第一章 15 『乱れた結界』
魔導灯の列の先で、遠い光がもう一度弱く瞬いた。
中継地点の周囲に立つ結界杭は、まだ完全には消えていない。けれど、光の戻りが遅い。一本の杭から次の杭へ流れるはずの魔素が、途中で何かに引っかかったように鈍り、夜の街道に細い空白を作っていた。
管理人は結界札を握りしめ、王都方面へ続く光の列を見た。
「これ以上は危険だ。一度中へ戻るべきだ」
その判断は当然だった。
王都からは、竜精霊三名と契約者三名を中継地点に留めるよう指示が来ている。保護対象を夜の街道へ長く出すわけにはいかない。しかも、外側の草むらには先ほどから魔獣らしき気配が近づいていた。
流川恵依は、結界杭の光と地図代わりに持ち出された結界札を見比べた。
「戻る判断は必要です。ただ、このままでは王都へ伝える情報が不足します」
恵依の声は落ち着いていたが、顔色は少し白い。
解析を続けた負荷が出ている。成瀬卓斗にもそれは分かった。だが、彼女の目は結界杭の根元と、外側へ沈む魔素の流れから離れていない。戻れば安全かもしれないが、原因が分からないまま中に籠もっても、結界が落ちれば中継地点ごと危なくなる。
「外で調査続行って、普通に嫌なんだけど」
卓斗は本音を漏らした。
冷たい夜気が制服の袖から入り込む。足元の土は昼間の草原より硬いが、外側の闇から何が来るか分からない。戦えない状態で現場にいるというだけで、身体の奥がじわじわ緊張していた。
絵麻は卓斗の横で、結界杭と中継地点の入口を見比べた。
「でも原因分からないまま中にいても、結界が落ちたら終わりでしょ」
「西野、嫌な正論言うの上手いな」
「好きで言ってるわけじゃない」
絵麻は腕を組み直した。
その少し後ろで、ラールが白鋼の光を両手に集めかけ、絵麻の視線に気づいて一度止める。前よりは慌てていない。少なくとも、勝手に障壁を出して地面に斜めに刺すようなことは避けようとしているらしい。
恵依は深く息を吸い、短く条件を出した。
「確認は次の結界杭までです。それ以上は進みません。魔獣反応が近づいたら即撤退。私の解析負荷が上がれば中止。成瀬くんと西野さんは結界の内側から出ないでください」
「流川、条件設定が完全に現場責任者」
「責任者ではありません。必要な確認です」
「流川語で責任者って言わないだけでは?」
恵依は卓斗の軽口には乗らず、ゲブへ視線を向けた。
「ゲブ、白銅の補助は最小限でお願いします。広げすぎると、外側の乱れまで拾いすぎます」
「承知しました。流川様の負荷を優先します」
ゲブの白銅の魔素が、細い糸のように結界杭へ伸びた。
黄色がかった光は、流れを無理に修復するのではなく、沈んでいる箇所を浮き上がらせるように揺れる。恵依はその動きを追い、一本先の結界杭へ進む。足取りは慎重で、結界の内側を外れないように位置を選んでいた。
ティナは草むら側に立った。
白銀の髪が夜気に揺れ、彼女の周囲の空気だけがわずかに硬くなる。外側から何かが飛び込んできた場合、まずティナの白銀が受ける形だ。小さな姿でも、そこに立つだけで魔導灯の光の境界が少し厚く見えた。
絵麻はラールを中継地点の入口に近い位置へ下げた。
「ラール、入口側に障壁を出すなら、退避路は塞がない。出す前に言う」
「はいっ。えっと、入口側、退避路は塞がない、角度は街道と平行に近く……」
「そう。今はまだ出さない」
「はいぃ」
卓斗はそのやり取りを聞きながら、管理人と警備兵の位置を確認した。
警備兵は槍を構えているが、前へ出すぎないように足を置いている。さっき卓斗が危ない位置を指摘したことが効いているのかもしれない。管理人と女性職員は入口近くに下がり、結界札で流れの変化を追っていた。
恵依は次の結界杭の前で膝を折った。
石柱の根元には、黒ずみのようなものがあった。泥や煤ではない。魔導灯の光を受けても反射せず、結界の光が流れる瞬間だけ、そこが鈍く沈む。文字は読めないが、術式の線の一部だけが曇っているのは卓斗にも分かった。
「ここです」
恵依が指を近づけると、ゲブの白銅がその周囲へ薄く広がった。
直接触れずに、残った魔素だけを浮かせる。黄色がかった光の中で、黒ずんだ残滓が糸のように立ち上がった。結界の本来の流れとは違う向きに、細く引っ張られた跡が見える。
