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第一章 12 『読めない文字と通じる言葉』



 王都へ向かった光が夜の街道へ消えたあと、中継地点の中には、妙な静けさが残った。


 外では魔導灯が淡く揺れ、結界杭の列が草むらとの境目を細く照らしている。内側には石造りの床、木製の長椅子、壁一面に貼られた読めない札、そして槍を持った警備兵。屋根と壁があるだけで助かったはずなのに、成瀬卓斗の肩から力は抜けなかった。


 卓斗、流川恵依、西野絵麻は、入口から少し離れた長椅子の近くに立たされていた。


 ティナは卓斗の横で腕を組み、ゲブは恵依の近くで結界札の反応を見ている。ラールは絵麻の後ろに半分隠れるように立ち、時折、入口の警備兵と壁の札を交互に見ていた。三組とも中へは入れてもらえたが、自由に動いていい空気ではない。


「座れたのは助かるけど、見張り付きの休憩って休憩判定でいいのか?」


 卓斗は長椅子へ腰を下ろしながら、入口の警備兵を横目で見た。


 警備兵は槍を床に立てているが、穂先を完全に下げてはいない。すぐ攻撃する気はなさそうだが、少しでも不審な動きをすれば止めるつもりなのは分かる。卓斗としては、休憩というより事情聴取前の待機に近かった。


 恵依は隣に腰を下ろさず、壁の地図と入口の位置を確認してから答えた。


「少なくとも、外よりは安全です」


「前向き判定ゆるくない?」


「危険度の比較です」


「流川語だと、前向きも危険度の比較になるのか」


 絵麻は腕を組んだまま、部屋の奥を見ていた。


 壁際には仮眠室らしき扉があり、その横には警報用らしい小さな鐘が吊られている。窓は高い位置に一つだけ。逃げる場所を探しているというより、閉じ込められた時の動線を確認しているようだった。


「この状況でくつろげる方がおかしいでしょ」


「西野、初対面からずっと正論多いな」


「変な状況が多すぎるだけよ」


「それはそう」


 卓斗は素直に認めた。


 異世界に来てから、まともな安心がほとんどない。会話は通じるのに文字は読めない。竜精霊は伝承の存在として崇められているのに、卓斗たちからすれば強制契約の加害側でもある。中継地点に入れたことは前進だが、前進した先も十分に面倒だった。


 年配の管理人は受付台の前で、報告札の控えを作っていた。


 机の上には木札の束、薄い金属板、結界管理用らしい地図が広げられている。女性職員は、その地図の上に小さな石を三つ置き、先ほど恵依とゲブが示した結界異常の位置を確認していた。石の場所から細い光が立ち上がり、地図の線へ溶け込んでいく。


 卓斗は壁の方へ目を向けた。


 読めない札の間に、古びた絵が一枚飾られている。淡い色で描かれた女性が、白い城壁の前に立っていた。背後には三つの竜の紋様があり、それぞれ白銀、白銅、白鋼の色で塗られている。


「なあ、あれってフィオラ?」


 卓斗が指差すと、ティナが絵を見た。


 白銀の瞳が、古い絵に描かれた女性の輪郭を追う。ほんの一瞬だけ、ティナの表情から毒気が抜けたように見えた。だが、それはすぐにいつもの冷静な顔へ戻った。


「おそらくね。私の知る姿とは、少し違うけれど」


「伝承って盛られるタイプ?」


「六百年も経てば、形は変わるわ」


 卓斗は絵の中のフィオラを見直した。


 描かれている女性は、優しくも厳かな顔をしている。現実にいた人間というより、最初から伝説として描かれた存在に見えた。その背後の竜紋も、ティナたち本人というより、信仰の象徴に近い。


 管理人がその会話を聞き、静かに視線を上げた。


「その絵は、建国の御方フィオラ様と、三柱の竜精霊様を描いたものだ。古い写しだが、この中継所にも祀られている」


「三柱って、ティナたちのこと?」


 卓斗が聞くと、管理人は当然だという顔で少し背筋を伸ばした。


「白銀のティナ様、白銅のゲブ様、白鋼のラール様。フィオラ様と共に世界を救い、この国の始まりを支えた竜精霊様だ」


 ラールが小さく肩を縮めた。


「あ、あの、私に様はちょっと……」


「こういう時だけ弱気にならないで」


 絵麻がすぐに言うと、ラールは困ったように両手を揺らした。


「だって、私そんな立派な感じでは……」


「それは知ってる」


「絵麻ちゃん!?」


 卓斗はラールの反応を見てから、ティナへ視線を戻した。


 この国では、ティナたちは崇められる存在らしい。だが卓斗にとってティナは、拒否を聞いた上で契約を強行し、異世界へ連れて来た張本人だ。壁の絵に祀られている白銀の竜精霊と、目の前で偉そうにしているティナが、同じ存在として扱われることに頭が追いつかない。


