩で息をしながら白鋼障壁を維持し、絵麻はふらついた足を踏み直して入口側を見た。恵依はこめかみを押さえ、ゲブは白銅の流れを細く保っている。


「下がっただけよ。倒れてはいないわ」


 ティナが言った。


「言い方が毎回希望を削る」


 卓斗は息を整えながら返した。


 恵依は魔獣から目を離さなかった。


「次の動きがあります。警戒してください」


 魔獣は逃げなかった。


 赤黒い目が、夜の中でぬらりと光る。視線がティナの白銀へ移り、次にラールの白鋼障壁へ流れた。恵依とゲブを見て、絵麻の足元の歪みにも反応する。そして最後に、入口近くへ立つ卓斗で止まった。


 卓斗の右手首が痛みに近い熱を持った。


 足元の砂利が、ほんの少しだけ卓斗の靴先へ寄る。自分で動かしたわけではない。契約紋の奥で、何かが魔獣の視線に反応している。背中に冷たい汗が伝った。


「……今、こっち見たよな?」


 卓斗が呟くと、恵依の顔色が変わった。


「成瀬くん、下がってください」


 魔獣の前脚が、沈んだ結界の土を深く掻いた。


 次の突進は、明らかに卓斗のいる側へ向いていた。





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