ゲブが静かに説明した。
「確認できた範囲では、結界の流れが切断されたのではありません。外側へ一度引かれ、その後に沈められています」
「引かれて沈めるって、やってること陰湿すぎない?」
卓斗は顔をしかめた。
壊すならまだ分かる。だが、完全に壊さず、流れだけをずらして薄くする。魔獣が通れる場所だけを作るようなやり方だ。見た目には結界杭が残るぶん、発見も遅れるのだろう。
恵依は黒ずんだ線を見つめながら言った。
「結界を完全に壊さず、薄い場所だけ作るためだと思います」
絵麻が鋭く反応した。
「壊したらバレるから、通れる隙間だけ作ったってこと?」
「その可能性があります」
「性格悪いわね」
絵麻の声には、はっきりした嫌悪があった。
卓斗も同じ感覚だった。異世界の結界がどういう仕組みか詳しくは分からない。だが、人が使う街道を守るものを、気づかれにくい形で弱らせる。その結果、旅人や中継地点の人が魔獣に襲われるなら、ただの故障とはまるで意味が違う。
その時、卓斗の右手首が熱を持った。
さっきの時より強い。袖の下の契約紋が、心臓の鼓動とは別のリズムで脈打つ。足元の砂粒が、ほんの少し右側へ寄った。結界杭の薄い光も一瞬だけ卓斗の方へ揺れ、すぐに元へ戻る。
ティナがすぐに気づいた。
「タク、力を出そうとしている?」
「してない。むしろ出すなって思ってる」
卓斗は右手首を押さえた。
自分の意思ではない。引っ張る、ずらす、沈めるという言葉と、目の前の痕跡が何かに触れたようだった。身体の内側から、見えない糸を掴まされるような感覚がある。
「あなたの魔素が、結界の引かれた跡に反応しているわ」
「相性悪い予感しかしないんだけど」
恵依が卓斗の契約紋と結界杭の残滓を交互に見た。
「成瀬くんの魔素は、引力と斥力に近い反応です。結界を外側へ引かれた痕跡に、似た方向の反応をしている可能性があります」
「俺の力、結界壊したやつと似てるみたいな言い方やめて?」
卓斗は思わず声を強めた。
自分は来たばかりだ。結界を壊した覚えなどない。そもそも魔素の扱い方も分からない。なのに、似た方向の反応と言われるだけで、自分の中にある力まで怪しいものに思えてくる。
ゲブが白銅の魔素を細く調整した。
「成瀬様の反応と、残留魔素は一致しません。似た方向の力ですが、波形は異なります」
「よかった。疑い晴れた?」
卓斗が少しだけ期待して聞くと、絵麻が横から現実を刺した。
「完全には晴れてないけど、少なくとも今のやつとは違うってことでしょ」
「西野、安心させるの下手だな」
「変に安心させる方が危ないでしょ」
「それはそうだけど」
卓斗は苦い顔で右手首を離した。
疑われているわけではない。少なくとも、ゲブは波形が違うと言ってくれた。だが、自分の力が結界の異常に反応した事実は残る。引く力と押す力。それが今後何に関わるのか、分からないことがまた一つ増えた。
ゲブは残留魔素をさらに浮かせた。
黒ずんだ糸は、結界杭の根元から外側へ伸び、途中で途切れている。魔獣が爪で触れた跡とは違う。自然に乱れた流れとも違う。何らかの術式か、意図を持った魔素が外側から引っかけた跡に見えた。
「外側から来た魔素は、結界と同じ系統ではありません。魔獣の自然な接触でもないと思われます」
ゲブの声は静かだったが、内容は重かった。
恵依が続ける。
「人為的、もしくは術式的な干渉の可能性があります。黒ではありませんが、暗く濁った魔素の残滓があります」
ティナの表情が少しだけ険しくなる。
「ただの魔獣ではないわね」
「同意します。意図的に結界の弱点を作った可能性があります」
ゲブがそう言うと、ラールが不安そうに声を上げた。
「だ、誰がそんなことを……?」
「それが分かってたら苦労しないでしょ」
絵麻は言い方こそ強いが、ラールから視線を外さなかった。
ラールはしゅんとしたが、今回はすぐに泣きそうにはならなかった。両手の白鋼の光を小さく保ち、入口側へ意識を向け直している。少しずつ、守る準備と慌てることを分けようとしているのが分かった。
「異世界到着初日で妨害工作っぽいの見るの、展開早すぎるんだが」