「この国だと、ティナたちって相当偉い感じ?」


 卓斗が管理人へ聞くと、管理人は少し驚いた顔をした。


「偉いなどという言葉では足りない。フィオラ様と共に世界を救われた竜精霊様だ」


「……俺、その竜精霊に強制契約されたんだけど」


 部屋の空気が一瞬固まった。


 警備兵の視線が卓斗とティナを行き来し、女性職員も手を止める。管理人の顔には、信仰対象への畏敬と、目の前の少年が言った内容への困惑が同時に浮かんでいた。


 ティナは平然としていた。


「必要だったわ」


「出たよ、便利ワード」


 恵依が一歩分だけ会話へ入る。


 彼女は管理人たちが過度に混乱しないよう、言葉を選んでいた。卓斗の不満は正しい。だが、今ここで信仰と強制契約の話を正面からぶつけると、話が進まなくなる。


「契約の経緯については、後ほど王都側へ正確に説明する必要があります。私たちは全員、自分の意思だけでこちらへ来たわけではありません」


「そうよ。好きで来たんじゃない」


 絵麻も強く言った。


 管理人は、絵麻の言葉にすぐ反論しなかった。竜精霊への畏敬があるからこそ、契約者側の言い分をどう扱うべきか判断できずにいるようだった。


 女性職員が書類らしき木板を持って近づいてきた。


 表面には細かな文字が並んでいる。卓斗には、最初の一文字から分からない。どこが名前を書く欄で、どこが確認欄なのかも見当がつかなかった。


「確認のため、名を記録します。ここに印を」


 女性職員は木板の下部を示した。


 卓斗は反射的に手を伸ばしかけて、すぐ止めた。読めない。何に同意するのか分からない。現代日本で読めない書類にサインするなと言われたら絶対にするな案件だ。


「すみません。読めません」


 卓斗が正直に言うと、女性職員は目を瞬かせた。


「読めない?」


「会話は通じるんだけど、文字は無理っぽい」


 女性職員は、恵依と絵麻の方も見た。


 恵依は木板の文字へ視線を落とし、すぐに首を振った。絵麻は最初から書く気がなさそうに腕を組んでいる。


「少なくとも、この文字体系は私たちのものではありません」


 恵依が説明する。


 絵麻は木板を睨むように見た。


「サインしろって言われても、何に同意するか分かんないなら書けないでしょ」


「西野、それめっちゃ大事」


 卓斗は即座に同意した。


 読めない文字。知らない国。竜精霊。契約者。保護対象。これだけ面倒な要素が揃っている状態で、読めない書類に名前を書くのは危険すぎる。


「読めない書類に名前書くの、現代でも異世界でもアウトだろ」


「げんだい、というのは分かりませんが、読めない記録へ印を押せないという主張は理解できます」


 女性職員は少し戸惑いながらも、木板を下げた。


 警備兵はその様子を見て、また警戒を強めたようだった。文字が読めない者が会話だけできる。彼らにとっても異常なのだろう。


「文字は読めないのに、言葉は通じるのか」


 警備兵が低く言った。


 ティナが面倒そうに視線だけ向ける。


「契約と転移の影響で、会話の意味だけは通るようになっているのでしょうね」


「便利だけど中途半端すぎる」


 卓斗は肩を落とした。


 恵依は木板の文字と壁の札を見比べている。表情は落ち着いているが、目の奥には負担が見えた。文字情報が使えないということは、今後の行動すべてに制限がかかる。それをもう計算し始めているのだろう。