卓斗は夜の街道を見ながら呟いた。
女性職員はその言葉の意味を完全には理解していないようだったが、結界異常の危機感は同じだった。彼女は地図と結界札を見比べ、王都方面へ続く線を指でなぞる。
「この結界線は王都へ続く商隊路です。ここが乱れれば、荷馬車も旅人も止まります」
「結界が乱れるだけで、道が使えなくなるのか」
「夜間は特に。中継所が孤立することもあります」
「地味に詰んでるじゃん」
卓斗は眉を寄せた。
派手な爆発も、巨大な魔法もない。だが、街道の結界が細く沈むだけで、人の流れが止まる。荷物が届かず、旅人が足止めされ、中継所が孤立する。地味だが、影響は広い。
恵依はこめかみに指を添えた。
「派手な破壊より、影響が広範囲に出ます」
その声がわずかに揺れた。
ゲブがすぐに恵依を見上げる。
「流川様、解析負荷が上昇しています。これ以上の継続は推奨できません」
「あと一箇所だけ確認します」
「推奨できません」
ゲブの声は丁寧だが、引かなかった。
恵依は結界杭の先へ視線を向けたまま、数秒だけ黙る。情報は欲しい。だが、さっき自分たちで条件を決めたばかりだ。負荷が上がれば中止。本人抜きで無理に進めない。それは、恵依自身にも適用されるべきだった。
「……分かりました。ここで止めます」
恵依は視線を外し、深く息を吐いた。
卓斗はその様子を見て、少しだけ表情を緩めた。
「流川、自分にもルール適用できるの偉いな」
「必要なことです」
「知ってた」
恵依は返しながらも、額のあたりを軽く押さえた。
ゲブは白銅の魔素を弱め、恵依の周囲に薄く流して負荷を散らす。目に見えて治るわけではないが、恵依の呼吸は少し落ち着いた。卓斗は、ゲブが恵依をよく見ていることを改めて感じた。
ラールが小さく手を上げた。
「絵麻ちゃん、入口側に障壁を出してもいいですか?」
絵麻は外側の草むらを見たまま聞き返した。
「角度は?」
「入口に斜めじゃなく、街道と平行に近く。退避路は塞がない」
ラールは言葉を一つずつ確かめるように答えた。
絵麻は少しだけ眉を動かした。驚いたのかもしれない。すぐにそれを隠すように横を向き、短く許可を出す。
「……今のは合ってる。出して」
「はいっ!」
ラールの白鋼の魔素が、入口側に薄い障壁を作った。
今回は斜めに刺さらない。退避路を塞がず、中継地点の扉と結界杭の内側を守る位置に置かれている。卓斗は思わず小声で呟いた。
「ラール、成長してる」
「聞こえると調子に乗るから静かにして」
絵麻がすぐ刺す。
「聞こえてます!」
ラールが嬉しそうに反応した。
「ほら」
「すみません」
短いやり取りの直後、外側の空気が変わった。
草むらの奥で、低い唸り声がした。さっきまでの小型魔獣とは違う。地面そのものがわずかに震え、草の先が広い範囲で倒れていく。魔導灯の光が届くぎりぎりの場所で、闇がひとつ大きく揺れた。
ゲブの黄色い瞳が鋭く光った。
「外側より大型の魔素反応。距離、三十歩。こちらへ向かっています」
恵依は負荷を押さえながらも、結界杭の沈みへ視線を向けた。
「結界の沈んだ箇所を狙っています」
「さっきまでの小さいやつじゃない感じ?」
卓斗の声が、自分でも分かるほど硬くなった。
ティナは草むらの方へ白銀の魔素を広げる。
「ええ。少なくとも、ただの小型ではないわ」
管理人と女性職員が入口へ下がり、警備兵が槍を構え直した。
絵麻は足元の空間をわずかに歪ませ、ラールの障壁との位置関係を確認している。ラールは白鋼の障壁を保ったまま、今度は勝手に前へ出なかった。ゲブは恵依の負荷を気にしつつ、外側の反応から目を離さない。
遠くの草むらが、今度は低くではなく、大きく割れた。
魔導灯の光が届くぎりぎりの場所で、赤黒い目が二つ浮かぶ。影は犬や狼より大きく、背中が盛り上がり、前脚だけが不自然に太かった。地面を踏むたび、硬い爪が土を削る音がした。
卓斗の右手首が、痛みに近い熱を持つ。
「……これ、戻る時間ある?」
卓斗が言うと、恵依は結界の沈みを見たまま答えた。
「間に合いません。ここで受けます」
白銀、白銅、白鋼の魔素が、夜の街道に重なった。
結界の乱れた場所へ、魔獣の影が踏み込んだ。