「文字情報が読めない以上、行動には制限があります。地図、契約、注意書き、標識、すべて確認が必要です」


「じゃあ余計に勝手な書類にはサインしない」


 絵麻はきっぱりと言った。


 管理人はゆっくり頷いた。


「分かった。名は聞き取りで記録する。印は王都の確認役が来てからでよい」


 女性職員は新しい札を取り、筆のような道具を構えた。


 管理人が卓斗の方を見る。


「名を」


「成瀬卓斗」


 女性職員の筆が止まった。


「ナルセ、タクト……?」


「あー、成瀬が苗字で卓斗が名前。いや、この世界の名前順知らないけど」


 女性職員は困った顔で管理人を見る。


 管理人はしばらく考え、聞こえた通りに記録するよう指示した。卓斗はその様子を見て、自分の名前ですら異世界では説明が必要なのだと実感した。


「流川恵依です」


 恵依が続ける。


 女性職員は音を確認しながら、慎重に札へ書き込む。恵依はその文字を見ても読めないため、正しく記録されているか自分では確認できない。それもまた不安材料だった。


「西野絵麻」


 絵麻は短く名乗った。


 女性職員が書き終えると、管理人は三人の右手首や腕へ目を向けた。


「契約紋は確認する必要がある」


 卓斗は一瞬だけ眉を寄せた。


 勝手に身体を調べられるのは嫌だ。だが、ここで拒否すると話が進まない。恵依も同じことを考えたのか、袖を少し上げる前に条件を出した。


「触れずに確認してください」


「当然だ」


 管理人はすぐ答えた。


 その一言で、卓斗は少しだけ息をついた。少なくとも、相手は無理やり掴んで調べるつもりではないらしい。卓斗、恵依、絵麻は、それぞれ契約紋が見える範囲だけ袖をずらした。


 白銀、白銅、白鋼。


 三つの契約紋が魔導灯の下で薄く光る。


 女性職員の手が震えた。


「白銀のティナ様……白銅のゲブ様……白鋼のラール様……本当に、伝承の契約紋と同じ……」


「様付けされてるぞ、ティナ」


 卓斗が横目で見ると、ティナは当然のように言った。


「当然ね」


「そこ当然で受けるの腹立つな」


 ゲブは恵依の袖の近くへ視線を向け、記録される様子を静かに見ていた。


「記録上必要であれば、その呼称で問題ありません」


「ゲブ、対応が役所向きすぎる」


「役所が何かは不明ですが、記録精度は重要です」


「そこ真面目に拾うな」


 ラールは絵麻の契約紋を見られて、なぜか自分まで緊張していた。


「絵麻ちゃん、痛くないですか? 大丈夫ですか?」


「見せてるだけで痛くないわよ」


「そ、そうでした!」


「落ち着いて」


 絵麻の口調は強いが、ラールを押しのけることはしなかった。卓斗はそのやり取りを見て、絵麻の強さがただの刺々しさではないことをまた少し理解した。


 女性職員は、次に結界管理用の地図を広げた。


 地図には街道らしき線が走り、いくつもの印が並んでいる。卓斗には地名も記号も読めないが、結界杭の配置と中継地点の位置らしきものは何となく分かった。魔導灯の光が地図の上を走り、外側の印で一度だけ弱く沈む。


「昼過ぎの巡回記録では、異常なしになっています」


 女性職員は地図の一点を指した。


 恵依はその指の位置と、地図の魔素の流れを見比べた。


「この印が先ほどの結界杭なら、乱れはこの外側です」


 ゲブが白銅の魔素を細く伸ばした。


「確認できた範囲では、三箇所に沈みがあります。いずれも内側からではなく、外側の流れが削られた形に近いと思われます」


「昼過ぎまでは正常。夕方には異常。となると、数時間の間か」


 管理人の顔が険しくなる。


 卓斗は地図の読めない文字と、女性職員たちの表情を見比べた。


「つまり、俺らが来る前から壊れかけてたってこと?」


 女性職員は少し考え、慎重に答えた。


「少なくとも、あなた方が来る直前だけの異常ではありません。昼過ぎから夕方までの間に、何らかの干渉があった可能性が高いです」


「じゃあ、俺らが全部やった扱いはなしで頼む」


 警備兵が卓斗を見た。


「乱れを知っていたなら、乱した側でない証明はあるのか」


 その言葉に、卓斗の眉が動いた。


 言いたいことは分かる。中継地点側からすれば当然の疑いだ。だが、強制契約されて異世界へ飛ばされ、魔獣に追われ、やっと建物に入ったところで疑われるのは、普通にしんどい。


「いや、こっち来てすぐ疑われるのしんどいな」


「でも、向こうからしたら当然でしょ」


 絵麻が冷静に刺してきた。


「西野、冷静に刺してくるな」


「事実でしょ。私たち、自分で見ても怪しいし」


「それはそうだけど」


 恵依が警備兵へ向き直った。


 彼女は卓斗の不満を否定せず、相手の警戒も否定しない。その上で、今出せる事実だけを並べようとしていた。


「証明は現時点では困難です。ただ、少なくとも私たちは結界の薄い箇所を補助し、魔獣の侵入を防ぎました」


 ゲブが続ける。


「記録可能であれば、白銅の魔素流を結界杭に残します。後で流れを比較すれば、補助と破壊の違いは確認できると思われます」


 女性職員が顔を上げた。


「それは可能です。白銅の流れが残っていれば、乱れた箇所との違いも追えます」


 警備兵はまだ完全には納得していない顔だったが、それ以上は追及しなかった。


 管理人が重く息を吐く。


「フィオラ様は、この国を建て、世界を救われた御方。その契約精霊が今ここにおられるなど、私の一存で扱える話ではない。だが、街道の結界異常も放置できん」


 ティナは壁の絵へ一度だけ視線を向けた。


「六百年も経てば、そう扱われても不思議ではないわ」


「不思議ではないけど、お前が偉そうなのは納得いかない」


「あなたの納得は必要ないわ」


「そういうとこだぞ」


 ゲブは壁の伝承画と現在の記録札を見比べていた。


「伝承と現状の認識には差があります。確認が必要です」


「ゲブは本当にずっと記録向きだな」


「確認は重要です」


 ラールは小さく手を上げかけて、絵麻の視線に気づいて止めた。


「あの、私、本当にそんな立派な感じでは……」


「それは知ってるって言ったでしょ」


「絵麻ちゃん、追い打ちが早いですぅ……」


 部屋の空気が少しだけ緩んだ。


 ただし、緊張が消えたわけではない。警備兵は入口を見ているし、女性職員は結界札の反応を追っている。管理人は王都からの返答を待ちながら、さらに報告用の札を準備していた。


 その時、机の上に置かれていた小さな台座が淡く光った。


 管理人がすぐに振り返る。


「王都からだ」


 部屋の全員の視線が台座へ集まった。


 光は細い糸のように伸び、空中に文字を描く。卓斗には読めない。だが、管理人と女性職員の表情が真剣になるのを見て、重要な返答が来たのだと分かった。


 管理人は文字を目で追い、深く息を吐いた。


「王都より返信。竜精霊三名、および契約者三名を保護対象として中継地点に留めること。結界異常の記録を継続。確認役を派遣する」


「保護対象って、言い方は柔らかいけど、自由ではないやつだよな?」


 卓斗が言うと、恵依は少しだけ考えてから答えた。


「現状では、最も穏当な扱いだと思います」


「前向きだな」


「比較の問題です」


 絵麻は不満そうに腕を組み直した。


「納得はしてないけど、外に放り出されるよりはマシね」


「みんな状況判断が現実的すぎる」


 卓斗は頭を掻いた。


 自分も分かっている。今ここで自由にさせろと騒いでも、どこへ行くのか分からない。文字も読めず、地図も読めず、外には魔獣と弱った結界がある。保護対象という言葉が気に入らなくても、今はこの中継地点にいる方が安全なのだ。


 管理人は返信の続きを読んだ。


「確認役は王都より派遣。第六騎士団への連絡も行う、とのことだ」


「第六騎士団?」


 卓斗が聞き返すと、管理人は台座の光を確認しながら答えた。


「フィリスティア王国の特殊任務部隊だ。通常の警備や護衛では扱えない案件を受ける」


 ティナが少しだけ反応した。


「六百年で、騎士団制度まで変わったのね」


「また知らない単語増えた」


 卓斗はため息をついた。


 フィリスティア王国。フィオラ。竜精霊。結界。魔導札。保護対象。第六騎士団。知るべきことは増える一方なのに、文字は読めない。自分のスマホは圏外の板。状況が便利なのか不便なのか、もう判断するのも面倒だった。


 外で、結界杭の光が一度だけ揺れた。


 女性職員がすぐ窓へ向かい、警備兵が入口の槍を握り直す。だが、魔獣が飛び込んでくる気配はない。魔導灯の明かりは数秒後に戻ったが、夜の街道の外側には、まだ何かが残っているようだった。


 卓斗は、読めない地図と、王都から返ってきた光の文字を見比べた。


 帰る方法を探すだけのはずだった。


 それなのに、自分たちはもう、この国の記録に残され始めている。




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